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「マシロ、その服寒くない? 髪も濡れてる」
薄闇のベールが空の端を覆い始めている。
山の空気は急に冷えてきて、むき出しになった私の肩をひんやり包んだ。
心配そうに問いかけてきた蒼くんの頬は、何故か少し赤くなってる。
「お風呂入ったばっかりだったんだ。羽織るもの持って来れば良かった。なんせ、急な話だったから」
急な話、の部分に嫌味を込めて紅さまの方を見遣ると、ハッと鼻で笑われる。
「これくらいのサプライズで驚くなよ、ボンコ」
「驚いてるのは紅くんの傍若無人さにですが」
腕時計に目を落として時間を確認する。
キャンプファイアーが始まるまで、2時間を切った。
「ごめん、そんなに時間ないの。先生たちにいないのバレたら流石にまずいから」
「分かってる。目的地は、すぐそこだよ」
紅さまが顎で指示した方向には、大きな白亜の建物が見える。
「うちの会社の保養所だ。調律済みのグランドピアノも置いてあるけど、どうする?」
「ホントに!?」
パッと顔を輝かせた私を見て、二人ともが苦笑した。
「お前を釣ろうと思うなら、ピアノ関係しかないみたいだね」なんて紅さまは呟いている。人を魚扱いするのはやめて下さい。
「どれくらいかかりますか?」
突然話しかけたにも関わらず、水沢さんは微動だにしなかった。
少し離れたところで気配を消して待機していた彼は、私と同じように時計に目をやる。
「そうですね、5分もかからないかと。先程の場所へ何時にお戻しすればよろしいでしょうか?」
自由時間は21時まで。22時消灯までの一時間の間に、キャンプファイアーと各班の今日の反省発表が行われる予定になってる。
先生たちは、キャンプファイアーの準備で忙しい。
自由時間は本館の遊戯室やバンガローで過ごすように、とのお達しがあったけど、いちいち見廻りして点呼を取ったりはしないはずだ。
「ホントに近いんですね。10分前には戻りたいです。……紅くん、お願いしますっ!」
水沢さんの方から紅さまへと体の向きを変え、拝むように頭を下げる。
紅さまは目元を和ませ、頷いた。
「慌ただしいけど、仕方ないね。早速行こうか」
水沢さんがすかさず後部座席のドアを開けてくれる。
最初に紅さま、そして私、最後に蒼くんの順で乗り込んだ。
広い革張りシートのしっかりとした弾力に驚きながら、深く腰掛ける。ちょこん、とスニーカーの足が浮いた。
「これ、良かったら使って。マシロが風邪ひいたら大変だし」
蒼くんは羽織っていた紺色の半袖パーカーを脱ぎ、渡してくれた。外より車の中の方がマシだけど、やっぱりちょっと寒い。
「えっと……いいの?」
「もちろん。汗臭かったらごめん」
私は有難く、それを借りることにした。
袖を通してみると、私には大きかった。肩が落ちて七分袖くらいになってしまう。紅さまほど大きくないと思ってた蒼くんだけど、やっぱり男の子なんだなあと感心した。裾もお尻まで隠れちゃいそうなくらい長い。
ふわり、と花の香りがする。蒼くんの汗って一体。
「ちゃんと洗って返すね」
コットンとは思えない肌触りの良さに、内心ビクビクした。汚さないよう気をつけなきゃ。
「そんな気使うことないのに。……マシロ、すっげえ可愛い」
「え? あ、ありがと」
ぶかぶかのパーカー姿の私に萌えたらしい蒼くんのストレートな台詞に、つい赤くなってしまう。
「はいはい。邪魔して悪いけど、もう着くぜ」
紅さまが口を挟むと、蒼くんは短く舌打ちする。
保養所の大きな玄関前まで車は進んでいた。
眩しい照明に目を細め、人気のない保養所に首を傾げながら、中に入った。
「もしかして、私の為だけに開けた、とか言わないよね?」
「変な気を回すなよ。平日だし、社員への開放はもう少し先ってだけ」
紅さまは軽く私の質問をいなし、多目的室まで案内してくれた。
部屋の隅には、グランドピアノが置いてある。
城山くんちで作ってるピアノだ。素直な反応と高音の柔らかさで、すごく人気のある国内メーカーなんだよね。
すでに天屋根は開き、ピアノの蓋も開いていた。
「実はシロヤマのピアノに触るの、初めてなんだ! 嬉しいな~」
駆け寄ってそっと真っ白な鍵盤を撫で、紅さま達を振り返る。
「時間ないし、すぐに練習させてもらってもいい?」
「了解。外に出てた方がいい?」
「どっちでもいいよ」
紅さまは昨日も一緒にいたからか、私の反応に全く驚かなかったんだけど、蒼くんはびっくりしたように目を見開いた。
「すぐに練習? せっかく来たのに?」
「うん、だってその為に来たんだし」
迷いのない返答を聞き、蒼くんは苦しげに眉を寄せた。
私の頭の中は、いかに効率よく練習するかでいっぱいだった。
一時間半くらいは、ピアノに触れるかな。いつもの練習量に比べたら少なすぎるけど、全く指を動かさないでいるよりずっといい。
軽く両手をマッサージし、スケール練習に入る。
ある程度滑らかに指が回るようになってきたところで、暗譜済のツェルニーの練習曲を数曲か弾いてみた。気になる部分は、何度も確かめるように繰り返し練習する。
パンパン。
大きな音に、ハッと意識が引き戻された。
音のした方を見ると、パイプ椅子に並んで腰かけた紅さまと蒼くんが目に入る。結局、ここに残ることにしたみたい。
