48.三年目の寮祭(中編)
瞬きするほどの時間に感じられた夏休みは、抱えきれないほどの思い出を残して去っていきました。
休み明け、まっさきに学院生を迎えてくれるのは恒例の実力テストだ。
毎年のことながら、三年の今年が一番きつい。割り振られてる仕事の責任の重みが違うんだよね。とほほ。
勉強しないわけにはいかないから、睡眠時間を削って寮祭の準備を進めていく。ハードすぎるスケジュールに、寮生の疲労はピークに達していた。
いよいよ春冬祭を二日後に控えたその日。
実行委員長の名波くんは、お休みを宣言した。
「土曜日はOBの皆さんも大勢手伝いに来てくれる決戦前日だからね。今日一日英気を養って、明日に備えよう!」
名波くんは、穏やかで真面目な人柄を買われ、今年の寮祭実行員長に選ばれたAクラスの男の子。
大柄でふっくらした体つきと容貌がまた優しげで、皆から「ベアっち」と呼ばれ愛されてたのに、ここ数ヶ月の激務と重圧のせいで見る影もなく痩せてしまわれた。
「細くてすらっとしてる名波くんなんて、ベアっちじゃない!」と特に女の子達は大層嘆いてます。いかにもあったかそうな癒しオーラが魅力的だった彼はもういない。気の毒で直視できない激痩せっぷりだ。
私も密かにファンだったよ、ベアっち。べっちんに似てるんだもん。
そんな名波くんの決定に異を唱える生徒なんているはずもなく、私たちは降ってわいた放課後の自由時間に大喜びした。
せっかくだから、久しぶりに外にお茶しに行きたいな。
携帯を握りしめ、花桃寮と共同棟を繋ぐ外廊を通り抜ける。
予想通り、紅は上代くんと一緒に食堂にいた。
いつもならすぐに気づいてくれるのに、その日は違った。上代くんと額を突き合わせ、何か真剣な顔で話している。邪魔しちゃ悪いかな、と躊躇いながらも声をかけてみることにした。
「紅」
「ん? ……真白」
ここでも違和感を感じる。
嬉しそうな笑顔ではなく、少し困ったような表情を浮かべ紅は私を見返してきた。
「一斉送信メールみた? 今日は作業なしなんだって」
「ああ、らしいな」
そこで言葉を切り、今度は黙ってしまう。キャッチボールが続かない。私だけが張り切ってボールを投げてる気分になってきましたよ。どういうこと。
「えっと。せっかくだから一緒に出かけない? って誘おうと思ったんだけど……」
気づかないうちに尻すぼみな言い方になってしまい、私はなんだか自分が情けなくなった。
紅を好きになってからというもの、彼の反応のいちいちが気になって、前みたいに強気でいられない。そういう意味では弱くなってしまったのかな。それがいいことなのか悪いことなのかさえ、私にはサッパリ分からなかった。
「悪い、真白。実は先約があって――」
紅の隣で顔を赤くしてる上代くんのことも気になったんだけど、どうしたんだろうと考える暇もなく、『先約』とやらがやってきた。
「コウ先輩、お待たせしました。あ、マシロ先輩もいる!」
きゅるん。
そんな効果音と花を撒き散らす背景つきで、莉緒ちゃんが駆け寄ってきた。
一年生の頃から可愛かったけど、最近ではますます綺麗になってる気がする。大人になったら、ちょっとその辺にはいないような美人さんになるだろうなあ。
彼女に手を引っ張られているのは、莉緒ちゃんと同じ二年生みたい。寮生じゃないその子は、居心地が悪そうに身を竦めながらペコリと会釈した。
莉緒ちゃんはお友達の手を離し、満面の笑みと共に飛びついてくる。
「先輩のヴィオレッタ、もう楽しみで楽しみで! 足を引っ張らないように私も頑張ります」
