45.紺の幸せな一日
その年の25日は、やはり雪だった。
前日の学院のクリスマスコンサートを辞退し、今日のチャリティコンサートのリハーサルを優先した真白ちゃんに、トビーはいたく腹を立てている。
己の手中にいる優秀なピアニストの卵を対外的に見せびらかせるチャンスを失ったからだ。彼はいつだって成果を誇示したがる。
海の向こうの誰かに見せつけたいのかもしれない。自分は強くなった、と。
「奨学生としての自覚はないし、もっというならピアニストとしての覚悟も足りない。君のお兄さんとの交際は明らかにマシロにとってマイナスだ。どうにかした方がいいのかもね。もちろん彼女の為にだよ?」
真意を値踏みするような目つきで私を見遣るトビーに、わざと不機嫌そうな顔をしてみせた。
フイと視線を外した拍子に、車の窓を絶え間なく叩く雪の粒が視界に入る。その景色は否応なく、数年前の苦い記憶を私に思い起こさせた。
――『ああ、素晴らしい。マシロの嘆きはとても甘美だったよ、コン』
勝ったのは私だ。
それなのに今、こんなにも敗北感でいっぱいなのは、あの子が幸せではないから。
気づかれてしまったのは、全くの計算違いだった。こうなるはずじゃなかった。どこで間違えてしまったんだろう。
後悔がまとわりついて離れてくれない。
トビーは油断している。理想の音の代わりを見つけたと安心しきっている。
一年目の学内コンクールでライバルを陥れたことが、彼の懐に入るきっかけとなった。
『君と僕はよく似てるね。目的の為に手段を選ばないところなんて特に素敵だ』
喜々としてそう告げてきたトビーに、私も共犯者の笑みをプレゼントしてあげた。
ゲームの進行通りならば、玄田 紺の卒業を待って婚約を申し込んでくるはず。
実際にほのめかされてはいないものの、私の将来について熱心に語るトビーを見ていると、あながち絵空事ではないように思えた。私も人のことは言えないが、彼はかなり歪んでいる。
「真白ちゃんには構わないという約束のはずよ。あなたの好みが恋よりも音楽を優先する女だからって、彼女に同じことを求めないで」
「……今日はずいぶん生意気だな、コン。それとも嫉妬?」
私の頬に手を添えたトビーの瞳が、濃い影に彩られる。
彼の過去に触れるのは得策ではないと知っていたのに、つい口を滑らせてしまった。
流石に外では指一本触れてこようとはしない彼だが、残念なことに今はトビーの所有する車の中。運転手は後部座席で起こることに一切関心を持たないよう訓練されている。
私は仕方なく、ひんやりとした唇を受け入れた。
トビーの名誉の為に言っておくと、彼のキスはとても上手だ。
年の離れた少女を相手にしているという自覚もあるのだろう、きちんと手加減もしてくれる。私の心が過去に囚われたままでなければ、容易く懐柔されていたかもしれない。
「君の心の氷はいつになったら溶けてくれるんだろうね。さっきのはほんの冗談だよ。マシロには何もしない」
キスで機嫌を治すのは無理だと悟ったのか、トビーは体を離し、呆れたような眼差しを向けてきた。
「僕では不満かい? コン。キミの望むことは全て叶えてあげると言っても? うんと甘やかしてあげるのにな」
理事長ルートをクリアした私がトビーの傍に居続けているのには、二つの理由がある。
一つは私の中でくすぶり続けている復讐心を満足させる為。トビーがあの子に与えた苦しみを許すつもりはなかった。つかの間の夢に酔えばいい。私は消え、あなたはまた一人になる。記憶が残ればいいのに、とさえ思っているのだから重症だ。
全てを委ね切ったような表情をこしらえ、一見華奢だが実はしっかりと鍛えられたトビーの体躯に寄り添う。
体つきと同じで、見かけ通りではなく一筋縄ではいかない男だ。自分の思い通りにならない真白ちゃんへ、ある種の執着を抱いているんじゃないか、と私は危惧していた。
そう。二つ目は、トビーとあの子をこれ以上接近させない為。
「本当に私を自分のものにしたいのなら、まずはあなたが私のものになってくれなきゃ。女は欲張りだし、余所見には敏感なものなのよ」
