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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
158/161

49.三年目の寮祭(後編)

 ほんの少し潤んだ瞳でこちらを見上げ、紅が口を開こうとしたタイミングで、本部からの呼び出しがかかった。

 イチョウの木にスピーカーをくくりつけ終えた二年生男子が、急に耳元でがなり始めたアナウンスに飛び上がってます。音響設営チームは集合だって。

 紅はぐいと拳で目元を拭い、忌々しげに舌打ちした。

 すっくと立ち上がった時にはもういつもの彼だったけど、さっきの捨て犬のような表情は私の網膜に焼きついてしまってる。

 ああ。もう、無理。ギブアップ。


 「今日の作業全部終わったら話がある。夜、そっちに行くから」


 分かった? と強い眼差しで念を押され、素直に頷いた。

 どっちにしろ、このままにはしておけない。

 私のつまらない嫉妬で本番を台無しにするわけにはいきません。これは建前。

 本音は「今すぐぎゅっと抱きしめてあげたい」だ。こんなに苦しめるくらいなら、お互い一発平手を食らわせてチャラにしとけば良かった。次からは拳で分かり合おうぜ路線でいこう。


 紅は名残惜しそうに私の手を離すと、本部へ駆け戻って行った。

 インカムとの接続テストが残ってるんじゃないかな。スピーカーの設置も遅れてるのかも。メモ帳に挟んでおいた進行表を広げ、タイムシフトを確認した。

 私もそろそろ行かなきゃ。休憩所のテントと椅子、分別ゴミ箱の数が足りてるかどうか、最終チェックするんだよね。

 

 現金なことに、私の機嫌はすっかり治っていた。

 俺にはお前だけだ、と云わんばかりの声に、眼差しに、仕草に。

 ズキズキと痛んでいた胸の最奥がみるみるうちに癒されていく。紅、好き。私も大好き。

 

 ……って、脳内お花畑をスキップしてる場合じゃないんだった。

 

 『捕獲されました。これ以上無視できない。意志の弱いちょろい女で本当にごめんね』


 栞ちゃんに同盟破棄のお詫びメールを打ってから、急ぎ足で移動した。

 30分後。

 ポッケの中で振動した携帯を開いて見てみると、栞ちゃんも上代くんに捕まったらしい。


 『どうしてもってシンが泣きそうなんやもん。夜ご飯を一緒に食べることになってしまいました。その時、うちもきっと口をきいてしまうと思う。そやから謝らんといて。こっちこそごめんな』


 文面の端々から伝わってくる彼女の不安混じりの期待に、心が音叉のような共鳴音を立てた。本当に誰かを好きになると、信じたいって気持ちが簡単に疑惑を超えていってしまう。決定的に踏みにじられるまで、期待を捨てられなくなる。

 

 第三者の私からみれば、上代くんの矢印だって栞ちゃんに向いてるとしか思えない。

 どうか上手くいきますように。

 目をつぶって何度も祈った後、固く決意する。

 今夜懲りずに栞ちゃんを泣かそうもんなら、明日の椿姫ほんばんでは思いっきり、へたれ男爵の足を踏んでやる。7センチピンヒールの威力と育ち盛りの女子高校生の体重、舐めんな。


 


 ようやく全ての準備が終わった頃には、宵の明星が西の空に浮かび上がっていた。

 名波くんが中庭に組み上げられた大舞台の真ん中に姿を見せる。

 疲れを通り越してハイになってるのか、一種異様なテンションの寮生とOBさん達が喝采で実行委員長を出迎えた。


 「皆さん、お疲れ様でした! 明日の春冬祭の成功を祈って、三本締めを行います。ご唱和下さい。――では、お手を拝借!」


 私たちは一斉に両手を広げて準備した。ベアっちの痩せてなお張りのある太い声が会場に響き、それに続いて地鳴りのような手打ちの音が花火のように打ち上がる。

 タタタン、タタタン、タタタン、タン!

