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青鸞の秋休みが終わったらしく、ドイツから戻ってきた蒼くんは沢山のお土産をくれた。
LindtのチョコやLeysiefferのバウムクーヘンには、家中が大喜びだ。
お姉ちゃんと母さんはもちろん、実は父さんも甘いものに目がないんだよね。
「みんなすーっごく喜んでたよ! 本当にありがとう」
11月に入って、ようやく秋めいてきた。
小さな庭に植わっているサルスベリの葉は紅く色づいている。この季節が一番好きだ。空気が澄んでいて、空が高い。
レースのカーテン越しに差し込む黄色い光が、ソファーに座る蒼くんの髪を艶やかに照らしている。
すっかり大きくなってしまった彼は、もう足を曲げてソファーの上に座ることは出来なくなっていた。
「マシロは?」
「もちろん、私が一番嬉しかったに決まってる!」
「ハハッ。決まってんのか」
蒼くんの曇りのない笑顔に釣られて、私も笑った。
しばらくドイツでの観光話や料理のことなんかを興味深く聞いていると、蒼くんは「そうだ」とおもむろにスクールバッグを探り始める。
「これ、マシロにもう一つプレゼント」
彼が取り出したのは、一冊の楽譜だった。
無言歌ニ長調op.109――メンデルスゾーンが作曲したチェロとピアノの二重奏。
甘い旋律がチェロの優しい響きに映える、私もお気に入りの曲だった。
「ありがと! この曲大好きなんだ~。……もしかして」
「何かお返ししたいって、この間言ってくれただろ? だから、これ。一緒に弾いてくれないかな」
「それでお返しになる? 私ばっかり得しちゃう気がするんですけど」
楽譜をぎゅっと胸に抱きしめて見つめ返すと、蒼くんは嬉しそうに口元を緩めた。
「んなことないって。俺もすげえ楽しみ。――でもあんまり期待されると困る。合奏経験豊富な紅と違って、俺はピアノと合わせたことなんて殆どないから」
「そうなの?」
初等部とはいえ、音楽教育に特化した青鸞学院のことだ。
多重奏のカリキュラムも授業に組み込まれてると思っていた。
「ああ。アンサンブルは必須だから、そういう時は紅と組んでる」
その時の言い方があんまり嫌そうだったもんだから、私は思わず笑ってしまった。
「そんな顔したら、紅くんが拗ねるよ」
「だって、アイツ面倒くさいんだ。自分が上手いからって、他人にもすげーレベル高い要求、平気でしてくるし。紅はクラスの女子とは絶対に組もうとしない。『ごめんね』って笑顔で躱して終わりだよ」
え? そうなの?
……私、よくあの時合奏してもらえたなぁ。
「紅の話はいいじゃん。いつ合わせる?」
口をとがらせる可愛い蒼くんに苦笑し、私はカレンダーに目を向けた。
12月の23日には花丸で印がついている。
その日は成田邸でクリスマスパーティをしよう、と紺ちゃんに誘われているのだ。
どうしてわざわざ成田邸で?
疑問に思った私に、紺ちゃんは「だって、クリスマスパーティだよ? 和風なうちじゃ雰囲気台無しだもの」と肩をすくめた。
言われてみればそうかも。クリスマスツリーや電飾が似合わない和風邸宅を思い出す。
「母さん達もまたマシロちゃんに会えるのを楽しみにしてるから」と天使のような笑顔で微笑まれたら、断るに断れない。
でもきっとまた、紅さまから嫌味を言われるんだろうな。ちょっとだけブルーだったんだけど、蒼くんが参加してくれれば人数が増える。
夏のプールの時みたいに、和気藹々と楽しめるかもしれない。
そうだよ。蒼くんも誘えばいいじゃん!
「紅んちでクリスマスパーティ? ふーん。妹使ってマシロを誘うなんて、随分洒落た真似するな」
蒼くんは綺麗な眉を寄せ、苦々しげに吐き捨てた。
「分かった。紅には俺から言っとく。じゃあ、マシロが空いてる日に、俺んちで一緒に練習しよう」
「いいよ。12月に入るまでには、ピアノ譜を全部さらって弾けるように練習しておくね。絶対に頑張って仕上げようね!」
指切り。小指を差し出すと、蒼くんは眉の皺をほどき、綺麗な指を絡めてくれた。
「指切りげんまーん、嘘ついたら……針千本は痛いから、う~んと何にしようかな~」
「なんだよ、それ」
プッと蒼くんは噴き出し、いいことを思いついた、と瞳を煌めかせた。
「嘘ついたら、マシロは俺のものになる」
……ぐっ。なんて恐ろしい子!
