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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
第一章 小学生編
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 6月に入り、お天気の悪い日が続いていた。

 洗濯物が乾いてくれないと母さんがしょんぼり肩を落としている。一戸建てではあるものの、それほど大きくない我が家は今、誰もお客さまを呼べない状態だ。

 リビングにでーんと鎮座しているのは、室内物干しくん一号と二号。カーテンレールは、ハンガーにかけられたバスタオルで埋め尽くされている。カーテンをひかなくても、小さな庭から見えるのはタオルの微妙な花柄だけ。


 ピアノは木材で出来ている楽器なので、部屋の湿気が大敵だ。

 嘘みたいな話だけど、本当に音色が曇る。除湿機欲しいけど、小学生のおこずかいじゃとても手が出ない。


「アイネ、ごめんね。もうちょっと頑張ろうね」


 今、練習しているのは、ソナチネとツェルニーの50番。

 この二つはもうすぐ終わりそうだ。「花の歌」はだいぶ前にマルをもらえたので、その時購入した楽曲集から「乙女の祈り」そして「ベニスの船歌」へと進んでいる。ブルグミュラーは飛ばしましょう、と先生が言って、ショパンとバッハの楽曲集も新しく追加になった。

 来年は教室の発表会がある。


「私が教えるのは、基本的に音大を目指してる子だけだから、発表会は毎年は開いていないの。どうしても、コンクール優先になってしまうのよね。日程の調節とか難しいし、私の方もいろいろ予定があるものだから……」


 ましろちゃんの親御さんには物足りないかもしれないわね。申し訳さそうに先生が眉を曇らせるのを見て、私はぶんぶんと首を振った。

 亜由美先生は今度、【若手ピアニストの競演】というコンセプトで開かれる大きなコンサートへの出演が決まっている。

 国内の有名なオーケストラと共演するのだと聞かされ、私はとても興奮していた。


「先生のコンサート、すごく楽しみです! 私のことは気にしないで下さい。来年までにもっと上手くなれるよう、発表会を当面の目標にしますから」

「ふふ。じゃあ、発表会のプログラムを今からしっかり考えておくわね。本当にましろちゃんの上達は早いから、この先が楽しみだわ」


 亜由美先生がふわり、と笑うと部屋全体が明るくなる気がした。

 美形双子との血の繋がりを、こういう時にすごく感じる。オーラがあるっていうのかな。


「あの……前から気になってたんですけど、どうして私を見てくれることになったんですか?」


 楽譜をしまい、部屋から出る時にふと聞いてみた。


 母に同じ質問をしてみたら「有名な女性ピアニストが隣町で教室も開いてるっていうから、ダメ元で電話してみたのよ。そしたら、即オッケー。生徒さんが多いと収入になるからかしらね~」などと適当なことを言っていたので、ずっと不思議だったのだ。

 生活の為にピアノ教室を開いてるとは、とても思えない。

 実際、ここに通っているのは、紺ちゃんと私を含めて5人だけだし。


「実は、紺に頼まれたの。もし島尾さんって人から電話があったら、是非教えてあげて欲しいって。すごく才能のある子だからって。ましろちゃん、紺のお友達なんでしょう? 滅多に頼みごとなんてしてこないあの子が、あんまり真剣だったものだから」


 私は、その言葉に衝撃を受けた。

 

 ――紺ちゃんが口添えを?

 

 初耳だ。

 今の話だと、私とまだ出会ってもない時期に、根回ししていたことになる。


「紺の言ってたことは正解だったなあって、すぐに思ったわ。ましろちゃんは努力できる才能を持った子だから、どんどん上を目指せると思う」


 優しく微笑み、亜由美先生は私の両手を取った。


「一日4時間くらい練習してるんだよね。週末はもっと、かな。練習始める前と終わった後はしっかりマッサージして、腱を痛めないようにしてね」


 白魚のように美しい手が、宝物を扱うかの様に私の手を包む。


「はい」


 胸が詰まって、そう答えるのが精一杯だった。


 

 レッスン室を出てサロンに入ると、すでに紺ちゃんはそこにいた。

 今日は黒の半袖ワンピース姿。髪はハーフアップに纏め、赤いリボンを結んでいる。これぞお嬢様という見本のような出で立ちで、紺ちゃんは楽譜を広げていた。


「紺ちゃん、こんにちは」

「ましろちゃん! こんにちは」


 紺ちゃんは私を見る度、すごく嬉しそうな顔をする。


「今日こそもっと早く来ようと思ったのに、遅れちゃった。……あ~あ。ましろちゃんとのお喋りタイムなしなの、つらい」


 唇をきゅっと引き結ぶ仕草は、目が潰れそうなくらい愛らしい。

 紅さまのお気持ちお察し致します! 

