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それからというもの、私はピアノ教室に行くたびに……いや違う。サロンに出入りする度に、紅様がいるんじゃないかとビクビクする羽目になった。
今のところはセーフです。
早く中学生になりたい。そしたら、教室まで自転車で通ってもいい、というお達しが出ているから。サロンには寄らず、まっすぐ行ってまっすぐ帰ってやる。
蒼くんとは、時々歩道橋で会っている。
あの後、ちゃんとコートは買って貰えたみたいでホッとした。どうしても気になったのでコートのタグを見せてもらったら、アルマーニだった。キッズも扱っていることを私は初めて知りました。とほほ。
折り紙を久しぶりにせがまれたので、新作を渡してあげた。
「……これ、なに?」
「ヨルダンのペトラ遺跡だよ。オリベスクの墓のとこね」
アンコール・ワットを無事完成させた私が、今凝っているのは世界の遺跡シリーズだ。蒼くんは絶句していた。完成度の高さにだと思いたいが、セレクトのマニアックさにだろうな、多分。
そして三月。
6年生を送る会も無事終わり、学校の行事は一通り終了。春休みまであともう少しという日の夜、紺ちゃんから電話がかかってきた。
「……え? ええ~」
『だめ? 無理にとは言わないんだけど、出来れば一緒にどうかなって』
今度の日曜日、<春待ち祭>と銘打ったチャリティコンサートが開かれるらしい。そこに、どうやらトビー王子も来るらしい。
『初来日の有名なピアニストも参加するんだって。ほら、前にCDを貸してあげたヴァイオリニストもNYから久しぶりに帰国するんだよ。ましろちゃんの好きなパガニーニも演目に入ってるし』
「そうなの!? 聞きたい! ああ、でもなあ。……紺ちゃん、紅さまと一緒に来るんでしょ。それ私のイベントにもなっちゃうよね」
ノートにチェック済みの紅さまイベント【いつか聞かせて】が発生する恐れがあるのです。
紺ちゃんメモによると、一緒に音楽鑑賞をした後、『君のピアノもいつか同じホールで俺に聞かせて』と囁かれる甘いイベントらしいんだけど……。
正直、そんなセリフを今の紅さまが言うなんて、想像もつかない。
どんな衝撃的な出来事が起これば、そこまで態度が変わるっていうんだ。命を救ってあげる系かな? それにしたって「よくやったな、ボンコ」と軽く労われておしまいな気がする。
ん? ということは?
――私って、紅さまルートからすでに外れてるんじゃないの?
そこまで考えが及び、気持ちが浮き立った。
紺ちゃんにも確認してみると
『えーと。それは、その……』
困ったように口籠っている。
ほら! 私がすでにフラグを折ってて、紅さまとは結ばれないことを知ってるから、気の毒がってるんじゃないの、コレ。
「なぁんだ。良かった」
『ましろちゃん?』
「いいよ、分かった。チケット代はいつ渡せばいい?」
『チケットは招待券を貰ったから、お金はいらないの。でも、あの紅はね。なんていうか――』
「紅さまのことは気にしないで。前も言ったと思うけど、好きだった気持ちなんて、もう一ミリも残ってないから。……そっか。無料かあ。やったー! すっごく楽しみ!」
紺ちゃんが小さく噴き出すのが、受話器越しに聞こえてきた。
小さい子を慈しむような、そんな優しい笑い声。
突然、ズクン、と胸の奥が痛む。
なんだろう、今の。すごく、なつかしいような――。
大切な何かを思い出しそうになったのに、その淡い光はあっという間に掻き消えてしまう。
『じゃあ、当日芸術ホールの前で待ち合わせね。チケットは私が持ってるから、時間に遅れないでね』
「……え? ああ、うん。いろいろありがとう。楽しみにしてるね!」
一瞬ぼんやり意識を飛ばした私だったが、紺ちゃんの言葉で我に返る。
なんだったんだろう、今の……。
気になるけど、どうにも出来ない。大事なことなら、そのうち思い出すでしょう。
その時感じた既視感を、私はすごく軽く捉えてしまった。
日曜日の件を次の日の朝食のテーブルで家族に伝えると、花香お姉ちゃんが母さんの方を向いた。
「この間と同じワンピースじゃ、ましろが可哀想。新しい服を買ってあげてよ、母さん」
「そうね。いつも花ちゃんのお下がりばっかり着せてるもんね」
父さんが2人の会話にしょんぼり項垂れる。
「ごめんな、ましろ。冬のボーナス、思ったより少なかったから」