莉緒ちゃんは劇のアンサンブルに加わってるから、そのことを言ってるんだろう。可愛い後輩に全力で懐かれて、嬉しくない人がいるだろうか。私は嬉しい。思わず頬が緩んでしまった。
「椿姫なんて柄じゃないけど、頑張るね」
「そんなことないです! この間、衣装合わせがあったでしょう? こっそり見に行ったんですけど、めちゃくちゃ綺麗でした。本番は髪を結ってお化粧もするって聞いたし……。はあ~、楽しみ過ぎます」
紅や上代くん、そしてお友達が口を挟む暇もなく、莉緒ちゃんは興奮した様子で次々に話しかけてくる。
「それに当日は、素敵なサ」
素敵なサ、なんだろう。
紅が割り込んでその先を遮ったので、私の頭にはドレスアップした猿しか浮かばなかった。素敵なサル回し……ないな。
「悪いけど、もう行かなきゃ。先方の都合もあるし。せっかく誘ってくれたのに、ごめんね、真白」
「あ、そうですね。ふふ。今日は一緒には行けませんもんねえ~。じゃあ、先輩。また後で!」
よく状況がつかめない。
からかうような口調になった莉緒ちゃんの頭を、紅がぶつ真似をする。
莉緒ちゃんはクスクス笑いながら、再びお友達の手を掴み逃げていってしまった。紅と上代くんも彼女たちの後を追って食堂を出て行く。
いかにも親密そうな一連のやり取りに、自分でも信じられないくらい傷ついた。
彼らと入れ替わるように入ってきた栞ちゃんは、眉間に皺を寄せて後ろを振り返ってます。
「……うち、今シンに無視されたんやけど」
「私も紅を誘ったのに、断られちゃった」
「ほんまに!? 一体どないなってんねん」
憤然とした様子で腰に手をあてた栞ちゃんと顔を見合わせ、私たちは溜息をついた。
このまま部屋に戻って、ピアノを弾いたり勉強したりしてもいいんだけど、どうしてもそんな気になれない。
紅がそっけなかった。他の女の子と楽しそうに出かけていった。
たったそれだけのことが、心に刺さって抜けない。そのうち、じくじくと膿んできそうで怖くなった。
「こうなったら、2人で出かけない? 美味しいケーキでも食べてパーッと気晴らししようよ」
気を取り直し明るい声をあげると、栞ちゃんも乗ってくれた。
「ええな。そうしよ!」
お互いに空元気だとは分かっていたけど、暗黙の了解で気づかないふり。
楽しみでしょうがない、という強がりを顔に貼り付け、私たちは出かけることにした。
結論から言って、出かけたのは大失敗だった。
今話題のカフェに並ばずに入れたのも良かったし、季節のタルトとパフェをひとつずつ注文し、栞ちゃんと半分こして食べたのも楽しかった。すごく美味しかったし。憂鬱な気分が半減されたところで、私たちは雑貨屋さんを数軒はしごして帰ることにした。
使い道の思い浮かばない凝ったデザインのスタンプや、可愛いペーパーナイフをじっくり吟味し「手紙は手で開けてしまう」「うちも。ハサミさえ使わへん」なんて言いながら、ポストカードを数枚だけ買って店を出る。
そろそろ帰らないと。日が傾き始めた空を見て、私たちは駅に向かうことにした。
その途中、雰囲気のある一軒のお店にふと目が止まった。いわゆる女の勘、というやつが働いたのかもしれない。
全面ガラス張りのそのお店に看板はない。ショーウィンドウにセンスよく飾られている数点のガラス瓶から、香水関係のお店かな、とあたりをつけた。
そういえば、紅からはいつもいい匂いがする。今は夏だからか爽やか石鹸系の香り。冬のコートからは柑橘系の匂いがしたっけ。
うーん。私もそろそろ制汗スプレーを卒業して、香水の一つも嗜むべき?
