Now Loading その40
「真白、勉強した?」
朝一番に、ちょっと青ざめた顔で玲ちゃんが飛びついてきた。片手に持ってるのは理科の暗記ブック。
「毎日してるけど」
「ガーン!! そこはしてないよ~って嘘でも言ってよ!!」
「そうなの?」
同じ班の桐谷くんが「島尾に言っても無駄。こいつ、めちゃくちゃ頭いいもん」と口を尖らせた。同じ多田小出身の桐谷くんの言葉に、近くの子達がざわつく。
のんびりした小学校生活に慣れてた子には、定期テストってかなりハードル高いみたい。
早速塾に通い始めた子達は、逆に楽しみにしてるのかもしれないけど。
家では難関国立大学の赤本を中心に問題を解いてる私にとってみたら、中学1年の中間テストなんて10点満点の小テストのようなもの。
「そんな難しい問題出ないって。範囲も狭いんだし」
玲ちゃんは、「よし、真白を信じて頑張る!」と気を取り直したみたいだった。
だって、数学は算数に毛が生えたような問題だし、国語は漢字と作者名だけ押さえてれば後は普通に常識で解けるし、英語なんて簡単な単語と一人称単数レベルだよ? 地理は地図の読み方と国の名称と首都、理科は植物の名前と分類だけだし。うーん、なんでそんなに不安なんだろう。
ところが、1教科終わるごとに、クラスのあちこちで溜息が上がっている。
玲ちゃんには「真白のバカー! じゃなくて、かしこー!!」と怒られた。
次の日から、早速テスト返しが始まる。
どの教科も100点だったけど、まあ、そうだろうな、という感じ。これで100点じゃない方がショックだよ! 前世で12年間の学校教育受けて。しかも記憶を取り戻してから4年間、かなり頑張って勉強してきたんだもん。
「今回は500点満点の子がクラスにいました。みんなも頑張って、毎日予習復習してね」
クラス担の沢島先生がSHRでそう言うと、クラス中の視線が集まってくるのが分かった。
これ、結構気持ちいい。
前世持ちっていうズルをしてる後ろめたさもあるけど、毎日遅くまで勉強してるのもまた事実。努力は人を裏切らないのですよ、諸君。もっと頑張りたまえ。
何様真白様な気分で家に帰ったのが悪かったのか、近所の犬に突然吠え付かれて、すんごい驚いた。思わず自転車から転げ落ちそうになって、慌ててハンドルにしがみつく。
あー、怖かった。
いい気になるなって神様が言ってるのかも。うう。気を付けよう。
そしてしばらく経った昼休み。
クラスの係りで『次の日の授業の持ち物を確認する』というのがあって、その係りになった私は、急いでお弁当を食べて職員室に向かった。
職員室の前に置かれたボードに先生が書き込んでおいてくれた予定を書き写して、それをクラスの黒板に板書しておけばいいだけの仕事なんだけど。
なんだけど、時々昼休みまでにボードに書いてくれてない先生がいるんだよね!
これ、本当に困る。
その日も、理科の滝田先生の欄が空白だった。
たーきーたー。
40過ぎのいかにもやる気のなさそうなオヤジさんで、隙あらば職員室の裏手で煙草を吸ってるらしい。授業も覇気がないというか、やっつけというか。
「どうした、島尾」
ボードの前で途方に暮れていると、松田さんが職員室からちょうど出てきて声をかけてくれた。
まるで初対面のように真面目な先生顔で接してくる松田さんに、最初は戸惑った。
あの、私、花香の妹ですけど、前にお会いしましたよね? って声を掛けたくなった。
でも今ではそんなものかなと納得してる。生徒のお姉さんカップルと友達だからって、親しい態度を取ったら周りから変な目で見られるもんね。
公私のけじめをきちんとつけようとする松田さんに、私はますます好感を持った。お姉ちゃんにスマホの写真を見せられた時から、松田さんには親近感を覚えてる。どこといって特徴のない平凡な容姿に、安心するというか何というか。同族意識だったりして。
まあ、松田さんの方は、私のことを本気で忘れてるのかもしれないけど。
「理科のところが空欄で。あの、滝田先生って中にいらっしゃいましたか?」
「いや、見なかったな」
小首をかしげる仕草に、ちょっと胸がときめいた。
大人の男性の垣間見せる可愛らしさって、いいよね。
「はあ。じゃあ、五時間目の休み時間にもう一度出直してきます」
面倒だな、という気持ちが顔に出ていたのか、松田さんは苦笑いを浮かべた。
「滝田先生を見かけたら、言っとくよ」
「はい、ありがとうございます」
ペコリと一礼して階段に向かおうとした私を、松田さんはちょいちょい、と人差し指で呼びとめた。
ん? なんだろう。
もう一度彼のところに小走りで戻ってみる。
「テスト、頑張ったな」
一重の瞳を優しく和ませ、先生は小声で褒めてくれた。
カーッとほっぺが熱くなる。
「え、あ、はい」
「授業態度もいいし、提出物もちゃんとしてるし、もともと頑張り屋の性格だったんだなと感心した」
ピアノも頑張れよ、と悪戯っぽい笑みと共に一言付け加え、松田さんはそのまま数学準備室に消えていった。
なに、これ。
なに、これ!!
