スチル13.蒼(小学生・自宅)
しばらく私たちはただ抱き合っていた。
ようやく気が済んだのか、蒼くんは恥ずかしそうにそっと体を離した。
「ごめん、怖かった?」
「ううん、平気」
へへと笑ってみせたのに、蒼くんは辛そうに顔を顰めた。
あんまり蒼くんが寂しそうだったので、つい涙を零してしまった私が悪い。本当に泣きたいのは蒼くんだというのに、感情が高ぶってどうしようもなかった。
気持ちを切り替えようと、胸に手をあてて深呼吸してみる。
「紅に何やってんだ、って怒られそう。マシロを泣かすなんて最低だって」
「逆じゃない? どうやって泣かせたのかは根掘り葉掘り聞かれそうだけどね」
片眉を上げ、『へえ、あのボンコが泣くなんて、一体何をやったの? 蒼』と、紅さまの物真似をしてみる。
蒼くんは堪らずふはっと噴き出した。
「なに、それ。マジで似てるんだけど!」
「でしょ? 嫌味言われ過ぎて、完コピ出来るようになっちゃったんだ。私たちがこうやってウダウダしてるのを見たら『合奏するなら、早くしろよ。俺もヒマじゃないんだ』とか言ってくるよ」
「もう勘弁して! 明日から紅の顔が見られなくなる!」
肩を震わせ笑いを噛み殺す蒼くんに、私はホッと胸を撫で下ろした。
そうやって笑っててよ、蒼くん。
私には何も出来ないけど、紅さまの物真似くらいなら、いつでもやってあげるから。
蒼くんが楽器の準備をしている間に、ピアノを触らせてもらうことにした。
指慣らしに短い練習曲をいくつか弾いてみる。
長い間誰も弾いてなかったとは思えない程、蒼くんママのピアノの音は温かくて素直だった。
調律は欠かしてないんだな。
手配してるのは、蒼くんのお父さん? 妻の為に作らせたピアノは、主を失い、もう誰も弾くものはいない。分かっていても、音を狂わせられないのは、楽器メーカーの社長さんだからじゃない気がする。
指を止め、ふと窓辺に目をやってみると、出窓に飾られてる小さな物体に気がついた。
あ……あれ、私の折ったヤツじゃん。
グランドピアノに、ツール・ド・フランス、オベリスク神殿、ピサの斜塔は倒れないように細いつっかえ棒が立ててある。
それにしても、初めて会った日、蒼くんを励まそうとして渡した折り紙が、よりにもよってピアノとはね! 本当に申し訳ない。
私の視線の先に気づいた蒼くんは「違うとこに移そうと思ってたのに」と顔を赤くした。
「え? なんで?」
「マシロに引かれたくない。全部取ってあって更に飾ってるなんて、気持ち悪くない?」
「全然。むしろ嬉しいけど」
ピアノに出会わなかったら、きっともっと折り紙に夢中になってたと思う。そのくらい好きだ。今でも、勉強やピアノの練習に煮詰まると、つい折ってしまう。
そんな私の創作折り紙を大事に取ってくれてるなんて、オリガミニストとして喜び以外の何物でもない。
私の表情を見て、蒼くんはホッとしたみたいだった。
「ごめん、調弦したいからAの音くれる?」
「了解」
蒼くんは背筋を伸ばしチェロを足の間に置いた。ポーンと鍵盤を叩くと、蒼くんは小首をかしげ耳を澄ませる。
「紅くんもだったけど、チューニングメーターは使わないんだね」
「ん? ああ、自分の耳で合わせた方が早いから」
一般的に弦楽器は、A線を基準に他の三本の弦を完全5度音程に合わせないといけない。
蒼くんは何度か音を確かめてペグを回し、余分な力を抜いた自然な手つきで弓をひいた。綺麗な重音が部屋に響く。
私は黙って蒼くんとチェロの対話を見つめた。
チェロを扱う手つきは非常に優しく、愛しげだった。
「俺は準備いいよ。とりあえず、一回マシロがピアノパートを弾いてみて」
「分かった。テンポとか気になったら教えてね」
Lied ohne Worte D-dur Op.109
無言歌ニ長調作品109
私が聞いたことがあるのは、デュプレの演奏。思い出しながら、そっと鍵盤を叩いてみる。
牧歌的なリズムの導入部はゆっくりと。転調してから後の部分はテンポを速め、チェロと交互に歌う部分は抒情的に。そしてリタルダンド。最後に元の主題に戻るので、またゆっくりと弾く。
頭の中に鳴り響くデュプレのチェロの音に合わせ、私はピアノを弾いた。
「……こんな感じ。どうかな?」
「マシロ、ホントにピアノ始めたの最近?」
「うん。あ、でももうすぐ三年目に入るよ」
「いや、そんなレベルじゃないと思うけど……そりゃ紅が合わせたくなるはずだ」
蒼くんはぶつぶつと呟き、短く溜息をついた。
「大体分かったから、合わせてみようか」
演奏会だったら、チェロの後ろか横に設置されるピアノだけど、今日は練習なのでお互いに向かい合う形になった。
蒼くんに合図を送り、最初から弾き始める。
チェロの最初の一音で、私の腕には鳥肌が立った。
上手い! そして音が深い!
