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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
159/161

50.目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

 寮祭が終わり、学内コンクールが終わり。

 声楽科と弦・管楽器科によるオペラコンサートが終わり、特別講習期間が終われば、クリスマスは目前だった。


 紺ちゃんとの別れは、刻一刻と近づいている。

 笑顔でさよならを告げられそうだと、雲ひとつない澄んだ空を飛ぶ鳥を眺められる日もあれば。

 なぜどうしてこんなの酷いと、水たまりに映りこんだみっともない自分の泣き顔を踏んづける日もあった。

 台風の日外に捨てられた新聞紙のように、私の感情は絶え間なくはためいていたけど、それでもこちらの世界に残る決意だけは揺るがなかった。紅や皆がいてくれたからだ。

 紺ちゃんは最後の日まで、毎日ニコニコ笑っていた。


 三年に一度のクリスマスミサの準備の為、演奏に関わる予定の学生は忙しそうだ。

 毎年恒例のクリスマスコンサートは、今年に限っては中等部と大学だけで開催されるので、必然生徒の関心はクリスマスミサに集まっている。

 在学中に一度しか開かれない大々的な催しということもあって、強制参加が決まっている声楽科の子達だけでなく、大勢の学院生が讃美歌隊として参加するらしい。

 寮でもその話題で持ちきりだった。

 そもそも、あの大きなパイプオルガンの音を聞くのは初めてという子ばかりなのだ。


 「ほんまに参加せえへんの?」


 暖房のよく効いた露草館の一階。

 窓際に陣取ってお昼ご飯を食べている途中で、栞ちゃんが不思議そうな顔で尋ねてきた。

 窓の外に見える空は曇天。いまにもみぞれ混じりの雪がちらついてきそうだ。


 「入学した頃は絶対私も参加する! って張り切っとったやん。メアリー・レイモンドのオルガンでバッハのカンタータを歌える機会なんて、もう一生あらへんで?」

 「そうよ、マシロもコンもどうかしてるわ。今からでもラティーナ先生に頼めば入れて貰えるんじゃないかしら。副科では最近ずっとあの曲をやってるのでしょう?」


 美登里ちゃんまで一緒になって勧誘してくる。

 世界的に有名なオルガン奏者であるメアリー・レイモンドの演奏は、私だって楽しみだよ。だけど、その日は。


 「大聖堂の座席に座って、綺麗なステンドグラスとか眺めちゃってさ。粛々とミサ曲を聞きながら祈りを捧げるのだって悪くないでしょ?」


 ホタテとチーズのリゾットをふーふー冷ましながら、私は肩をすくめてみせた。ポーカーフェイスの神さま。今だけでいいので、降臨してください。

 紺ちゃんは「私もゆっくり鑑賞したいからパス」と笑みを含んだ声で答え、スープカップに口をつける。

 こんな時、私は紺ちゃんを直視することが出来ない。

 どんな表情をしていても泣き出してしまいそうで、ひたすら目の前の皿に集中した。ホタテとブロッコリーを交互に食べていくには、ホタテを三分割する必要があるな。


 「まあまあ、ええやん。放課後一緒に練習行ったりして、思い出作りたいんは分かるけど、無理強いはあかん」


 上代くんがおどけた口調で調停してくれる。


 「そやかて、真白とは大学も一緒やからええけど、紺とは最後なんやもん」


 ふくれっ面になった栞ちゃんの言葉に、ドキンと心臓が跳ね上がった。

 ああ、栞ちゃん。ごめん。本当にごめんね。


 「もっとみんなで何かしたい~。このメンバーでいられるの、あとちょっとなんやで? 慎だって寂しい癖に!」

 「最近、お前はそんなことばっかり言うとんなあ」

 「冬は人肌恋しい季節だものね。恋人が物足りないから、友情に温もりを求めるんじゃないの、シン」

 「そんなわけあるかい! 俺らめっちゃ仲良しやのに。……え……ないよ。ないですよね?」


 栞ちゃんがわざと無言でいるもんだから、だんだん声が小さくなっていく。

 最後はお伺いを立てるように栞ちゃんをチラ見した上代くんの仕草がおかしくて、みんな一斉に吹き出した。私もクスクス笑いながら、そっと目尻を拭う。


 「どうしたの、真白」


 ほんの小さな変化も見逃さない紅の問いには、照れ笑いを浮かべてみせた。


 「笑いすぎて涙でちゃった」

 「そこまでツボらんといて!」


