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舞台に準備されたピアノは三台。
うち二台は舞台奥に並べられ、第一部で使われるスタインウェイだけが中央に引き出されている。
スポットライトが当てられたピアノの前に、まず紺ちゃんが進み出て行った。
予想以上の拍手が客席から聞こえてくる。満席って本当だったんだな。
軽くお辞儀をし、紺ちゃんはピアノの前に座った。
ベートーヴェン ピアノソナタ第八番 悲愴 第一楽章
序奏付きソナタ形式の冒頭部分、紺ちゃんは「fp」の指示通り、はっきりとした強弱をつけて鍵盤を鳴らし始めた。聴く者を魅了せずにはおかない重厚な和音の豊かな響きに、うっとりと聞き惚れる。か細い体のどこから、そんなエネルギーが出てくるんだろう。目を閉じると、そこに小さな女の子はいない。円熟期を迎えた男性ピアニストのような力強さに、圧倒された。
変イからの急速な落下音型の煌めくような音の粒。
提示部のオクターヴのトレモロ・バスの細やかさ。
どの部分を取っても、申し分のないダイナミックでロマンチックな演奏だった。
――負けたくない
この時ほど強くそう思ったことはなかった。
大好きな紺ちゃん。
早くあなたの隣に、対等な私として立ちたいよ。
割れんばかりの拍手の中、軽く息を切らせた紺ちゃんが戻ってきた。
無言ですれ違い、私は顔を上げて眩い光の中に足を踏み出した。
第二楽章。
アダージョカンタービレ(歌うように遅く)という指示のある緩叙楽章。
歌い上げるような上声部分を16分音符が和声的にささえている主題から始まるこの曲は、早いテンポの第一楽章とは色んな意味で対照的だった。
3連音符による和音の刻みを基調とした主題を、私はあくまで抑え目に柔らかく弾こうと決めていた。甘い旋律に感情を乗せるというよりは、俯瞰からひいてみる感じ。さらさらと流れていく川のせせらぎをイメージしながら、余分な飾りのないシンプルな表現を心がけた。
一音一音を丁寧に。そして濁りのないように深く響かせる。
最後の一音が消えるのを見届け、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
少なくとも自分の思うようには弾けた。
客席からも大きな拍手が聞こえてきて、私はホッと胸を撫で下ろした。
舞台袖に戻ると、今度は亜由美先生が出ていく。
厳しい表情で先生は、まっすぐにピアノだけを見据えていた。
その顔に、私はああ、と息を飲んだ。
年なんて、関係ない。
先生と生徒なんて、関係ない。
観客の前で演奏する時、私達は常に競い合うライバルなんだ、と――。
第三楽章。
ロンド・ソナタ形式の最終楽章は、分散和音の伴奏の上に、悲しみを帯びた美しい主題が提示される。指示速度はアレグロ(速く)。ピアノソナタの基本として、第一楽章と最終楽章は主調でアレグロ。真ん中にアダージョを置くというセオリーがある。亜由美先生の透き通った高音の華やかさは群を抜いている。煌めく音の粒が空を舞い、流れるような主旋律が鮮明に曲の輪郭を際立たせていく。3連音符の下降音型の響きの美しさも素晴らしかった。
一際大きな拍手に包まれ、先生が戻ってきた。
大きく手を叩く私と紺ちゃんを見て、亜由美先生はフッと口元を緩めた。
「連弾の準備をしてらっしゃい」
「はい、先生」
私と紺ちゃんは連れ立って、美容師さん達の待つ控室に戻ることにした。
凜子さんや、葵さん、そして加南子さんの演奏も聞きたくてしょうがなかったんだけど、着替えて連弾の最終チェックをしないといけないんだよね。この時ばかりは、自分が演奏者側であることが残念だった。
「ましろちゃん」
「んー?」
控室に戻る廊下の途中。
紺ちゃんはピタリと足を止めて、私を真剣な目付きで見つめてきた。
「……凄かったよ、ましろちゃんの今日の演奏。私にはあんな風に弾けないなって思った」
何を急に言い出すんだろう。
それは私の台詞だよ、と言いたかったんだけど、あまりにも紺ちゃんの表情が強張っていたので、私はただ目を見張って彼女の言葉の続きを待った。
「亜由美先生が言ってたの。ましろちゃんは、独自の世界を持ってるって。それを全て表現出来る技術、経験、知識が揃った時、あの子はどこまで行っちゃうんだろうねって」
「そんなことないよ……もし仮にそうだとしても、それは、私がボクメロのリメイクヒロインだからじゃないかな」
あまりにもほめ過ぎな気がした。
でも、紺ちゃんは激しく首を振って私の言葉を否定した。
「本気でそう思ってないよね? どれだけの時間、私達は練習を重ねてる? 同い年の子達が遊んだりTVを見たり、お喋りしたりしてる時間、私達はずっとピアノに向かってるんじゃないの? それを『主人公だから』って理由で括られたくない。ましろちゃんだって、そうでしょう?」
紺ちゃんは拳を震わせて、私を見つめた。
そうだ、そんな言葉で括られたくない。
私たちがピアノにかける熱量は、そんな陳腐なものじゃない。
指が上手く動けば胸が高鳴り、イメージ通りの音が鳴らないと絶望で目の前が暗くなる。もう嫌だ、やめたい、と思った次の瞬間には、ピアノが恋しくて堪らなくなる。
「うん……そうだね。私達、病気になっちゃったんだよ、きっと。ピアノ病」
「ピアノ病かあ」
