スチル11.Not Found(紺・自宅)
オール5の通知表をもらい、私の一学期は幕を閉じた。
その日の夕食では、通知簿を見た家族全員に盛大に褒められ、かなり微妙な気持ちになった。
リセット人生でズルしてるのに、という後ろめたさ。
「すごい、すごい! ましろ、頑張ってるもんね~」
「そういう花香はどうだったの?」
「聞かない方向で一つ、お願いシマス」
急にしょんぼり肩を落としたお姉ちゃんに、父さんは「勉強だけが全てじゃないさ」と笑ってる。
――ズキン
まただ。
時々、こうやって急に胸が痛くなる。
いつも通り、みんなが笑ってる食卓。
悲しくなる要素なんてどこにもないはずなのに、無性に泣きたくなってしまう。
「ましろ? 食べないの?」
「……ううん、食べる!」
私の好きなオムライスに、お姉ちゃんの好きな豆腐とトマトのサラダ。
母さんは私たちの好物を作って、学期の締めくくりを労ってくれる。
ツン、と鼻の奥にこみ上げてくる涙をなんとか飲み下し、私はスプーンを持ち直した。
そして、紺ちゃんと約束した土曜日当日。
前日、母さんは駅前まで行って、有名なパティスリーのマカロンを購入してきていた。
「美味しいって聞いたんだけど、口に合うかしらね」
不安げに首を傾げる母さんに「大丈夫だって! ありがとう!」と答え、サンダルのバックルを留める。
今日はお姉ちゃんのお下がりの中から、一番のよそ行きを引っ張りだした。黒の襟付き半袖ワンピース。同じく黒の水玉模様のウッドサンダルに、涼しげなかごバックを持つ。
直前まで冷蔵庫で冷やされてたマカロンをぶら下げ、玄関を出る。
「島尾さま。本日、送迎を務めさせて頂きます、能條です」
「お手数をおかけします。よろしくお願いします」
ベンツの脇でまっすぐに立っていたスーツ姿のお兄さんは、20代後半に見えた。
水沢さんより、ちょっと若いくらい。落ち着いたハスキーボイスと均整の取れた長身がカッコいい。後部座席のドアを開けてもらい、ぎこちなく車に乗り込んだ。エスコートされるのって、未だに慣れない。
紅さまの家までは車で20分くらいだったけど、紺ちゃんの家はそれより遠かった。
所在なさげにバッグの持ち手をいじっている私をミラーで確認し、「音楽でもかけますか?」と能條さんは気遣ってくれた。
「いつもお嬢様が聞かれているCDが入っておりますが」
「あ、じゃあ、お願いします」
きっとクラシックだろうな。ピアノ曲かな、それとも……。
ワクワクしながら耳を澄ませていた私は、流れてきた音楽にポカンと口を開けた。
これってもしかしてSAZEのアルバム?
甘い声でキャッチーなフレーズを歌いあげるツインボーカルに、度肝を抜かれた。うわあ、清楚なお嬢様のイメージと違う。
「紺ちゃんって、アイドル好きなんですか?」
「そうですね。このグループだけではなく他にも――」
能條さんの挙げたアイドルグループ名に、私はほお~と間抜けな相槌を打った。
花香お姉ちゃんみたい。
趣味が丸被りしてる。
私よりも、お姉ちゃんの方と気が合ったりして……。
想像するとおかしくて、ニヤニヤ笑ってしまった。
蒼くんの家も、紅さまの家も凄かったけど、紺ちゃんのおうちはまた別格だった。
「ここは兼六園です」とガイドされても「ふう~ん、ここがね~」と納得しちゃいそうなくらいの大庭園と和風の大邸宅。
――あれが出来そう! 大奥ごっこ。
パーン、パーンと次々に襖を開けていくやつ。
アホなことを考えながら車を降り、うちの二階くらいの広さがある玄関に入った。
「ましろちゃん! 来てくれてありがとう!」
そこで私を待ち構えていた紺ちゃんは、涼しげな絽の着物姿だった。
辺りに漂うお香の香り、目の前には和服姿の美少女。
まるで、異世界に迷い込んできたような気持ちになる。
「紺ちゃん、お招きありがとう。これ、つまらないものですが」
ハムのCMに出てきそうな構図で手土産を渡すと、紺ちゃんは嬉しそうに目を細めた。
「もしかしてミヤホリのマカロン? ここのマカロン、大好きなんだよね。後で一緒に食べよ?」
母さん、グッジョブ!
