最終回.音楽で乙女は救えない
生温い水の底に横たわっていた。
そのままそこにいたいくらい安心しきっていたのに、誰かが両腕を持ち上げ強く引っ張る。
ゆったりとした浮遊感の直後に襲ってきた急落。
私は大きく息を飲んで目を開いた。
10センチくらい物理的に飛び上がったんじゃないかと思ったけど、実際は手足が軽く痙攣した程度だろう。
見慣れない天井をじっと見つめているうちに、少しずつ意識がはっきりしてくる。
見慣れないわけではなく、あまりにも久しぶりなので感覚に馴染めないだけだ、と飲み込めた頃には全てを思い出していた。
「花ちゃん、起きてる?」
遠慮がちなノックの音と共に、くぐもった女性の声が聞こえる。
とっさに返事が出来ずにいると、彼女は今度はもう一度強めに扉を叩いてきた。
しばらく使っていないのか、喉がスムーズに動かない。嗄れた声に自分でも驚き、何回か咳払いすると、ようやく『竹下 花香』の声になった。
「うん。起きてるよ」
「渋滞してるといけないから、9時には出たいって父さんが言ってるの。……一人で大丈夫? 夕方までには戻る予定だけど」
私はベッドから降りると、ほんの少しだけ開けられたドアノブを引いた。扉の向こうで息を潜めるように中の様子を伺っていた母が、思わぬ娘の行動に驚いて一歩後ずさる。
黒のツーピースを身に纏った母は、すっかり痩せてしまっていた。ファンデーションを濃く塗り重ねているのは、落ち窪んだ頬や目の隈を隠す為。
向こうの世界の母とのあまりの違いに、膝をつきそうになる。
ユーモアに満ちた光は消え、怯えと絶望が彼女の昏い瞳を彩っていた。
里香ではなく私が、ここまで彼女を追い詰めたのだ。
「おはよう、母さん。私の喪服って、クローゼットの中にあったっけ?」
「え……でも……」
「大丈夫。里香の一周忌だもん。ちゃんと出るよ」
「――花ちゃん」
ぐっと喉をつまらせ、母は何度も唇を舐めてなにか言おうと試みた。
結局諦め、軽く頷いて「喪服は一階の和室に出してあるから、先に朝食を食べちゃいなさい」と弱々しく微笑む。
私は母の肩に手を回し、あの子にしたようにぎゅっと抱き寄せた。
万感の想いを指先に込める。
高校生の真白ちゃんよりも頼りない骨ばった感触に、私の双眸からは熱い涙が滴り落ちた。
「長いこと心配かけて、本当にごめんなさい。もう、大丈夫だから」
「……あ、あなたまで」
母はとうとう声をあげて泣き始めた。
せっかくのメイクが台無しになってしまう。近くにあったティッシュ箱から、もぎ取るように何枚かのティッシュを引き抜き、母は乱暴に目元を押さえた。
「あなたまで、失うかと、思ったっ」
母の声は激情に震えていた。
無理もない。
私は里香がマンホールに落ちて即死した後、廃人同然の生活を送っていたのだから。
『医療費もバカにならないし、4年もいらないでしょ。あの体はもう空っぽだ』
あの男はそう言ってわざとらしく腕組みした。
『さて、どうしよう。勝者の君に任せるよ。どの時間まで送ればいい?』
私はしばらく考え、事故のちょうど一年後の日付を告げた。
あの子が息を引き取る場面に立ち会うことも候補にいれたが、すぐに無理だと思い直した。
ついさっきまで手の届くところにあった柔らかな頬が。涙でぐちゃぐちゃになった瞳が。
かたく冷たくなっていくところなんて、直視できるわけがない。頭がどうにかなってしまう。
一周忌ならまだ耐えられそうだと判断したのだ。
母を支えながら歩こうとして一歩を踏み出し、よろめいたのは私の方だった。
気持ちはしゃんとしているのに、不眠と拒食で痛めつけた体が思うように動いてくれない。鏡を見るのが怖いな。苦々しい気分でひび割れた唇を噛み、何とか両脚に力を込める。
階段を下りたすぐのところで、一体何があったのかと待ち構えていた父は、私と母を目にした途端、男泣きに泣きはじめた。
里香が運び込まれた病院でさえ、懸命に歯を食いしばり涙を見せなかった父だった。
悲しいことも楽しいことも、いつも4人で分け合ってきた。
ふざけて毛玉みたいに固まって、最後には大笑いして。
永遠に戻らない一人分の隙間を空け、私達三人はしばらく抱き合ったまま泣いた。
◇◇◇◇◇
法事には、里香の親しい友人たちも駆けつけてくれた。
大学生になった彼女らは化粧も上手くなり、大人の女性のように黒の礼服を着こなしている。
生きていれば、里香もこんな風になったのかな。
眩しそうに目を細めぽつりとこぼした母に、私はにっこり笑ってみせた。
「生まれ変わったら、うんと素敵な女の子になって、みんなに愛されて、キラキラ輝いてるに決まってるよ」
「そっかー。決まってるのか」
鼻先を真っ赤にした母が、つられたようにクスと笑う。
私は自信満々に頷いた。
「うん。だって私たちの里香だもん」
そうだな、と父さんも笑った。
一周忌なのに不謹慎だと父方の叔父は怒っていたそうだけど、私たちまで死にそうな顔をしてたら、あの子は困ってしまうだろう。
真新しい墓の側面には、里香の名前と享年だけが彫られている。
腰をかがめ、十八という数字を指でなぞると、参列していた人々からすすり泣きが漏れた。
多分、私と母がみっともないほど痩せてるせいだと思う。何をやっても同情の眼差しで見つめられるので、かなり居心地が悪かった。
確かに里香はもうここにはいない。
別の世界へ転生だなんて嘘みたいな話だし、誰に打ち明けても夢でも見たんだろうと哀れまれるに違いない。
だけど、つい数時間前まで、私はあの子をこの目で見ていた。
ねえ。そうだよね?
