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年末年始。
私は家でひたすら勉強とピアノの練習に没頭していた。
亜由美先生は、ウィーンで演奏会を開く為、一月の終わりまで日本を留守にするのだという。週に二回のレッスンがなくなっただけで、胸にぽっかり穴が開いた気がした。
蒼くんはドイツだし、紺ちゃんと紅さまも桜子さんと一緒にヨーロッパを回ってくると言っていた。彼らに会えなくなったのも、寂しさの原因の一つかもしれない。
一日だけ、いつもの学校メンバーと映画を見に行ったんだけど、夕方になる頃にはピアノを弾きたくて堪らなくなってしまった。
みんなと賑やかにお喋りしながら、曇天の空の下、自転車を漕いでショッピングセンターまで行くのも悪くなかったし、木之瀬くんや平戸くんのことも嫌いじゃない。もちろん映画だって面白かったし、何より普段家に籠りっきりの私が、こうしてたまに友達と遊ぶと、父さんも母さんもひどく喜んでくれる。
私は多分、焦りに似た暗い感情に取りつかれていたんだと思う。
こんなことしてる場合?
もっと頑張らないと。
だって私は、青鸞の特待生に選ばれなきゃいけないんだから。
早く、みんながいる場所まで追いつかなきゃ。
訳の分からない焦燥感は、ピアノを弾いたり勉強をしたり、ある意味自分を追い込むような作業に没頭している時だけ、忘れることが出来た。
自由な時間がぽっかり出来ると、これでいいのか、不安で堪らなくなる。
穴だらけの前世の記憶を持つ、島尾 真白。
転生してきたという割に、あまりにも思い出せることが少ない私。
『ボクメロ』の主人公として、ただこの世界に生かされてるだけな気がしてくる夜もあった。
紺ちゃん達と一緒にいたいという想い、そしてピアニストになりたいというこの夢さえ、あらかじめプログラミングされた何かだったら?
「べっちん。私、合ってるのかな。このまま生きてて大丈夫かな」
テディベアのふかふかのお腹にほっぺをくっ付ける。
べっちんの頼りない柔らかさに、余計に寂しさが募った。
そんな時は、いつも無性に紺ちゃんに会いたくなるのだった。
そして冬休みが終わり、三学期が始まってどれだけも経たないうちに、お姉ちゃんの決戦の日がやってきた。
「雪は降らないって言ってたけど、気を付けてね」
「うん」
「明日もあるんだし、帰りは、まっすぐ帰って来てね」
「うん。……っていうか、どうしたの、ましろ。顔色悪いよ?」
早起きして、いつもはパンなのに、今朝はDHAが豊富だというしらすご飯を食べている花香お姉ちゃんに纏わりついた。何故か不安が押し寄せてきて、お姉ちゃんから離れることが怖くなる。
「会場までついて行きたいな。外で待っていたい」
ぼそりと呟くと、お姉ちゃんは「そこまで!?」と目を剥いた。
「花香はすっかり開き直ってるっていうのに、ましろの方が緊張しちゃったんじゃないか?」
新聞から目を上げ、父さんは優しく声を掛けてくれた。
「大丈夫だぞ、ましろ。もし失敗したって、死ぬわけじゃなし」
「やめて!!」
突然大声を出した私に、みんなが一斉に息を飲んだ。
ああ、とそこでようやく気がついた。
最近、私が情緒不安定だったのは、この季節のせいなんだ。
……前世をぷっつりと断ち切ったあのマンホールに落ちたのは、センター試験の帰り道だった。
「ましろ、今日はゆっくり休んだら? きっと疲れてるのよ」
母さんがシンクの前からゆっくりこちらに移動してきた。
ひんやりした手が、私のおでこに当てられる。
「う~ん。熱はないわね」
「でも、すごく顔色悪いよね。私は大丈夫だからさ。どんと大船に乗ったつもりで、家で待っててよ。ね?」
花香お姉ちゃんは私を安心させるように、ニカっと笑って胸を叩いてみせた。
――『大船に乗ったつもりで家で待っててよ』
そう言ったのは、誰だった?