羨ましそうに目を細め、紺ちゃんは再び口を開いた。
「私は違う。私のピアノは、目的の為の手段だから。きっとそう遠くない将来、ましろちゃんは手の届かない人になってしまう」
そこまで言って、紺ちゃんは唇を噛み締めた。
「でも、負けられない。高校までは絶対、私はましろちゃんに負けられないの」
紺ちゃんは、ひどく苦しげにその言葉を紡ぎだした。
必死に自らを鼓舞するようなその言い方に、私は何も返すことが出来なかった。
紺ちゃんには何か秘密がある。
でもそれはきっと、彼女が一人で守り通さなくてはならない誓約のようなものなのだ、という気がした。
カリスマ美容師さんご一行によって、私達はガラリと衣装と髪形を変えてもらった。
紺ちゃんには、鮮やかなグリーンに芙蓉の縫い取りのあるチャイナドレス。私には真紅に鳳凰の縫い取りのあるチャイナドレスが準備されていた。どちらもノースリーブのロングで膝上までスリットが入っている。
なんでチャイナドレスかっていうと、私達の弾く組曲の中に「中国の踊り」って曲があるからみたい。こんな時でもないと着られないよな~としみじみ思った。ちょっとしたコスプレ感覚だ。
髪の毛は、ハーフアップ部分を両サイドでお団子にしてリボンを結び、残りはヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばし背中に流してある。お化粧も軽く直され、アイメイクを足してもらってあった。
「紺ちゃん、めちゃくちゃ似合ってる!」
陶器のようなツルツルのお肌にけぶる様な菫色の瞳が、ドレスのオリエンタルな美しさに凄味を増し加えてて、もうね、誰とも比べられない至高の美ですよ。
興奮してる私を見て、紺ちゃんはクスクス笑った。
「ましろちゃんこそ! ぎゅうってしたいくらい可愛い!」
紺ちゃんが蒼くん化している。
カリスマ美容師さまのお蔭で、私も2000%増しで可愛くなってるんですよ。鏡を見てみたけど、原型がどこにも見当たらないレベルだ。ヘアメイク技術の進歩は凄まじいね。
紺ちゃんの控室は、届けられた大量の花で溢れかえっていた。
「部屋が狭くなっちゃっててゆっくり出来ないから、ましろちゃんのとこで打ち合わせしてもいい?」と聞かれ、二つ返事で頷く。
紅さまと蒼くんの持ってきてくれた花束は、母さんの手によって水の入った大きなバケツに入れられていた。紺ちゃんは真っ白な薔薇を見て「もしかして、コウと城山くんから?」と首を傾げた。
「うん。紺ちゃんも貰ったんでしょ。何色のお花だった?」
「貰ってないよ」
「え?」
蒼くんからはないにしても、紅さまが最愛の妹に花束を渡さないなんてことがあるだろうか。
私が目をパチクリさせていると、紺ちゃんは嬉しそうに両手を合わせた。
「コウってば、なかなかやるわね」
「う~ん。何のトラップなのかな~」
その時の私達の声があんまりピタッと重なったもんだから、思わず顔を見合わせて噴き出してしまった。連弾もこのくらい息が合うといいのにね、と話しながら、私達はもう一度楽譜を覗き込んだ。
しばらく経つと、休憩時間の終わりを告げるアナウンスが聞こえてきた。
いよいよだ。
またしてもトップバッターなので、私と紺ちゃんは上手と下手に分かれて、急いで舞台袖に向かった。
向かい合わせにセッティングされたピアノの前に進み出る。
お揃いのチャイナドレスを着た私たちに、客席から盛大な拍手が送られた。紺ちゃんと一緒に弾ける嬉しさからか、さっきよりもうんと気が楽だ。
私の譜捲りを担当してくれる葵さんに「お願いします」と小声で頼むと、しっかり頷いてくれた。
チャイコフスキー作曲 くるみ割り人形組曲
もともとはバレエ音楽用に作曲されたオーケストラの為の曲だ。それをチャイコフスキー本人がピアノ用に編曲し直したのが、この組曲だった。
小序曲~行進曲~こんぺい糖の踊り~ロシアの踊り(トレパーク)~アラビアの踊り~中国の踊り~葦笛の踊り~花のワルツの全八曲で構成されている。
クリスマスの時期なんかに街で流れてることも多いから、誰でも一度は耳にしたことがあるんじゃないかな。
出だしは、明るいメロディを軽快に。こんぺい糖の踊りでは、テンポを緩めてちょっと不思議な感じに。そしてトレパークは、勢いをつけて走りきる。
心配していたズレは全くと言っていいほどなく、私は弾きながら思わず笑みを浮かべてしまった。
楽しい! 楽しくてたまらない!
客席のうっとりと聞き入る反応まで手に取るように分かる。
神経は最大限に研ぎ澄まされて、紺ちゃんが背中合わせに座ってるみたいに感じた。
後から加南子さんに「息継ぎのタイミングまで同じで、怖かった」と褒められたくらい、私達はお互いの音に寄り添い、そして煌めくおもちゃ箱をひっくり返すように鮮やかに空間を彩った。
最後の花のワルツは、ロマンティックにゆったりと。
さざ波のようなアルペジオで駆けあがり、そして軽やかなワルツのリズムを刻む。
紺ちゃんの手を取りエスコートするように私が低音部を奏でると、紺ちゃんがくるくると弾むように主旋律を歌い上げた。
最後の一音を弾き終え、中央に歩み出る。
二人で手を繋いで、ペコリとお辞儀をすると「ブラボー」の声が聞こえた。
沢山の人が立ち上がって拍手してくれてる。
私と紺ちゃんは、息を切らしながらお互いを見つめ、そして微笑あった。




