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蒼くんは結局、夕方遅くまで家にいたので、パートから戻ってきた母さんと遭遇してしまった。
「ただいま~。え? あ、あら! ま、ましろったら、面食いだったのね! なんて可愛い子なの~!」
挨拶を先にせんか。
蒼くんは、アイドルを街で見かけたファン状態の母を見ても全く動じなかった。
「初めまして。青鸞学院三年の城山 蒼といいます。真白さんとは仲良くさせて頂いてます。今日は突然、お邪魔してしまってすみません」
こちらがギョっとするほど丁寧な挨拶をしてくれたのだ。
蒼くんの洗練された振る舞いのせいで、余計に母さんの残念っぷりが際立ってしまっている。
私が物凄い目付きでガン見しているのに気付いたらしく、慌てて「あ、アハハ。こちらこそ、よろしくね。ましろの母です」とやり直してくれた。
いや、母さんの気持ちはよく分かるんだよ?
蒼くんって、ちょっとびっくりする程の美少年なんだもん。
もう暗くなってきたから、と母さんの軽自動車で、蒼くんを送っていった。
想像以上のでっかい家でした。はい。門扉なんて、二人ががりじゃないと開けられそうにない感じ。
あっけにとられて大邸宅を見上げていた私を振り返り、蒼くんは苦笑いを浮かべた。
「また、うちにも遊びに来て。アイツは滅多に家に戻ってこないから、のんびり出来ると思うし」
アイツ、というのは継母さんのことだろうか。
そこだけ吐き捨てるような口調になる蒼くんに、胸が痛くなる。いつもみたいに笑って欲しくて、私は軽く頷いた。
「うん、いいよ」
「やった! 約束な、マシロ」
途端に全開の笑顔になった彼は、続けて言った。
「あ、たまに紅も来てるんだ。紅とは仲直りしたんだろ?」
「げっ」
「げ?」
「げ、げんかん、でっかいね! あははは」
前言撤回。
蒼くんの家には、何があっても行くまい。
不審そうに首を傾げてる彼を「寒いから、早く中に入れ」と追い立てて、手を振った。
車で待っていた母さんに、質問攻めにされたのは言うまでもない。
その日の夕食は散々だった。
「ど、ど、どうやって知り合ったの? と、父さんに教えてごらん」
「お金持ちで、ルックスはアイドル並みで、しかも礼儀正しいって、3冠王じゃん。マシロやっる~! ふう~!」
どもる父さんを、ひたすらお姉ちゃんが煽る。
「私が帰ってきたらね、ソファーに並んで仲良さそうにお喋りしてる2人がいたのよ。びっくりしちゃった。最近のましろ、全然お友達と遊んでなかったし」
「もう、ママのお邪魔虫! で、どこまで進んじゃってるわけ? ましろ、お姉ちゃんより先に大人にならないでね」
かたん、とお箸をうさぎ型の箸置きに戻す。
私の表情を見て、みんなが急に口を噤んだ。
「父さん、動揺し過ぎ。お姉ちゃん、うるさい」
「いや、でも、小学生の娘がボーイフレンドを初めて家に連れてきたんだぞ? これは、かなりショックというか何というか」
父さんが果敢に言い募ろうとしてきたが、お姉ちゃんにツンツンと袖を引っ張られ、途中で喋るのを止めた。
「ボーイフレンドなんかじゃないっ! ぜーったい、違うんだから!」
トキめいたりしてない。可愛いなとか、寂しそうなの見たくないなとか。
……ないったら、ない!
「ごちそうさまっ」
私はお皿とお茶碗を台所に下げ、そのまま二階へ駆け上がった。
「……ましろも、お年頃になったのかしらねえ」
「ううう。父さん、淋しい」
「ましろってば、ツンデレだったのね」
聞こえてるんですけど!?
次の日は、木曜日。ピアノのレッスン日だった。
練習を重ねれば重ねるほど、自分の指が意思通りに動いていくようになるのが分かる。元々、指先を動かして何かをするのは好きだった。ピアノに向いていたのかもしれない。
「はい。今日は、ここまで。……ましろちゃん、めきめき上達してるわね。先生、嬉しいです」
私が音楽学校を目指していると知って以来、亜由美先生が手放しで褒めてくれることは滅多にない。なので、その一言がジーンと胸に沁みた。
「練習曲ばかりじゃ、イヤになってこない? 何か弾いてみたい曲があるなら、並行してチャレンジしてみようか」
先生はグランドピアノから離れ、楽譜が並んでいる本棚に向かった。
「ましろちゃんの今のレベルなら、そうね。エリーゼのために、花の歌、あたりかしら」
「あ、じゃあ花の歌を弾いてみたいです」
即答した私を、亜由美先生は目元を和ませ振り返った。
「エリーゼのために」もいい曲だと思うんだけど、物悲しい感じが少し苦手。もっとパアッと明るい曲の方が好みだ。
「そうね。マシロちゃんらしいわ。じゃあ、新しい楽譜を買ってもらおうかな。せっかくなら色んな曲に挑戦した方がいいし、これなんてどう?」
先生の見せてくれた楽譜集は<ソナチネ・ツェルニー併用曲集>と書いてあった。花の歌だけじゃなくて、他にも沢山の有名なピアノ曲が入っている。
「はい! 頑張ります!」
「ふふ。ましろちゃんの凄いところは、それが口だけじゃないところだね。頑張るっていう言葉ほど、言うのが簡単で実行するのが難しい言葉はないって、先生は思うな」
新しい楽譜をそっと私の手の平に乗せ、亜由美先生はニッコリ微笑んだ。