 こんな可愛い妹がいたら、そりゃシスコンにもなるわ。


「先生のコンサート、紺ちゃんも行くでしょ? その前に、一緒にお買いもの行かない? 先生に何か当日プレゼントしたいなと思っててさ」


 コンサートへの差し入れはお花が定番だけど、先生のところには物凄い量の花束が届くだろうから、違うものを持っていこうと考えてる。

 小学生のお小遣いで買える花束なんて、たかが知れてるし。

 本当は一人で行こうと思ってたんだけど、がっくりしている紺ちゃんを笑顔にしたくて、提案してみた。

 転生者同士、もっと仲良くなりたいな~という気持ちは元から持ってる。

 

 そういえば紺ちゃんって、前世の話を全くしてこない。

 どうやってあの『ボクメロ』をクリアしたのかとか、前はどんな生活してたのかとか、聞きたいことは山ほどあった。


「え? いいの?」


 紺ちゃんは予想以上に喜んで、私を驚かせた。


「じゃあ、明日電話してもいい? 詳しい日時とか、どこへ行くかとか色々決めよ!」

「分かった……ってたまには私からかけるよ。いっつも電話して貰ってるし」


 固定電話との通話料って、馬鹿にならない気がするんだよね。


「ふふ。気にしないで、ましろちゃん。ほんと、律儀だよね」


 その時、チリとまた頭にかすかな電流が走った。

 どこかで聞いたことのある言い方。なんだかすごく懐かしいような――。


 『……は律儀だよね。真面目過ぎるとも言うけどさ』


 なに、これ。

 すごく、胸が痛い。

 

 誰だった? そんなことを私に言ったあの人は。

 頭の中が途端に靄のような困惑で、覆い尽くされる。


「紺? 入っていいわよ」


 遠くから、亜由美先生の声がする。

 その声を合図に、パチン、と膨らみかけた風船が割れる。ハッと意識が現実に引き戻された。

 

「……ましろちゃん? 大丈夫?」


 すぐ目の前に紺ちゃんの不安げな瞳がある。

 

「平気、平気。なんかボーッとしちゃった」


 紺ちゃんは名残惜しそうに私を振り返りながら、レッスン室へ入っていった。


 迎えにきてくれた母さんの車に乗りこみ、傾きかけたお日様の光に目を細めた瞬間、私は違和感の原因に思い当たった。


 ――もしかして前世の記憶が、薄れかけてない?


 『ボクメロ』に関してのあれこれだけを鮮明に残したまま、他の記憶がほとんど消えかけていることに気づき、愕然とする。

 あれ?

 私ってどこに住んでたっけ? 

 どんな家だった? 通ってた学校は? 仲の良かった友達は?


 母さんと父さん、お姉ちゃんの名前は? 顔は? ……私の、名前は?


「――っ!!」


 たまらず、両手で顔を覆う。


 どうして? いつから?


 前世の記憶を取り戻してすぐは、あんなに鮮明に思い出せてたのに!


「ましろー? 気分悪いの? 酔っちゃったのかしら。窓を少し開けるわね」


 運転席の母さんの声に、私は小声で「大丈夫」とだけ答えた。

 大好きな母さん。

 でも、同じくらい大好きだったはずのもう一人の母さんを、私はもう思い出せない。優しい人だったような気がする、くらいの記憶しか残っていない。


 家に着くと、そのまま二階へ駆け上がった。

 ベッドに倒れ込み、縋るようにべっちんを抱きしめる。


「いやだっ……こんなの……やだよ!」


 ボロボロと涙がこぼれてくる。

 嗚咽を噛み殺しながら、私はべっちんのふかふかのお腹に顔を埋め、泣き続けた。

 

 ごめんね、みんな。

 きっとこのまま全部、忘れてしまう。

 

 必死に掴もうとする思い出の残滓が、細かな欠片となって溶けていく感覚に、私はしゃくり上げた。


 せっかく前世の記憶を取り戻したのに、ちゃんと覚えていられないなんて。

 彼らを残して死んでしまった私は、どれだけの親不孝を重ねてしまうんだろう。

 

 沢山あったはずの家族の幸せな思い出は、まるで最初からなかったみたいに、私の中から消えた。

 忘れるのがつらい、と泣いた記憶さえ、どこにも残らなかった。




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