43.大好きな人
理事長の挨拶でコンクールが締めくくられてすぐ、私は桔梗館を飛び出した。
紺ちゃんの姿が見えないことが不安で不安で、油断すると大声で泣き出しそうになってしまう。こんなの普通の精神状態じゃない。
頭では分かってるのに、止められない。
学院中を駆け回り、ついに中庭で1人ベンチに座っている紺ちゃんを見つけた時は、理不尽にも猛烈に腹が立った。
「どこに行ってたのっ!?」
狂気じみた形相で自分に掴みかかってきた手をかわそうともせず、紺ちゃんはぼんやりと私を見つめ返した。がくがくと両肩を揺さぶられるたび、彼女の艶やかな長い髪が血ような夕陽に踊る。
「……おめでとう。優勝したのでしょう?」
やがてゆっくりとした穏やかな声が戻ってきて、気が抜けた私はその場にしゃがみこんでしまった。
「――したよ。弦楽器科では紅が一位だったし、管楽器科では美登里ちゃんが一位だった。けど、みんな入賞した。上代くんは二位だったよ。うちのクラスの子はスゴイって、後藤先生が嬉し泣きしそうになってた」
「ふふ。良かったね」
彼女は心からそう思ってるというように嬉しそうに呟くと、静かに立ち上がった。
沈む直前の陽の光を背中に背負い、私を見下ろす。
逆光のせいで、顔はまるで見えなかった。
「真白ちゃん」
「なに?」
「ごめんね」
「なにが?」
理由もないのに、ポタポタと涙が溢れてくる。
ここにちゃんと紺ちゃんはいるのに。
私と彼女はずっと一緒なのに。
「いろいろ。……もっと賢かったら良かったな。そうしたらもっと色んなことが、ちゃんと出来たと思うんだ」
「花ちゃん?」
「帰ろう、真白ちゃん」
差し伸べられた手に慌てて縋り付く。
彼女を振り仰いだ瞬間、薄闇に浮かんだ微かな星の光が視界に入り、私はさらにしゃくり上げた。
『えー、分かんない! 星座、難しいよ』
『んーと。ほら、あれ。西の空を見て。地面すれすれに明るい星が見えない?』
『あ、あれなら分かる』
『うん、それが金星。それに、ほら。南の空の高いとこ。そう、そこ。あれがアルタイルだよ』
『アルタイルってわし座だっけ』
『せいかーい!』
中学生の頃。
理科の単元テストで見事赤点を取ってしまい、しょんぼりと帰宅した私を見かね、花ちゃんは夜ご飯の前に家から少し離れた公園に連れ出してくれた。
人気のない公園のブランコに腰を下ろし、花ちゃんは空を指差しながら星の名前をあげていった。
せいかーい、と笑った時の弾むような声の調子を、今でも思い出せる。
『再テストも全然わかんなかったらどうしよう』
『大丈夫、大丈夫。里香なら絶対、だいじょうぶ!』
根拠のない大丈夫、は姉の口癖だった。
その言葉にどれだけ救われたことか。
今私たちが目にしている光は、すでに消えた星の残滓かもしれないんだって。
そう教えてくれたのも花ちゃんだった。すごいなあ、物知りだねと感心する私に姉は、「好きな曲の歌詞にあったの」と恥ずかしそうに笑った。
勉強も運動も中の下くらいだった私は、努力するしか能がなくて、しかもその努力も空回りすることが多かった。そんな私が自分の無力さに絶望しそうになった時はいつだって、花ちゃんが手を引っ張ってくれたのだ。
転生してきてからだって、紺ちゃんがいつも私を支えてくれた。
もし彼女がいなかったら、どうなっていただろう。
ああ、そうか。
何もかもが不意に腑に落ちた。
紺ちゃんを一人にしたくない、なんて綺麗事だ。
私はあの頃と何も変わってない。
醜い願望を砂糖みたいに甘い言葉で、自分からも上手に隠してしまう。
いまさら一人は、こわい。
こわいよ、花ちゃん。
紺ちゃんに手を引かれ、音楽の小道の前までたどり着く。
ぼんやりと浮かび上がる街灯の下で、紅が私たちを待ち構えていた。
「怒らないであげて」
「分かってる。……行こう、ましろ」
紺ちゃんはそっと、でもきっぱりと私の手を外し、一度も振り向かずに去っていってしまった。
私は初めて幼稚園に預けられた幼児のように、頑固にその場に踏みとどまり、小さくなる姉の背中を見送った。奥歯を噛み締め、紅に涙をみせまいと努力はしたけど、無駄な結果に終わる。
見事に一位を獲ったことへのお祝いの言葉も述べず、勝手にホールを飛び出し、そして今は黙りこくってる自分勝手な私を責めてもいいのに、紅は黙って隣に並んできた。
