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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
151/161

42.学内コンクール

 寮祭の次の大きなイベントは、学内コンクールだった。

 

 今回はしっかり氷見先生と話し合ってエントリー曲を決めました。

 年末に演奏することになっているピアノ協奏曲がラフマニノフということもあり、同作曲者のピアノソナタ第二番を勧められる。サディア・フランチェスカコンクールの決勝で富永さんが弾いた曲だ。

 1931年版の楽譜を取り寄せてもらい、それでレッスンを受けることになった。

 原典版を冗長だとして自ら改訂版を書いたラフマニノフだけど、その改訂版が気に入らなかったウラディミール・ホロヴィッツが編曲しなおしたホロヴィッツ版と呼ばれるものもあるんだよね。原典版のCDを持ってるけど、すごく素敵なのに。どこに納得がいかなかったんだろう。


 「まあ、その辺は関連書籍を読むと色んなエピソードが拾えて面白いが、今はひとまず曲に集中しろ。とにかくコンクールまでに仕上げないとな」


 氷見先生がそう言ったので、私も素直に頷いた。

 ああ、時間が欲しいなあ。

 もっと色んなことを知りたいし、色んな名盤を聞きたいし、コンサートだって。

 ……ないものねだりをしていたって仕方ない。

 私は気持ちを切り替え、ぎっしり音符が詰まった真っ黒な楽譜と格闘することにした。


 

 そして迎えたコンクール参加者発表の日。

 去年、紺ちゃんが倒れた日だ。

 あの時の衝撃と恐怖を思い出すたび、今隣に紺ちゃんがいてくれることに心から感謝したくなる。奇跡とは呼びたくない。だって紺ちゃんが長い年月、孤独に耐えながら努力して勝ち取った勝利なんだもん。

 渡り廊下の掲示板には、去年と同じように大勢の生徒がすでに群がっている。

 何だか胸がいっぱいになって、たまらず紺ちゃんのベストの裾を握った。


 「どうしたの?」


 歌うような優しい声で紺ちゃんは私の顔を覗き込んだ。


 「……どこにも行かないでね」

 

 すごく小さな声だったのに、ちゃんと彼女は聞き取ってくれた。

 紺ちゃんはしょうがないな、というような困り顔でちょっとだけ口の端を上げる。

 だけどもちろんだよ、とは言ってくれなかった。


 「どうしたの、マシロ。ほら、前が空いたわよ。見に行きましょ!」


 彼女の態度に引っ掛かりを覚え更に言い募ろうとしたその時、近くにいた美登里ちゃんが上機嫌で私の左手を引っぱった。

 弾みで紺ちゃんのベストから指が離れる。

 ハッと振り向いた時にはもう、彼女は人波の向こうに見えなくなっていた。

 いつかこんな風に突然、目の前から消えてしまいそうで怖くなる。


 前世の私はどんな些細なことでも花ちゃんに打ち明けてきたけど、彼女はそうじゃなかった。


 『花ちゃんのお友達なの?』――――『そうだよ』

 『どうして、教えてくれなかったの!?』――――『違うよ。友衣とはそんなんじゃないから』


 過去の傷がじくじくと痛み出し、胸を締め付ける。

 物心ついた時からずっと傍にいた。楽しいことも悲しいことも、何だって花ちゃんと一緒に経験してきた。些細なことで仲間はずれにされ、べそべそ泣きながら家路を歩いていた時だって、家に帰れば味方がいると信じて疑わなかったっけ。

 

 どんなことでも分ち合い、支えあって生きていきたい。

 盲目的に請い願うその気持ちは姉への依存なのだと、私は気付けなかった。


 

 焦燥感と不安にかられ辺りを見回す私の腰を、大きな手がさらう。

 気がつけば紅が隣にぴったり寄り添い、心配そうにこちらを見下ろしていた。


 「ましろ、大丈夫か。顔色が悪い」

 「……去年のこと、思い出しちゃって……でももう平気。どれどれ?」


 明るい声をお腹の底から引っ張り出し、張り出された白い紙を注視する。

 頬にはまだ紅の視線を感じていた。


 去年約束した通り、いつものメンバー全員がエントリーしている。

 学年は関係なしで科別に優勝者が選ばれるシステムだから、紅と蒼はライバル同士ってことになるんだよね。私と上代くんもそうだし、美登里ちゃんと栞ちゃんもだ。


 「面白くなってきたわね。他のコンクールで入賞経験のある先輩方もエントリーしてるし、これは本腰を入れなくっちゃ」


 瞳を爛々と輝かせ始めた美登里ちゃんに、栞ちゃんも負けずに「うちだって頑張るし!」と宣戦布告を叩きつけている。上代くんと蒼は相変わらずだ。

 

