47.三年目の寮祭(前編)
4月からも私達は皆、Aクラスをキープすることが出来た。
三年間、クラスメイトは誰ひとり入れ替わっていない。
入学当初は、紅ファン以外の子からも物珍しさと敵愾心の入り混じった視線を向けられることが多かったのだけど、同じクラスで長い時間を共有していくうちに、一種の連帯感のようなものがお互いの中に芽生えてきた。
クラシック音楽は私たちに厳しい練習の積み上げを要求してくる。それに耐えてなお高みを目指す彼らは、間違いなく同志だった。
内部生とか外部生とか関係なく、私たちはただ『音楽』で結ばれている。心からそう感じられる幸せを、しみじみと噛み締める毎日だ。
夏休みも終盤。
寮生の殆どは実家から戻ってきている。そう、春冬祭の準備の為です。
面談室という名のフリースペースには、何故か寮生ではない紺ちゃん、蒼、美登里ちゃんまで来ている。
最後の寮祭に向けて燃えまくってる上代くんと栞ちゃんが「猫の手よりはマシやろ」と召喚したらしい。
「そういえば、真白は結局どうするん。留学の話、断ったんやって?」
劇の台本とにらめっこしていた栞ちゃんはふと顔をあげ、唐突に話題を振ってきた。
人はそれを現実逃避と呼ぶ。台本を貰った直後から「こんなに沢山覚えられへん!」って悲鳴あげてたな、そういえば。
栞ちゃんの言葉をきっかけに、全員が作業の手を止める。
美登里ちゃんと紺ちゃんは衣装のサイズ直しを手伝ってくれてたし、蒼はストップウォッチと携帯音楽プレイヤーを装備して、劇中で使われる楽曲の最終チェック中。一曲の長さを計って、各場面に割り振っていくんです。
寮祭の目玉である劇だけは、何ヶ月も前からプロジェクトが進行している。すでに台本も出来上がってるし、作曲科の有志メンバーによる編曲も終わっている。
私を含め残りの4人はその劇に出るので、各自の台詞を暗記していたところだった。
「うん。だって理事長の私費で、とか言うんだもん。怖くて受けられないよ。今の成績のままいけば大学でも奨学金を貰えるらしいから、内部進学する予定」
そうなんです。
トビーは私と紺ちゃんにウィーン留学を提案してきたんですよ。
「こんなに良いお話はなかなかないと思うんですよ」
瞳を輝かせ熱心に勧めてくれた後藤先生には申し訳なかったが、即お断りした。父さんも「流石にそこまでしてもらうわけには」って困惑してたし。
面談の後、紺ちゃんは「私はOKしたわよ」と、とびきり愛らしい表情で片目をつぶってみせた。
留学もなにも、トビーの計画が実現することはない。
彼が選んだ金の卵は、追い求めた理想のピアニストの代わりは、卒業を待たずにこの世界からいなくなってしまう。
「ふうん。良かったじゃん、紅」
イヤホンを外し、首をほぐしながら蒼は柔らかく微笑んだ。
「まあね。真白がウィーンに行くんなら向こうの大学を受けるつもりだったから、俺はどっちでも良かったんだけど」
「はいはい。だろうと思ってた」
そういう蒼は、外部受験をするんだって。経済学部が第一志望だそうです。
音楽を専門にやるのは高校までだと最初から決められていたらしい。「チェロは止めないから」ときっぱり断言してくれた蒼に、私もエールを送った。プロにならなくったって、音楽は続けられるよね。
美登里ちゃんはイギリスに戻る予定だし、内部進学を予定してるのは私と上代くん、そして栞ちゃんだけだ。
紅も将来の為に一般の大学を受験すると言ってるから、こうやって7人で一緒にいられるのも今年が最後です。……しかも卒業する頃には6人に減っている。減ってしまったことさえ、私達は忘れる。
クリスマスなんて来なければいい、と一日に何度も願った。
強く祈るたび、根拠のない希望が泡のように浮かんではパチンとはじける。
共に過ごせる時間を尊く、そして愛しく思えば思うほど、時間は風のようなつれなさで私の目の前を通り過ぎていくのだ。
「寂しそうな顔しないで、真白。会おうと思えば、いつだって会えるんだから」
蒼が私の手を励ますように軽く叩いた。
すっかり大人びた彼の言葉が、胸の中でうずくまったままの寂しさを加速させる。
「大きくなったね、蒼」
「それ、褒めてる?」