ガラス越しにお店の中を覗き込んだ次の瞬間、私は盛大に後悔した。
見なきゃ良かった――。
店の奥にいるのは、確かに紅と上代くん。
隣に莉緒ちゃんと彼女のお友達が並び、とっても仲睦まじげに寄り添いながら何かを手に取っている。
私の食い入るような視線に気づき、足を止めた栞ちゃんも小さく息を飲んだ。
「はあ!? なんなん、あれ!」
うん。どう見ても、ダブルデートの構図だよね。
「中に入って問い詰める? 真白にはその権利があると思うで」
「できない。迷惑そうな顔、一瞬でもされたら耐えられない」
自分でも情けなくなるくらいの弱々しい声が声帯を震わせる。
もし一緒に行ってもいい用事なら、紅はきっと誘ってくれた。
――そうしてくれなかったということは、つまり私は邪魔ってことだ。
「……栞ちゃん、私今から毒吐くけどいい?」
「かまへんよ。ガツンと言うたれ」
紅のことを信じてないわけじゃない。
誰かと真剣に付き合ってる時に、浮気するような人だとも思わない。
だけど、それとこれとは話が別ではないでしょうか。
燃え上がる嫉妬心を持て余し、私はスーッと息を吸うと、思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てようとした。
ところが、何も出てこない。
何の悪いところも見つけられない。
親しい後輩と出かけただけの彼氏に、一体なんの落ち度がありますか。
今のこの気持ちは、べた惚れ故の一方的な嫉妬だという悲しい事実を再認識してしただけに終わった。
「他の女の子と幸せそうに笑うな! 紅の馬鹿!」
言えるとすれば、このくらい。馬鹿は私か。
声に出したせいで、物悲しさは更に募った。私がいなくったって、紅は幸せなんだ。頭の芯がジンと痺れる。私は寂しいよ、紅。すごく寂しくてどうにかなりそうだよ。
「――惚れたもん負けか。うちらは負け犬なんやな」
栞ちゃんが絶妙な合いの手を挟んでくる。それだ。それ。いっそここで遠吠えしてやろうか。
私たちは情けない自分たちへの罰として『明日一日彼らと口をきかない』ことを決意した。明後日は寮祭の劇があるし、それ以上長くはこっちが無理だから、とりあえず一日だけ。それでもかなりの苦行になるのは目に見えている。
「挨拶もなしだよね?」
「もちろん。絶対にひとことも口きかへん。もういい加減期待すんの、やめたいもん」
「栞ちゃん、上代くんのこと大好きだったんだね」
「あんなん見てもまだ、過去形じゃないんやで? ほんまに自分でも悔しいわ。シンとはただの幼馴染。あれこれ口出す権利なんてないですよ。分かってますよ。告白もできひんかった、ヘタレなうちがあかんねん」
分かってる、と繰り返す栞ちゃんの目尻に、丸い涙の粒が浮かぶ。
それを見た途端、私の目からもポタポタと液体がこぼれ落ちた。
慌ててハンカチを押し当て、何とか泣きやもうと頑張ってみる。
駅のホームで電車を待つ私たちの周りには、夕方のラッシュ時だというのに、ぽっかりスペースが空いていた。
◇◇◇◇◇◇
そして春冬祭前日。
夜が完全に明けないうちから、寮内はざわめき始める。これも毎年のことだ。
私と栞ちゃんは、結んだ負け犬同盟条約を固く遵守し、昨晩から紅たちと口をきいていない。
食堂に行くと会ってしまう危険性が高く、また会ってしまえば喋ってしまう可能性の方が高い、と判断し、帰りのコンビニで買ってきたお弁当を部屋で食べることにしたんです。
もちろん朝ごはん用のパンも一緒に買ってきておいた。栞ちゃんの部屋で、野菜ジュースと一緒にもそもそ咀嚼する。
それからスタッフTシャツにジーンズというラフな格好に着替え、私と栞ちゃんはハイタッチを交わしてそれぞれの持ち場に向かった。
昨日休んだ分仕事は山積みで、栞ちゃんとの約束を守るのは思ったより簡単だった。
私を探していたらしい紅に一度捕まりそうになったけど、突き飛ばすようにして振り切りました。立ち竦む彼の顔を見なくて済むよう、まっすぐ前だけを向いて通り過ぎる。
その後も、何とか踏みとどまった。
悲しげに私を追う紅の視線に気づくたび、こんなこと始めなきゃ良かったと後悔しそうになる。ごめん、ごめんねってぎゅうぎゅうに抱きしめて慰めたくなる。慰めて欲しいのはこっちだというのに。これが負け犬クオリティか。
携帯には紅からの不在着信のお知らせと未読メールが溜まっていった。
いっそ電源を落としてしまおうかと手に取ったが、業務連絡メールに気づかないと大変だから諦める。
栞ちゃんからのメールには「心が折れそう。なんでそっちが傷ついた顔するん!? おかしいやろ!」と錯乱気味の文章が並んでいた。栞ちゃんは私だ。
「あと半日の我慢だよ!」
励ましメールを返信し、大きなため息をつく。
なぜか私達の方が、精神的に追い詰められているではないか。こんなんだから泣いて逃げ帰ってくる羽目になるんだ、と自分を叱りつけてみた。
最難関は、椿姫のリハーサルだった。
「ちょっと、ヴィオレッタ! もっと台詞と視線に愛情を込めて!」
舞台総監督の智恵ちゃんに、厳しくダメ出しされる。
「真白、頼む。何に怒ってるのかだけでも俺に教えて」
「すみませーん。もう一回お願いします!」
小声で話しかけてくるアルフレードとは目を合わさず、智恵ちゃんに両手を合わせる。切羽詰まった表情で私を一心に見つめてくる紅は、アルフレード役にぴったりハマっていた。
そんな顔するなんて、卑怯だよ。
私にだって滅多にみせてくれない、胸が痛くなるような無邪気な笑みを莉緒ちゃんには向けてた癖に。
治りかけのかさぶたを剥がすようにして、昨日の2人を思い出す。
携帯で撮って待受にしておくべきだったんだ。ちょろ過ぎる自分への戒めとしてな!