 「チェロ専攻からは他に誰が出とるん?」

 「さあ。知らない人」

 「え!? ちょ、待って。もう俺ら一年半もこの学院におんのやで? 知らん人っておかしいやろ」

 

 賑やかなおしゃべりが続く中、私はピアノ科の名前が並んだ部分を何度も見直した。

 富永先輩が出ないことは知っていた。そろそろ受験の準備を進めたいって、夏のセミナーで言ってたし。だけど、紺ちゃんの名前がないのはどうして? そりゃ一回出場すれば義務を果たしたことにはなるけど……。


 「紅、ごめん。紺ちゃん探してくる」


 身を捩って紅の手を外し、後ろの人に頭を下げながら列を抜けた。

 紺ちゃんを探さなくちゃ。ちゃんと話をしておかないと、()()()()()()()()()()()()()()

 ピアノを止めてしまうつもりなんだろうか。

 ここは音楽学校だ。楽器をやらない人間は居続けられない。

 

 ――もしかして、紺ちゃんは学院を出て行くつもりなんじゃ。


 「ましろ!?」


 私を呼ぶ紅の声は聞こえていたけど、遠くに紺ちゃんとトビーの後ろ姿を見つけた瞬間、全てのことが頭から吹っ飛んでしまった。

 トビーの手が紺ちゃんの華奢な背中に回され、二人は曲がり角に消えていく。まるで自分の所有物だと誇るようなヤツの馴れ馴れしい仕草に、カッとなった。

 大勢の生徒の間をなんとかすり抜け、駆け出す。

 不思議なことにゆったり歩いていたように見えた2人の姿はもうどこにもなかった。

 どこに連れていったの?

 無意識のうちに首を押さえながら、私は理事長室を目指すことにした。


 「2―Aの島尾真白ですっ」


 全力で走ったせいで息が上がっている。

 理事長室の分厚い扉を強く拳で叩き、膝に手をつき呼吸を整えていると、扉が開き怪訝そうな表情でトビーが姿を現した。


 「――――君は」

 「紺ちゃんに何の話ですか?」

 「は?」


 何を言ってるか分からないと言わんばかりの表情を上手に拵え、トビーはキョトンとしてみせる。

 白々しい。ちゃんとこの目で見たんだから。

 金髪碧眼の長身イケメンなんてこの学院にはトビーくらいしかいないし、私が紺ちゃんを見間違うなんて有り得ない。


 「紺ちゃんっ!」


 扉に立ちふさがるトビーを押しのけるようにして中に入ると、そこには誰もいなかった。

 大きな机の上には、たった今まで仕事をしていたという風情の書類が煩雑に積み上げられている。

 部屋の隅に置かれた観葉植物の後ろまで見て回った私に、トビーは大仰な身振りで両手を上げた。


 「……何があったのかは知らないけど、これで満足かな? コンはここにいない」

 「申し訳ありません。大変、失礼いたしました」


 納得いかないけど、どうやら本当にここにはいないみたい。

 何かよからぬことを紺ちゃんに吹き込んでいるんじゃなかろうか、ととっさに疑ってしまいました。

 短絡的な私も馬鹿だけど、疑われるトビーだって悪いはず。じゃ。


 くるりと背中を向け部屋を出ようとしたんだけど、トビーが伸ばした腕に難なく引き戻されてしまった。

 紅とはまた違う大きな手に触れられた途端、ぞわりと首の後ろが粟立つ。


 「せっかく来たんだ。お茶でもどう?」

 「結構です。もうすぐSHRも始まりますし」


 トビーが友好的なのには理由がある。

 私が夏のセミナーで成果を上げたからだ。

 音楽雑誌には私と富永さんの記事だけでなく、学院のカリキュラムの素晴らしさが大々的に取り上げられていた。使えないと思っていた手駒にも利用価値が残ってたか、って見直したんだろう。ある意味ぶれない人だよ。