わざとらしく眉をしかめ、上目遣いで覗き込んでくるなんてずるい。
己のチャームポイントを知り尽くしての所業ですよ。
蒼が私の弟だったら、構い過ぎて逆に煙たがられただろうなあ。うっせえ、あっち行けよ、とか怒られたりしてね。それも悪くないか。
「全力で褒めてます。初めて会った時は、あんなに小さかったのになあ。人見知りも治ってきたし、友達も増えたでしょ。苦手克服、すごい!」
「ん。ならよし」
体を倒した姿勢のまま、テーブルにこてんと頭を乗せ、蒼は満足げに唇の端をあげた。子犬のような素直さは、昔のままだ。
お互いの『好き』が男女の愛情に変わることは、これからもきっとないだろう。代わりに私たちは、途切れることのない友情を手に入れた。そしてそのことに途方もなく満足していた。
「偉そうに言うな」
私の隣に座っていた紅は手を伸ばし、そのまま蒼の頭を乱暴な手つきでぐしゃぐしゃと撫で回した。
こんな風に気安くちょっかいをかける紅を見るのは、小学生以来じゃなかろうか。
堰を切って溢れてきた、沢山の思い出に目頭が熱くなりかけたんだけど――。
紅の指が蒼の髪に触れた瞬間。
離れた場所に座っていたプリマヴェーラの下級生たちが一斉にこちらを振り返ってきたのに驚いてしまい、それどころじゃなくなった。
ブン、という音って比喩じゃなかったのか。
私を挟んでじゃれ合う彼らに、垂涎ものの眼差しが集まってますよ! 非常にギラついた狩人の目が!
「やーめーろ。真白はともかく、お前は触んな」
「せっかく可愛がってあげてるのに、酷いな。それが親友に対する口のききかた?」
「よく言う。どうせくだんない嫉妬だろ……いたっ。いたいって!」
女子たちの熱視線を感じてないはずはないのに、二人共全く気にしてないみたい。そうか。学院のアイドルにまず必要なのは、この華麗なスルー能力か。
「――この人らの絡み、こっそり撮って売ったら儲かりそうやな」
「俺も思った。一枚いくらでいっとく?」
ところがピコーン、と頭の上にひらめきマークを浮かべた関西ペアの密談は、聞き逃さなかったようです。便利なお耳。じゃれあいを止め、今度はタッグを組んで、ネチネチ嫌味を言い始める。
「友達を餌に商売しようなんて、流石だね。俺らも見習おうか」
「だよなー。どうする、紅?」
「まずは相手の弱点を突き止めないとね。強請の基本だし。まあ、どっちのもバレバレだけど」
「い、いややな~。ほんの冗談やんかあ。な、シン」
「そやで。短気な男は嫌われる……って、あかーん! 頼むからまだなんも言わんといて!」
上代くんが何かいいかけた蒼に飛びかかって、押し倒してる。女の子達の黄色い悲鳴は更に酷くなり、収拾がつかなくなった。
美登里ちゃんの呆れ顔には、濃いマジックででかでかと「子供ね」と書かれてるし、紺ちゃんに至っては、黙々とドレスの裾上げに取り掛かり始めてる。……これは非常にまずい兆候ですよ。
早く仕事に戻らないと紺ちゃんが本気で怒ってしまう。
「紅。そろそろ台詞合わせしようよ!」
大きめに声を張り、彼らの注意を引くことに成功。
ついでに蒼にもさっきの楽曲チェックの続きをお願いして、4人で劇の練習をすることにした。
今年の演目は『椿姫』。
満場一致でヒーロー役に選ばれた紅が「真白が相手役ならやってもいい」と俺様発言をぶちかました為、否応なく巻き込まれました。
うう。今年こそピアノ担当になれると思ってたのに。
なので、私が社交界の大輪の花、ヴィオレッタ・ヴァレリーですよ。
美と教養を兼ね備え、紳士の羨望の視線を一身に集める高級娼婦。……どう贔屓目に見ても柄じゃないよねえ。
ちなみに、ヴィオレッタのパトロンで、紅演じるアルフレードと対峙するドゥフォール男爵役が上代くん。ヴィオレッタの友人で同じく高級娼婦をやってるフローラ役が栞ちゃんだ。
悲恋ものが演目に選ばれたのは、リア充爆発しろ! という寮生からのメッセージだろう。なんせヒロインさん、最後は肺の病で死んでしまうんだから。
個人的には「乾杯の歌」とか「そはかの人か」とか「花から花へ」とかね。名曲の多いオペラだから楽しみです。