独占欲と熱をこめて目の前の男を見つめる。
この10年ですっかり演技は上手くなった。
自分の元の人格がどんな風だったかなんて、今ではすぐに思い出せない。もうとっくに『花香お姉ちゃん』のようではなくなってしまってるのは確かだ。
トビーは困ったように微笑むと、私の髪にやさしくキスを落とした。
「僕はコンのものだよ。少なくとも、キミがピアノを奏でてくれる間はずっとね」
トビーは時々こうやって、驚くほど正直に手の内を見せてくる。
私を警戒していないわけではないから、きっとそれが彼の本質なのだろう。嘘のつけない人。だけど若かりし頃の初恋が、彼をすっかり捻じ曲げてしまった。
「じゃあ、おばあさんになってもあなたの為に弾いてあげる」
華やかに笑ってみせると、トビーは「そう願うよ」と低く囁き返してきた。
そのまま私の小指を掬い上げ、やさしく自分の指に絡める。甘い指切りに私はうっとりとした表情を浮かべることにした。
あと一年、お利口にしててね。
あの子がこの学院を出て、自分で自分の身を守れるようになるまでは、私の隣にいて。
柔らかな金の髪に空いている方の手を伸ばす。17の少女らしく躊躇いがちに梳いてやれば、トビーはくすぐったそうに目を細めた。
コンサートホールにトビーと連れ立って入ると、彼を知っている沢山の大人達から次々に声をかけられた。
大抵の人は私の名前と容姿に、軽く瞠目する。
それから厭らしい笑みをトビーに向けた。なるほどね、というような納得の笑み。
不躾な視線を遮るように立つ位置を変え、トビーは手早く最低限の挨拶を済ませていった。森川理沙の代用品だとしても、どうやら特別扱いをするつもりはあるらしい。
先に客席に来ていた紅は、私の連れをみてあからさまに眉をひそめた。
「こんにちは、成田くん」
それが愉快なのか、トビーは上機嫌で兄に声をかけた。
「どうも。大学のコンサートはよろしいのですか? 妹をエスコートしてこちらに来て下さるとは思いませんでした」
紅の鋭い視線は、私の方にも飛んでくる。
どうしてこんな男と。そう云わんばかりの兄に、ため息をこらえながら目顔で謝罪を伝えた。
「マシロの出るコンサートの方が、僕にとっては優先度が高いからね。それに今日はアユミも一緒だ。聴きに来ない方がおかしいだろう。コンも一人でくるのは寂しいだろうと思って誘ったんだけど、余計な配慮だったかな?」
あえて私たち二人の名を親しげに口にしたトビーと紅の間に、見えない火花が散る。
「紅くん、どうしたの?」
「……いえ。何でもありません」
花香さんがタイミングよく声を掛けてくれて助かった。
兄の後ろには、花香さんだけでなくご両親まで揃っているのが見える。
会場まで一緒に来たのだと分かり、胸のうちがゆっくりと温まった。
良かった。本当に良かったね。
紅は真白ちゃんのご家族にも、しっかり認められているんだ。
――残る障害は、私だけ。
トビーはつまらなさそうに肩をすくめると、如才なく花香さん達に今日の祝いの言葉を述べた。父さん達はそれは嬉しそうだった。誇らしさではち切れそうな笑顔に、私まで嬉しくなる。
「さて。お手並み拝見といこうか」
トビーはゆったりと座席に背をもたれかけさせると、おもむろに足を組んだ。
彼のからかうような呟きに、不安が渦巻き始める。
真白ちゃんの演奏を聴くのは、本音をいえば怖かった。
最近の彼女とは、全く話せていないのだ。
40分を超えるコンチェルトを最後まで弾ききる精神状態にあるのかどうかさえ、分からない。
疲れ果てた顔でよろよろと学校にやってくる真白ちゃんの隣には、紅が常に寄り添っていて、近づこうとする者全てを拒絶していたし、真白ちゃん自身も思案げに俯いていることが多かった。
必要以上に接触するのはやめよう、と決めたばかりだったから、必然距離は遠ざかっていく。
「でっかいコンサートやし、しかも松島亜由美との共演やろ? そら神経も尖るって。全部終わるまでそっとしといたげよ。な?」
上代くんの言葉に、蒼くんも「今回は紅がそばにいるのを許してる。だから大丈夫だよ」と口添えした。
