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二年生になった途端、学校のみんなは俄然忙しくなったみたい。部活のレギュラーになって遠征に出かけたり、受験に向けて塾に通い始めたり。一年のうちはまだのんびりとした雰囲気だったけど、忙しさに比例してストレスが溜まってきてるのか、学校のあちこちで小競り合いも増えている。
昨日も、クラスの男子が突然取っ組み合いの喧嘩を始めたので、びっくりした。
やってることは小学生並みの幼稚さなのに、身体だけは大きくなってるもんだから、周りの机や椅子が吹き飛ばされて危ないったらない。咄嗟に部屋の隅っこまで避難した私を見て、田崎くんが「おい、その辺にしとけよ。女子が怖がってんぞ」と仲裁に入ってくれた。
私の場合は、自分の手を守りたかっただけなんだけどね。喧嘩自体はどうでもいい。本人のいない所でコソコソ陰湿な悪口で盛り上がるより、一対一でやり合う方がよっぽど清々しい。
やれやれ、もっとやれ。
だけど、無関係な私の指にかすり傷一つでも負わせたら、釘バットでフルスイングしちゃうぞ。
「ましろ、その悪人顔こわいから」
「俺は分かるな。島尾の、勝手にすればいいけど巻き込むなって気持ち」
咲和ちゃんに注意され、間島くんには同意された。
……私、今声に出してなかったよね? 間島くんの方がよっぽど恐いよ!
結局何が原因だったかというと、今めちゃくちゃ流行ってる漫画原作のアニメの話だった。原作コミックを全巻揃えてる小田桐くんが、TVアニメしかみたことのない野尻くんをバカにしたとか、しないとか。男子はアホ可愛い。
女子が揉める時の原因は、大抵が嫉妬だ。
自分の主張や感覚を認めてくれない相手、自分より【上】にいる相手。強烈な自意識に振り回されて、気に喰わない相手を攻撃する子が多い。もっと平和にいこうぜ、とよく思う。でもあんまりシラ~っとしていると「アイツはいい気になってる。上から目線うぜえ」ってとばっちりがくるから、バランスを取るのが中々難しいんです。
幸い、仲良くしてくれてる女子は皆おっとりしてるから、今のところ対岸の火事で済んでるけどね。小5の時にチョイ揉めした峰田さんは、噂によるとバレー部で派閥づくりに全力を注いでいるらしい。派閥作りって!! 政治家か!!
変わってないな~とその話を聞いた時はちょっと嬉しかった。
そんな中、朋ちゃん&木之瀬くんカップルと、絵里ちゃん&間島くんカップルは相変わらずの仲良しさん。お昼休みや放課後に2人でいるところを見かけると心が和む。
たまに部活がない放課後なんて、自転車の2人乗りで帰ってたりもするんですよ! そんな時は彼氏いない仲間の咲和ちゃんと「甘酸っぱいねえ~」「羨ましいねえ~」と言い合ってます。
朋ちゃん達が狙ってる学年トップは今のところ、私がしっかりキープ中。
「島尾、すげー!」とか「ましろと私は頭の作りが違うから」なんて毎日ふらふら遊んでる同級生から声を掛けられることが増えてるので、下手に目をつけられないように「必死で勉強してるからだって~」と笑って返すようにしている。
遊んでないで勉強すれば出来そうなのに、って残念に思うけど、花香お姉ちゃんもすごかったからなあ。やる気スイッチが入る時期は、人それぞれなんだろう。私だって、前世の記憶云々がなかったら、もっとお気楽に中学生をやってたに決まってる。
そして、6月。
梅雨にもうすぐ入るかなってくらいの木曜日、私は亜由美先生の家で録音に挑むことになった。
サディア・フランチェスカコンクール。
まずは音源の審査で、各部門30名ほどに振い落され、それから一次審査で半分の15名、準決勝で5名にまで絞られる。ファイナルに残ったその5名で、優勝を争うという流れだ。大抵の学生コンクールは、部門ごとで課題曲の難易度が分けられている。だけど、このサディア・フランチェスカコンクールでは違った。中学・高校・大学部門と全て課題曲は同じなのだ。まずその時点で、中学部門に出場する生徒は特に、ある程度まで振い落されてしまうだろう。
一次審査の課題曲はまだ発表されていないが、私は紺ちゃんノートですでに知っている。5曲ある中から、ショパンのエチュード Op.25-10 を選ぶつもり。ズルしてごめんね、とまだ見ぬライバルに心の中で手を合わせた。
「音源の規定はないんですって。でもサディア・フランチェスカが審査委員長を務めるのだから、チャイコフスキーの18の小品なんてどうかしら」
「幻想的スケルツォですか?」
「それも悪くないけど、私はこっちを推すかな」
亜由美先生のくれた楽譜は、第5番の瞑想曲だった。
チャイコフスキーっていえば、管絃楽曲や交響曲、そしてピアノ協奏曲というイメージだけど、晩年に作曲したピアノの小品集もすごく素敵なんだよね。幻想的スケルツォの方が聴き映えがするかな、と思ったんだけど、先生が推薦してくれた第5番の方が有名だ。
そういうわけで、チャイコフスキーの瞑想曲を、一か月前から集中的にさらってきたんです。サディア・フランチェスカには、チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門の優勝経験があるし、「一番好きな作曲家はチャイコフスキー」だと常々公言している。ちょっとでも彼女の心証を良くしようという手なのかもしれない。