私の身勝手な願望じゃなくて、真白ちゃん達はきちんと存在してたよね?
会食を終え、引き物を配った後、散会となった。
親戚らと共に自宅に引き上げようとする両親に、後から一人で帰る、と告げる。
驚いたように目を見開き、それはだめだと首を振る彼らの気持ちも分かったが、私には最後のけじめが残っていた。
「後追い自殺なんてしないから。里香の分まで親孝行するって約束したの。だから、大丈夫」
誰と約束したのか、と尋ねる代わりに、母は小さく溜息をついた。
「……出てすぐのところに喫茶店があったでしょう? 青い屋根の。あそこで母さん、一時間だけ待ってる。花ちゃんを信じてないわけじゃないよ。ただ、あなたの体調が心配なの。分かって」
親戚だけを先に帰すわけにはいかないから、と、何度も後ろを振り返りながら父さんはタクシーに乗り込んでいった。
閑散としたお寺の境内は、冷え冷えと静まり返っている。冬ならではの高い空は、大聖堂へと向かう道で見上げた空と同じ色をしていた。
美登里ちゃん。栞ちゃん。上代くん。蒼くん。そして、紅。
みんな私のことを忘れてしまった。成田の両親も玄田の両親も、亜由美先生も、水沢も能條も。
失ったものはそれだけじゃなかった。
私の指はもう二度と、あそこまで完成されたピアノ曲を奏でることはない。大人になってからだって、ピアノは始められる。技巧よりも感情表現を要求される楽曲ならば、紺よりも上手く弾けるようになるかもしれない。だけど、真白ちゃんのように聴衆の前でラフマニノフのコンチェルトを高らかに歌い上げることは、一生ないだろう。
私には私の。彼らには彼らの人生がある。
交わったこと自体、最初から奇跡だった。
それでいい、と思えるのは心の支えがあるから。
真白ちゃんの叫んだ最後の言葉が、私を救ってくれた。
前作主人公ルートを真っ先にクリアした特典だね、とあの男は嘯いた。
忘れないでいることの方が辛いに決まってるのに、真白ちゃんは迷わず選んでくれた。
あの世界でたった一人。誰とも分かち合うことの出来ない思い出を、一人でも抱えて生きていくと言ってくれた。
私はコートの襟をかきあわせ、再び里香のお墓へと足を向けた。
――『アフターケアまでがワタシの売りなんだ。キミにひとつ、新しい希望をあげよう』
意地悪そうにほくそ笑み、あの男は金髪をかきあげながら私を見おろした。
――『全部終わった後、お墓に行ってごらん。もしトモイの心がハナカ。キミから一度たりとも動いていなければ、カレはそこにやって来る。トモイにはあるものを託しておくよ。無事、受け取れるといいね』
いなくてもしょうがない。
ううん、いないに決まってる。
責めるどころか、落胆することさえ図々しい。
一方的に別れを突きつけてから、もう二年が過ぎているのだ。
友衣は責任感が強かった。今だって心のどこかでは、私達姉妹のことを気にかけていると思う。
だけどそれはもう、一種のノスタルジーへと変質しているだろう。
楽しかったな、と時折押入れの奥から引っ張り出し、眺める古いアルバムが私たちだ。
――『希望じゃなくて賭けじゃないの。行かないかもしれないわよ』
私が放った精一杯の強がりは、鼻で笑われ流された。
――『いいや、キミは行くね。キミほど一途な子をワタシは知らない。キミが男として愛したのは後にも先にもトモイだけだ』
全く残念だよ。トビーだってすごくいい男だっただろう? どうかしてる、とぶつぶつ呟く様子は酷く人間臭かった。
玉砂利を踏んで、お墓の前に立つ。
予想通り、そこには誰もいなかった。
待っても仕方ないと分かっているのに、足が動かなかった。
友衣の心には、もう別の誰かが住んでいる。
いなくて当たり前なんて云いながら、醜くも期待していたのだとその時初めて気づき、私はふらふらとしゃがみこんだ。
大好きだった。
