Now Loading その45
ノボル先生の家から帰る車の中、紺ちゃんは思案気に顎に指を当て、窓の外を眺めていた。
意外な登場人物に驚きすぎて、私も何と言っていいのか分からない。あの短い時間で、私たちはまた3人で会うことを美登里ちゃんに約束させられていた。
『土曜日のソルフェージュが終わったら、一緒にランチしに行こうよ。ね? 私はそう長く日本にいられないから、少しでも仲良くなっておきたいの。ダメ?』
そんな風にストレートに尋ねられては、嫌とはいえない。外国で長いこと生活しているからなのか、それとも元々の性格なのか、美登里ちゃんの対人距離の詰め方は非常に大胆だった。でも全然押しつけがましい感じはしないんだよね。ある意味凄い。
蒼に婚約者がいる、と聞いた時は正直「へえ。セレブってすげえ」くらいの気持ちだったんだけど、実際に美登里ちゃんに会ってしまったら、何とも言えない複雑な気持ちになった。だって、彼女も本気で蒼のことが嫌みたいなんだもん。
蒼には幸せな人生を歩んで欲しい。
意に染まない結婚なんてして欲しくない。そんな風に心配するのって、図々しいかな。
「ましろちゃん。大丈夫?」
運転席に聞こえないよう、紺ちゃんは小声で囁いてくる。
「え? 私は全然大丈夫だよ。ちょっとビックリはしたけどね。美登里ちゃんと出会うのは、青鸞に入学してからだって勝手に思ってたし」
私も小声で答えた。
気づけば、紺ちゃんがじっと私を見つめている。
何の感情も読み取れない、平静な顔で紺ちゃんは言葉を続けた。
「リメイク版の通りに進行するなら、ましろちゃんの言った通り、今この時点で美登里ちゃんに出会うことなんて、ないはずなんだ。……もう、この世界は『ボクメロ』とは別って考えた方がいいのかも」
そこまで言って、いったん口を噤み、私の両手をぎゅっと握ってきた。
かすかに震える紺ちゃんの冷えた手に驚き、私は彼女を見つめ返した。
「転生して、前世の記憶があって。ある程度、先を読めてるつもりだった。でも、全然うまくいかない。……人生って、思うようにはならないように出来てるんだね」
苦しげなその口調に、私は何と返していいのか分からなくなった。
リメイク版をやってない私には、紺ちゃんが本当のところ、この世界についてどう思ってるかなんて想像できないのかもしれない。それでも、これだけは伝えておきたかった。
「私は、転生できて良かったよ」
「……え?」
紺ちゃんの瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。
励ますように、細い手を握り返す。
「前世の記憶は殆どないけど、それでもまだ18歳だった。心残りが沢山あったと思うんだ。でもボクメロの世界に転生出来て、毎日すごく充実してる。それもこれもピアノをやり始めたからだし、何より紺ちゃんに出会えたからだと思ってる」
「ましろ……ちゃん……」
とうとう紺ちゃんの瞳からは、大粒の涙がこぼれ始めてしまった。
「大好きだよ、紺ちゃん。紺ちゃんが一緒にいてくれて、私は本当に嬉しいんだよ」
「――っ!!」
紺ちゃんはいきなり私に抱きついてきた。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、私は本当に驚いてしまった。
初めて会った時からずっと、紺ちゃんはお姉さんみたいな存在だった。
アドバイスをくれて、優しく導いてくれて。
我慢、してたのかな。
不安や悲しみなんかのネガティブな気持ちを私には見せないように、ずっと一人で頑張っていたのかな。
「言えない秘密があるのだとしても、私は紺ちゃんの味方だよ? 覚えててね」
「ごめん……ごめんね」
泣きながら紺ちゃんは、謝罪の言葉を繰り返した。
隠し事について謝っているのか、それとも別のことなのか。私には分からなかった。
そして再びやってきた土曜日。
私達はノボル先生の家の前に立ち、インターホンを押した。
「はーい。入って」
ノボル先生の声がしたので、そのまま玄関の扉を開ける。
一階の様子が一変していることに、私と紺ちゃんは瞠目した。
大きなソファー。冷蔵庫。食器棚にはスージー・クーパーの食器が綺麗に飾られてるし、オーブンやコーヒーメーカーまである。メイプル材のダイニングテーブルの上には薔薇の活けられた花瓶。まるで、海外住宅メーカーのモデルハウスみたいな有様になっているではないですか!
