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うっとおしい長雨がようやく姿を消し、お日様の容赦ない直射日光に晒される毎日が始まった。
洗面台に置きっぱなしのお姉ちゃんの日焼け止めを借りて、念入りに塗り込む。
小さい頃からの紫外線対策ってすごく大事なんだって。花の高校生になる為にも、しみ・ソバカスは断じて作りたくないところ。平凡な顔立ちなんだから、せめてお肌くらいは綺麗に保ちたい。
「ましろーん。あついー」
エリちゃん、それ挨拶じゃなくなってるよ。
気持ちは分かる。ランドセルを背負うと、汗でぺったりとTシャツが背中に張り付いてうんざりする。
「おはよー。エリちゃん。頑張ろ、もうちょっとで夏休みだよ」
「その前に、林間学校あるじゃん。行き先、海に変わらないかなぁ。泳ぎたい。水! 水!」
河童みたいになってる。
夏休みにはいる直前に行われる林間学校は、一泊二日のバス旅行だ。
班でコテージに泊まって、カレーを作ったり、オリエンテーリングをしたり、夜にはキャンプファイアーをしたりするんだって。
私も実をいうと気乗りしてない。
その間、一度もピアノに触れなくなるのがイヤだ。
エリちゃんは、くじ引きで班が決まるとことに文句を言っていた。クマジャー先生の方針も、分かるんだけどね。生徒の自主性に任せちゃうと、グループから弾かれる子が出てきそうだし。
家に帰って、まっさきにTVをつけた。
静か過ぎるリビングが、ちょっと前からなんとなく苦手になった。
ポツンと誰もいない家に一人でいると、不安なような寂しいような、落ち着かない気分になる。
昔はTVの音の方がうるさく感じていたのになあ。
夕方のワイドショーで気になる話題に移ったので、洗濯物を畳みながらひょいとリモコンを取り、ボリュームを上げる。
今度の週末の音楽祭の話題だ。
先生の出演するコンサートは、【真夏の夜の夢~若手ピアニストの競演~】と銘打たれ、大々的に宣伝されていた。
スポンサー一覧にはずらりと大企業が並んでいる。
紺ちゃんちの会社はもちろん、紅さまの実家、そして蒼くんのところまで出ていたのには驚いた。
城山といえば、国内で一、二を争う楽器メーカー。
楽器だけじゃなくて、家具や工芸品でも有名だ。
蒼くんのお父さんである現社長の代から、グループを広げ、ヨーロッパ中心に輸入や輸出に力を入れる方針を取っている。
新たに現地に工房を設立したのも有名な話。
蒼くんが言うには、それもあってお父さんはドイツにいるのだそうだ。
日本の方は蒼くんの叔父さんにあたる副社長が束ねているということだった。
そしてこのコンサートは、城山の最新モデルのお披露目会も兼ねている。
『土曜日は、管弦楽。そして日曜日はオーケストラとピアニストの競演、ということで、クラシックファンにはたまらないお祭りですね。当日券も僅かですが準備されているそうですので、足を運んでみてはいかがでしょうか』
キャスターが締めくくったのを見届け、TVを消して二階に上がった。
ちょっとの間だけ、クーラーをつけさせて貰う。湿気と並んで夏の高温もピアノにはよくないんだけど、冷房代ってびっくりするほど高いんだよなぁ。
28度に設定し、涼しくなるまでしばらくエアコンの下で待機。
ゴーッという音を立てて、ベランダに置いてある室外機が動き始めた。
ああ、涼しい~。目を細めて涼風を受けると、前髪がふわふわ浮いた。
ピンク色の髪の毛は、長く伸ばしてお団子に纏めている。
ショートにも憧れはあるんだけど、短くするとしょっちゅう美容院に行かなきゃいけない。お金と時間の無駄を出来るだけ省きたい私は、前髪も自分で切ってるし、重たくなるとハサミで梳いたりしていた。
手先の器用さには、本当に助けられている。主人公補正、万歳!