最近、私は蒼くんに押されっぱなしな気がする。
これじゃだめだ、とどこかで思う。
なんだろう。理由は分からないけど、逃げたくなる。
前世の記憶が失われたことが引き金になり、精神年齢が日々退化していってることに気づかなかった私は、漠然とした喪失感を彼への惧れと取り違えてしまった。
蒼くんが最初に好きになってくれた18歳のマシロはもういない。
そのことにすら、気づくことは出来なかった。
12月。
すっかり風が冷たくなった。
私は相変わらず、学校と家、そして亜由美先生のところをトライアングルで往復している。
変わったことと言えば、一度学校帰りの紅さまに捕まり、成田邸で紅茶をご馳走になったこと。
その日は二階の応接室に通された。
案内してくれた執事の田宮さんは「またお会い出来ましたな」と微笑んでくれた。出来ることなら、田宮さんと水沢さんにだけお会いしたいです。
「蒼に23日のこと、話したんだって?」
「あー、うん。流れで。いけなかった?」
「どんな流れだよ。まあ、後から文句言われるよりはマシか」
紅さまはティーカップを目の前のテーブルに戻し、ゆっくりと立ち上がって私のすぐ隣に席を移した。
「なあ、ましろ」
――近い、近いよっ!
じり、と下がるとその分距離を詰めてくる。
とうとうソファーの端っこまで追い詰められ、完璧に配置された目鼻立ちまではっきりと分かるくらいにまで、顔を近づけられた。
「な、なに!?」
警戒しまくる私の髪を、一房掬い、紅さまは綺麗な笑みを浮かべた。
「俺がこの家に連れてくる女の子はお前だけだよ」
「あー。そうですか」
「一緒に音を合わせたいと思うのも、ましろだけだ」
掬い取った私の髪に軽く口づけ、紅さまは切なげに瞳を細める。
「それなのに、ましろはすごく俺に冷たい。ひどいと思わない?」
「思わない。だって紅くんがそれを望んでるんでしょ」
ゲームを仕掛けられてる、ということは丸わかりだった。
ほんとに性格悪いな、この人。
『紅さまが私のことを?』ってトキめいた瞬間、『なーんてね。本気で口説かれたとでも思ったわけ?』ってオチをつけてくる気満々だ。その手には乗るか!
「……マシロは賢いね」
「それはどうも」
「賢い子は好きだよ」
ふいと身を起こした紅さまは、何故か嬉しそうだ。
屈折のしようが半端じゃない。
あんなにいいお母さんなのに、全然似てない。溜息を堪えつつ、私はまだ見ぬ紅さまの父を思い浮かべた。
――そっくりな親子だったりして
23日は仕事で留守にされてますように。
私は心の中で両手を合わせた。
紅さまをさらにパワーアップさせたような大人の男性相手じゃ、流石に太刀打ち出来ません。
12月に入って最初の日曜日。
私は母さんに送ってもらって、蒼くんのおうちの前まで来ていた。
紺色のダッフルコートに手編みのマフラーを巻いた恰好で、お土産に持参した手作りのロールケーキを入れた紙袋を下げ、かじかむ手で玄関のチャイムを鳴らそうとした瞬間。
向こう側から、ガチャリと両開きのドアが開いた。
うわっ。びっくり~。
庭に監視モニターでもついてんのかな、この家。……ついてるんだろうな。
「いらっしゃい、マシロ! 送って貰わなくても、うちから迎えを寄越したのに」
淡いベージュのセーターにジーンズ姿の蒼くんが嬉しそうに出迎えてくれる。
「そんなの悪いよ。これ、手作りで申し訳ないんだけど、おやつに一緒に食べない?」
差し出した紙袋を受け取った蒼くんは、ひょいと中身を確認してパアッと全開の笑顔になった。
「やった! マシロの作るロールケーキ大好き!」
「蒼くんの口に合うように、お砂糖控えめにしといたから」
「サンキュ。早くあがって。寒いだろ?」
挨拶して、だだっ広い大理石の玄関に入る。