 上代くんのツッコミに、栞ちゃんが笑いながらごめん、ごめんと両手を合わせている。

 食事を終えトレイを下げようとテーブルを離れたところで、蒼が隣に並んできた。


 「またなにか悩んでる」

 「……悩んでるわけじゃないんだけどね。もう決まってることだから」

 「紅にも言えないこと?」

 「うん、ごめん」

 「謝るなよ。早く元気になって欲しいってだけで、これは俺の勝手なんだから」


 ぼそぼそと会話を続ける私達2人を振り返り、紅は「先にクラスに戻ってる」と声をかけてくれた。

 付き合い始めの頃が嘘のように、紅は蒼を警戒しなくなった。納得してくれたんだといいな。私にも、紅だけだって。


 露草館を出た途端、冷たい風が髪を巻き上げてきた。案の定、風花かざはなが舞い始めている。

 慌てて手に持っていたコートを羽織り、同じくコートを着込んだ蒼を見上げた。


 「別れって辛いね、蒼」

 「卒業の話?」

 「それもある。前に進まなきゃ何も始まらないって頭では分かってても、どうしようもなく胸がさ、ズキズキ疼いて話になんないんだよ」


 私の場合は、まだ事情も知ってて納得もしてる。

 蒼は、そうじゃなかった。幼い子供が母親を求める至極当たり前な愛情を切り裂かれ、一顧だにせず捨てられたのだ。どんなに苦しく、辛かったことだろう。

 

 「時間だよ、真白」

 「え?」

 「時間が経てばきっと、別れも仕方ないことだったって納得できる日がくる。自分がちゃんと幸せになれれば、の話だけど」


 蒼は幸せ?

 聞いてみたかったけど、それは私が口にしていい台詞ではない、と思い直した。

 いつか出会う蒼だけの運命の人が、彼に問うだろう。

 その時は教えてもらえると有難いです。大好きな友達の幸せを、私も心から祝福したいから。


 「今まで色々ありがとうね」

 「まだ気が早いし、それはこっちの台詞。ほら。凍える前に、行こうぜ」


 明るい水色の髪を揺らして、蒼が走り出す。

 太陽にキラキラ反射しながら落ちてくる雪の切片が入らないよう目を細めれば、世界はぼんやり滲んで揺れた。

 時間が優しくこの痛みを癒していってくれたら、どんなにいいか。

 忘れたくない。忘れたくない。忘れたく、ない。


 「紺ちゃん」


 呟けば記憶に刻めておけるとでも云うように、私は口の中で何度も彼女の名前を繰り返した。





◇◇◇◇◇◇◇◇



 25日は、珍しく快晴だった。

 ここ数年はホワイトクリスマスが続いていたのに、と栞ちゃんはちょっぴり不服そう。雪が特別好きというわけではなく、クリスマスに降るとロマンティックな気分になれるんだって。移動が楽でいいじゃない、と美登里ちゃんは明るく声をかけていた。

 聖歌隊に参加する2人とは、すぐに別行動になってしまう。

 私は朝から気分が悪くなるほど緊張していた。顔色が悪い、と心配する皆には「寝冷えしたのか、お腹の調子が悪い」と説明した。おかげで私は制服の下に、合計5枚の貼るカイロを装備する羽目になってます。手足は寒いが、腹だけが燃えるように暑い。


 「じゃあ、また後でね」


 興奮した様子で手を振る栞ちゃんと美登里ちゃんに、紺ちゃんはそれぞれ握手を求めた。


 「ん? なんなん?」

 「わあ、ドロップね」


 手を握った際、飴玉を渡したらしい。

 紺ちゃんは「それを私だと思って頑張ってきてよ」なんて言って、ふざけている。

 その声が微かに震えていることに気づき、危うく叫び出しそうになった。


 

 それから、ぞろぞろと大聖堂までの小道を移動していく学院生の中に混じり、大聖堂の入口で燭台を受け取る。どこでも自由に座っていいことになっていたのに、紺ちゃんはあえて最後尾へと回った。


 「紅。お願いがあるの」


 ざわめきと熱気で溢れかえった大聖堂の中、紺ちゃんの静かな声は異質だった。


 「真白ちゃんと、2人で聴きたい。私たちだけにしてくれる?」

 「……いいよ。じゃあ、また後でな」


 紅はなにか言いたげな蒼と上代くんを促して、前の方へと移動して行こうとする。理由を聞かれなかったことにホッとする一方、これでいいのか激しく不安になった。

 多分、これが最後だ。


 「紅!」


 気づけば、私は呼び止めていた。


 「ん?」


 事情を知らない紅が、優しく目元を和ませる。

 私たちの態度が普段と違うことには気づいているはずなのに、見守る立場にいようとしてくれることが嬉しくも、もどかしかった。

 だけど今更、何を言えばいいの。

 