太陽が沈むと、少しだけ暑さが和らぐ。
父さんは「あと一本だけ!」と自分に言い訳しつつリビングで発泡酒を飲んでいた。
TVで野球中継を見ながら晩酌するのが、父さんのささやかな贅沢みたい。
お姉ちゃんは、部屋で勉強していた。
時々、「うおおお~! なんじゃ、こりゃああああ」と奇声が聞こえてくる。
木曜日に先生から先に貰ったパンフレットを眺めつつ、私はごろんとベッドに横たわった。
時計に目をやると、針は22時を回っている。
18歳だった時の感覚だと、もうちょっと起きていられそうな気がするんだけど、体が未熟だからか眠くて仕方ない。
学校から帰ってきて、洗濯物を畳んでから19時までピアノを弾く。ご飯を食べて、お風呂に入り、それから21時までもう一度ピアノを弾く。そこから勉強してるんだけど、一時間じゃ全然足りない。
その分、朝は6時に起きて7時までを勉強時間に当ててはいるんだけど、寝苦しいせいか、最近寝不足気味な感じ。
来年の5月に開かれる発表会で、私はベートーヴェンのピアノソナタ第八番~悲愴第二楽章を弾くことに決まった。
第一楽章を紺ちゃん、第三楽章を先生が弾く、というリレー方式。
「ましろちゃんなら出来ると思ったの。……ついてこれる?」
亜由美先生の期待に、私はすぐさま頷いた。
演奏技術的なことだけ云えば、第二楽章は比較的簡単だ。
それにしたって今の私にしてみれば、かなり上の水準。しかも、人気のあるピアノソナタだけあって、特に私の弾く第二楽章は数多くの名盤が出回っている。
聴きに来るお客さんは、自分の知ってる悲愴をイメージしながら私の演奏を耳にするってわけ。
しかも、紺ちゃんと亜由美先生に挟まれてるから、下手な演奏をすれば悪目立ちするに違いない。
腰が引けてないわけじゃない。
でもそれ以上に、「挑戦してみたい」という気持ちの方が強かった。
発表会の第二部は、連弾を予定しているらしい。
私と紺ちゃんで「くるみ割り人形」のメドレーを演奏してはどうか、と打診されていた。ってことは、連弾の練習もしなきゃいけない。
パンフレットで先生の名前のところをもう一度見てみた。
松島 亜由美――演目:チャイコフスキー、ピアノ協奏曲第一番
有名過ぎる壮大な序奏。ホルンから始まるシンフォニックな演奏。
下降するホルンとは対照的にオクターブで上昇するピアノが強烈な印象を残す。短調から長調に切り替わる時の高揚感といったらない。
ピアノコンチェルトの中でも特に好きな一曲だった。主題の華やかさも素晴らしい。
私が持っているCDは、男性ピアニストのものだ。
華奢な亜由美先生が、どこまでダイナミックに演奏してくれるのか、想像もつかない。
レッスン時に軽く手本を見せてくれる時くらいしか、先生のピアノを聞いたことがないんです。今度亜由美先生もCDを出すらしいから、是非とも購入せねば!
ああ、早く日曜日が来ないかな。
ピアノの練習の為に締め切っていた蒸し暑い部屋の窓を開け、網戸から入り込んでくるひんやりした風を少しでも浴びようと寝返りを打った。
ふかふかで暑苦しい……じゃなかくてあったかいべっちんは、夏の間はアイネの上に隔離してる。
そう云えば、家族全員でのお出かけも久しぶりだっけ。
チケットを4人分用意してくれた先生に、母さんは驚いていた。
招待券に値段は印刷されてないんだけど、新聞の広告でコンサートの概要を知ってしまったらしい。
「ま、ましろ! え、S席って、2万8千円もするって知ってた!?」
「んー、まあ、そのくらいするだろうね。あの楽団でしかもフルオケだから」
「4人分だから、えーっと、11万超え!?」
「そうだねえ。でも先生の実家も協賛会社に入ってるし、亜由美先生がお金払ったわけじゃないと思うよ」
「なんでそんなに真白は落ち着いてるの!? お父さーんっ」
大騒ぎする両親を宥めたのは、先週のことだ。
亜由美先生のお父さんが重役を務めてる会社の名前を聞いて、父さんは倒れそうになっていた。
これじゃ、紺ちゃんちの話は出来そうにない。
クラシックって大体がお金かかるものなんだよね。
楽器からして高いし、コンサートホールを借り切るのにもお金がかかる。
……発表会のこと、言い出しにくいな。
いくらかチケットを売らないといけないんじゃないかな。チケット代っていくらなんだろ。当日の衣装ってどうするんだろう。
折り紙を作る内職があればいいのに。……ないか。
どこかに私の遺跡シリーズを欲しいって人、いませんか!
襲ってくる睡魔に身をゆだねながら、お金ほしい、と痛烈に思った。