チャイコフスキー国際コンクールといえば、森川 理沙さんを思い出さずにはいられない。彼女がモスクワ交響楽団と共演した【ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 】が、私の中のベスト・オブ・ピアノコンチェルトです。CDが擦り切れちゃうんじゃないかな、ってくらい繰り返し聴いた。
蒼を捨てた母親だと知ってからも、彼女の刻んだピアノの音色の輝きは、私の中で少しも色褪せない。人間性と芸術性は全く別のものなんだろうか。
チャイコフスキー作曲 18の小品op.72 瞑想曲
ゆったりとしたテンポで始まる導入部。何度も現れる甘い主題を左手の和音を崩したアルペジオがロマンティックに支える。そして展開部。力強い上昇音形が現れ、チャイコフスキーらしい華やかなオクターブでの主旋律はダイナミックに奏でる。再び、テンポを落として再現部。この辺りを私は情感たっぷりに揺らしながら弾いてみた。最後のトリルは、出来るだけ音が濁らないようにデクレッシェンドをかけて、そっと指を離す。
息を詰めて亜由美先生をみると、指でOKサインを出してくれた。
「予備審査で落ちることはないと思うわ。エントリーシートはこちらで出しておくからね。ましろちゃんのお母様にも、電話で細かな話はしてあるし大丈夫よ」
「いろいろとありがとうございます」
録音を終えて、先生にペコリと頭を下げる。
何か何までお世話になりっぱなしで、申し訳ないくらいだ。
「いいの。ましろちゃんは、いい演奏をすることだけに集中して。そうそう、夏休みには課題曲のセミナーが開催されるんですって。審査員数名がランダムで割り振られて、公開レッスンを施すそうよ」
「サディア・フランチェスカもくるんでしょうか?」
「さあ。それはまだ発表になっていないけど、あり得ない話じゃないわね。参加費はかかるみたいだけど、ましろちゃんが受けたいならお母様に私から話してみるわ」
参加費、か。
ただでさえ、ピアノの調律代、楽譜代、レッスン代と父さん達には無理をさせている。頼めばきっと嫌な顔なんてせずに「いいよ」って言ってくれる気がしたけど、どうしてもすぐに頷けなかった。でも、きっと受けた方がいいんだよね。レッスンを受けた受けないで審査に影響があるとは思えないけど、全くの無関係でもないんじゃないかな。
どうしよう。迷って口籠った私をしばらく黙って見つめていた亜由美先生は、ふっと口元をゆるめた。
「いいわ、こっちでもちょっと考えてみるから。申し込みの締め切りにはまだあるし、今すぐ返事をしなくてもいいのよ」
「すみません。よろしくお願いします」
レッスンバッグを手に防音室を出る。ああ、お金が欲しい。そしたら悩まず、セミナーに申し込めたのになあ。
がっくりした気持ちを抱え、玄関に向かおうとした私の背中に、低く響く声がかかった。
「ましろ」
「あれ、紅。――ここで会うの、久しぶりだね」
らせん階段を降りかけていた足を留め、夏の制服姿の紅を見上げる。
「今日、コンクールの録音するって紺に聞いたから。どうだった?」
それでわざわざ? まさか、私を心配して?
目を大きく見開いた私に、紅は苦笑いを浮かべてみせた。
「真由美にも用事があったんだよ。だからお前は、ついで」
「ですよね。あー、びっくりした。アハハ」
ほっとした拍子に意味なく笑ってしまう。
紅は複雑そうな表情で私をしばらく見つめ、軽く首を振った。
「分かりやす過ぎ。……それで? どうだったの」
「結構いい感じに弾けたよ。亜由美先生も、予備審査で落ちることはないだろうって言ってくれたし」
「そうか。良かったな」
あんまり嬉しそうに紅が微笑むものだから、思わず見とれてしまった。計算された人誑しなあのいつもの笑顔じゃなかった。もっと幼い感じの――。
「なんだよ。今日はやけに大人しいな」
「い、いえ、別に」
疾しいことなんてないはずなのに、顔が赤くなるのが分かる。紅が私に嫌味を言わないから、すっかり調子が狂ってしまった。
気のせいか、私達の間にふわっとした甘い雰囲気が漂ってる気がする。いや、完全に気のせいだな、絶対にそう! こういう時は、早めの撤退に限る。
「じゃあ、私もう帰るね」
「迎えを待たないのか?」
訝しげな紅に、私は手を振った。
「お迎えは小学校までだよ。中学に入ってからは、自転車で通ってるの」
「はあ? 聞いてないんだけど」
言ってませんけど。っていうか、紅への報告の義務などない。
「家まで水沢に送らせる。自転車も後から家に運ばせればいいだろ」
「ええっ、いいよ! 今までも平気だったんだし、そこまでしてもらわなくても」
「――何かあってからでは遅いって、前に言わなかったか?」
ただでさえ低めの声なのに、更に低くなってまるで魔王さまのようだ。これは逆らうとやばい。長い付き合いの中で、流石の私も学習済みです。
「い、言いました」
「……ちょっと待ってろ」
これ見よがしな溜息をつき、紅はズボンの後ろポッケからスマホを取り出し、あっという間に水沢さんを呼んでしまった。
「俺も家まで御供しましょうか? お姫様」
ベンツの後部座席に私を押し込めると、紅はルーフに片手をかけて顔を覗き込んできた。薄闇の中にわずかに残った淡いオレンジの光が、彼の艶やかな髪を照らす。まるで絵のように綺麗なワンショットだった。
「謹んで辞退いたしますわ、我が君」
紅に負けないように、わざと威厳たっぷりに答えてみる。紅の茶目っ気を含んだ瞳が、私の言葉にそれと分かるくらい揺れた。
「……お前は、時々すごく残酷だな、ましろ」
「どういう」
意味? と問い返したかったのに、鼻先で乱暴にドアを閉められた。
あっぶね!!
くそー。優しいのか、優しくないのかいい加減はっきりしろ!!