こんなに好きになれる人はもういないかも、なんて高校生の分際で分かったようなことを呟いた日もあった。
あちらの世界で、花香さんに焦がれるような眼差しを向けていた友衣が、記憶の中の最後の彼だ。
もっと違う友衣を思い出したいのに、私の古びた脳は、頑なに同じ光景だけを反芻する。本物の友衣を見たのは、ざっと20年も前のこと。
立ち上がらなくちゃ。
母さんのところへ戻らなくちゃ。
細々と息を吐き出し、膝を伸ばした瞬間。
強烈な立ちくらみが襲いかかってきた。
地面と空が反転する。
ふわりと宙に舞う自分の黒髪が目に入った。
次にやってくるはずの強い痛みを覚悟し、目をきつく閉じたのだけど、温かなぬくもりがすんでのところで抱きとめてくれた。
「……え」
「馬鹿じゃないのか。こんなに痩せて」
ああ、そうだ。こんな声だった。
全身の細胞が歓喜の声をあげている。
ゆっくり瞼を開くと、黒いジャケットに黒いネクタイ。次に、記憶の中の彼より少し若い、友衣の強い眼差しとぶつかった。
「久しぶりなのに、第一声がそれ?」
「他に何を言えばいい。……頼む。これ以上は、勘弁してくれ」
どれだけでも、俺を憎んでいいから。
友衣は思い詰めたように、何度も「自分を責めるな」と繰り返した。その台詞、謹んでお返ししたい。
里香が死んで、まだたった一年なんだ、と改めて突きつけられた気分だった。
「――トモ」
久しぶりに口にした愛称に、彼は信じられないものでも見たかのような表情になる。
そのびっくりした顔、大好きだったよ。だからしょっちゅう、悪戯を仕掛けて驚かせようとしてたの、覚えてるかな。
「本当にごめんね」
「なにが」
苦しげに顔を顰めた友衣の言葉は、ほとんど声にはなっていなかった。
「一人にしちゃって、ごめん」
友衣は返事の代わりに、きつく私を抱きしめてくれた。
懐かしい清潔な香りを、胸いっぱいに吸い込む。
友衣は、来てくれた。
私を想い続けていてくれた。
こんなことがあっても、いいんだろうか。
幸せ過ぎてとても現実だとは思えなかった。
ようやく立てるようになり、時計を確認する。
もうじき約束の一時間だ。
母が喫茶店で待っていると話すと、友衣はそこまで一緒に行くと言ってきかなかった。
「あ、そうだ」
お寺の門を出たところで、友衣はコートのポケットをまさぐった。
「寺の境内で、えらく派手な金髪の男に出くわしてさ。花香の落し物だって預かったんだけど」
あれって、知り合い?
不安げな声に混じる隠しきれない嫉妬に、私は笑みを抑えきれなかった。
「多分知り合いだけど、トモの心配するような相手じゃないよ」
「そう、なのか」
それ以上踏み込んでいいものかと俊巡し、友衣は一旦棚上げすることに決めたらしい。
「まあ、いいや。会えなかった間の話は、これからいくらでも出来るしな。ほら、これ」
友衣の手にあったのは、グランドピアノの形の陶製のジュエリーケースだった。私が間違うはずない。だってこれは――。
『うちら3人から、紺ちゃんへ。気に入ってくれると嬉しいな』
栞ちゃんのはにかんだ笑顔が、まざまざと脳裏に蘇る。
そこからは堰をきったかのように、あの日のやり取りが再現されていった。
『いつもはもっと早いんですー! 紺ちゃんへの贈り物だし、一番ぴったりくるのを選びたかったんだもん』
美登里ちゃんがからかって、唇を尖らせた真白ちゃんが、瞳を輝かせながら私を見たんだった。
忘れてない。
私も、忘れないよ。
「花香?」
「失くしたくない、すごく大事なものだったの。取り戻せて、本当に良かった」
震える指で、キンと冷えた裏のネジを巻いていく。
手を離せば、甘やかな金属音が「亜麻色の髪の乙女」のメロディを鳴らした。
向こうの世界で泣いたり笑ったりしながら懸命に生きた玄田 紺の戦利品からは、あの日と同じ音がした。