心配していた美登里ちゃんたちも「それもそうね」と納得したようだった。クリスマスコンサートの準備が始まり、各自忙しかったのも結果的には良かったのかもしれない。あれこれ気を揉む暇もなく、今日という日がやってきたのだから。
やがてアナウンスと共に客席のライトが落とされ、ステージ上の音が止んだ。
向井健太郎を後ろに従え、舞台上に現れた真白ちゃんは、本当に綺麗だった。
母たちが真白ちゃんのご両親と相談しながら拵えたコンサートドレスの色は紅。
カクテルタイプのロングドレスがとてもよく映えている。真白ちゃんは颯爽とした足取りでピアノの前までくると、深く一礼した。
落ち着き払った瞳が、ほんの一瞬、私を捉える。
うまく眠れないのか目の下に酷いクマを作っていた真白ちゃんは、どこにもいなかった。
凛と頭をあげ、彼女はストンと椅子に腰を下ろす。緊張なんて微塵も見当たらない熟れた仕草だった。
鼓動が急速に高まる。
ああ。
とうとう決断してくれたんだね。
誰に笑われてもいい。
私には分かる。
分かるよ。
ラフマニノフ作曲 ピアノ協奏曲第三番 ニ短調
静かに奏でられ始めた弦に、柔らかなピアノの音が重なる。
一音目で、全身に鳥肌が立った。
危うく漏れそうになった嗚咽を抑える為、私はきつくハンカチを口元に押し当てた。
『花ちゃん。どうしよう。全然うまくいかないや』
何にでも一生懸命だったのに、努力の方向がうまく噛み合わないのか、あの子は時々落ち込んで両目いっぱいに涙をためた。両親や友達には心配をかけまいと、道化のように明るく振舞うことが多かった里香が、弱音を吐くのは私に対してだけ。
そんな妹が可愛いやら、いじらしいやらで、どんなことからも守ってあげたい、と強く願った。
いつかその努力が身を結ぶ日がくるに違いない、と信じてきた。
ほらね。
お姉ちゃん、言ったじゃない。
里香はだいじょうぶだ、って。
重厚な和音を駆使したアルペジオを、彼女は表現豊かに奏でていく。
非常に高い技術が要求される大カデンツァをノーミスで弾ききった真白ちゃんに、近くに座っていた年配の男性は驚愕の息を飲んだ。
ただ音を外さずに弾けばいい、というものではない。情熱的に疾走する部分と甘くメロディアスに歌い上げる部分との対比。鮮やかなコントラスト、音色の深みもこの曲には必須だろう。
高音を連打するフレーズでは、ピアノの音が煌く光の粒ようだった。
向井さん率いるオケも素晴らしい。真白ちゃんの音に寄り添い、支え、高みへと押し上げていく。
第二楽章は、ロマンティックなオケパートから始まる。
綺麗に纏めるのではなくゆったりと境界を広げ、続くピアノを待つ指揮だった。そこに、重々しい打鍵の音が打ち込まれる。
真白ちゃんがピアノを奏で始めると、会場の雰囲気までが一気に彼女の色に塗り替えられた。心を奪わずにはおかない圧倒的な吸引力が、オーケストラと観客全員を巻き込んで、ラフマニノフの作り上げた音楽の世界に連れていく。
第三楽章の冒頭部分。ピアノ弾きなら誰もが口を揃えて「難しい」とため息をつくその部分を、真白ちゃんと向井さんは息を揃えて盛り上げていった。
指をこれでもかというほどに広げ、更にめちゃくちゃな速さで鍵盤を捉えなければ成り立たない部分に、真白ちゃんは全身に炎をともすような激しさで挑み、パッショネイトな向井さんの指揮がそれに食らいついていく。
圧巻、としかいいようのない心に迫る激しさに、涙がこぼれ落ちる。
隣に座っていたトビーも、いつのまにか足をほどき、膝の上で拳を握り締めていた。
最終部。壮大な楽曲の高まりに、うっとりと目を閉じる。
気づけば、指が楽譜の音をなぞっていた。
この先、一生弾くことのないこの曲を、あなたが弾いてくれて良かった。
その音をこんなに近くで、聴くことが出来て本当に良かった。
真白ちゃん。
あなたがくれたんだよ。
今、私の胸を大きく揺さぶっている全ての美しい感情は、あなたがくれたの。
うねるようなヴァイオリンの響きに合わせ、真白ちゃんの両腕が宙を舞う。