決まったからには仕方ない、と諦めてはいるものの、紅の方は全く乗り気じゃなかったりする。
今年の寮の三年に声楽科の子はいないので、アリアの殆どが台詞に置き換えられた。合わせて、フルートやヴァイオリンを前面に押し出したアンサンブル用に楽曲も編曲し直してある。
「いいよ。台詞の多いところからやろうか」
億劫そうに台本を広げ、紅が私に向き直った。
ようやく部屋は静かになり、下級生達もそれどころじゃないと我に返ったのか、それぞれの仕事へと戻っていく。
「じゃあ、第二幕の第二場のところかな。ほら、カード賭博の場面」
「……あそこか」
嫌そうに唇を曲げ不満をアピールしてらっしゃいますけど、重要な決別シーンだよ。ここで盛り上げるだけ盛り上げとかないと、終幕の再会と永遠の別れの切なさが伝わらない。
「じゃあ、うちからやな。まだ台本見ながらでもええ? 次合わせる時までにはちゃんと暗記してくるし」
「うん、私も見るよ。大丈夫」
勢いよく頷いて、栞ちゃんの台詞を待つ。
「今夜は本当に素敵な夜ね。もちろんヴィオレッタとアルフレードも呼んでいてよ」
フローラはこの時まだ恋人同士が別れたことを知らないので、浮き浮きと弾んだ声で演じなければならない。栞ちゃんはト書きを確かめながら精一杯頑張っているものの、普段と180度違う喋り方が苦しいのか、時折首を捻っている。
紅に不得手なことはないんだろうか。
台本にチラリと目をやったっきり、すでに暗記してる台詞を、いかにも捨て鉢になっている男らしく吐き捨てた。
「恋に破れた分、賭けで勝とうと思ってやってきたんだ。さあ、誰が相手になってくれる? 稼げるだけ稼がなくっちゃな。田舎に引き上げて、楽しく暮らすつもりなんだから」
上代くんも器用さを発揮し、スムーズに男爵役を演じていた。
「では、私が相手になろう」
「……あなたが? いいでしょう。田舎暮らしの費用を、かつての恋人の愛人にもってもらうのも一興だ」
「きみ。口を慎みたまえ」
「これは失礼。さあ、どうぞ。男爵閣下、あなたの番だ」
カードゲームはアルフレードが圧勝するが、二人のやり取りを見守っていたヴィオレッタは気が気ではない。
そもそもアルフレードとの生活費を工面する為にパリに戻り、そこで彼の父親から家族の体面の為に別れてくれ、と懇願されて、身を引くことを決めたという経緯がある。彼を愛するがゆえに離れたというのに、ここで下手に男爵と揉めて殺されることになっては大変だ、とヴィオレッタはアルフレードをこっそり呼び出すのだ。
「今更、何の用だ」
「ここから立ち去って下さい。負け続けた雪辱を晴らそうと、男爵はあなたに決闘を申し込むかもしれません。お願いです。どうかもうお帰りになって」
「そんなに僕が邪魔か、ヴィオレッタ。僕たちが次に賭けるのは金じゃなく生死になるだろう。パトロンを失う不幸が怖いのか」
「いいえ、私が怖いのは、あなたが死んでしまうこと」
「そこまで言うのなら、誓ってくれ。もう僕から離れないと。どうか、ここで誓ってくれ、愛しい人」
紅の声に熱がこもる。
お芝居だと分かっていても、胸が苦しくなった。
それに一人称の『僕』がね。新鮮過ぎて息切れしそう。はあ。この調子で本番を無事に乗り切れるのかな。
「出来ません。汚れた娼婦よりあなたにふさわしい方は沢山いらっしゃるはず。私のことは忘れて下さい。あなたと別れるとすでに誓ったのです」
「それはドゥフォール男爵に?」
ト書きをみると『本当はアルフレードの父との誓いなのだが、涙を飲んで肯定する』とある。
間をおいた方がいいのかな。
「……ええ、そうよ」
「彼を愛してるのか?」
うわあ。
実際に読み合わせるまでは何とも思わなかったけど、大好きな人の声で不実を問われるのって、想像以上に堪える。不快感が胃を押し上げてきた。
「ええ、そう。彼を愛してるの」
それでも心を鬼にして声を絞りだすと、図らずも苦しそうな声になり、ヴィオレッタの苦悩を上手く表現できた。紅の顔がみるみるうちに曇る。
そんな顔しないでよ。これはお芝居だよ、お芝居。
あ、もしかして紅のその顔もお芝居? 何がなんだか分からなくなっちゃう。
くそー。椿姫を選んだヤツ出てこい!