 寮祭に関わったみんなの気持ちがひとつになった瞬間でした。

 いいね、三本締め。体はくたくたで足腰だって痛いけど、本番も頑張ろうって気合が入ったよ。


 お疲れー。明日も頑張ろうね。寝坊すんなよ。

 口々にお互いを労いながら、それぞれの寮へと戻る。

 とりあえず、お風呂に行こう。ご飯はその後でいいや。

 汗くさいTシャツとジーンズから解放され、ノースリーブの部屋着ワンピに着替えると、ようやく人心地がついた。濡れ髪をバスタオルで拭きながら部屋の鍵を開ける。パチン、と電気をつけた次の瞬間、窓をノックされた。び、びっくりしたあ。


 紅、だよね。


 恐る恐る近づきカーテンを開けると、思いつめた表情を浮かべた紅が立っていた。あなたいつから待機してたんですか。

 バルコニーの手すりは難なく越えてきたらしい。腹を括ってガラリと窓を開ける。

 ところが紅は立ったまま、手招きしてもなかなか部屋へ入ってこようとしない。


 「ここでいいよ。疲れてるだろうし、すぐ済むから」


 見回りの時間まではまだあるけど、偶然バルコニーに出てきた隣室の子に見咎められたらと思うと気が気じゃないんですが。

 

 「――どうしてそう無防備なの。俺のこと、何だと思ってるんだ」

 

 半ば無理やり部屋に引きずり込まれた紅は、不機嫌極まりない表情で大きな溜息をついた。

 確かに、年頃の男女が部屋に2人っきりなんて外聞よくないだろうけど。

 花桃寮の敷地に侵入してるのを発見されたら、紅は一ヶ月の外出禁止なんだよ? ちゃんと分かってるのかな。


 改めて紅の全身を眺めてみると、さっぱりとしたカットソーと麻の涼しげなロールアップパンツに着替えてきてる。隙のないリゾートルックとお風呂上がりのいい匂いに、自分の雑な格好が恥ずかしくなった。

 しまった。

 パジャマ代わりのワンピースじゃなくて、私ももっとちゃんとした服を着ておくんだった。

 

 「誰かに見つかったら罰則くらっちゃうからでしょ。だいたい明日を待てない紅が悪いんじゃない!」


 恥ずかしいのと呆れた口調で怒られたのとで、カッとなって叫んでしまった。

 負けずに言い返してくると思ったのに、なぜか脱力した紅は、おずおずと手を伸ばし私をゆるやかに抱きしめてきた。壊れ物を扱うような手つきが、いつもの彼じゃない。


 「……よかった」

 「え」

 「声、聞けた」


 吐息混じりの声が頭の上から降ってくる。

 心底ホッとしたようなその口調が愛しくて、私はたまらずぎゅっと抱きしめ返した。


 「昨日、しっかり見たんだから。莉緒ちゃんとお店の中でイチャイチャしてたとこ。浮気は疑ってないけど、あんな幸せそうな顔でよその子に笑いかける紅なんて、嫌い! むかつく! はげろ!」


 紅の腕の中におさまった途端、安心してしまったのか、あの場では出てこなかった罵詈雑言が次から次へと飛び出してくる。

 そっか。本当はそんなに腹を立ててたのか、自分。悲しい気持ちに隠されてたけど、お腹の底では紅への怒りが出番を待ってたらしい。


 「うん。悪かった。他には? 言いたいことがあるなら、ここで全部言って」


 反論もせず、紅は落ち着いた声で先を促してくる。


 「仲間外れにされたみたいで悲しかった。次からは、絶対に紅のこと誘わないんだから。断られてよその女の子と遊びに行ってしまうのを、ただ見送るなんてもう嫌だもん。お店に入って、どういうことか聞けばいいのかな、とも思ったよ? でもそれで嫌な顔されたらって想像したら、どうしても足が動かなかった。ああ、もう。私、何言ってるんだろ。こんなに好きにならなきゃ良かった!」


 紅の胸元をポカスカ叩きながら溜まってた鬱憤を全部ぶつけると、今度こそ胸の中はスッキリ晴れた。もちろん手加減して叩いたけど、痛かったよね?