手を叩いたのは、紅さまの方だった。
蒼くんは顔を青ざめさせ、じっとこちらを見つめている。
「残り30分だよ、ましろ。せっかくピアノを貸してやったんだ。何曲か披露してくれ」
「ええ~」
「それくらいいいだろ? それともまともに弾けるのは、昨日のブラームスだけか?」
挑発するような紅さまの物言いに、カチンとくる。
そこまで言うなら、弾いてやろうじゃない。
とはいえ、レパートリーはそんなに多くない。バッハって感じのピアノじゃないから、やっぱりここはショパンかな。
頭の中で選曲を考えていると、それまで黙っていた蒼くんが眉を吊り上げる。
「コウ。昨日のブラームスって、なに?」
「ああ、言ってなかったか。昨日、学校帰りに偶然会って、家に呼んだんだよ。こいつはずっとピアノを弾いてたから、蒼が心配するようなことは何も起ってないよ」
ニッコリと余裕の笑みを浮かべた紅さまを睨みつけ、蒼くんは不機嫌そうに足を組み変える。
「暇つぶしなら、余所を当たれって言ったよな?」
「蒼に言われる筋合いじゃない、と答えたはずだ」
……また始まった。
私はピアノに向き直り、ポーンとラの♭の黒鍵を叩いた。
なおも言い争おうとする二人の声がピタリと止む。
楽器が鳴れば、口を噤む。そんな風に訓練されている彼らが愛おしくなった。
空中にその音が消える前に、すかさず続けてメロディを奏でる。
ショパンの作品64-1変ニ長調「子犬のワルツ」
テンポ指示は Molto vivace とても早く、だ。
装飾音のトリルが華やかなこの楽曲は、蒼くんのイメージ。跳ねるように軽快に鍵盤を叩く。
観客がいてくれるせいか、普段より指がよく回った。
シロヤマのピアノとの相性も良くて、すごく綺麗に音が響く。
ちょっとタッチが荒かったかな、というような高音も、ピアノが柔らかくフォローしてくれた。
次は、同じショパンのワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2 を弾くことにした。
冒頭部分で繰り返される切ない主題の後に現れる甘いメロディは、紅さまのイメージ。煌めく様な高音へと駆け上がる部分はロマンチックに。途中の低音はドラマチックにテンポを揺らして弾いてみる。
二曲続けて弾き終え、私は鍵盤から指を離した。
「いいね。すごくいい」
紅さまは不敵な笑みを浮かべながら拍手をしてくれた。
蒼くんは無言のまま立ち上がったかと思うと、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
どうしたんだろう。
私は座ったまま、隣にやってきた彼を見上げる。
「ましろのピアノ、初めて聞いた」
「うん……えっと、どうだった?」
どうしてそんなに悲しそうなの?
思わず、彼に手を伸ばす。
気づけば、ぎゅっと彼のTシャツの裾を掴んでいた。
いつも明るい蒼くんが、今夜はすごく儚くて、今にも消えてしまいそうで怖い。
「良かったよ、すごく。もう一曲、リクエストいい?」
「私に弾ける曲なら」
「ショパンのノクターン第2番作品9の2を」
「うん、それなら大丈夫」
ショパンの楽曲集の中でもそんなに難易度の高くない一曲だ。誰でも一度は耳にしたことがあるんじゃないかな、ってくらい有名な曲。
蒼くんは邪魔にならないよう、スッと一歩下がってくれた。
装飾音で飾られた右手の旋律を、ゆったりとした左手の和音が支える。
espressivo――感情豊かにという指示のあるロマンティックな曲なんだけど、あんまり感傷的に弾くのは好みじゃない。
大げさなくらいに溜めて弾くピアニストもいるけど、私はサラリと、でも恋の歌を歌うように甘く弾いてみた。
夜を想う曲。
今のシチュエーションにピッタリの一曲だな。
最後の一音が空に舞い、ふわりと落ちる。
蒼くんは大きく拍手をしてくれた。顔色は、さっきよりずいぶん良くなってる。
「その曲、何回も聞いてきたけど、今、初めて好きになった。マシロが弾くだけで、俺には全部優しい歌になる」
な、なんという殺し文句!
私の頬は再び熱くなった。
いや、もうこれ絶対イベントだよね。うかうかと夜想曲なんて弾いてる場合じゃなかった。
ボクメロで蒼くんイベントを一つも見てない私。
確信を持てないのが辛いけど、蒼くんの台詞も眼差しも、ハチミツ並みに甘すぎる。
「確かになかなか良かったよ。お前にはショパンも合ってるんじゃない?」
紅さまも立ち上がって、私の傍に近づいてきた。
蠱惑的な微笑を浮かべ、乾いた拍手を贈ってくれる。
このまま口説きモードに突入しそうな蒼くんに引き気味だった私は、紅くんの介入に心底ホッとした。
あぶなかった~!
流されるな、ましろ。
蒼くんは私に理想のお姉さん像を重ねてるだけだよ。
「俺もリクエストを弾いてもらいたいところだけど、そろそろ時間だな。今度のお楽しみに取っておくことにするか」
「……今度? まだマシロを振り回すつもりなのかよ」
「振り回してるのは、どっちなんだろうね?」
私をダシにじゃれ合いの喧嘩するのは、いい加減にしなさい。
叱ろうとしたところで、多目的室のドアが開いた。
「お時間でございます」
「ありがとうございます、水沢さん」
今度こそナイスタイミングです!
ピアノの蓋を丁寧に閉め、私はすっくと立ち上がった。




