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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
第一章 小学生編
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「マシロ、その服寒くない? 髪も濡れてる」


 薄闇のベールが空の端を覆い始めている。

 山の空気は急に冷えてきて、むき出しになった私の肩をひんやり包んだ。

 心配そうに問いかけてきた蒼くんの頬は、何故か少し赤くなってる。


「お風呂入ったばっかりだったんだ。羽織るもの持って来れば良かった。なんせ、急な話だったから」


 急な話、の部分に嫌味を込めて紅さまの方を見遣ると、ハッと鼻で笑われる。


「これくらいのサプライズで驚くなよ、ボンコ」

「驚いてるのは紅くんの傍若無人さにですが」


 腕時計に目を落として時間を確認する。

 キャンプファイアーが始まるまで、2時間を切った。


「ごめん、そんなに時間ないの。先生たちにいないのバレたら流石にまずいから」

「分かってる。目的地は、すぐそこだよ」


 紅さまが顎で指示した方向には、大きな白亜の建物が見える。


「うちの会社の保養所だ。調律済みのグランドピアノも置いてあるけど、どうする?」

「ホントに!?」


 パッと顔を輝かせた私を見て、二人ともが苦笑した。

 「お前を釣ろうと思うなら、ピアノ関係しかないみたいだね」なんて紅さまは呟いている。人を魚扱いするのはやめて下さい。


「どれくらいかかりますか?」


 突然話しかけたにも関わらず、水沢さんは微動だにしなかった。

 少し離れたところで気配を消して待機していた彼は、私と同じように時計に目をやる。


「そうですね、5分もかからないかと。先程の場所へ何時にお戻しすればよろしいでしょうか?」

 

 自由時間は21時まで。22時消灯までの一時間の間に、キャンプファイアーと各班の今日の反省発表が行われる予定になってる。

 先生たちは、キャンプファイアーの準備で忙しい。

 自由時間は本館の遊戯室やバンガローで過ごすように、とのお達しがあったけど、いちいち見廻りして点呼を取ったりはしないはずだ。


「ホントに近いんですね。10分前には戻りたいです。……紅くん、お願いしますっ!」


 水沢さんの方から紅さまへと体の向きを変え、拝むように頭を下げる。

 紅さまは目元を和ませ、頷いた。


「慌ただしいけど、仕方ないね。早速行こうか」


 水沢さんがすかさず後部座席のドアを開けてくれる。

 最初に紅さま、そして私、最後に蒼くんの順で乗り込んだ。

 広い革張りシートのしっかりとした弾力に驚きながら、深く腰掛ける。ちょこん、とスニーカーの足が浮いた。


「これ、良かったら使って。マシロが風邪ひいたら大変だし」


 蒼くんは羽織っていた紺色の半袖パーカーを脱ぎ、渡してくれた。外より車の中の方がマシだけど、やっぱりちょっと寒い。


「えっと……いいの?」

「もちろん。汗臭かったらごめん」


 私は有難く、それを借りることにした。

 袖を通してみると、私には大きかった。肩が落ちて七分袖くらいになってしまう。紅さまほど大きくないと思ってた蒼くんだけど、やっぱり男の子なんだなあと感心した。裾もお尻まで隠れちゃいそうなくらい長い。

 ふわり、と花の香りがする。蒼くんの汗って一体。


「ちゃんと洗って返すね」


 コットンとは思えない肌触りの良さに、内心ビクビクした。汚さないよう気をつけなきゃ。


「そんな気使うことないのに。……マシロ、すっげえ可愛い」

「え? あ、ありがと」


 ぶかぶかのパーカー姿の私に萌えたらしい蒼くんのストレートな台詞に、つい赤くなってしまう。


「はいはい。邪魔して悪いけど、もう着くぜ」


 紅さまが口を挟むと、蒼くんは短く舌打ちする。

 保養所の大きな玄関前まで車は進んでいた。


 眩しい照明に目を細め、人気ひとけのない保養所に首を傾げながら、中に入った。


「もしかして、私の為だけに開けた、とか言わないよね?」

「変な気を回すなよ。平日だし、社員への開放はもう少し先ってだけ」


 紅さまは軽く私の質問をいなし、多目的室まで案内してくれた。

 部屋の隅には、グランドピアノが置いてある。

 城山くんちで作ってるピアノだ。素直な反応と高音の柔らかさで、すごく人気のある国内メーカーなんだよね。

 すでに天屋根は開き、ピアノの蓋も開いていた。


「実はシロヤマのピアノに触るの、初めてなんだ! 嬉しいな~」


 駆け寄ってそっと真っ白な鍵盤を撫で、紅さま達を振り返る。


「時間ないし、すぐに練習させてもらってもいい?」

「了解。外に出てた方がいい?」

「どっちでもいいよ」


 紅さまは昨日も一緒にいたからか、私の反応に全く驚かなかったんだけど、蒼くんはびっくりしたように目を見開いた。


「すぐに練習? せっかく来たのに?」

「うん、だってその為に来たんだし」


 迷いのない返答を聞き、蒼くんは苦しげに眉を寄せた。

 