すっごく嬉しい~!!
ピアノの発表会の時のことも、覚えててくれてたんじゃん!!
浮き浮きしながらクラスに戻ると、すぐに玲ちゃんに見とがめられた。
「んん? なんか真白、顔赤くない?」
「ええっ。な、ないよ」
「そう? それにすごく機嫌いいし」
じーっ、と声に出していいながら、じろじろ玲ちゃんが見つめてくるので、私はこっそり打ち明けてみた。
「松田先生にテストの点を褒められたの。それで嬉しかっただけ」
「松田先生って……ああ、あの陰険そうな数学の?」
玲ちゃんの残酷な評価に、ええ~!! と思わず声を上げてしまった。
「カッコいいじゃん! 陰険そうでもないし」
「うわ~、真白、眼科に行きなよ」
玲ちゃんはひらひらと手を振って、論外だわ、ないわー、と切り捨てた。
まあ、いいか。
私だけがそう思っていればいいんだし。
――――『まあ、いいか。彼のいい所は私だけが知ってればいいんだし』
ズグン、ズグン。
急に頭の奥が痛くなった。
手に持っていたメモ帳が、バサリと床に落ちる。
玲ちゃんは、自分が同意しなかったことにショックを受けたと勘違いしたのか、笑って落ちたメモ帳を拾ってくれた。
「なに、そのリアクション! 真白って時々すごく面白いよね!」
「あ、あはは。ありがと」
突如として私を襲った頭痛は、ほんの一瞬で過ぎ去っていった。
今の、何だったんだろう。
前に母さんと病院に行った時のことを思い出す。
誰にも内緒にしとこう。また、病院に行くのは嫌だ。
私は気を取り直して、黒板に板書しに行こうと顔を上げた。
その週の土曜日。
ソルフェージュ帰りにいつものように紺ちゃんの家に寄った私は、練習後、彼女に封筒を渡された。
「どうしたの? これ」
「来月のオペレッタのチケットだよ。玄田の父が真白ちゃんにどうぞって」
「ええっ!? い、いいの!?」
「うん。招待枠分からのおすそ分けだし、気にせず使って。私も一緒に行きたかったんだけど、ちょうどその日に青鸞の校外学習が重なっちゃって」
残念! と悔しそうに眉を寄せる紺ちゃんを慰め、丁寧にお礼を言って私は玄田邸を後にした。
歌劇を見るのは、蝶々夫人以来だ。
しかも、すごく好きな楽団なんだよね~。
来日するのは知ってたけど、発売と同時に完売したという話だったし、お値段もすごく良かったから諦めていた。
家に帰って、さっそく部屋で封筒を開けてみる。
レハールの『メリー・ウィドウ』。
オペレッタの名作とも呼ばれる『白銀の時代』の代表作。
『こうもり』を代表作とするヨハン・シュトラウス二世の時代を『黄金の時代』と呼び、レハール、オスカー・シュトラウス、エメーリヒ・カールマン、そしてレハールの活躍した時代を『白銀の時代』と呼ぶんです。その後に起きた世界大恐慌と映画の台頭で、ウィンナ・オペレッタの人気は終わりを告げるんだけど、その直前の煌めきに満ちた作品だった。
ちなみに『メリー・ウィドウ』の原題はドイツ語で『Die Lustige Witwe』なんだけど、英語名のメリー・ウィドウが日本では定着してるよね。『椿姫』だって、本当は『ラ・トラヴィアータ』(道を踏み外した女)だけど、あんまり浸透してないし。
劇中のヴィリアの歌を口ずさみながらチケットを広げると、なんと4枚も入っていた!
玄田パパ、太っ腹!
さすがこのコンサートのスポンサーなだけあるわ~。
夕ご飯の食卓で、早速父さん達にチケットのことを報告した。
「まあ、いいわね~! また玄田さんちにお礼の電話を入れとくわね。……あ、でもその日って、地区運動会じゃなかった?」
「ああ、そうだ。ごめん、ましろ。父さん達、今年役員なんだよ~。せっかく皆でお出かけ出来る機会だったのになあ」
残念そうに、母さんと父さんが溜息をつく。
それまでニコニコとやり取りを見守っていた花香お姉ちゃんは、そうだ! と急に何かを思いついたように両手を合わせた。
「シンちゃんと友衣くんを誘うから、4人で行こうよ、ましろ!」
「え」
「久しぶりに会いたいよね~ってちょうどツイッターで話してたところなんだ。ダメ?」
「いや、私はいいけど、松田先生が」
「松田先生っ!! うわ~、新鮮!!」
だめだ、聞いてない。
あれよあれよという間に、来月のオペレッタは4人で行くことになった。
松田さんとお休みの日に会える。
そうチラっと思っただけで、ぽわんと顔が熱くなった。
いやいやいや。違うから!
好き、とかないから。
大人でかっこいいなあとは思うけど。
どんな服着て行こうかな。
まだひと月も先だというのに、その日はクローゼットからよそ行き服を引っ張り出して、ああでもない、こうでもない、と鏡の前で合わせてしまった。
なんか、変。
自分でも思うけど、それが何かが分からない。
ただすごく心が浮き立って、ベッドに入ってからもなかなか寝付けなかった。