大切な誰かに向かって話しかけるような甘い旋律を、蒼くんのチェロは優しく歌い上げた。
鼓膜を振るわせるビロウドのような響きが、一転して悲しげな旋律に変わる。私も蒼くんのチェロに負けないように、左手は柔らかく右手の高音は浮き出るように、鍵盤を追った。
そして元の主題が現れる。蒼くんの合図でゆっくりとしたテンポに戻し、少し揺らす。この辺りはもうちょっと合わせる練習がいるな。呼吸を掴みやすいように、最後は蒼くんがリードしてくれた。
鍵盤から手を放し、私は盛大な拍手を送った。
「すっごく綺麗で優しい演奏だった! 蒼くんのチェロ、本当に良かったよ!」
「ありがと。マシロのお蔭だと思う。いつもとは、全然音のノリが違ったし」
「そんなことないよ。これはどっちかというと、蒼くんより私得なプレゼントですよ」
全然お返しになってない気がする。
貰ってばっかりだし、何か他にプレゼント考えないとなあ。
両腕を組んでうーんと唸ると、蒼くんはくつくつ笑った。
「マシロはほんとに俺に甘いよな」
「え? そんなことないでしょ」
「いや、絶対にそう。マシロがそんな風だから……」
切なげに瞳を伏せ、蒼くんはチェロを撫でた。
「だから?」
「……何でもない。途中のとこ、ちょっと音がずれたよな。もっかい合わせない?」
「だね! 慣れるまで、蒼くんから合図出してもらってもいい?」
「分かった」
しばらく一緒に練習していると、控えめなノックの音が聞こえた。
「多分美恵さんだ」
チェロを立て掛け、蒼くんは扉に近づいた。ガチャリと重いドアノブを回し、扉を開ける。
ところが、そこに現れたのはお手伝いさんじゃなかった。
「……母さん」
「ピアノの音が聴こえたから、まさかと思ったけど……。お友達が来てるの?」
「ああ」
「紹介してちょうだい?」
すらりとした背の高い美女が、初老の女性を従え、部屋の中に入ってくる。
外出していたのか、彼女は上品なシルバーのスーツを着ていた。たっぷりとした黒髪が、エキゾチックな美貌を更に引き立てている。
私は慌てて椅子から立ち上がり、彼らの前に進み出た。
蒼くんは突然現れたお母さんに動揺したのか、拳を握り込んでその美しい人を睨みつけている。
「あ、あの……」
蒼くんに紹介されるのを待っててもダメっぽい。
自己紹介しようと口を開きかけた途端。
「ピンクの髪に、焦げ茶色の瞳の小さなピアニストさんってわけね。私の記憶違いかしら。誰かさんによく似ていらっしゃるわ」
「黙れよ!」
蒼くんは、私を隠すように目の前に立ちはだかった。
「マシロをあいつと一緒にするな!」
「あらあら、ずいぶん感情的ね。そんなに大切なお友達なら、紹介できるでしょう?」
甘いソプラノの声には、一切の感情が籠っていなかった。
彼女の胸に空いているガランとした洞が垣間見える気がして、怖くなる。
気づかないうちに、私は蒼くんのセーターの裾を握りしめていた。
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本日の主人公の成果
攻略対象:城山 蒼
イベント:初めての音合せ
無事、クリア