 私の頭の中は、いかに効率よく練習するかでいっぱいだった。

 一時間半くらいは、ピアノに触れるかな。いつもの練習量に比べたら少なすぎるけど、全く指を動かさないでいるよりずっといい。


 軽く両手をマッサージし、スケール練習に入る。

 ある程度滑らかに指が回るようになってきたところで、暗譜済のツェルニーの練習曲を数曲か弾いてみた。気になる部分は、何度も確かめるように繰り返し練習する。


 パンパン。


 大きな音に、ハッと意識が引き戻された。

 音のした方を見ると、パイプ椅子に並んで腰かけた紅さまと蒼くんが目に入る。結局、ここに残ることにしたみたい。


 手を叩いたのは、紅さまの方だった。

 蒼くんは顔を青ざめさせ、じっとこちらを見つめている。


「残り30分だよ、ましろ。せっかくピアノを貸してやったんだ。何曲か披露してくれ」

「ええ~」

「それくらいいいだろ? それともまともに弾けるのは、昨日のブラームスだけか?」


 挑発するような紅さまの物言いに、カチンとくる。

 そこまで言うなら、弾いてやろうじゃない。

 とはいえ、レパートリーはそんなに多くない。バッハって感じのピアノじゃないから、やっぱりここはショパンかな。

 頭の中で選曲を考えていると、それまで黙っていた蒼くんが眉を吊り上げる。


「コウ。昨日のブラームスって、なに?」

「ああ、言ってなかったか。昨日、学校帰りに偶然会って、家に呼んだんだよ。こいつはずっとピアノを弾いてたから、蒼が心配するようなことは何も起ってないよ」


 ニッコリと余裕の笑みを浮かべた紅さまを睨みつけ、蒼くんは不機嫌そうに足を組み変える。


「暇つぶしなら、余所を当たれって言ったよな?」

「蒼に言われる筋合いじゃない、と答えたはずだ」


 ……また始まった。


 私はピアノに向き直り、ポーンとラの♭の黒鍵を叩いた。

 なおも言い争おうとする二人の声がピタリと止む。

 楽器が鳴れば、口を噤む。そんな風に訓練されている彼らが愛おしくなった。


 空中にその音が消える前に、すかさず続けてメロディを奏でる。


 ショパンの作品64-1変ニ長調「子犬のワルツ」


 テンポ指示は Molto vivace とても早く、だ。

 装飾音のトリルが華やかなこの楽曲は、蒼くんのイメージ。跳ねるように軽快に鍵盤を叩く。

 観客がいてくれるせいか、普段より指がよく回った。

 シロヤマのピアノとの相性も良くて、すごく綺麗に音が響く。

 ちょっとタッチが荒かったかな、というような高音も、ピアノが柔らかくフォローしてくれた。

 

 次は、同じショパンのワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2 を弾くことにした。

 冒頭部分で繰り返される切ない主題の後に現れる甘いメロディは、紅さまのイメージ。煌めく様な高音へと駆け上がる部分はロマンチックに。途中の低音はドラマチックにテンポを揺らして弾いてみる。


 二曲続けて弾き終え、私は鍵盤から指を離した。


「いいね。すごくいい」


 紅さまは不敵な笑みを浮かべながら拍手をしてくれた。

 蒼くんは無言のまま立ち上がったかと思うと、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

 どうしたんだろう。

 私は座ったまま、隣にやってきた彼を見上げる。


「ましろのピアノ、初めて聞いた」

「うん……えっと、どうだった?」


 どうしてそんなに悲しそうなの? 

 思わず、彼に手を伸ばす。

 気づけば、ぎゅっと彼のTシャツの裾を掴んでいた。

 いつも明るい蒼くんが、今夜はすごく儚くて、今にも消えてしまいそうで怖い。


「良かったよ、すごく。もう一曲、リクエストいい?」

「私に弾ける曲なら」

「ショパンのノクターン第2番作品9の2を」

「うん、それなら大丈夫」


 ショパンの楽曲集の中でもそんなに難易度の高くない一曲だ。誰でも一度は耳にしたことがあるんじゃないかな、ってくらい有名な曲。

 

 蒼くんは邪魔にならないよう、スッと一歩下がってくれた。


 装飾音で飾られた右手の旋律を、ゆったりとした左手の和音が支える。

 espressivo――感情豊かにという指示のあるロマンティックな曲なんだけど、あんまり感傷的に弾くのは好みじゃない。

 大げさなくらいに溜めて弾くピアニストもいるけど、私はサラリと、でも恋の歌を歌うように甘く弾いてみた。

 

 夜を想う曲。

 今のシチュエーションにピッタリの一曲だな。


 最後の一音が空に舞い、ふわりと落ちる。

 蒼くんは大きく拍手をしてくれた。顔色は、さっきよりずいぶん良くなってる。


「その曲、何回も聞いてきたけど、今、初めて好きになった。マシロが弾くだけで、俺には全部優しい歌になる」


 な、なんという殺し文句! 

 私の頬は再び熱くなった。

 いや、もうこれ絶対イベントだよね。うかうかと夜想曲なんて弾いてる場合じゃなかった。


 ボクメロで蒼くんイベントを一つも見てない私。

 確信を持てないのが辛いけど、蒼くんの台詞も眼差しも、ハチミツ並みに甘すぎる。


「確かになかなか良かったよ。お前にはショパンも合ってるんじゃない?」


 紅さまも立ち上がって、私の傍に近づいてきた。

 蠱惑的な微笑を浮かべ、乾いた拍手を贈ってくれる。

 このまま口説きモードに突入しそうな蒼くんに引き気味だった私は、紅くんの介入に心底ホッとした。


 あぶなかった~! 

 流されるな、ましろ。

 蒼くんは私に理想のお姉さん像を重ねてるだけだよ。

 

「俺もリクエストを弾いてもらいたいところだけど、そろそろ時間だな。今度のお楽しみに取っておくことにするか」

「……今度? まだマシロを振り回すつもりなのかよ」

「振り回してるのは、どっちなんだろうね?」


 私をダシにじゃれ合いの喧嘩するのは、いい加減にしなさい。

 叱ろうとしたところで、多目的室のドアが開いた。


「お時間でございます」

「ありがとうございます、水沢さん」


 今度こそナイスタイミングです!

 ピアノの蓋を丁寧に閉め、私はすっくと立ち上がった。


  

 

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