Now Loading その46
9月になり学校が始まった。
亜由美先生が戻ってくるのは、9月の終り。10月に入ると、青鸞は秋休みに入るので、紺ちゃんは紅と一緒にヨーロッパへ行ってしまう。ノボル先生とも9月いっぱいでお別れだったので、すごく寂しくなる。
まだ日中の日差しは暑いけど、夕方になって吹いてくる風は確かに秋の訪れを告げるひんやりしたもので、夕暮れの空の淡さと相まって私の感傷を刺激した。
そんな中、松田先生の授業と時折見かける登校時の素の先生が、楽しみの中心になっている。
誰かとこのトキメキを分かち合いたいんだけど、なかなか先生のファンを見つけることが出来ないんだよねえ。玲ちゃんは云う間でもなく、絵里ちゃん達にそれとなく話を振ってみたら、全員に「松田先生はナイ」と断じられてしまった。ええ~。……あんなに素敵なのに。
ピアノとドイツ語・イタリア語・そしてフランス語の習得で忙しくなってしまった今となっては、学校の勉強はほどほどでもいいかな、とも思うんだよ? 元を辿れば「賢い子が好き」という紅の好みに合わせたかったっていう不純な動機だし。TVやラジオの講座をフル活用してるんだけど、3カ国語ともなると頭がパンクしそうになっちゃうし。
ただ今度は、松田先生に褒めて欲しくて勉強が止められないっていうのがあるんだよね。笑って。全然成長してない私を笑って。
というわけで、小学生の頃が懐かしくなるくらい、スケジュールに追われる毎日なんです。
花香お姉ちゃんは、いよいよ来年は4年生。
卒業と同時に幼稚園教諭一種という資格は取れるらしいんだけど、実習が少ないことを嘆いていた。実際に子供と接した経験があるのとないのとでは就職率が変わってくるらしい。ボランティアやアルバイトで、保育園や私立の幼稚園に通って頑張ってるみたい。ピアノもある程度弾けないと駄目だというので、「私がみてあげようか?」と申し出たんだけど、丁寧に断られてしまった。
「なんで? バイエルくらいなら教えられると思うけどなあ」
「無理無理。本当に、勘弁して下さい!」
花香お姉ちゃんは最後は涙目になっていた。どんな指導法を想像したんだろう。やだなあ。流石の私も、自分と同じことをしろとは言わないよ? 多分。
あっという間に日々は流れ、美登里ちゃんはイギリスの学校に戻っていった。その前にドイツに立ち寄って、蒼に私と会った話をするのだという。散々一緒に写真を撮られた。
「あとは。そうだな、携帯に音声を入れて欲しいかな。マシロの声を目覚ましにしたいから」
「な、なんというマニアックな! それは恥ずかし過ぎて嫌です」
「お願い!」
両手を合わせ上目遣いでねだってくる美少女を、最後まではねつけることなんて出来ない。だって、ものすごく可愛いんだもん。
結局私は真っ赤な顔で、美登里ちゃんの用意した台詞を吹き込むことになってしまった。
『おはよう』『もう朝だよ』『早く起きて』『今日も1日頑張ってね』
音声監督ばりに、美登里ちゃんは何度もリテイクを要求してくる。
もっと可愛く! ハートマークを飛ばすつもりで! などなど無茶な要求に私はほとほと困ってしまった。
「ようし、こんなもんかな。これで盛大に貸しを作ってやれるわ。うふふふ」
不穏な台詞に「それ、本当に美登里ちゃんが使うんだよね?」と念を押すと「当たり前でしょ。私を疑うなんてひどいっ」と涙目で見つめられる。くそー。自分の武器を知り尽くしてる美少女なんて最悪だ!
9月の最終日曜日。
亜由美先生がようやく戻って来てくれた。帰国して早々、ノボル先生の最後のレッスンに立ち会ってくれるというので、私も紺ちゃんも緊張している。
加奈子さんは夢を叶えパリ国立高等音楽院へと旅立っていった。葵さんは青鸞音楽大学の2年生。2人とも亜由美先生の教室を卒業してしまったので、今では私と紺ちゃん、そして凛子さんしか生徒はいない。新しい生徒を取るつもりもしばらくはない、と先生は言っていた。
「今は、紺とましろちゃんに集中したいのよね。一番伸びる時期だし」
そんな風に言ってくれる亜由美先生をガッカリさせたくない。
「で、どうだった? ノボルのレッスン、受けて良かった?」
行きの車の中で運転席の先生に聞かれ、私も紺ちゃんも大きく頷いた。
ノボル先生のお蔭で、私は自分の演奏が聴き手にどう受け止められるのか客観視するようになってきたし、紺ちゃんのピアノの音は明らかに変わっている。上手く言えないけど、前よりうんと艶々してるんだよね。
そして、いよいよノボル先生の家に到着。
亜由美先生は、ノボル先生の家が見違えるように充実したことには驚いていたけど、ノボル先生自身の変身ぶりにはあまり感銘を受けていないようだった。
「久しぶりね、ノボル。本当にありがとう」
「お安い御用だよ。……えっと、ワタシを見て何か気づいたことない?」
もじもじしながら亜由美先生の言葉を待っているノボル先生に、私はこっそり涙を拭った。
「え? うーん。あ、そういえば、髪を切ったのね」
「うん! それに眼鏡もコンタクトにしたし、髭も剃るようにしたんだ。どうかな?」
「さっぱりしたんじゃない? 楽譜もよく見えそう」
……ダメだ。全然通じてない。
ノボル先生は、お湯をかけられた青菜のようにすっかり萎れてしまった。
そんな先生を見て、紺ちゃんは「紅みたい」と呟いてる。
どこが!?
