スチル15.???
初日にあんな騒動があったにも関わらず、学校生活は意外なほど平穏に過ぎていった。
最初の先制パンチが効き過ぎたのか、クラスメイトたちに完全にビビられてしまったんだけど、光子先生が大らかな人で「何が何でも皆で仲良く!」な方針じゃなかったことが私にとっては良かった。
「何でも相談してね」とは言われたけど、押し付けがましさは全然なくて、私は素直に頷くことが出来た。木之瀬くんは相変わらず。……というより、前より酷い。
不要な騎士道精神を発揮しちゃってるんですよ。
彼がいつでも私の傍にいるせいで、余計に女子の友達が出来ない。いっそ告白してくれれば話は早いんだけど、敵もさるもの。決定的な言葉はぶつけてこないんだよねえ。
まあ、学校のことはいいや。
五月に入り、いよいよ発表会が近づいてきた。
最終土曜日、場所はなんと市民ホールだという。
「し、市民ホールですか? もちろん」
小ホールですよね、と言いかけた私に亜由美先生はにっこり微笑んだ。
「大ホールよ。今週と来週末も押さえてあるから、リハは二回出来るわね」
大ホールって!
たしか1500人くらい収容できるって聞いたことある。
ピアノ教室の発表会に使っていいホールじゃなくない!?
先生相手にツッこむわけにもいかず、私は口をぱくぱくさせた。
「チケットはすでに全部はけてるの。だから、心配しないで」
私の動揺っぷりを勘違いしたのか、亜由美先生は軽く手を振った。
いや、もちろんチケット代とかどうするのかな、とは思いましたよ。
でも今、私の頭の中は1500もの人の前で弾く、ということで一杯なんですけど。
……っていうか、もうはけたんですか!?
亜由美先生のネームバリューのおかげなんだろうし、先生の演奏目当てで聴きにくる人ばかりなんだけど、半端ないプレッシャーを感じる。
ブーイングとかされないよね? 流石にそれはないよね。そっと席を立つくらいだよね。……それもキツイ。
「曲目の順番とか気になるでしょう? 先に渡しておくわね。はい、どうぞ」
なめらかな手触りの上質な紙で出来た多色刷りのプログラムを手渡され、私は「頑張ります」と蚊の鳴く様な声で答えるしかなかった。
発表会が近づくにつれ、亜由美先生は具体的な指導はしてくれなくなった。
他の練習曲は今まで通りだし、悲愴に関してだけだから、きっと何か考えがあるんだろう。だけど、正直これでいいのか不安は尽きない。
家に帰ってさっそくプログラムを開いてみることにした。
紙で指を切ったら大変だから、キッチンにあったゴム手袋を装着し、おそるおそる曲目順を確認してみる。
<第一部>
1.べートーヴェン ピアノソナタ第八番 悲愴
第一楽章~玄田 紺 / 第二楽章~島尾 真白 / 第三楽章~松島 亜由美
2.ショパン 練習曲集作品10 第12革命
宮下 凛子
3.ブラームス 間奏曲 作品118の2
杉谷 葵
4.バッハ 六つのパルティータ BMV826
桜沢 加南子
<第二部>
5.チャイコフスキー くるみ割り人形組曲より二台のピアノによる連弾
玄田 紺 / 島尾 真白
6.モーツアルト 3台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242
桜沢 加南子 / 杉谷 葵 / 宮下 凛子
7.リスト ハンガリー狂詩曲 第六番
松島 亜由美
パタリ。
プログラムを閉じて、そのままテーブルに突っ伏す。
発表会ということで、聴きやすい有名どころをズラリと揃えてきている。
リンちゃん、と先生が呼んでいる中学生は宮下さんって名前だった。プロフィールを確認すると、全員がコンクール入賞経験者。完全に私一人が浮いてます。
「ましろー、何たそがれてんの。それにその手、どうした?」
ばっちりメイクを施し流行の服に身を包んだ花香お姉ちゃんが、軽い足取りで二階から降りてきた。
「んーん。なんでもない。それよりお姉ちゃん、やけに機嫌がいいじゃん。もしかして、デート?」
「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれました!」
お姉ちゃんはバッグからスマホを取り出し、一枚の写真を見せてくれた。
「大学の先輩で、4年の三井 真治くん。私の彼氏ですっ! これから一緒にご飯に行くんだ」
「……どっちと?」
画面には、二人の男に挟まれてダブルピースを決めてる痛い女子大生が映っている。
写真撮られる度に受けを狙いにいくの、もうそろそろ止めた方がいいと思うよ。せっかくの可愛い顔が台無しだ。
「もちろん私と心が通じあってるな、って一目で分かる方だってば~。…………スミマセン。調子に乗りました。紺色のキャップを被ってる方です」
そういえば、4月の終わりに野球観戦に行くってはしゃいでたっけ。
それにしても、まだ5月に入ったところだよ?