「ちょっと待ってよ!」
そんなつもりでコンサートの話をしたんじゃないのに。
唖然としていた私は、ようやく話に割り込むことが出来た。
音楽を始めたのは、思い出すのも恥ずかしい不純な動機からだ。そりゃ、今は違うけど。
でも、出来るだけ親に負担をかけたくないからこそ、中学は公立でいいと思ってるし、青鸞は奨学生制度を狙っている。
服なんて、清潔だったらそれでいい。
「いらないよ? お姉ちゃんのお下がりでも何でもいいよ。まだ新しいし、可愛いし」
「私がヤダ」
珍しく花香お姉ちゃんは引かなかった。
「夏のバイト代、まだ残ってるし、それ使ってもいい?」
海の家で短期のバイトをした花香お姉ちゃん。
そこで今の彼氏さんと知り合って、一石二鳥だったと笑っていたことを思いだす。
「しょうがないわね、そこまで言われちゃ。じゃあ、半分は家計から出すわ。土曜日、2人で選んでらっしゃい」
「やっり~! 母さん、大好き! ましろ、土曜日は絶対、本屋も図書館もなしだからね?」
パチン、とウィンクを飛ばしてくるお姉ちゃんに、喉がぐっと詰まった。
じんわり涙が浮かびそうになり、慌てて食事に戻る。
「……ありがと。お姉ちゃん」
ようやくそれだけ言えた。父さんが先に涙を拭っていた。
そして土曜日。
電車を乗り継ぎ、都内のデパートまでやって来ましたよ。
私は駅前のショッピングモールでいいって言ったのに、花香お姉ちゃんが許してくれなかったのだ。
その情熱を、ほんの少しでいいから勉学に向けてはどうだろうか。
着せ替え人形のように、あちこちで試着させられ、ようやく決まった時には軽く眩暈がした。
着てー脱いでー着てー脱いでー。
最後の方は、いっそ下着姿で店内をうろつきたい程だった。
「とってもお似合いですよ! いいねえ、素敵なお姉ちゃんに連れてきてもらえて」
売り場のお姉さんは微笑ましげに目を細めた。
花香お姉ちゃんも「一番似合う!」と喜んでいる。かわいい。うちの姉がこんなに可愛い。
それからデパ地下のカフェで、お茶して帰ることになったんだけど、私は聞かずにはいられなかった。
「お姉ちゃん、お金大丈夫なの? 値札見てびっくりしちゃった。夏のバイトってそんなに割が良かったの?」
「ううん、普通。でも全額残してあったからさ」
お姉ちゃんはニヒヒと笑った。
グロスで艶々の唇が愛らしくカーブを描く。
「バイト自体、いっつも頑張ってるましろに何か買ってあげたいなーって思って引き受けたんだ。だから使い道的にはオールオッケーなわけですよ。ましろは気を遣い過ぎ。もっと、大人に甘えな」
前世の私と同い年のお姉ちゃん。
向こうの世界で私は、そこまで家族思いだっただろうか。
堪えきれず、ぽたり、と溢れさせた涙を見て、お姉ちゃんはわたわたし始めた。
「えー、泣かないで、ましろ。私まで泣けてくるじゃない。今日はウォータープルーフのマスカラじゃないから無理!」
まっさきにお化粧を気にするお姉ちゃんに、泣きながら笑ってしまった。
大好きなお姉ちゃん、待っててね。
いつかきっと、私が妹で良かったと思わせてみせるから。
帰り道、お姉ちゃんと仲よく手を繋いで駅を降りたところで、蒼くんを見かけた。
蒼くんは、綺麗な女の子と一緒にいた。
予想もしてなかったショックが、私を襲った。
呆然と立ち尽くし、彼らを目で追う。
「どうしたの? ましろ。知ってる子?」
バランスの取れた等身の蒼くんの隣に並んでも、全然見劣りしない女の子だった。
オレンジ色の髪は日光をキラキラと反射しながら、まっすぐに背中まで伸びている。
蒼くんは無表情のまま、その子と並んで歩いていた。いつもの笑顔じゃないことに、少しだけホッとした。
一番堪えたのは、その少女も一目でどこかのお嬢様と分かる恰好をしていたこと。毛皮のショートコートだよ? しかもフェイクじゃないっぽいやつ。
蒼くんとは住んでる世界が違うんだ、と改めて突き付けられた気がした。
「ううん。違った。……いこっか」
「ましろ」
「うん?」
「帰ったら、ましろのピアノ聞きたいな。今、練習してるやつ。花の歌だっけ? あれ、好きなんだ」
華やかな三拍子のリズムに上手く乗れるか、今は自信がない。
だって、今日は14日。ええ、ホワイトデーです。
「――お姉ちゃん、今更だけど、彼氏さんは今日、良かったの?」
「あいつの話はやめて」
ドスの効いたお姉ちゃんの返事に、私は無言に戻った。
フラレ姉妹か。語感は、いい。




