Now Loading その41
幕が上がるとそこには、目を見張るような豪華な空間が作り上げられていた。
楽団の奏でる軽やかな導入曲に乗って、多くの登場人物たちが煌びやかなドレスやタキシードを身にまとい、颯爽と舞台に現れる。
日常からいきなり異世界に飛ばされるような、この感覚がオペラの大きな魅力の一つな気がする。
ポンテヴェドロ国の国王の誕生日を祝う宴が、ここパリの公使館で催されている。
公使であるミルコ・ツェータ男爵は、元踊り子であるヴァランシェンヌを「妻は誰にでも優しくて無邪気なんだよね」って周りに自慢してるんだけど、そのヴァランシェンヌはフランスの伊達男に口説かれてるところ。
伊達男・カミーユはヴァランシェンヌの扇を取り上げ「愛してる」と書きつけてしまう。
「あなたが口に出すなというから扇に書いたのです」と美しいヴァランシェンヌをかき口説くカミーユに対し「私は貞淑な人妻なのです」とつっぱねようとするヴァランシェンヌ。
『ここには誰もいませんわ』の二重唱に、私はうっとりと見入った。
ヴァランシェンヌ役のマルタ=イステルの可憐なことといったら!
ほそっ。そして美人!
なんなんだろうねえ、とちょっと遠い目になってしまう。
男爵はおじいさんと言ってもいいくらいの年なのに、奥さんのヴァランシェンヌはすごく若いんだよね。カミーユ役のジークフリードさんは濃い顔立ちの男前だった。テノールの美声ももちろん素敵だし、ビジュアル的にはこっちのカップルの方が美しいなあ。
この関係は終わりにして、誰かと結婚して欲しいと頼むヴァランシェンヌに、カミーユは切々と訴える。
『たとえ願いが叶わなくても あなたへの想いは冷めない 危険は百も承知さ 僕はただ耐えるだけ あなたへの想いは決して冷めないのだから』
明るいメロディに乗せて歌い上げるカミーユに、ズキンと胸が痛んだ。
松田さんもそう思ってるのかな。お姉ちゃんへの想いは決して冷めない、と。
こっそり隣を窺うと、松田さんは初めてみるオペラに驚いてるみたいだった。
子供みたいにじっと舞台に見入っている。
お姉ちゃんも目をキラキラさせていた。
そしてハンナの登場。
テレーゼ=リヒテンベルクは、息を飲むほどの美しさだった。
優美な顔立ちに、女性らしい曲線を描いた身体。
陶器のような白い肌に、あちこちから女性客の感嘆の吐息が聞こえる。
喪に服しているので、繊細なレースをあしらった黒のドレスに黒い羽扇、結い上げた真っ赤な髪にちりばめられているのは黒真珠だ。大富豪の未亡人、という設定にふさわしい素晴らしい衣装だった。
元恋人のダニロ役は、ヘニング=レーガー。若手の中ではずば抜けた歌唱力を持つと評判の歌手で、野性味を帯びた男らしい顔立ちをしている。
お互いに憎からず思っているはずなのに、ハンナは昔の破局の原因に拘り、ダニロは「今更求婚できない。財産目当てだと思われるのは嫌だ」と意地を張る。
伯爵であるダニロと平民の娘であるハンナの結婚は、昔ダニロの叔父さんに猛反対されちゃったんだよね。無理やり別れさせられた後、ハンナが年寄の大富豪と結婚してしまったものだから、ダニロは傷心のまま独り身を通してる、という過去があるんです。
ポンテヴェドロ公使であるツェータ男爵は、ハンナが誰と結婚するのか気が気じゃない。
彼女の持っている遺産が、他の国の男に掻っ攫われるのは駄目だ、というのだ。
ハンナの財産目当てで群がる求婚者たちを、あの手この手で追い払うダニロ。
カミーユをハンナの夫候補に推すヴァランシェンヌなんだけど、心の中ではハンナを好きになって欲しくないと思ってるみたい。
このあたりの駆け引きも見どころの一つなのかな。
誰もいなくなった部屋で、ワルツを踊るハンナとダニロで一幕目は終わる。本当は惹かれあっている二人が、何も言わずに無言のまま踊るワルツなんて最高にロマンティックだ。
二幕目が始まるまでに、20分の休憩が入る。
私はみんなに断って、トイレに行っておくことにした。
いや~、想像以上に良かったなあ。
二幕目のテレーゼのアリアとか、三幕目のカンカンのシーンとか楽しみで仕方ない。
パウダールームから出たところで、私はラウンジのボックスシートに赤い髪を見つけてしまった。
――紅さま、かな?