 「兄さん」


 呼び止めたものの、一言も声を発することが出来なかった不甲斐ない私の代わりに、紺ちゃんが笑って言葉を紡いだ。


 「大好きよ」

 「ばーか。こんなところで何言ってるの」


 子供じゃあるまいし、と困ったように微笑む紅をこれ以上見ていられず、紺ちゃんの手をきつく掴む。


 「ふふ。クリスマスだから言ってみたくなったの。感謝してるって」

 「はいはい。続きはまた後で聞くよ」


 ひらひらと手を振って、紅たちが遠ざかっていく。

 殆どの生徒が席を決めたのを見計らって、紺ちゃんはこっそり私の手を引いた。


 連れてこられたのは、大聖堂の上段だった。

 開放されていないはずの場所に二人で潜り込み、先生たちに見つからないよう、しゃがみこむ。

 ぴったりくっつき、精巧で精緻な装飾がほどこされた大理石の手すりの隙間から、下を覗いた。


 「よく入り込めたね。途中のあの扉の鍵はどうしたの?」

 「理事長室からちょっと拝借しました」

 「は!?」

 「しーっ。静かに。真白ちゃん、終わったら見つからないように返しといて」

 「それ、どんなミッションインポシブル! 無理、無理」

 「じゃあ、後で鍵穴に差しっぱなしにしておきましょう」


 私たちは埃っぽい二階で息をひそめ、こそこそ耳打ちし合った。子供の頃の内緒話を思い出しながら、演奏が始まるのを待つ。

 やがて、荘厳なパイプオルガンの音が大聖堂全体を震わせ始めた。


 J・S・バッハ作曲 カンタータ140番 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ


 全7曲からなる伴奏付きの声楽作品で、バッハ自身がオルガン用に編曲し直した版もある。後者の方が今では有名かもしれない。

 イエスと神の国の到来を待ち侘びる人々の希望と成就がテーマの、晴れやかで明朗な曲だ。


 素晴らしいオルガン演奏と合唱の響く中、私は寒さでかじかむ指先に息を吹きかけながら、懸命に涙を止めようと努力した。

 紺ちゃんは長い戦いに勝利した。今日は、その勝利にふさわしい門出の日。

 ようやく自分自身の人生に戻ることが出来る彼女を、笑って見送ることだけが、私に残されてる祝福の手段だと分かってるのに。


 「うぅ……うっ……」


 押さえようとすればするほど漏れる嗚咽が、悔しくてたまらない。

 結局、何もしてあげられなかった。もらうばかりで、何も。


 紺ちゃんは黙って私の肩に手を回し、きつく抱き寄せてくれた。紺ちゃんの指も震えていた。

 この先、二度と触れることのできない温もりに縋り付き、何度も深呼吸を繰り返す。

 どのくらいそうしていただろうか。

 時間にすれば僅か二、三分だったかもしれない。


 「行こうか」


 聞き覚えのない柔らかな声に、ハッと顔をあげる。

 トビーそっくりの男の人が、いつのまにかすぐ傍に立っていた。

 こくん、と頷いた紺ちゃんの手をうやうやしく取り、そのまま階段を降りていってしまう。


 私は慌てて二人の後を追った。


 大聖堂の外に飛び出し、必死に紺ちゃんの背中を追いかける。

 追ってもどうにもならないとわかっているのに、足がとまらない。

 

 「真白!? どこへ行くんだ!」


 一階で演奏を聞いているはずの紅が、私を追ってやってきた。

 喉を鳴らしながら泣きじゃくっている私を背後から抱き締め、何があったのか何度も聞いてくる。


 50メートルほど離れた場所で、紺ちゃんはピタリと立ち止まった。


 「紺ちゃん! こんちゃんっ!」

 「ましろ、落ち着けって!……友達? うちの制服着てるけど、見たことないな」


 紅の言葉が信じられなくて、私は彼と遠い場所に立ったままの紺ちゃんを交互に見比べた。困惑しきった紅の表情に、膝が砕けそうになる。


 忘却が、始まっている。

 紅は忘れてしまった。

 最愛の妹をこんなにもあっさりと――。


 「いや、いやだっ! 忘れたくないっ!! お願いっ。忘れさせないでっ!!」


 地団駄を踏んで、天を仰ぐ。私に何かを望む資格はないのかもしれない。それでも叫ばずにはいられなかった。

 トビーそっくりの人は、何かを紺ちゃんに告げたようだった。

 紺ちゃんの表情が、みるみるうちに驚愕に染まる。


 私の方に一歩進みかけ、彼女は両手をぎゅっと握り合わせて、額に押し付けた。


 何かを必死に祈っているようなその姿を、食い入るように見つめる。

 邪魔な涙を払い落とそうとまばたきした、その直後。

 

 彼らがいたはずの場所には、もう誰もいなかった。


 

 私が目にした最後の紺ちゃんは、泣いていた。

 ボロ泣きしてても、やっぱりすごく綺麗だった。



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