私? それとも……。
「ごめん……今日は部屋で寝てる。お姉ちゃん、ずっと今まで頑張ってきたんだし、きっといい点取れるよ。落ち着いてね」
何とか笑みを浮かべ、私は後ろ髪を引かれる思いで、ようやくお姉ちゃんから離れた。
「オッケー! 明日全部終わったら、みんなでご飯食べに行こうね!」
「それ、いいわね~。外食なんて久しぶりだし」
「父さんも楽しみだ」
みんなが口々に言って、にこにこ笑ってくれた。
泣き出さないように、えへへ、と口角を引き上げ、二階に戻る。
――私が試験に向かった朝って、どんな感じだったんだろう。
思い出せない空白を必死に探る。
だけど、あらかじめ空っぽの記憶の棚からは、埃一つ落ちて来なかった。
パジャマのままベッドに潜り込んだ途端、ボロボロと涙がこぼれてきた。
この涙の理由さえ、私には分からないまま。
嗚咽を噛み殺し、ただ枕に突っ伏して涙が枯れるまで泣き続けた。
そして、時は流れ――。
お姉ちゃんは、死なずに大学生になった。
第一志望はダメだったけど、第二志望の大学に合格出来たので、出来れば幼稚園教諭Ⅰ種まで取りたいんだよね、と張り切っている。あの偏差値から、よくそこまで成績を上げたものだ、と我が姉ながら感心してしまった。花香お姉ちゃんはすごく面倒見がいいし、基本的に肝が据わってるから、ゆくゆくは園長先生にだってなれそうな気がする。
私は5年に進級し、転生してから3度目の春を迎えた。
その頃には、私はすっかりシリアスヒロインではなくなっていた。
お姉ちゃんは無事に19歳を迎えられる。それで十分だ。
開き直りの早さには自信がありますとも。さっさと気持ちを切り替えて、今の人生を楽しむことに決めた。思い出せないものに拘ってたってしょうがない。それに先が見えなくて不安なのは、私だけじゃないはず。誰だってそうだよね。
とりあえずの目標は、まずうっかり死なない。これすごく大事。
勉強は、高校三年までの分をすでに復習済みだったから、現状維持を目標にする。
そして、ピアノ。
とにかくひたすら練習して、中学二年のコンクールを目指す!
その前にクリアしなきゃならない課題として、来月の発表会があるんだけど、そっちはあまり心配していなかった。3か月もの準備期間を貰っていたせいか、かなり気持ちにゆとりがある。個人曲の悲愴第二楽章はもちろん、紺ちゃんとの連弾の方もかなりいい感じに仕上がってきてるんだよね。
この世界に生きてることが、誰の目論見だって構うもんか。
私は私でしぶとく生き抜いて、絶対に幸せになってやる。
5年の担任は、よその学校からやって来た女の先生だった。
山口 光子、という古風な名前のその先生は、まだ30になったばかりだそうだ。今年もクマジャー先生が担任だったらどうしよう、と危惧していた私は、ホッと胸を撫で下ろした。要注意児童として、マークされてるわけじゃなかったみたい。
いつものメンバーとは別れ別れになってしまったのが、残念といえば残念。
絵里ちゃんと咲和ちゃんは一組。朋ちゃんと平戸くんは二組で、麻子ちゃんが三組。私と木之瀬くんは四組だった。ちなみに絵里ちゃんの想い人である間島くんは、三組だったそうだ。
「ましろ、今年もよろしくな!」
教室に入ると、さっそく木之瀬くんに声を掛けられた。
「うん、よろしく。木之瀬くんがいてくれて良かったな。このクラス、よく知らない人ばっかりで、ちょっと不安だったんだよね」
「いつでも頼ってよ」
木之瀬くんは爽やかに笑ってくれた。