 黙ったままの紅をそっと見上げると、頬を赤く染めて私を見下ろしてる彼と目が合う。

 え。

 叩かれてなじられて散々なはずのに、なんで照れてるの。まさか紅って、俺様のふりして実はドエム――


 「違うから」

 「あ、あはは。ですよね」


 声に出てたのかな。一瞬背筋がひやっとした。


 「本当に悪かったと思ってる。時間ぎりぎりにサプライズなんて思いつくもんじゃないな。真白の喜ぶ顔が見たかっただけなのに、それで泣かせてちゃ意味ない」

 「泣いてないよ」

 「本当に?」

 「……ちょっとだけだから、あれはノーカウント」


 何もかも見透かされてる気がして面白くない。

 精一杯の虚勢を張ってみたものの、紅は騙されてくれませんでした。

 

 「ごめん」繰り返しそういいながら、彼は私の頬に手を添え、まぶたに優しいキスを落としてきた。

 大人しく目を閉じ、紅に身を委ねる。ひとつひとつの口づけに心が暖かくなった。


 「今日はこれで勘弁して。ここで今、唇にキスしたら、きっと止まらなくなる」


 悪戯っぽく瞳を煌めかせ、真っ赤になった私を覗き込んでくる。

 すっかりいつもの紅だ。

 悔しいようなニヤけちゃうような。全身がもぞもぞしてしまって落ち着かない。


 「サプライズってなんだったの。もういいでしょ。教えてよ!」


 紅を押しのけて冷蔵庫に向かい、中からアイスティーのペットボトルを取り出した。

 桃色の空気をぶった切り、じっくり話を聞かせてもらおうじゃないの、という意思表明。コンビニで売ってる市販品なんて飲まないかもしれないけど、今はこれしかないんです。コップに注いでテーブルに置き、座布団代わりにクッションを勧めた。


 「お口に合いますかどうか」

 「ありがとう。遠慮なく頂くよ」


 卓袱台を挟むようにして腰を落ち着けると、紅はごそごそとポケットを探り二つの箱を取り出した。


 「最初は、椿姫のドレスに合わせて、それに映えるようなイヤリングを贈りたいって思いつきから始まったんだ。でも買ったものだと、お前はいつも遠慮して困った顔するだろ? 上代も皆川に何かプレゼントしたいって言い始めて、二人で相談してたところに、笹野が通りかかってさ」


 莉緒ちゃんの連れていたお友達のお母さん、レアストーンを扱ってるお店を経営してるんだって。そこで材料費だけ払って手作りしたらどうか、と莉緒ちゃんは提案してくれたらしい。既製品を高級ジュエリーショップで購入するより、きっと先輩は喜んでくれるはず、と彼女は断言したそうです。

 うう。そこまで私のことを分かってくれてる後輩に嫉妬するなんて。自分の心の狭さが怖い。


 「昨日、完成する予定だったんだ。夜にでもこっそり寮を抜けるつもりだったんだけど、急に休みになったから。真白が前から俺や紺の使ってる香水に興味を示してたの思い出して、じゃあ他の買い物も出来るなって。多分、見られたのはそっちの店だったんだと思う」


 開けてみて。

 紅に促され、丁寧に包装紙を外し、蓋を開けてみた。

 

 クリスタル、カラーチェンジガーネット、トリマリンなどの綺麗なルースを細工して組み合わせた、とってもゴージャスなイヤリングが目に飛び込んでくる。

 もう一つの箱には、愛らしいガラス製の小瓶がおさめられていた。薄い琥珀色の液体は、きっと香水。


 「どんな香りなら気に入って貰えるだろうって考えながら選んでる間、俺はすごく幸せだったよ。真白が手の届く場所にいてくれて、誰に遠慮しなくてもプレゼントを贈れることが嬉しくてたまらなくて、多分ガキみたいにはしゃいでたと思う。笹野達が一緒にいることも、途中で忘れてた。――言い訳にしかならないだろうけど、俺にはお前だけだよ、真白。お前しか、好きじゃない」


 心のこもった贈り物と告白に、じんわり涙が滲んでくる。

 二つの小箱をしっかり握りしめ、私は何度もお礼を言った。

 紅は「これ以上はマジで洒落にならない。悪いけど、また明日」と苦り切った顔で早口にさよならを告げ、逃げるように帰っていってしまいました。

 はやっ。せっかく二人きりになれたんだから、もう少し一緒にいたかったなあ。明日も忙しいし、しょうがないよね。


 ベッドの上にちょこんと鎮座してるべっちんを抱き上げ、私はその場でくるくる回った。


 「A quell'amor che palpito dell'universo intero, misterioso, altero」

 (その愛のときめきは 天も地も揺るがし 神秘的で 誇らしい)