煌々と暗闇に浮かぶ大きな寮の建物が見えてくるまで、紅も私も無言のまま。まるで誰かのお葬式の帰りのような重苦しい空気が二人の間を満たす。
「送ってくれてありがとう。ご飯の時に、またね」
何とか気持ちを立て直すことが出来た私は、ことさらニッコリ笑ってみせた。
紅はひとつ頷き、それから私の頭を何度も撫でてくれた。
すっかり日は落ちてしまっていたし、後ろめたさで紅の顔がまともに見られなかった私は、気付かなかった。
その時の紅がどんな表情を浮かべていたかなんて。
美登里ちゃんから呼び出しをくらったのは、秋休みに入る直前の放課後だった。
外出届けを出してきて、と言われたので、一旦寮に戻り制服から着替えて外門で美登里ちゃんを待つ。
一緒に来たがるかと思ったけど、紅はあっさり「楽しんでおいで」と送り出してくれた。
「どうしたの、美登里ちゃん。急に二人きりで話がしたい、なんて」
会員制のレストランなどという、またいかにも高級そうな場所に連れてこられ、こっそり所持金を確認していた私は、美登里ちゃんの纏う雰囲気がいつもと違うことに気づき恐る恐る尋ねてみた。
「マシロに払わせるつもりはないからね。どこでも良かったんだけど、静かに話せる場所を他に思いつかなかったの。何でも食べたいものを注文して?」
「そう言われても……」
お金の心配してたの、顔に出てたのかな。
メニュー表を穴があくほど見つめてみたけど、値段がどこにも載ってない。
時価か! 全部時価なのか!
「いいわ。適当に注文するから」
美登里ちゃんは苦笑しながら私からメニュー表を取り上げると、音もなく現れた黒服のギャルソンさんにお任せのコースを頼む。
ここはどうやらフランス料理のお店だったみたい。
崩しちゃうのが勿体無いくらいにデコられたお皿に小さく歓声をあげ、それはそれは繊細な料理に舌鼓を打ちましたよ。美味しい! 量も多すぎないし、甘いのと辛いのとしょっぱいののバランスが絶妙な献立ですよ。
料理が運ばれてくる間は、最近見た映画や気になるコンサートの話、最近始まったヴェルデ・フレスコ・オーケストラとの音合わせの話なんかで盛り上がった。
「向井健太郎って結構有名みたいね。どう? やっぱり厳しいの?」
「うーん。オケメンバーには容赦なくダメ出ししてるけど、私にはそれほどでもないかなあ。君はお客さんだからおもてなしするよ、って言われてるし」
「お客さん、ね。マシロがどんな演奏をしようと合わせるよ、っていう自信なのかしら」
「それもあるかも。あと、私からもっと来い、って暗に言われてる感じかな。夏に合わせた野上さんとはまた全然違うから、正直戸惑ってるよ」
「セミナーは生徒として参加したわけだしね」
「うん。野上さんは先生みたいだったけど、向井さんはもっとこう……対等にやろうとしてくれてるのかな。だけど、正直なところどんな風に演りたいかなんて明確なビジョンを持つとこまでいってないし、しかも亜由美先生との共演でしょ。嫌でも比べられるんだよ。私にはまだ早かったかな、って思ってる」
「あら、珍しいわね。マシロが弱音を吐くなんて」
本気で驚いた風な美登里ちゃんに、照れ笑いもどきを返した。
本当は心底どうしようかと悩んでいたけど、美登里ちゃんの前では「強くて無敵なマシロ」でいたい。しょうもない見栄っ張りです。
デセールと濃いめの紅茶が運ばれてくると、美登里ちゃんは居住まいを正して私をじっと見つめた。
真剣な眼差しに、私もつられて背筋を伸ばす。
「ねえ。私が口を出す筋合いじゃないって分かってるけど、最近、コウとはどうなってるの?」
思いもよらない問いかけに、私はポカンと美登里ちゃんを見つめ返した。
……どう、とは……ハッ。まさか男女の仲の進展具合でしょうか。
どうにもなってないよ。本当だよ! 練習室のアレはノーカウントでいいよね。うん、もう忘れた。時々ふとした拍子に思い出したりはしてないです。
「本当に気づいてないの?」
どう答えたものか、真っ赤になってもじもじし始めた私を呆れたように眺め、美登里ちゃんは静かにフォークをテーブルに戻す。
「他に好きな人が出来たのなら、正直に伝えるべきだわ」
「はい!?」
さっきから美登里ちゃんの言ってることが全然分かりません。
「出来てないよ」