「これって、もしかしなくても……」
「美登里ちゃんの仕業だろうね」
紺ちゃんとひそひそ話をしながら二階に上がる。
そこで私たちは、本日2度目の驚愕を味わう羽目になった。
「今日は、聴音と視唱だよね。――どうしたの? 中まで入っておいでよ」
声は、ノボル先生にそっくりだ。
美登里ちゃん以外にも兄弟がいたのかもしれない。若いから弟かな。
サラサラショートの髪の色は、ノボル先生と同じ緑色だもんね。
髭も眼鏡もないし、この人はすごく男前だけど。
焦げ茶の瞳は綺麗な二重で、鼻筋も通ってて。うん、とにかく文句なしにカッコいい。
「あのー」
「どちら様ですか?」
私と紺ちゃんが同時にそう尋ねると、目の前の男性は、長い睫を瞬かせた。
「それ、何の冗談? ワタシをからかってるの?」
キョトンとした表情には、すごく見覚えがある。
私と紺ちゃんは顔を見合わせ、それから盛大な悲鳴を上げた。
「「ええええええ~!?」」
結論から言っちゃうと。
とっても素敵な目の前の男性は、ノボル先生でした。
この世界が「乙女ゲー」ってこと、うっかり忘れてた。サブキャラまでイケメンっていうのは、もうお約束でしたね。ははは。
どうやら、押しかけてきた美登里ちゃんによって、家も本人も大改造を施されてしまったらしい。ノボル先生の顔には『大迷惑』とかいてあった。
「でも、今の方が素敵ですよ」
「うん、絶対こっちの方がいい。亜由美先生だって、きっとそう言うと思うな」
私の言葉に、ノボル先生はピクリと反応した。
「そう思う? 僕は僕なのに?」
「いや~、視覚を馬鹿にするべきじゃないですよ。人を見た目で判断するような亜由美先生じゃないですけど、冴えないおっさんより小奇麗なイケメンの方が好印象なんじゃないかなあ」
思わず熱弁をふるってしまう。
あ、と気づいた時には遅かった。
「冴えないおっさん……」
ノボル先生がしゅん、と項垂れる。
紺ちゃんが慌てて、「枯れた感じの身なりを構わない男性がタイプな女性もいるとは思いますよ」とフォローしたんだけど、ノボル先生は更に遠い目になった。
枯れたって。身なりを構わないって。
私の酷さとあまり変わらなくないだろうか。
「もういいよ。これ以上ダメージを喰らう前に、レッスンをやっちゃおう」
この日のソルフェージュがいつも以上に厳しかったのは、自業自得なのかもしれません。
うう、だって、びっくりしちゃったんだもん。
2時間後。
レッスンが終わったのを見計らったかのように、美登里ちゃんが部屋に入ってきた。
「もう終わった?」
「うん、今終わったところだよ」
ぐったりしながら、五線紙とペンケースをレッスンバッグにしまう。
美登里ちゃんはふんわりとカールされた長い髪を揺らしつつ、テーブルの近くまでやってきた。
「マシロの髪って、ピンクで可愛いね! 次はこの色に染めちゃおうかな」
そう言いながら、うっとりと視線を私の頭に据えている。
「もしかして、その髪は地毛じゃないの?」
「違うよ~。もともとはノボルと一緒で緑色なの。名前もミドリで髪もミドリなんて、馬鹿みたいでしょ。だから染めてるってわけ」
この子も『ボクメロ』メーカーの被害者なのね。
紺ちゃんが視界の端で、分かる、分かる、というように頷いている。
まあ、紺ちゃんも名前では苦労してるから。
「じゃあ、ノボル。私達、ちょっと出かけてくるね!」
「えー。僕も行きたい。お腹、空いた」
「Absolutely not! 今日は女の子だけの会なの」
美登里ちゃんはノボル先生の頬に背伸びをして軽くキスを落とすと、そのまま私と紺ちゃんの間に体を割り込ませ腕を組んできた。
にっこりとそれはもう愛らしい微笑みを向けられる。
「ちゃんとお店は予約してあるんだよ。イタリアンだけどいいかな。コンの車で送っていってくれる?」
「もちろん」
「良かった! じゃあ、いこ」
美登里ちゃんと一緒に迎えにきてくれた紺ちゃんちの車に乗り込む。
能條さんの運転するロールスロイスを見ても、美登里ちゃんは眉一つ動かさなかった。
美坂家といえば、現代史の教科書にも載ってるような由緒ある家柄の大財閥だ。その美坂の御曹司であるノボル先生が、どうしてあんな生活をしてるのか、美登里ちゃんは簡単に説明してくれた。