紅も同じことを思ったらしく、大きな溜息をついて「ちょっと休憩」と立ち上がった。
「えー。ここからがむしろ本番でしょ?」
メジャーとサイズ表を突き合わせ格闘していた美登里ちゃんが、手元のシャツから目をあげて唇を尖らせる。
「一番の長セリフはこの後じゃないの」
そこまで言われたら後には引けないのが紅だ。私と同じで、かなりの負けず嫌いなんだよね。
「……この女を見ろ! 僕の為に全財産を手放し、哀れみを施してきたこの女を。惨めで卑怯な僕は今まで気付かなかった。だが今夜こそ、汚名をそそぎたい。さあ、証人になってくれ。これで弁済してやる!」
この台詞を言い終えるのと同時に、アルフレードはカード賭博で勝ち取った札束をヴィオレッタに投げつけるんですよ。小道具がないので、今は台詞だけ。
衝撃と悲しみに襲われ、気を失うヴィオレッタ。
ここで私は上手く長椅子に倒れ込まなきゃいけない。本当に何もない床にバタンといったら、脳震盪の悲劇再びだよ。練習しなきゃな。
そして居合わせた人々がアルフレードを盛大に非難する中、彼の独白に続く、という見せ場でもある。
紅は立ったまま、うつむき加減に次の台詞を口にした。
「なんという恐ろしいことをしてしまったんだ。……嫉妬と失意に魂を切り裂かれ、理性を失い、彼女に許しを乞うことも出来ない。別れをどうしても受け入れられなかった。怒りの発作に駆られ、愛する人に酷い仕打ちをしてしまった僕には、もう何も残ってはいない。――ああ、ヴィオレッタ。僕はなんて愚かなんだろう」
ぐすん、ぐすん、と鼻をすする音が聞こえてくる。
後輩諸君。聞き耳立ててないでちゃんと仕事しろよおおお。でも気持ちは分かる。めちゃくちゃ真に迫ってるんだもん。もらい泣きしそうだよ。
何度か咳払いした後、ようやく私も自分の独白部分の台詞を言うことが出来た。
「ねえ、アルフレード。私の心の内はあなたには分からないでしょう。全ては愛のため。あなたを愛してるからだと。――ご存知ではないのだわ。あなたの軽蔑を受けてまで、どんな犠牲を払ったか。でもきっといつの日か、気づいてくださるに違いない。命尽きる最後のひとときまで、私はあなたを愛し続けます」
思わずヴィオレッタに感情移入してしまい、私は紅を見つめ、心を込めて言葉を紡いだ。
ぐっと拳を握り締めた紅は、私を見つめ返すと、目を逸らさないまま叫んだ。
「もういいだろう! 休憩させてくれ」
熱い手の平に腕を取られ、強引に外に連れ出される。
「この演目、火に油じゃないの?」
「ほんまアカンわ。友達カップルのリアル愛憎劇とか勘弁して下さい」
背後から美登里ちゃんと栞ちゃんの声が追ってきた。ええ。私も激しく同意です。このままいくと、劇を鑑賞した全ての人の手で爆発させられてしまう。
人の少ない中庭の噴水近くまで来た紅は、その場所が例の事件現場だったことをうっかり失念していたらしい。
顔色を変え「悪い」と呻きながら、きつく抱きしめてきた。いやもう、私も正直忘れてましたよ。
何とかなだめようと、一定のリズムで広い背中をさする。
結局、小一時間ほど中庭でのんびり休憩することになった。
私の膝枕で芝生に寝そべり「椿姫なんてやりたくない」と珍しく駄々をこねた紅は、本当に可愛かったです。
こんな無防備な姿を独り占めできるのも彼女の特権なんだと思うと、愛しくて堪らなくなる。どこまで好きになったら終わりがくるんだろう。
私たちがいなくなった後。
遅れてやってきたフローリアの愛人役の加賀美くんが、栞ちゃんと仲良く台本読みを始め、それを傍で見ていた上代くんがすっかり拗ねてしまうという何とも美味しい展開があったらしい。
紺ちゃんがはしゃいだ声で、一部始終を教えてくれた。
うーん。そっちも見たかったな。