「忘れないで、ましろちゃん。頑張っても手が届かないって悲しくなった時は、その頑張りがほんのちょっと足りてないだけなんだって。生まれ持った才能なんて、積み上げた努力の前には大した意味は持たないものよ」
先生の言葉には、実感がこもっていた。
私は力強く頷いた。才能がない、なんて嘆くことが許されるのは、気の遠くなるほどの努力を重ねた人間だけだ。
私は、まだ入り口に立ったばかり。先は遠く、かすかな光すら見えない。
でも、このまままっすぐ進んでいくしかない。ううん、進みたい。
レッスン室を出てサロンに戻ると、そこには紺ちゃんがいた。
ソファーに腰かけ、楽譜を読み込んでいる。膝の上に乗った指は、めまぐるしく動いていた。
その瞬間、雷に打たれたみたいに私は気づいた。
――私と紺ちゃんは、ライバルなんだ
美しく整った彼女の横顔は、怖いくらいの真剣さをたたえている。
私が入って来たことにも気づかないくらい、紺ちゃんは集中していた。
「紺? あなたの番よ」
亜由美先生の声が遠くから聞こえ、紺ちゃんはハッと目を上げた。
「あ、ましろちゃん。お疲れ様」
ふわり、と微笑み、彼女はいそいそと楽譜を小脇に抱え、立ち上がる。
すれ違った瞬間、紺ちゃんは私と目を合わせ、強い意志の光を瞳に宿した。
無言のライバル宣言を、私も正面から受け止めた。
その後、サロンで母さんのお迎えを待っていると、紅さまがやって来た。
「こんにちは」
「久しぶりだな。レッスンは終わったのか?」
「うん、今終わったとこ。迎えが来るまで、ここで待たせてもらうね」
「俺に断ることないだろ」
彼と顔を合わせるのは、オペラ鑑賞以来。
かなり気まずいけど、会ってしまったものは仕方ない。亜由美先生は紅さまと紺ちゃんの従姉なんだし、彼がここに来るのだって不自然なことじゃない。
この間のことを気にしているのは私だけかも。そう思ってしまうくらい、紅さまは堂々としていた。……こんな大人びた小学生、嫌だ。
この先も、こうやってちょくちょく接触してしまうのかな。
考えるとかなり気が重くなったけど、亜由美先生から離れるつもりはない。
会話が途切れ、沈黙が二人の間を支配した。
気を紛らわせる為、受け取ったばかりの新しい楽譜集を広げてみる。
他にどんな曲が載ってるのか、みてみようっと。パラパラめくっていると、すぐ近くで柔らかい声がした。
「もうこんなとこまで進んでるのか」
気づけば、紅さまが私の座っているソファーのすぐ脇に立っている。
け、気配を消せる、だと!? もう本当に勘弁して下さい!
盛大にビクついている私には気も留めず、紅さまは楽譜に視線を走らせた。
「……うん。あ、でも今日もらったばかりだから」
「ふうん。ピアノ、ド素人だったんだろ?」
「そうだね」
紅さまは何かを思案するように、綺麗な手を顎にもっていった。
そんな仕草もいちいち決まってる。本当に憎らしいったら、ない。
「努力するやつは嫌いじゃない」
突然ぽつり、とそんな言葉が落ちてきた。私はポカンと口を開けた。
は? 今、なんて?
「でも、紺のレベルの足元にも及んでないぜ? ボンコ。負け戦と分かってて、このまま続けるつもりか?」
むっかー。どうやら、今度は上げて落とす戦法らしい。
ニヤリ、と笑みを浮かべた紅さまを見上げ、私は挑むように言ってやった。
「負け戦かどうかは、まだ分からないでしょ」
そのまま視線を外さない。バチバチ、と見えない火花が2人の間に散っている気がする。
こっちからは、絶対に目を逸らさないんだから!
「ましろー。迎えにきたわよ」
その時ガチャリ、とサロンの大きな扉が開いた。
のんきな表情の母さんに、緊張の糸が切れる。
紅さまを見て、母がまたもやミーハーなファンに成り果ててしまったら目も当てられない。私は慌てて立ち上がった。
「ありがとう。じゃあ、帰ろ」
紅さまが視界に入らない様に母さんの目の前に立ち、ほらほら、と急かした。
「つれないね、ましろ。お母様なんだろう? 紹介してくれないの?」
――この悪魔め!
スッと立ち位置をずらし、紅はにこやかな笑みを浮かべ、母さんに向き直った。
「あら? あら~! なんて素敵な子なの!」
「ありがとうございます。成田 紅といいます。初めまして」
どいつもこいつも、何なの!
初対面の大人にそつなく挨拶するのは、セレブ学校の必修事項か。全国の小学三年男子に謝れよ!
私がギリギリと歯を食いしばるのを見て、紅さまはそれは楽しそうに微笑んでいる。
大輪の薔薇を思わせるその微笑に、母さんは感嘆の溜息をもらした。
「そうだ、これ」
紅さまはおもむろにジャケットから何を取り出した。
「以前、真白さんにお借りしたんです。本当なら、新しいものを買ってお返しするべきなんでしょうが、愛着のあるものだったらいけないので。……あの時は、本当にありがとう、真白」
ハンカチだった。なんの変哲もないチェックのハンカチ。
「まあ、ご丁寧に。こちらこそ、綺麗にアイロンまで掛けてくれて、ありがとう。……どうしたの? ましろ」
手を出そうとしない私を、母が怪訝そうに見てくる。
私は、ひったくるようにして紅さまからハンカチを受け取った。
待ってる間だって、ハンカチを返す暇はあったくせに。母さんが来るのを狙ってたに違いない。
「どうも! さあ、いこ!」
まだ紅さまに見惚れている母さんを、強引にサロンの外へ押し出した。
私たちが帰った後、ヤツは一人で大笑いしてるに違いない。




