エピローグ(紺視点)
真白ちゃんからの電話を貰ってすぐ、私はコウ経由で蒼くんの自宅の番号を知った。
電話口に出てくれたのは、お手伝いさんみたい。
「蒼様は、まだお戻りではありません」
憂わしげな声に、私は「そうですか。では、また掛け直させて頂きますね」と快活に答えた。
電話を切り、すぐに部屋の内線で能條を呼び出す。
「車を出して欲しいの。ええ、今すぐ」
真白ちゃんの懸念が当たってしまったみたい。
どうか、そのまま動かないでいてね。
私は足早に、自室を飛び出した。
多田小学校の近くの公園というのは、一つしかないみたいだった。
近くで降ろしてもらい、すぐに戻る、と能條に告げる。
花柄の傘を広げてちらつく雪を防ぎながら、私は目印の東屋を目指した。
薄闇が広がる中、街灯の明かりだけがぼんやり辺りを照らしている。
真白ちゃんの言ってた場所に、蒼くんはいた。
彫像のように固まったまま、彼はじっと自分の手のひらを見つめていた。
「城山くん」
声をかけた瞬間、彼は弾かれたように顔をあげてこちらを振り向いた。
待っていた相手じゃない。
それがよく伝わってくる落胆ぶりに、私はそっと息を吐いた。
「ましろちゃんなら、来ないよ。車で送っていくから、もう帰ろう」
「……紅から?」
自嘲の笑みが、城山くんの口の端に上った。
「ましろは紅を頼ったのか。……可哀想な俺を頼むって? 傑作だな」
「頭を冷やして。今のあなたは、まともじゃない」
私は首を振って、彼を見つめた。
「あの子は、もうコウには会わないわ。私が直接頼まれたの。ちゃんと家に戻ったか、見てきて欲しいって」
「――は?」
意味が分からない、というように蒼くんは目を見開いた。
「本気でましろちゃんが兄を頼ったと思ったのなら、今後二度と、あの子には近づかないで」
「なん……」
「大切に思ってた相手を突き放して痛めつけて、それであの子が無傷でいると本気で思うのなら、あなたはましろちゃんにふさわしくないもの」
一気に言い放って、冷たく蒼くんを見下ろす。
困惑した表情を浮かべたまま動こうとしない彼を、私は急かした。
「寒い。早く、車に乗って。自棄になるのは勝手だけど、一度家に戻ってからにしてくれる?」
「はは。……きっついな」
「あの子の頼みじゃなきゃ、こんなところまで来てないわ」
ほら早く、とブーツのつま先で蒼くんのスニーカーを蹴った。
「紅の自慢のお姫様じゃなかったのかよ」
「そんな大層なものなわけないじゃない」
呆れた、というように天を仰いでみせると、蒼くんは苦笑を浮かべようやく立ち上がってくれた。
暖房のよく利いた車内に彼を押し込め、能條に指示を出す。
蒼くんは、まるで抜け殻のように従順だった。
「……ましろちゃん、泣いてたよ」
「え?」
「一番聞かせたくなかった言葉で、あなたを抉ったって泣いてた。そうするしかなかったって」
「…………」
「絶対にあなたには言わないで、って口止めされたのに今喋っちゃったから、このことは内緒にしといてね」
「分かった。――ごめんな」
「私に謝られても困る」
生気の戻った彼の瞳を見つめ、私は軽く肩をすくめた。
蒼くんは、ぎゅっと唇を噛み締め、しばらく空を睨んでいた。
それから長い溜息をつき、何度か瞬きを繰り返した。
「何やってんだろうな。……泣かせたくないってずっと思ってたのに。自分の気持ちでいっぱいいっぱいで、ましろの気持ちなんて無視して。ずっと優しかったあいつに引導を渡させた」
「うん」
「――ドイツに行くよ。ごめんってマシロに伝えて」
「嫌です」
は? と目を丸くした蒼くんに私は笑みを浮かべた。
「手紙でも何でも書けばいいじゃない。二度と会えないって決まったわけじゃないでしょ」
彼はしばらくポカンとしていたけれど、そのうちククッと肩を震わせ始めた。
「なんか、お前ってマシロに似てる」
「……口説き文句のつもりなら、零点ね」
「は? んなわけないだろ」
さも嫌そうに顔をしかめた蒼くんから、フイと顔を背ける。
何の気なしに放ったのであろうその言葉に、思いのほか動揺してしまった。
表情に出てないといい。
車の窓に映った自分の顔に、ゆっくりと指を当てた。
ましろちゃんとは似ても似つかない、今の自分の顔に。
城山の家で彼を降ろし、深々と座席に凭れこんだ。
「遠回りして家に戻って貰えないかしら?」
「畏まりました」
能條は言葉少なに答えると、「何かおかけしますか?」と聞いてくれた。
「そうね」
口を開こうとしたその時――
『ワタシはあれが聴きたいな』
私のすぐ隣にアイツが腰かけていた。
ご丁寧に、シートにくぼみまで作っている。
『チャイコフスキーの悲愴。こんな日にぴったりな一曲だろう?』
さも嬉しそうに両手を組んで、黄金色の髪を揺らす。
「チャイコフスキーの悲愴をかけて。ベルリンフィルの一枚があったはずだから」
「はい、お嬢様」
これでいいの?
私が眉を上げると、満足そうに口元を緩めて人差し指を指揮棒代わりに振り始める。
『ああ、素晴らしい。マシロの嘆きは、とても甘美だったよ、コン』
私は黙ったまま、窓を叩く雪の粒を眺めた。
暗闇を切り裂くようにぶつかってくる、眩い白。
『君も今回は、きちんと役目を果たしてくれたね。本当に嬉しいな。騎士が舞台から降りてしまっては、物語が台無しだからね』
これでゲーム続行だ、と猫のように目を細めた彼を睨みつける。
「最後は、私が勝つ」
『そうでなくちゃ! 希望の光が強ければ強いほど、絶望の味は複雑に深まるものだ』
にんまりと笑って、彼はくるりと指を回す。
何も起こらなかったかのように、私の隣は空っぽになった。
「何か、仰いましたか?」
「いいえ。もういいわ。曲を止めて」
「――はい」
約束のタイムリミットまで、あと4年。
青鸞の学内コンクールで優勝した前作ヒロインを、鳶はその手に囲い込む。
玄田グループの一人娘という肩書を持った、新進気鋭の女性ピアニストとして売り出す為に、嘘っぱちの愛を囁き、初心な娘を絡め取るのだ。
誰にも心を開いたことのない鳶が、もしかしたら彼女には本気になってしまうかもしれない、という暗示を含んだエンディングで、隠しルートは終わる。
バッドエンドへの分岐は一つ。
コンクールでの失敗だ。
優勝を逃せば、鳶は紺をその気にさせた上で、無残に捨てる。
「きっとあの人は戻ってくる」
浜辺でイギリスからの船を待つ紺のスチルは、購入者から「いくらバッドエンドでも酷過ぎる」と盛大に叩かれたそうだ。
万が一、バッドエンドを迎えてしまえば、私は二度とあの子を取り戻すことは出来なくなる。
それだけは避けなければならない。どんな手を使っても、私は優勝しなくてはならない。
ああ、里香。
あなたに会いたい。
もう一度微笑んで、あの人ではなく、私をあの名前で呼んで。
その為なら、私はどんなことだってやり遂げてみせるから。