紺ちゃんは行けないって言ってたけど、紅さまは来たのかな。
顔を合わせたら、挨拶くらいはしとかないと失礼だよね。
チケットも紅さまのおじさんから貰ったんだし。
ちょっと考えて、声を掛けようと足を踏み出したところで。
紅さまが一人じゃないことに気が付いた。
目の覚めるような青い髪をした女の子が隣にいる。
ボブカットの髪の間からのぞく横顔は、すごく愛らしかった。
うっとりと自分を見上げる小柄なその子の髪を、紅さまは掬い耳にかけてあげている。
何か甘い言葉でも囁いたんだろう、途端に彼女の頬がバラ色に染まった。
けっ。
私は素知らぬ顔で、席に戻ることにした。
気づかないふりで紅さまの近くを通りぬける。足早になっちゃったのは、この際仕方ないよね。
重い扉を押して、ホールの中に入ろうとした途端。
「ましろ!」
肘を誰かに掴まれた。
それが誰かは、振り返らなくても分かる。
「こんにちは。もう席に戻らないと」
早口で言って身をよじったんだけど、紅さまはそのまま私を脇に寄せてしまった。通行する人の邪魔にならないように、という配慮なんだろうけど、その手を放せば済むことでしょうが!
紅さまは無言のままだった。
いつもなら、すぐに嫌味が飛んでくるのにどうしたんだろう。
しぶしぶ彼を見上げると、びっくりするくらい困ったような表情を浮かべていた。
スーツ姿の紅さまは、とてもじゃないけど中学生には見えない。
艶やかな長めの赤い髪は、無造作にみせかけた一つ結びにされていた。
一筋頬にかかるように落としてるのも、アレでしょ。
ボタンを一つ開けて緩くネクタイを結ぶのと同じ計算でしょ。
こんなに色っぽく決まってなければ、悪口として成立するのに。悔しいな!
「紅くん。放して」
「え? ああ、悪い」
ちょっと離れたところから、強い視線を感じる。
紅さまの連れの女の子が、憎々しげに私を睨みつけていた。
そりゃあ、そうだろう。
デートの途中で放り出され、肝心の相手はよその女の子を追いかけて行きました、なんて洒落にならない。
「デートだったんでしょ。早く戻ってよ」
顎をしゃくって後方の少女に意識を促したんだけど、紅さまは頓珍漢なことを言い出した。
「楽しんでるか?」
はあ?
この人、なんなんだろ、本当に。
「この楽団、好きだって前に言ってただろう」
そういえば、そんな話をしたことがあるような。
記憶力もいいんですねー、流石です。
「うん。あ、紺ちゃんのお父さんに紅くんからもお礼を言っておいて。本当にありがとうございます、って。来られて良かった。生で味わうことが出来て感動してますって」
「……ああ、分かった」
ようやく気が済んだのか、紅さまは手を放してくれた。
「言い忘れたけど、今日のワンピースすごくよく似合ってるよ、ましろ」
「それ、もしかして蒼の真似? やめてよね、本当に!」
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだろう。
呆れた目で睨みあげると、紅さまはきゅっと唇を噛んだ。
「でもまあ、ありがとう。紅くんもいつも通りカッコいいよ。じゃあ、デート楽しんで!」
最後の言葉は後ろの女の子に聞こえるように大きめに言って、私は踵を返した。
刺されたら大変だもん。用心するに越したことはないよね。
「遅かったね。お手洗い、混んでた?」
「ううん。ちょっと紅くんに捉まっちゃって」
紅さまのことを知っているお姉ちゃんは、「ええ~、私も久しぶりに会いたかったなあ」と呑気な声を上げた。
「なになに。ましろちゃんのボーイフレンド?」
からかうように三井さんが聞いてくる。
松田さんも、優しく目元を和ませていた。
微笑ましいな、と言わんばかりの穏やかな表情に、がっくりきてしまう。
うん、分かってたけどね。
「違いますよ。腐れ縁の悪友です」
私が嫌そうに答えると、お姉ちゃんは「あんなイケメン滅多にいないんだから、もっと頑張ればいいのに」と唇を尖らせた。
紅い悪魔の外面しか知らないから、そんなことが言えるの!