「ノボルは自由に生きたいの。それでお祖父様とぶつかって、ショパンコンクールで実績を残せたら家を出てもいいって言われて、コンクール嫌いなのに出場したってわけ。まあ、優勝は出来なかったけど、いい線いったわけだから、お祖父様もお父様も今はノボルの好きなようにさせてるんだと思うわ」
「そっか。お金持ちにはお金持ちの苦労があるんだねえ」
平凡な一般家庭に生まれて良かったのかも。
私がしみじみ感慨にふけっていると、美登里ちゃんはクスクス笑い始めた。
「完全にひとごとなのね。普通は、私やコンみたいな子が近くにいたら、何とか取り入ろうって目の色変えるものよ」
「いやあ、私は今の私に満足してるから」
お金が欲しくない、とは言わない。
だけど、大人になって自分の力で稼ぐ方が性に合ってるんだと思う。桜子さんや千沙子さんに何かを頂く度に、胃がキリキリ痛む私は小心者なんだろう。
正直な気持ちを述べたんだけど、美登里ちゃんはますます笑みを深めた。
「私、マシロが好きだわ。ソウを初めて見直したかも」
「えっと……ありがとう?」
何と答えていいか分からず、疑問形でお礼を言うと、美登里ちゃんは嬉しそうに私にくっついてきた。
この子の人懐っこさも、蒼と互角かも。
似た者同士。同族嫌悪。なるほど。
ようやく到着したのは隠れ家、といった雰囲気の洒落たレストラン。
ブルスケッタに始まり、モッツァレラチーズとトマトのサラダ、バジリコペーストのトレネッテジェノバ風、それに手長海老のオーブン焼き、と舌を噛みそうな料理が次々と運ばれてくる。
エスプレッソと自家製ジェラートが運ばれてくるまでに、私はずっと料理の値段を推測していた。母さんから5000円ものお小遣いを預かってきてるんだけど、足りる気がしない。
値段ばかり気にしてる私に気づいたのか、紺ちゃんがそっと耳打ちしてきた。
「私が一緒に払うから。ね、そんな青い顔しないで」
「う……ん。じゃあ、立て替えをお願い出来る? 今度ちゃんと返すね」
私たちの会話が聞こえたのか、美登里ちゃんは軽く眉を上げた。
「チェックはしないわよ。後でお父様が払うんじゃないかしら? 私、現金を持ち歩いたことないし」
なんなんですか、それは!
脱力のあまり、私はおでこを真っ白なテーブルクロスの上に打ち付けそうになった。
まだ2回しか会ったことない子に、奢ってもらうのってアリ?
「ねえ、そんなことより、蒼の話をしてもいい? 誰かに愚痴を聞いて欲しくてたまらないの」
そんなことより、と私の葛藤を一蹴し、美登里ちゃんは延々と蒼がいかに酷い態度なのかを語り始めた。
「私が何を言っても、ほとんど相槌もうたずに腕を組んで冷ややかにこっちを見てくるの。たまに口を開けば『マシロなら』『マシロは』って。はいはい、分かってますよって感じ。こっちも好きで顔合わせてるわけじゃないのに、何様!?」
ゲーム通りなら、俺様、なんだろうなあ。
「だからね。うーんとマシロと仲良くなって、苛々させてやろうかなって。ねえ、後で一緒に写メ取ってね? 向こうに帰ったら、思いっきり自慢してやろうっと」
よっぽど鬱憤が溜まっていたのか、そんなことを言ってはほくそ笑んでいる。
天真爛漫な美登里ちゃんに、とうとう紺ちゃんも笑い出してしまった。
「ましろちゃんと城山くんが上手くいくのは、いいの? それだと城山くんを喜ばせちゃうことになるでしょ?」
「まあ、そこはそれ。ソウも結構悲惨な生い立ちだし、幸せになるな! とまでは思ってないわ。とりあえず、このふざけた婚約話が消えればそれでいいの」
心底うんざりしてることが分かる美登里ちゃんの表情に、私もおかしくなってしまった。蒼の事情をちゃんと分かってくれてることに、安堵もした。でも、私と蒼が付き合うなんて話はありえない。だって、全然想像できないよ。第一、彼はドイツに行ってしまってる。
そう説明すると、美登里ちゃんは肩をすくめた。
「あいつがこのまま大人しくドイツにいるわけないじゃない。マシロ、覚悟した方がいいわよ~。ソウが日本に帰国したら、今までの比じゃなく迫られるから」
「こ、怖い予言しないでよ」
しかめっ面をした私を見て、美登里ちゃんはクスクス笑っていた。