「じゃあ、マシロはコウが好きなのね」
「うん」
「なら、どうしてもっと大切にしないの?」
ストレートな台詞と怒ったような瞳が、抜き放たれた剣となって喉元に突きつけられる。
私は息を呑み、何度も唇を開け閉めした。
情けないことに「してるよ」と言い返すことが出来ない。
「二年になってからかしら。ううん、そのちょっと前からかもしれない。コウはとても辛そうだわ。マシロが秘密主義なのは今に始まったことじゃないし、事情だってあるんでしょう。だけど、隠すなら隠すでもっとちゃんとコウに気を配ってあげなさいよ。中途半端に情けをかけて、肝心なところでは手を引っ込めて」
「そんなつもりじゃ」
「ないのなら、今度しっかり見てごらんなさい。それでも私の言ったことが分からないのなら、あなたの鈍さは凶器だわ」
かなりキツい言葉で弾劾されているというのに、不思議と美登里ちゃんへの反感は湧いてこなかった。
その通りなのかもしれない、という自省ももちろんあるけど、それだけじゃなくて。
美登里ちゃんは今にも泣きそうだった。
全身で私が羨ましい、と叫んでるみたいだった。
反省は後からゆっくりすればいい。今は美登里ちゃんが気になって仕方ない。
「美登里ちゃん、もしかして紅が好きなの?」
「え? ……ふふ。そうなら良かったわね。コウを好きになれたのなら、ふらふらしてるマシロから奪ったのに」
自嘲に似た微笑みを浮かべ、美登里ちゃんはきっぱりと首を振った。
「私が好きなのは、うんと昔からたった1人だけ。絶対に手の届かない1人だけよ」
愛しそうに唇に乗せたその言葉に、私はただ項垂れるしかなかった。
詳しいことは何もわからないけど、美登里ちゃんは自分ではどうにも出来ない苦しい恋をしているのだと、痛いほど伝わってきたからだ。
「蒼でもないんだよね」
「違う。でも、ソウは知ってると思うわ。直接確かめたことはないけどね」
確信に満ちた受け答えに、私はなるほどと納得してしまった。
2人の間にある絆のようなものは、きっとソレだ。お互いに隠し持っている誰にも触れられたくない部分を、蒼も美登里ちゃんも把握している。そして見て見ぬふりをすることで、ある種の協定を結んでいるんだろう。
「教えてくれてありがとう。私ね、紅がすごく好きだよ」
お返しというわけではないけれど、せっかく手にした貴重なものが壊れてしまう前に気づけ、と警告してくれた美登里ちゃんに、私は話せる範囲で事情を説明することにした。
ああ、また格好つけてる。
誰かに懺悔したくてたまらなかったから話すことにした、が正解だ。
「だけど、ずっと一緒にいられるとは思っていない。その諦めが、紅や美登里ちゃんを傷つけてるんだね」
「どうして? 好き同士なのに、どうして一緒にいられないと思うの?」
「理由なんていろいろあるでしょ。どっちかが違う誰かを好きになっちゃうかもしれないし、そうじゃなくても好きな気持ちが薄れたりとか。価値観が合わなくなったり、将来の方向性が違ってきたり」
もっともらしい可能性を一つずつ数えていけば、美登里ちゃんの眉間の皺はその都度深くなった。
「全くリアリティないわね」
「うん。……ホントだね」
どちらかを捨てねばならないからだ。
紺ちゃんか、それとも紅か。
元の家族との生活か、それとも今世の全てか。
私は、忘れないことを選んだ。
そして、より安全な方を。
全ては自分を守る為に。
好きな人に好きになってもらえる。
それは奇跡に近いことなのに、私は紅を手放そうとしている。
もう二度と誰のことも好きにならなければ、それが紅への贖罪になるとさえ思っていた。
美登里ちゃんの車で寮まで送ってもらい、玄関の前で時間を確認すると、まだ門限まで30分くらい時間がある。
私は携帯を取り出し、メモリーの一番上に登録してある人の番号を呼び出した。
「はあ」
大好きなその人は窓をガラリと開けるなり、特大のため息をついた。
笑って誤魔化そうとした私を、呆れ顔で眺め人差し指で招く。
私は大人しく窓際に近寄っていった。
花桃寮の各階にあるバルコニーは、山茶花寮にはついていない。その代わり、花壇がぐるりと巡らせてある。等間隔にきちんと植えられているダリアを踏まないよう注意を払いつつ、窓枠に手を乗せた。
「何のつもり?」
「ロミオとジュリエットみたいでしょ。一回やってみたかったの」