心の中で親指を立てる。「お土産、当たりだったよ」って話したら、母さんも喜ぶだろうな。
余程嬉しいのか、紺ちゃんは珍しくハイテンションだった。
「上がって! 先に私の部屋に行こう。母さま達にはお昼ご飯の時に紹介するから」
「うん、お邪魔します」
脇に控えてるお手伝いさんらしき年配の女性に「これ、冷蔵庫にいれておいて。ましろちゃんからのお土産だって伝えてね」と紺ちゃんは紙袋を渡している。
電話では『うちの母』なんて言い方してたけど、普段は『母さま』って呼んでるんだ。素敵だなぁ。
「ん? なあに? 笑っちゃって」
「いや、紺ちゃん可愛いなあ~と思って」
正直に言った途端、紺ちゃんは小さく唇を開き、胸を押さえた。
切なげに眉が寄せられる。
ギョっとした私を見て、紺ちゃんは口角を引き上げた。
「――その言い方、私のすごく大切な子がよくしてたんだ。ごめん、懐かしくなっちゃって」
過去形でのその言葉に、何と返していいのか分からない。
でも、紺ちゃんが酷く悲しくなってしまったことだけは伝わってきた。
「えっと。……ゴメンね?」
「ふふ。どうしてましろちゃんが謝るの。……私の方こそごめんなさい。さ、こっちだよ!」
細く綺麗な指に誘われ、私たちは手をつないで奥へと進んだ。
紺ちゃんのお部屋は、リフォームされたのか完全に洋室だった。
ピアノの置いてある続きの間も、完全防音のフローリングだ。
すぐに弾けるようにセッティングしてあるグランドピアノをじっと見つめていると、紺ちゃんは口元を緩めた。
「気になるんだね。先に触ってみる?」
「あのね。紺ちゃんに弾いて貰うことって出来ない?」
実は一度も彼女の演奏を聴いたことがない私。
同じ門下生としてかなり興味がある。
ところが紺ちゃんは、残念そうに首を振った。
「ごめんね。今日着物だから。ペダル、上手く踏めないと思うんだ」
「あ、そっか。そうだよね! ごめん、じゃあ弾かせてもらうね」
よろしくお願いします、と心の中でベヒシュタインに話しかけ、椅子に腰かける。
私と紺ちゃんの背はほとんど変わらないから、調整はせずに済んだ。
軽く指慣らしをして、鍵盤に手を置く。
柔らかなベーゼンドルファーと違って、立ち上がりが早くクリアな音だ。
濁りがなく透明感があるっていうのかな。ラヴェルとかドビュッシーとか弾いたら、すごく綺麗に響きそう。
――ラヴェル作曲のソナチネ第二楽章
独特のリズムと和声の組み合わせの多彩さに苦戦してる、今練習中の一曲だった。
そこまで複雑なテクニックを要する曲ではないんだけど、はっきりとしたメロディがなかなか掴めないから、まず暗譜から手こずった。
ピアノのメヌエットの中では最高傑作と呼ばれてる曲なんだって。
頭の中を研ぎ澄まし、楽譜を思い浮かべる。
ゆっくりめのテンポで丁寧に音を紡いだ。装飾音のトリルの鮮明さに舌を巻く。ベヒシュタインは潔癖症の女の子。そんなイメージのピアノだった。
何とかノーミスでは弾けたものの、音の魔術師との異名を持つラヴェルの良さは全く表現出来てない。ああ~、悔しいな! もっと練習しないと!