 椿姫の有名なアリア「そはかの人か」の一節を口ずさみ、すっかり古ぼけてしまったテディベアを抱きしめる。

 

 前世のことを思い出した子供の時も、私はこうやってべっちんを抱きしめ、フィガロの結婚のアリアを歌ったんだっけ。

 あの頃の憧れとは180度異なる気持ちで、今、私は紅を好きになっている。

 そのことが嬉しくてたまらなかった。ボクメロなんて関係ない。

 この世界が、私の居場所。ただの島尾 真白が生きてる世界だ。


 


◇◇◇◇◇◇


 

 「うんうん。上出来! この綺麗なイヤリングは真白の私物だって? ドレスにぴったりじゃん。混ざらないよう、小道具係にもちゃんと言っておくね」


 ヘアメイク担当のさっちゃんが満足げに頷き、ケープを取り去る。

 急ごしらえの着替え部屋に据えられた大きな姿見の前に立たされると、居合わせた裏方さん達が一斉に溜息をついた。


 「素直な顔してるから化粧映えするんだろうね」

 「真白、やばい。どっからどう見ても、ヴィオレッタだよ」

 「先輩、綺麗~!」


 鏡には、まるで別人のような私が映っている。

 体に沿った純白のドレスの襟ぐりは大きく開き、首を細く長くみせてくれてるし、ボリュームたっぷりのイヤリングが可憐な輪郭を際立たせてる。潤んだ黒目がちの瞳がまじまじとこちらを見つめてきて、思わず見蕩れそうになりました。真白、しっかり。それ、自分よ。

 付け睫毛の重さに耐えた甲斐があった。これはすごいわ。さっちゃんのプロ並みの腕前に驚嘆せざるを得ない。


 私と交代で仕上げてもらった栞ちゃんも、見違えるような美人さんになった。もともと可愛いんだけど、今日はちょっとアレだったんだよね。

 ええ。メイク直前まで腫れあがった目を氷で冷やす羽目になっていた。「前日に大泣きするなんて」とさっちゃんはお怒りですが、理由の察しはつく。

 

 イヤリングとお揃いの指輪を右手の薬指に目ざとく発見した私は、我慢できず「どうなったの?」とこっそり耳打ちして聞いてみた。

 もじもじしながらも栞ちゃんは「シンに告白された」と正直に教えてくれましたよ。やったね! 良かった~! そして、そこんとこもっと詳しく!

 このまま根掘り葉掘り聞きたいところだけど、残念なことに時間がない。

 開幕30分前。バックステージは殺気立ってきてます。

 

 

 全部の準備が終わった後、舞台袖に移動する。

 先に来ていた紅と上代くんは、ドレスアップした私たちを大げさなくらいに褒めてくれた。


 「見ろよ、俺の椿姫を。めちゃくちゃ綺麗だろ?」

 「悪いな、成田。栞以外の女は目に入らへんねん。ほんまに綺麗や。あー、くそ。加賀美に見せたないな」


 上代くんまで、紅様化してる!?

 朱に交われば赤くなるって本当だったのか! それにしたって凄まじい伝播力。

 栞ちゃんの方を素早く見遣れば、私と同感だったらしく、大きく目を見開いて固まってらっしゃいます。


 「ふふ。びっくりした顔も可愛い。真白、もっとこっちに来て、俺によく見せて」

 「いやあの、遠慮します」


 栞ちゃんととっさに手を取り合い、じりじりと後ずさった。

 まさかとは思うけど、今抱きしめられるのは非常に困る。着崩したら大変なんだよ。


 「いい? 次の幕間まで下手なことして私の完成品を壊さないでよ」


 そんな風に全く笑ってない目で釘をさされたばっかりなんです。さっちゃんの逆鱗には触れたくない。

 

 びくびくしてる私たちを見て、紅たちは堪えきれないように笑いだした。

 もしかしなくても、かわかわれてた模様。

 緊張してるといけないから。後からそう教えてくれたけど、他にも方法あっただろう!