フローラ役の栞ちゃんは愛人役の加賀美くんに、大輪の薔薇のような笑みを投げかけ、見守っているスタッフ全員の溜息を誘ってます。
私の隣でぎりぎりと歯を食いしばっていた上代くんの足を踏みつけ、さっさとしろ、と台詞を促す。
何かを吹っ切ったような可憐なフローラに翻弄され、心ここにあらず状態の上代男爵を虐めるのは、とっても楽しかった。昨日の涙の仇を取ってやったわ! ふはははは。……はあ。
リハーサルが終わったので、衣装係に「ドレスも何もかもぴったりだった。どこにもおかしな部分はなかった」と伝えて、元の小汚い格好に戻る。
智恵ちゃんには「明日までには成田くんと仲直りしてよね」と釘を刺されました。精一杯、私情を挟まないように演じたつもりだったんだけどな。申し訳ない。何とかする、と約束して中庭から出店の方に移動しようとしたところで、私は思わぬ人を発見した。
向こうも同じタイミングで気がついたようで、ばっちり目が合う。
「星川さん!?」
「……どうも」
頭のてっぺんからつま先までジロジロ見てしまった。部外者立ち入り禁止ですよ、と言いかけて、胸から下げてるIDに気づく。OBだと!? え、この人本当は何歳なの!
「考えてること顔に出過ぎ。兄がOBなんだ。ちょうど身内の慶事で帰国してたから、暇つぶしに冷やかしにきただけ」
「ご丁寧な説明ありがとうございます」
そこまで知りたいとは思ってなかったけど、なるほどね。
「あの、そのお兄さんは……?」
「知らない。どっか行った。気は済んだし、俺も帰る」
「そ、そうですか」
相変わらず独自の世界を生きていらっしゃるんですね。
なんと返していいか分からず、呆然としてる私に歩み寄ると、星川さんは意地悪く口角を引き上げた。
「椿姫、なかなか似合ってたよ」
嫌味にしか聞こえない口調で褒められても。
私はむっと顔を顰めた。
「そうですか」
「相手役のアルフレードって、彼氏か何か?」
「……そうですけど」
「ふうん。物好きもいたもんだ」
星川はほんの一瞬、視線を私の後ろに向け、再びこちらを向くとにっこり微笑んだ。
そんな風に笑うと、刺々しい雰囲気は掻き消え、天使のような愛らしさが際立つ。惜しい。何もかもが惜しすぎる。
「俺はもっと上にいく。お前はせいぜい男とじゃれてろ」
謎めいた台詞を置き土産に、さっさと踵を返して去っていってしまいました。同じ日本語を話してるとは思えないくらい、何を言ってるのか分からなかった。そもそも笑顔で吐くような台詞か?
一種のライバル宣言でいいのかな。通訳お願いします、富永先輩!
「今の、誰」
突然聞こえてきた低い声に、びくりと体が跳ねる。
後ろを振り返ると、慌てて着替えてきたのかくしゃくしゃの髪のままの紅が立っていた。
あれが前に言ってた星川さんだよ、と普段のように返事をしかけ、口をきいちゃいけなかったことを思い出す。
きゅっと唇を閉じ、じりじりと後ずさった。とにかくここから逃げないと。
「こんなの、嫌だ。真白。……ましろ」
プライドの高い紅が、なりふり構わず縋るように懇願してくる。
耐え切れず、私はジーンズの後ろポケットからメモ用紙を取り出した。あ、ペンがない。控え室に忘れてきちゃったかな。
無言で手を突き出すと、紅はこんな時でもちゃんとボールペンを貸してくれた。
『私が勝手にくだらないヤキモチ妬いて拗ねてるだけ。今日一日は口きかないって決めたけど、明日からは普通にするから』
要点を殴り書いて、紙をちぎり紅の胸元に押しつける。そしてそのまま華麗に立ち去ろうとして失敗した。
紅の手がすばやく動き、私の手ごとメモを掴んでます。これが運動能力の差か。
離してもらおうとぐいぐい引っ張ったものの、あえなく逆の手に持ちかえられた。私を捕獲したまま、素早くメモに目を走らせた紅は、気が抜けたようにその場にしゃがみこんでしまった。