純情で一途なノボル先生と俺様ホストを一緒にするなんて、ノボル先生に失礼ですよ!
亜由美先生は、さて、と話を終わらせ私たちに向き直った。
「今日は何を聴かせてくれるの?」
紺ちゃんと私はゴクリと息を飲んだ。
「今日は、私からでもいい?」
こっそり紺ちゃんが尋ねてくる。私はすぐに頷いた。
「私はリストのラ・カンパネラを弾きます」
「そう。じゃあ、どうぞ」
亜由美先生は近くの椅子に腰を下ろした。ノボル先生は、壁際まで下がり背をもたれさせるように立っている。今日は何も口を出さないよ、という意思表示に見えた。
リスト パガニーニによる超絶技巧練習曲集第3番 ラ・カンパネラ
リストは非常に手の大きなピアニストだったと言われてる。手の大きさはピアニストにとって物凄く重要なものなんだよね。オクターブを軽々弾けるのか、そうでないのかでは表現の幅が違ってくる。私も紺ちゃんもピアノを始めてすぐから、指を広げる訓練は欠かしていない。中学生になって同級生の男子と比べても、第一関節分くらい長い指は密かな自慢だった。
出だしの速度指示は「Allegro moderato(ほどよく快速に)」だ。メトロノームでいえば、110~130といったところかな。ここをゆっくりめのアレグロで弾くのか、それとも速めのアレグロで弾くのかでだいぶ印象は変わってくる。
紺ちゃんは、速めに弾くことにしたみたい。
オクターブで弾くことが連続するこの曲は、強弱の付け方もとっても難しい。ff(極めて強く)からクレッシェンド(だんだん強く)なんて指示されてる部分なんて、一体どうすればいいの!? という気分になる。紺ちゃんは、全身を使ってダイナミックに表現した。叩きつけるように両手は鍵盤を舞っているのに、1音1音の粒が揃って煌めいているのは一体どういう魔法なんだろう。特に高音部のオクターブ奏法なんて、楽器の音じゃないみたいだった。星屑をばら撒いたら、こんな音が鳴るのかもしれない。最後の主題を繰り返す部分のクレッシェンドの迫力には、溜息が漏れそうになった。
紺ちゃんが鍵盤から手を離すと同時に、ノボル先生と亜由美先生は大きく手を叩いた。もちろん私も気づかないうちに、拍手してしまっている。
ああ、私はどこまであなたの背中を追いかけることになるんだろう。
頬を上気させている紺ちゃんと無言ですれ違う。
芸術に勝ち負けなんてないのだとしても。
せめて彼女に恥じない演奏をしたい。
「私はバッハのパルティータ第2番から、ロンドとカプリチオを弾きます」
先生たちに告げて、息を整え鍵盤に手を乗せる。
バッハ パルティータ第2番ハ短調 BMV 826
バロック組曲の中でも最高峰と言われる舞踏組曲だ。シンフォニア、アルマンド、クーラント、サラバンド、ロンド、そしてカプリチオ。ヨーロッパ各国の踊りの曲を組み合わせたもので、「多様と統一」というバッハの美学の粋を集めたものとも云えるだろう。2声の掛け合いで組み上げられたロンドから、3声の対位法で書かれたカプリチオ。卓越したテクニックと音から音をつなぐアーティキュレーションの緻密さが求められるこの曲を、私は細心の注意を払って弾きあげた。右手と左手を同じように使って、どちらが主旋律か分からないほど複雑に編み上げる。テンポは一定に。ペダルはなるだけ踏まない。でも、音の余韻はある程度保って。pの部分は柔らかく撫でるように。クレッシェンドもためを作らず音の強弱だけで表現する。
最後の和音から手を離すと、部屋の中が静まり返った。
あ、あれ。
亜由美先生の方を見ると、信じられない、というように私を凝視している。紺ちゃんは固く目を閉じ、両手を握りしめていた。
「Brava! すごく良かったよ、マシロ」
ノボル先生だけが、ちょっと遅れて大きく手を叩いてくれた。
「ましろちゃん……」
亜由美先生は軽く首を振り、「バッハのパルティータをそこまで弾けるのなら、私はもう何も言うことはないわね」と褒めてくれた。
紺ちゃんも、にっこり笑って手を叩いてくれる。
この2か月、必死に練習した甲斐があったな。
ノボル先生に出された課題の他に、毎日のようにさらった曲がこのバッハだったのだ。
「来年の今頃、すごく大きな学生コンクールが行なわれることが決まったみたい。それに出てみる?」
「コンクール、か。マシロを今から枠に嵌めるのには賛成できないけどな」
亜由美先生の言葉に、ノボル先生は眉を顰めた。
「でも、それがこの子の希望なの。ましろちゃんが思ってるほど、コンクールの審査は透明性の高いものではないかもしれないわよ? どんな結果でも受け止められるというのなら、出ましょう」
「出たいです」
「そう。……紺はどうするの?」
「そのコンクールには出ません」
私と紺ちゃんがそれぞれ即答したものだから、亜由美先生は訝しげな表情を浮かべた。
私はどうしても今度のコンクールで結果を出して、青鸞へ進みたい。紺ちゃんは私と争うことを避けようと、出ないつもりなのかもしれない。
本当のことを打ち明けないままでいることは、ピアノに真摯な亜由美先生への裏切りに思えて急に苦しくなった。