他の部屋の住人に気づかれたら大変だ。ぎりぎりまで声をひそめる。
紅は一瞬目を大きく見開き、それから素早く右手をあげ口元を押さえた。こんな状況じゃなかったら、私のくさすぎる台詞に大声で笑いだしてたんだろう。
笑いの発作をおさめ、紅は私を可愛くてたまらない、といわんばかりの表情で見つめてくる。
「役が逆だろ。これじゃお前がロミオになる」
「ただ一言、私を恋人と呼んで下さい。そうすれば私はロミオではなくなります」
調子に乗ってシェイクスピアを引用してみせると、紅はパジャマに薄手のパーカーを羽織っただけの目に毒な姿で、やすやすと窓を越えてきてしまった。開襟の襟ぐりから色っぽい鎖骨がのぞいている。
裸足が寒そうで見ていられない。出てこなくても良かったのに。
抗議しようとした私の唇に人差し指を当て、紅は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「しー。おいで、俺のジュリエット。入口まで護衛してあげる」
他の男子高校生が口にしたら、思いっきりグーパンを腹に叩き込みたい台詞だけど、流石は学院の王子様。鳥肌の代わりに胸がキュンとしてしまう。
普段と変わらない余裕の笑顔を、美登里ちゃんのアドバイスに従ってじっと探ってみることにした。
『なに見てるの。惚れ直した?』
そんな軽口でからかってくると思ったのに、私の不躾な視線に気づいた彼は、フイと視線を外してしまう。
ほんのり染まった耳を見て、私は愕然とした。
どこか変わったと去年の冬くらいから気になっていた。その違和感の正体に、ようやく思い当たったのだ。
違う。私の知ってる紅じゃない。
ねえ。どうしちゃったの。
トビーへの剥き出しの警戒心といい、嫉妬と不安がないまぜになった暴走といい、百戦錬磨の紅様はどこにいっちゃったのよ。
私が、あなたを変えたの?
そうなの? 紅――――。
「わたしが急にいなくなったら、どうする?」
気が付けば己にきつく戒めていた言葉が口から飛び出ていた。しまった、と思った時にはもう遅かった。
架空の他愛もない質問。
恋人の愛情を試すちょっとしたお遊び。
そんな風に流して欲しい、ときつく唇を噛む。
紅はぴたりと足をとめ、私に向き直った。
お風呂上がりの石鹸の香りが夜風に乗って鼻腔をくすぐる。
おもむろに両手をつなぐと、紅は私をまっすぐに見下ろしてきた。
「探すよ」
深い菫色の瞳に哀しい影が見え隠れし、美登里ちゃんの言う通り紅はずっと傷ついてきたんだ、と私に知らしめた。突拍子もない質問にすぐに答えてくれるのだってその証拠。
紅もうっすら勘付いていたんだ。手を離されたことに。
決然とした低い声に、私は棒立ちになった。
「会えるまで、どれだけでも探す」
「……いなくなったことすら、忘れさせられたら?」
きちんと声になっていたかも定かじゃない。
それでも紅は私の言葉を聞き取ってくれた。
「それでも思い出すだろうな。真白がいなくなったことに俺が気づかないわけない。ここが昔みたいに欠けてしまうんだから」
私の両手を持ったまま、紅はその手を自分の心臓に押し当てた。
極めつけの殺し文句に私は目が眩みそうなほどの多幸感を覚えた。
と同時に、恐ろしいほどの罪悪感が襲いかかってくる。
――――私との記憶を完全に消されたら、紅はどうなっちゃうの?
紺ちゃんに転生のからくりを打ち明けられた時から、なぜか私は信じきっていた。
紅も蒼も、両親も花香お姉ちゃんも。美登里ちゃんだって栞ちゃんだって。
たとえ私と紺ちゃんが跡形もなく消え去っても、何の影響も受けずに、この先の人生を歩んでいくんだと。
そうではないかもしれないという可能性と、改めて思い知らされた紅への恋慕に、頭の中はまっしろになった。
Parting is such sweet sorrow,That I shall say good night till it be morrow.
(お別れがとても甘い悲しみだから、朝までおやすみを言い続けていたい)
ロミオとジュリエットの一節が脳裏に浮かぶ。
大好きな人が2人いたとして。
どちらかにお別れを告げなければならないとしたら、紅はどうする?
聞きたかった最後の問いは、激しい胸の痛みと共に飲み込んだ。