2幕目は、ハンナのアリアで始まる。
白い民族衣装に身を包んだテレーゼは、白薔薇の女王さまのような出で立ちだった。煌びやかな髪飾りからは、長いヴェールが垂れている。
『Vilya o Vilya Du Waidmagdelein』
ヴィリアの歌は有名なアリアだから、聞き手の方も耳が肥えてるといっていいかもしれない。
それでもテレーゼの表現力は、会場を圧倒した。
人の声も一つの楽器なんだとしたら、テレーゼの声は間違いなく一級品の名器だ。
オペラと違って、オペレッタでは「リフレイン」と呼ばれるアンコールが許される歌がある。高らかに歌い上げたテレーゼに、万雷の拍手が送られた。Bravaの声も飛んでいる。
舞台上の役者さんたちも一斉にテレーゼに拍手をしていた。
あまりに熱狂的な反応に、テレーゼさんははにかんだ笑みを浮かべ、軽く右手を上げた。
それを合図に、もう一度楽団が出だしを奏で始める。
わあ! リフレインだ!!
私は両手を握りしめ、目を閉じてうっとりとアリアに聞き入った。
その後のハンナの屋敷でのマキシム再現のシーンの踊りも凄かったし、3幕目のカンカンのシーンなんて、オッフェンバックの「天国と地獄」に合わせ会場から手拍子が送られていた。背後で華やかに色づけされた噴水が高々と打ち上げられる。
そしてようやく、想いが通じ合うハンナとダニロ。
喪を示す黒のガウンを脱ぎ捨て、情熱的な赤いドレス姿をあらわにしたハンナを愛しげに受け入れるダニロに、私は思わず溜息を洩らした。甘くメロディアスなメリーウィドウワルツに乗って、歌い踊る二人。
歌もダンスも、とにかく凄い。もちろん、音楽も。
贅沢な非日常の空間を、観客全員も全力で楽しんでいるのが分かる。
最後の幕が下りた時には、感激のあまりうっすらと涙が出た。
「うわ~、オペラってもっと退屈かと思ってたよ~!」
帰りの車の中で一番興奮していたのは、お姉ちゃん。
「オペレッタはどっちかというとミュージカルの始祖みたいな感じだから。特にメリー・ウィドウは分かりやすい喜劇で、楽しいよね」
「うんうん。チケットを貰って来てくれたましろ様に感謝です~!」
「よい。苦しゅうないぞ」
私たち姉妹のおどけたやり取りに、三井さんも松田さんも大笑いしていた。
ちょうど夕方過ぎになっていたので、4人でご飯を食べに行ってから、家に戻る。
運転しないといけない三井さんに気遣ってか、松田さんは飲まなかった。
「なんだよ、トモイ。気にせず、飲めって」
「いや、大丈夫。っていうか、島尾の前で飲めるかよ」
苦笑した松田さんにこそっと聞いてみる。
「本当はお酒が好きなんですか?」
「ああ。これ、学校では秘密な」
酒飲みだと思われたくない、と小声で頼んできた松田さんに私の胸はまたしてもキュンと音を立てた。