オクターブで上下するピアノ。向井さんのダイナミックな指揮。最後の二分間、真白ちゃんは鍵盤ではなく指揮を見つめ、渾身の力を込め鍵盤を叩いた。
最後の音がホールの天井に消えるのと同時に、客席が総立ちになる。
「すごい、凄すぎる!」
興奮しきったくだんの男性が、ブラボーを叫んでいた。
呆然としたトビーを残し、私も立ち上がって手が痛くなるほどの拍手を送った。
真白ちゃんは頬を真っ赤に染め、向井さん、そしてコンマスと握手を交わす。
向井さんはオケメンバー全員を立ち上がらせると、もう一度真白ちゃんの手を取り、客席に向かってお辞儀をした。惜しみない熱狂的な拍手がホールを満たす。
真白ちゃんは感極まったように胸に手をあて、深々と頭を下げた。
休憩を挟み、亜由美先生の演奏が始まる。
苦笑しながら舞台に姿を見せた亜由美先生を、観客は温かい拍手で迎えた。パンフレットには、真白ちゃんが彼女の愛弟子であることも載せられている。
音楽的素養のなかった8歳の女の子をここまで育て上げたことに対する賞賛も過分に含まれていただろう。
ラフマニノフ作曲 ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調
ヨーロッパでも高い評価を得ている松島亜由美の演奏は、円熟の一言に尽きた。
ドラマティックな導入部も、第二楽章のたゆたう波のようなまろやかさも、第三楽章の全合奏での盛り上がりも、全てにおいて磨きぬかれた美しさをほこり、聴衆を陶酔させる。
難しい部分をそうとは感じさせない軽やかさは流石という他ない。
真白ちゃんの演奏が若さゆえの瑞々しさと卓越したテクニックを伴った激烈さだとするなら、亜由美先生の演奏には柔らかく全てを包み込む神聖さが備わっていた。
プログラムを終え、アンコールには師弟二人の連弾が披露され、大満足の観客たちが口々に感嘆の意を述べながら客席を立っていく。
そんな中、最後まで座っていたトビーはようやく腰を上げると、私に手を差し出した。
「真白ちゃんと約束をしているの。彼女と帰るわ」
「……分かった」
言葉少なに答え、トビーはそのままホールを後にした。
彼の動揺が痛いほど伝わってくる。
だけど、そろそろトビーだって諦めなければならないはずだ。
失ってしまったものは二度と戻ってはこない。
私がこの世界で得たのは、さよならを告げる為の猶予期間だった。
楽屋へ行くと、真白ちゃんは紅をはじめ全員に外に出てくれるよう頼んだ。
母たちも来ていたが、渋々部屋を出て行く。
二人きりになった途端、さっきまでの賑やかさは嘘のように掻き消え、静寂が楽屋を満たした。母さんたちは懲りずに生花スタンドを注文したらしい。今度は5台も。
むせかえりそうな胡蝶蘭の香りの中、真白ちゃんは私をまっすぐに見つめてくる。
「花ちゃん。私は花ちゃんと一緒にはいけない。嘘つきでごめん。恩知らずで、ごめんなさい」
泣くまいと必死に食いしばり、途切れとぎれに言葉を押し出す真白ちゃんに近づき、私は思い切り彼女を抱きしめた。
「謝らないで。わたしは、うれしい」
真白ちゃんは一瞬かたまり、それから激しく首を振った。
溢れた涙を両手で覆い、私に見せまいとする。
「……なに、いってるの。――怒ってよ。命を賭けてくれた花ちゃんを、捨てるんだよ? 一生懸命育ててくれた父さん達を、二回も、捨てるってことだよ? 憎んでよっ! 絶対に許さないって責めていいからっ!」
「いやだ」
「花ちゃんっ!!」
崩れ落ちそうになる真白ちゃんを抱え、私は宥めるように痩せてしまった背中を撫でた。
「大好きだよ。あなたが忘れても、私は覚えてる。沢山の思い出をありがとう。幸せだった。本当だよ? あなたがこの世界で生きていると思えば、私だって頑張れる」
だから。
「今度こそ、幸せになって、真白ちゃん」
うわああああ。
吠えるような号泣につられ、私まで泣けてきてしまった。
違う。
この涙は、哀しいからじゃない。
腕の中から飛び立っていく妹が、あまりにも眩しいから。
だから、泣けてきちゃうんだ。
私は、幸せだ。