入ったところにアンティークな木製のベンチがあったので、そこに腰かけロングブーツのジッパーを下ろした。
中は暑いくらいに暖房が利いていたので、コートとマフラーもついでに脱ぐ。
今日はお姉ちゃんのお下がりから、白いニットワンピを選んでみた。半袖で、襟ぐりのところにファーがついてる大人っぽいデザイン。
「今日も、すげえ可愛い」
蒼くんがすぐに褒めてくれたもんだから、私もえへへとはにかんだ笑みを浮かべた。
「おうちの人に、挨拶しなくても平気?」
「うん、今日は通いの人は休みだし、美恵さんは台所で夜の支度をしてるから。あ、後でお茶を運んできてくれると思うけど」
「……そっか」
お母さんのことを聞いたつもりだったんだけど、蒼くんの口からはお手伝いさんの話しか出なかった。
蒼くんの練習室だという防音の部屋に入ってすぐ、私の目はグランドピアノに釘付けになった。
すごくいいピアノだ。
近づき銘を確認しようとしたんだけど、どこにも見当たらない。
「これって、どこのピアノなの?」
蒼くんを振り返ると、彼は無表情のまま肩をすくめた。
「俺を生んだ母の為に、父が特注で作らせたシロヤマのピアノだよ。世界に一台しかないから、銘は入れなかったんだって。婚約指輪の代わりに、母はこれをねだったらしい」
「そうなんだ! ロマンティックだね~」
マホガニーの木目をそのまま生かした、美しい鏡面艶出し塗装のピアノをじっと見つめる。
蒼くんは「マシロもそんなピアノが欲しい?」と尋ねてきた。
「だって、ピアノを弾くときに指輪は嵌められないでしょ。それなら、触れることの多いピアノをって気持ち、分かるなあ~。大好きな人が自分の為だけに作ってくれたピアノで、その人の為だけの一曲を弾くなんて、想像しただけで素敵だもん」
「――そうだったら、良かったのにな」
生みのお母さんは、蒼くんがまだ小さい頃に家を出たとしか聞いていない。
詳しい事情を尋ねていいものか、ずっと分からないでいる。
「蒼くんのお母さんってピアニストだったんだね」
その一言を言うのにも、かなり勇気が要った。
「ああ、話してなかったっけ。森川 理沙って聞いたことない?」
「聞いたことないもなにも、アルバム全部持ってるよ!」
チャイコフスキー国際コンクールを日本人で初めて、しかも最年少で受賞した女性ピアニスト。
十数年前まで、TVや国内外の音楽祭で引っ張りだこだったという。彼女の残した数々の名盤は、今でもすごく人気がある。情熱的でいてどこか儚げな演奏は、一度聴いたら忘れられない。
「そいつが、俺の母親。俺を産んだ後、体調を崩して二年近く療養した。思うようにピアノに触れなくなった母は、無理やり病院を抜け出そうとして、両手に大怪我を負ったんだ。その怪我で、ピアニストとしての生命線を断たれ、命より大事だったピアノを奪われた母は、父さんと俺を今でも憎んでる」
一息に、蒼くんは説明した。
予想もしてなかった事実に、私は声も出ない程驚いた。
今までの色んなことに説明がつく。
蒼くんはピアノが好きじゃないんだ。
自分から母親を奪っていったピアノを聴くのが、今でも辛いんだ。
「ごめん……知らなかったとはいえ、私、すごく無神経なこと……」
やっとの思いで声を押し出し、私はただ頭を下げた。
他に謝罪する術を思いつかない。
「マシロに謝ってほしくて話したわけじゃない!」
蒼くんは堪えきれないように大声で叫び、私の両肩を掴んだ。
そのまま、ぎゅっと抱きしめられる。
頭二つ分大きい蒼くんに抱きしめられ、私はあっけに取られた。温かな蒼くんの胸に頬を押し付けられ、されるがままに体の力を抜く。
蒼くんは、寂しいんだね。
寂しくてたまらないんだね。
「……マシロはどこにも行かないで」
掠れた蒼くんの声は、深い穴ぐらの底みたいな色をしていた。