 おかげで肩の力はすっかり抜け、無事に本番を演じることが出来ました。


 劇も終盤。

 自分を遠ざけたのは父との約束だったと知ったアルフレードが、病床に伏しているヴィオレッタの元に駆けつけくる場面では、美しいアンサンブルの効果も相まって、野外ステージがすすり泣きに包まれた。


 「僕のヴィオレッタ! ああ、僕が悪かった。全て僕が!」

 「いいの、戻って下さると信じていました」


 青白い顔にメイクし直された私が、震える腕をアルフレードに伸ばす。

 その手を両手でひしと握りしめ、紅はベッドの脇にひざまづいた。


 「この鼓動で僕の愛を分かって欲しい。君なしではいられないんだ。頼む、一人にしないでくれ、ヴィオレッタ!」


 紅の渾身の演技に、客席からうっとりとした視線が注がれる。

 私は儚げに微笑んでみせた。

 いかにも薄幸な女の最期にふさわしい表情で、ただひとりの人を見つめる。


 「もっと私の傍にきて、アルフレード。どうか、この絵姿を受け取ってちょうだい。時々でいいから、思い出してね。あなたを愛した女のことを」

 「死ぬな、ヴィオレッタ! 口にもするな! こんな恐ろしい責め苦には耐えられない」


 別れを目前にした2人の掛け合いが、クライマックスに近づいていく。

 ここまでは噛んでないよね。うん、台詞も飛んでないし。

 それにしたって紅が凛々しくて素敵で困ってしまう。誰か助けて。このままだと喀血しそう。よりリアリティを生んでしまいそう。

 

 「もし慎ましく清らかな乙女が、あなたを次に愛したら、どうぞその方を花嫁にして差し上げて。あなたの幸せを心から祈っています。アルフレード。本当よ?」

 「いやだ、そんなのは嫌だっ!!」


 途中から演技なのか何なのか分からなくなって、私たちはただお互いの別れを惜しんだ。

 ほんの一瞬我に返り、目眩を覚える。

 

 紅を捨て去ろうと決めたかつての自分が、信じられない。

 台本にある台詞をなぞっているだけで、こんなにも胸が痛むのに。


 「止まった……発作が止まったわ。もう苦しくない。新しい力が、私の中に動いてる。――ああ、嬉しい! 私は生き返るのよ!」


 歓喜の声を振り絞り、空を掴もうと手を伸ばした。憔悴しきったアルフレードが、ハッと顔色を変える。

 私はそのまま、ぱたり、と腕を下ろした。

 椿姫は息を引き取ったのだ。


 「ヴィオレッターーッ!!」


 動かなくなった最愛の人に縋りつき、泣き叫ぶアルフレード。

 終曲を奏でる弦楽四重奏が紅の慟哭をかき消すように、クレッシェンドしていく。

 最後の一音が消えるのと同時に、舞台の照明が一斉に落とされた。


 大きな拍手が沸き起こる中、私と紅は急いで舞台袖へと移動した。

 お色直しをちゃっちゃと済ませて、カーテンコールに応えなきゃ。


 バックステージに戻ると、私たちを待ち構えていたスタッフがどっと集まってきた。よってたかって綺麗にされた後、再び舞台袖に戻ると、紅が晴れやかな顔で私を出迎えてくれた。


 「ましろ」

 「なに?」

 「お疲れ」

 「うん。紅もお疲れ様」


 拍手は止むどころか、ますます大きくなっている。

 紅の差し出した腕に手をかけ、一歩踏み出そうとしたところで、彼はピタリと足を止めた。


 「愛してるよ、真白」


 私にだけ聞き取れるぎりぎりの低く小さな声と共に、温かな唇が口を塞いでくる。

 うわああ! なんて場所でなんてことを!!


 「もうっ! 口紅ついちゃうでしょ!」


 周りにいたスタッフ達は一瞬黙り込み、それから爆笑した。

 後から聞いてみたら、いきなりキスしてきた躾のなってない悪い子を叱りつけたように見えたらしい。


 「劇のせいでまだ胸が痛くて、我慢できなかったんだ。傷心を慰めるのは恋人の仕事だろ? 自分では分からないから、真白が取って」

 

 まだ言うか、この羞恥心ゼロ男め。

 罵りたいのを我慢しながら、真っ赤な顔で手を伸ばし、唇を拭ってあげる。

 純白の長手袋の指先に薄く紅がうつった。

 えへへ。まるで私と紅みた――


 「ええから、とっとと行かんかい!」


 後ろで待っていた上代くんがドスのきいた声で叫ぶ。私はやれやれと言いたげな紅を押し出すようにして、眩いスポットライトの下へと足を踏み出した。



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