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音楽祭は大盛況のうちに幕を閉じた。
アンケートでは、亜由美先生が一番票を集めたのだ、と後で紺ちゃんから教えてもらった。電話口の紺ちゃんは、すっかり元気そうでホッとした。
レッスンの時に「おめでとうございます! 絶対先生が一番だと思ってました!」と興奮してしまった私に「オケと選曲に助けられた部分もあるわね」と亜由美先生は少し照れくさそうに微笑んだ。
チャイコフスキーのピアノコンチェルトは確かに人気のある曲だけど、だからこそ耳の肥えたクラシックファンは沢山のピアニストの演奏を聞き比べていると思う。
紺ちゃんはあの日先に帰ってしまったので、先生へのプレゼントは私が代表で渡した。楽屋で溢れんばかりの花束に囲まれていた亜由美先生に渡すには、余りにもささやか過ぎて気が引けたんだけど、すごく喜んでもらえたんだよね。
レッスン室のグランドピアノのすぐ脇の棚にちょこんと載ったハンドクリームの容器を見て、思わずにんまりしてしまう。あの日私たちが先生にあげたものだった。
小学校の一大イベント、林間学校へ行く日がやってきた。
私は、出発日の前日に職員室を訪ね、クマジャー先生を探した。
回転椅子の上に半分あぐらを書き、日誌のようなものを一生懸命書いている先生が目に入る。暑いのか、日中首にかけられていたタオルは、今は額に巻かれていた。
……いますぐどっかの工事現場に出てもおかしくないくらい似合ってるな。
「あの、先生。ちょっといいですか? 明日の宿泊施設を調べてみたんですけど、本館にピアノが置いてあるってHPに載ってて」
二日間、ピアノに触れないことがどうしても嫌だった私は、父さんに頼んでパソコンで調べてもらったのだ。
学校から貰ったスケジュール表では、夜の7時から9時までが自由行動の時間になっている。その時にピアノを使わせてもらえないか、先生に頼んでみようってわけ。
「おおう、島尾か! ああ、そうみたいだな」
私から先生に話しかけることは滅多にない。
せいぜい日直の日誌を出す時くらいなので、クマジャー先生は非常に驚いていた。
「実は私、ピアノを習ってて、一日も練習を欠かしたくないんです」
一日休むと三日遅れる、と云われる程、音楽は私たちに日々の積み重ねを要求してくる。
せっかく動くようになってきた指が重くなってしまえば、元の状態に戻すのにひたすら基礎練習を繰り返さなくてはならない。
必死に継続の重要性を訴える私に、クマジャー先生はきっぱりと首を振った。
「島尾。お前が一生懸命なのは、分かる。ピアノが好きなんだな? でも先生は、こういう時くらいは、ピアノや勉強から離れてもいいと思うぞ。友達と話したり、一緒に遊んだりすることは、今しか出来ないことだ。もっと周りを広く見て、子供のうちにしか楽しめないことを探してみたらどうだ」
「……でも――」
「それに、ピアノを他にも弾きたいと思ってる子がいるかもしれないだろう? 島尾一人を特別扱いするわけにはいかない。すまんな」
「……はい。分かりました」
だめだ。先生には、分かってもらえない。
前世では先生の言うような、のんびりとした小学生ライフを送ってたような気がする。記憶を取り戻すまでも、そうだった。
でも、それじゃ間に合わない。ピアノはそんなに甘いものじゃない。
先生の言ってる事も理解できるだけに、やるせなかった。
私、本当は18歳なんです。
そういうの今更なんです、先生。
もどかしさが胸の中で暴れ回る。
下駄箱でスニーカーに履き替え、カンカン照りの外へと飛び出した。
青鸞学院生だったら良かった!
きっと彼らは練習させてもらえるだろう。
林間学校というものがセレブ校にあるかどうかは謎だけど。
その時の私は、ずいぶんへこんだ顔をしていたんだと思う。
とぼとぼと家の近くの通りまで帰ってきたところで、スーッと黒のセダンが私の隣に並んだのにも気がつかなかった。
「ましろ? やっぱり、そうだ」
車の後部座席の窓から顔を出した紅さまに突然声をかけられ、私は驚きのあまり、躓きそうになった。
「おいおい、大丈夫か?」
路肩に止まった高級セダンから、紅さまが降りてくる。
なんというタイミングで現れるんだ、この人は!
思いっきりガードレールで顔面を強打するとこだったじゃないか。
「大丈夫じゃないっ! びっくりするでしょ!」
「お前がボーッと歩いてるからだろ。もっと周りに注意しながら歩けよ」
カッチーン。
普段ならなんてことない紅さまの一言に、私は過剰に反応してしまった。
「紅くんには関係ない。私のことは、ほっといて!」
睨みつけて言い捨て、走り出そうとしたのだけど。
ぐいっと後ろから腕を引かれ、私は今度こそ本当に体勢を崩してしまった。
「――っと。あっぶねえな」
舌打ちした紅さまに抱えられ、力強い感触に心臓が跳ねた。だって、お腹に腕が回ってるんですよ!