じっとピアノの脇で演奏を聴いていた紺ちゃんに拍手をもらったので、苦笑いを返す。
「ラヴェル、難しい~! 楽譜通りに弾いてるはずなのに、音が綺麗に浮き上がってこないの。どんな風に弾くといいのかな」
「うーん。確かに弾きやすい、弾きにくいは人によってあるっていうよね。紅は『ましろのブラームスはなかなか良かった』って言ってたよ?」
「確かに、好きか嫌いかで云えば、苦手な作曲家、ってことになっちゃうのかなあ。でも、ボレロとか亡き王女の為のパヴァーヌとか聞く分には大好きなんだよね。……もっと上手くなったら弾きこなせるようになるのかも。ただ下手なだけなんだよね、きっと」
肩を落とした私に、紺ちゃんは複雑そうな目を向けた。
「……ピアノの道を行くつもりなんだね。今の曲で分かっちゃった。ちょっとやそっとでこんなに上達するわけない。ましろちゃんも、本気なんだね」
「うん、まあどこまでいけるか分からないけど。弾くの好きだし」
ピアノの蓋をそっと締め、紺ちゃんと連れ立って隣の部屋に戻る。
壁際には大きな天蓋付きのお姫様ベッド。ふかふかの絨毯に応接セット。その向こうには、天然木の洒落た文机。
机の横にちょこんと掛けられたスクールバッグだけが、紺ちゃんの今の年齢を物語っている。
「そういえば、電話で言ってた話したいことって?」
いつの間にか運ばれて来ていたアイスティーに口をつけ、ふと思い出して聞いてみる。外の暑さと騒がしさが嘘みたいに、辺りは静謐さに満ちていた。
紺ちゃんは少しの間俊巡した後、まっすぐに私を見つめた。
「リメイク版なんだけど、私がコウの妹である以上、本当なら蒼くんイベントは発生しないの」
「……そうなの?」
蒼くんの私への懐きっぷりを思うと、イベントが発生していないとはとても思えない。
どういうことなんだろう。
首を捻る私をちらりと見遣り、紺ちゃんは俯いてしまう。
「バッドエンドなら、あったよ。紅ルートが開いてるのに、蒼くんばっかりに話しかけたり、短調の曲ばっかり作曲してたりすると、突然蒼くんが怒りだして『俺を弄ぶな!』ってキレちゃうヤツ。その後、かなりしつこく目の仇にされるの。シビアな終わり方を迎えるルートだったから、あんな風になったらイヤだなって、ずっと思ってたんだよね」
なに、それ怖い。
実際にやられたら、今までの蒼くんとのギャップが凄まじくて、心臓が止まりそうになる。
ギャップ萌え! とか言うレベルじゃない。
「ど、どうしよう、紺ちゃん! えっと、紺ちゃんがリメイク版ヒロインのサポートキャラってことでいいんだよね?」
フラグ回避の手段を教えて欲しい。縋るように見つめると、紺ちゃんはおもむろに口を開いた。
「ゲームの進行通りにこの世界が進むなら、青鸞で一緒になる『美坂 美登里』ちゃんって子が、ましろちゃんの手助けをしてくれるはず……。でも何回も言うけど、ましろちゃんは自由に生きられるんだよ? ピアノさえやめたら、コンクールに出ることも、青鸞に来ることもなくなるし、辛い目に遭わなくて済むかもしれない。ううん、ピアノは止めなくても趣味で続ければ――」
必死に言い募る紺ちゃんの瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。
どれだけ陰惨なバッドエンドだったんだ。背筋が寒くなる。
それでも、私はキッパリと首を振った。
「ピアノはやめたくない。青鸞で音楽をやりたいの」
「……どうしても?」
「どうしても」
言い切った私に、紺ちゃんはぎゅっと唇を噛む。
「正直なところ、私は紅の事情も分かるから、どこかでましろちゃんと兄が上手くいってくれるといいな、って今でも思ってる。でもそれが、ましろちゃんにとって幸せじゃないなら、あの子達とは関係のない世界で、楽しく暮らして欲しいとも思ってしまう。……こんな話されても、ましろちゃんは困るだけなのにね」
真摯に紡がれる言葉を、少し意外に思った。
ここまで心配してくれてるなんて、想像もしてなかったからだ。
「ううん、嬉しいよ。同じ転生者ってだけで、親身に心配してくれる紺ちゃんがいて、すごくラッキーだったって思うもん」
苦しげな紺ちゃんをそれ以上見ていられなくて、私は明るく言ってみた。
何故か紺ちゃんはビクリと身じろぎし、私の隣に視線を移した。
「――絶対に、させない」
紺ちゃんは、剣呑な光を帯びた瞳で空を見つめてボソリと呟いた。
◆◆◆◆◆◆
前作主人公の成果
イベント名:???
該当するイベントは見当たりません