新入生をたぶらかす手の早さといい、チャラそうな外見といい、どうも信用ならない。
ふん、と私は鼻を鳴らした。
「ホントにこの人でいいの? 気を付けないと。お姉ちゃんみたいに性格が良くて美人な子には、変な虫がたくさん寄ってくるんだから」
「……妹馬鹿」
「なんか言った?」
「いえ、何でもアリマセン。でも、真治くんの事は信じてあげて! あ、ダジャレじゃないよ」
「…………」
「ご、ゴホン。彼ってこう見えて、すごく真面目なんだよ。あと、こっちが彼の友達で、松田 友衣くん。松田くんは教員目指してるんだって。理系で頭いいんだよ~」
画面の左側を花香お姉ちゃんが指さした。
マーブル模様に塗られた綺麗な爪の先に、いかにも理系、という雰囲気の神経質そうな眼鏡の男が映ってる。
――ズキン
取り立てて美形ではないけど、賢そうな印象を与える一重の目。通った鼻筋に薄い唇。
黒い髪は長めのレイヤーで、裾は短く切りそろえられていた。
じっと見つめれば見つめる程、どこかで見たことある、という気持ちが膨れ上がってくる。
強烈な既視感で、頭が割れそうに痛くなった。
「ましろ? ……ましろ!!」
「ごめ……吐きそう……」
「ええっ、吐くほどキライなタイプ!?」
違うよ。そんなんじゃなくて、ただ――
上手く思考が纏まらない。頭が痛くて堪らない。
慌てふためいたお姉ちゃんに介抱されながら、私はよろよろと二階に上がった。ゴム手袋を必死に外し、床に放り投げる。
『初めまして』
『……とは、付き合ってるんだ。……も知ってると思ってた』
『どうして……なかったの!?』
『違うよ……じゃないから』
切れ切れの場面が脳裏に浮かんでは消える。
あれは……あの人は……。
ベッドに倒れ込んだ私を見て、お姉ちゃんは泣きそうに顔を歪めた。
「ましろ、どっか悪いんじゃないの。年明けくらいからちょっと変だったし。ねえ、もう一回、ちゃんと病院行って調べて貰おうよ」
その言葉に、前世の記憶を取り戻してすぐ、父さんと母さんに連れられあちこちの病院で診てもらったことを思い出した。
豹変した幼い娘を心配しての行動だったんだけど、どこの病院でも何の異常もみられなかったのだ。
脳に腫瘍が出来てるとか、そういうんじゃなくて。
この激しい頭痛は、前世に関わる何らかのサインだという妙な確信がある。
――私、なんであんなに『ボクメロ』にハマったんだっけ?
ふとそんな疑問を覚えた。
<オヤスミ>
どこかで聞いたことのある甘い声に誘われ、私はそのままゆっくり瞼を閉じた。
◆◆◆◆◆◆
<まだ流石に早いよ>
眠りに落ちたマシロの額に手をかざすと、淡い光が浮かび上がってきた。
痛みを拭い去るついでにもう一つ、更に強力な忘却術を施す。
彼女たちの過去に残る黒い染み。
もっと寝かせて、熟成させたい。
手元に集まった丸い球体を胸に当ててみた。
ポカリと空いた穴に吸い込まれていく光に、痺れに似た快感を覚える。
――ああ、なんてキミたちは素晴らしいんだろう
期待、喜び、慕情、信実。
鏡合わせのように生まれてくる絶望、悲しみ、猜疑、不安。
キミたちのくれる全ての甘美な感情が、糧となり力に変わっていくんだ。
<さあ、もっとワタシと遊ぼう?>
開きかけた新たなカードは、強引に伏せた。