それから乱暴な手つきで両脇を掴まれ、まっすぐ立たされる。
一連の動作を難なくこなす紅さまの強い腕力に、びっくりした。この人、ほんとに同い年?
「な、なにすんの!?」
「いいから落ち着けって。……どうしたんだよ。何かあったのか?」
怪訝そうな瞳に、かすかな心配の色が浮かんでいる……ようないないような。
いや、きっと気のせいだ。
私が打ち明けたら、そのネタでからかおうとでも思ってるんだろう。
「なにもない」
「はあ……嫌われたもんだな。最初はあんなにキラキラした目で、俺を見てたのに」
「誰のせいだ、誰の!」
図々しい台詞に思わずツッコんでしまった。
ただでさえ暑いのに、今のやり取りでドッと疲れた。もう無視して帰ろ。
さっさと踵を返そうとする私に、紅さまは楽しげに言葉をかけた。
「そうだ、うちに来いよ、ボンコ。ベーゼンドルファーの音色を確かめるいい機会だぜ?」
べ、ベーゼンドルファー!?
私はゴクリと喉を鳴らした。
オーストリアのピアノメーカーの作るグランドピアノは、生産台数が多くないこともあって、あまり国内には出回っていない。もちろん私も、弾くどころか目にしたこともない。
「ほら、どうするの? 俺は蒼と違って、それほど気は長くないんだけど」
「お、お邪魔させて下さい」
紅さまに向き直り、ぺこりと頭を下げる。
プライドなんてこの際捨ててやる!
だって、ベーセンドルファーだよ? 『ウィーンの宝』だよ?
ふふ、と満足そうに口の端を上げた紅さまは、まさしく紅い悪魔だった。
魅惑的な容姿で甘い言葉を操り、乙女を堕落させてしまう人。
乙女って誰と辺りを見回したヤツから前に出ろ。
「じゃあ、乗って。――水沢、あとでましろの家に電話しといて。暗くなるまでには帰すって」
「かしこまりました」
そこ、即答なの!?
あと、なんで家の番号知ってるんですか、水沢さん……。
連れて行かれた成田邸は、これまた豪邸でした。
玄関前に車どめがある時点でふぁー!って感じなんだけど、更にその前には噴水があった。
車庫なんて、笑っちゃいそうなほど横に長かった。中には外車がずらりと並んでるんだろう。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」
出迎えた執事スタイルの壮年の男性の一言に、私はとうとう噴き出した。
だって、ぼ、ぼっちゃまって!
肩を震わせる私を見下ろし、紅さまは花のようなご尊顔を歪ませた。
「笑うな。あと、田宮。その呼び方はやめろって言っただろ」
「申し訳ありません、紅さま」
噛み付く紅さまを軽くいなしたベテラン執事さんは私に目を留め、おや、と首を傾げる。
「珍しいですね。お嬢様以外の女性をこちらにお連れになるとは」
「余計な話はいい。しばらく、二階の音楽室にいる。適当なところで、茶菓子を運ばせてくれ」
「かしこまりました」
一礼した田宮さんという名のおじさまに、私もお辞儀をした。
「初めまして、島尾 真白といいます。紺ちゃんとは同じピアノ教室に通っています。今日は突然お邪魔してすみません」
蒼くんたちを見習って出来るだけしっかり挨拶したんだけど、田宮さんには面白そうな瞳で見つめ返された。
「私のような者にまで、ご丁寧な挨拶、痛み入ります」
ん? 私のようなもの?
紅さまは軽く眉をあげ、腕を引っ張ってきた。
彼にはしょっちゅう引きずられてる気がする。そのうち、首にリードをつけられるんじゃなかろうか。
二階へと続く大きな螺旋状の階段を昇りながら、紅さまはボソッと言った。
「使用人にまできちんと自己紹介するような子は、俺の周りにはいない。田宮が言ったのは、そういう意味」
「うわ、そうなんだ。でも年上の人に挨拶しないの、すごく失礼じゃない?」
私が驚いた理由を察知したことと、言葉の内容の両方に驚き、つい声が高くなる。
紅さまってば、ロクな友人持ってないんだな。
類は友を呼ぶということわざが頭をよぎった。
紅さまは横目で私を見ると、寂しげに微笑んだ。
時々、彼はこういう表情をする。何もかも諦めたような、自分だけが除け者にされてるみたいな顔。
そのたび私は、何とも言えない気分になる。
紅さまには是非、常に尊大な態度でいてほしい。正体不明の感情に、チクチク苛まれるのは嫌だ。
「ほら、ここだ」
しばらく毛足の長い絨毯のひかれた無駄に麗々しい廊下を歩かされ、ようやく部屋に着いた。
亜由美先生のとこのレッスン室と同じ感じの重い扉。どうやらここも、完全防音仕様みたい。
三十畳ほどの広い部屋に入ってすぐ、ピカピカのグランドピアノと沢山のヴァイオリンがかかってる壁が目に飛び込んできた。
なにこれ、すごい!
楽器屋さんみたい!
「ハハッ。ほんと分かりやすいヤツ」
紅さまに笑われたことも、気にならないくらい、私は目の前の光景に心を奪われた。