非常にいい子なんだけどねえ。
一ミリも心が動かないのは、私が『島尾 真白』だからなのかも。スマン、木之瀬くんよ。君の淡い恋が破れちゃうのは、私が乙女ゲーヒロインだからです! ……自分で思って怖くなった。春だからって、変な電波を受信してるんじゃないよね。
「なに、アレ。すげームカつく」
「『良かったな』だって。キャピってんじゃねーよ」
後ろの方から、聞えよがしな声が飛んで来た。
木之瀬くんの顔色が変わる。
私は、まあまあ、と彼を抑え、おもむろに後ろを振り返った。
ショートカットの紫の髪の女の子と、その取り巻きっぽい女子数名が、教室の後ろの方で固まって私のことを睨んでいるのが目に入る。
さて、どうするかな。
「今の、私の事?」
「は? 違うし。もしかして、心当たりあんの?」
直球で聞いてみたが、紫の髪の子はハッと鼻で笑ってきた。
このまま放置してもいいけど、調子に乗ってどんどん絡んでこられたら面倒だな。それに、くそ意地悪い笑い方にカチンときた。ええ、きちゃいました。
どうせあれでしょ。このグループの誰かが木之瀬くんのことを好きなんでしょ。それで、彼と比較的仲良しの私が目障りってわけですよね。
私は立ち上がり、彼女のすぐ傍まで近づいた。
その間、絶対に目を逸らさない。
あまりの迫力にビビったのか、反撃されるとは思ってなくて驚いたのか、彼女はじりじりと後ろに下がった。とうとう、掃除用具入れのロッカーまで追い詰められる。
取り巻きの女子達は唖然として動けなかったし、教室はシーンと静まりかえっていた。
「な、なに」
あくまで虚勢を張ろうとする彼女の目の前でピタリと足を止め、腕を組んだ。
「なんでもいいけど、八つ当たりは不愉快。木之瀬くん狙いなら、直接いって。私には関係ないし」
「そんなこと誰も言ってないでしょ!」
紫の子は、顔を真っ赤にして怒鳴った。図星ですかー。可愛いといえば可愛いんだけど、売られた喧嘩は買う主義なんです。大人げなくてゴメンよ。
「とにかく」
私は顔を近づけ、目に力を込めた。最初は睨み返してきた彼女だったけど、次第にその目が伏せられていく。周りの子は息を飲んだまま、誰も助け舟を出さなかった。
「くだらない真似はやめて。これ以上私に構うんなら、考えがあるから。分かった?」
ドスの効いた声で脅してやる。
涙目になりながら、コクと頷いた彼女を見届け、私は悠々と自分の席に戻った。
静まりかえっていた教室が、途端にざわめきに包まれる。こえー。あいつ、マジでやばいって。怯える声が入り混じったクラスメイトの騒々しさに、溜息を吐きたくなった。誰が狂犬だ。言った奴の顔は覚えとくからね。
そして昼休み。
当たり前だけど、私は木之瀬くんを除く全クラスメイトに遠巻きに敬遠されていた。
うん、まあ、そうなるよね。
「ちょっと、ましろん。峰田さんをボコボコにしちゃったんだって!?」
「いつのまに、そんな武闘派に……ましろん、元の優しいましろんに戻って!」
わざわざ離れた一組から飛んできた絵里ちゃんと咲和ちゃんに、がくがく体を揺すぶられた。
木之瀬くんは、ずっと肩を震わせ笑っている。
「ましろ、かっけー」
「うっさいよ!」
元はといえば、あんたのせいでしょうが!
乱暴な自分を印象づけて、ついでに彼の好感度を落とす作戦でもあったんだけど、どうやら失敗したみたい。
小学生って、ほんと面倒だ。誰にも迷惑かけないようにするから、そっとしておいて欲しい。
あと二年。何とか平穏に過ごさせて下さい。