 「――残念。時間切れだ」


 トビーは唐突にそんなことを言って、私の腕から手を離した。

 次の瞬間、何の前触れもなく理事長室の扉が荒々しく開け放たれ、私は文字通り飛び上がった。扉が壁にぶつかる大きな音に心臓がバクバクする。

 まるで教会の結婚式へ『ちょっと待った!』をかけにきた男の人みたいに、入口には紅が立っていた。


 「やっぱりここだった。行こう、ましろ」


 トビーなど目に入らないと言わんばかりに、紅は私にだけ話しかけ、これみよがしに肩を抱き寄せてくる。全身の毛を逆立て、近寄ってくるもの全てを威嚇しようとする手負いの獣みたいになっちゃってるじゃん! エマージェンシー!

 これ以上動揺させたくない。心配かけてごめんなさい、だが落ち着け。

 大人しく紅に寄り添って背中を撫でると、ようやく強ばっていた全身から力が抜けたみたいだった。


 「言っておくけど、この子が勝手に押しかけてきたんだよ。引き取りご苦労様。次からはノックをしてもらえるともっと有難いね」

 「――次はありません。失礼します」


 揶揄するようなトビーにそっけなく答え、紅は私を連れて理事長室を出た。

 

 紺ちゃんはなんと教室にいましたよ。どうなってるんだ!

 トビーと一緒にいたよね? と問い詰めてみたものの、曖昧に微笑み「一人だったし、先に教室に戻ったよ」なんて言って頑として認めようとしない。

 学コンには出ないけど、青鸞をやめるつもりはない。ほどほどに頑張るつもり、ときっぱり断言されれば、そうですか、と引き下がるしかない。

 逆に「トビーにはもう関わらない方がいい」と注意されてしまった。それ、私の台詞だから!


 「去年あんなことがあったのに、全く分かってない」と酷く怒った紅には、放課後みっちりお説教されました。

 私だって、トビーしかいないって知ってたら乗り込んで行かなかったよ。流石にそこまでぬけてない。言い訳したかったけど、火に油を注ぎそうだったので黙って項垂れた。

 別棟の練習室に連れていかれた時点で、こりゃまずいな、とは思ったんだよ。

 ちゃんと神妙にうんうん頷いてたのに、収まりがつかなかったのか、今までされたことのない荒っぽいキスまでされた。膝に抱き上げられ、甘噛みされて舐められて。あのまま食べられるかと思いました。

 その時は紅に悪かったな、って気持ちの方が大きくてわりと冷静だったんだけど、寮に帰って落ち着いて考えてみたら、どさくさに紛れてすごいことされたんじゃ……とようやく気がついた。

 感触が蘇ってきそうになり、慌てて首を振る。

 夜なんて目が冴えちゃって、なかなか寝つけなかったよ、紅の馬鹿!




 学内コンクール当日。

 朝も早くから始まったコンクールは、今年は何のトラブルもなく順調に進んでいった。

 流れ作業のように次々とエントリーした生徒がステージに上がり、楽曲を奏で、そして下りていく。観客席の真ん中に陣取っていらっしゃるのは、専攻科目の先生たちと学院長と理事長。計10人で採点し、最後にまとめて発表する仕組みだ。休憩もなし。10分以上20分以下の楽曲という規定でエントリー人数も多いもんだから、サクサク進めないと終わらないんです。

 緊張気味の私たちとは対照的に、紺ちゃんはやけにはしゃいでいた。


 「だって、私はのんびりここでみんなの演奏を聴いていられるんだもの。高みの見物って素敵でしょ?」

 「去年の優勝者さまの特権やな」

 「そういうこと。上代くんも頑張ってね! 応援してるから」

 「おう! 任せといて」

 「……しん。鼻の下、伸びてんで。あと成田くんがめっちゃ睨んでる」

 「なんでなん!?」


 可憐に微笑む紺ちゃんに見送られ、紅たちが控え室へと移動していく。

 紅と蒼は途中で引き返してきたかと思うと、口々に「上代から離れるな」と私に向かって注意し、上代くんには「真白をきっちり見張ってろ」と命令した。前科があるから仕方ないよね。

 けど見張ってろ、ってどうなの。わたしゃリードの外れた暴れ犬か!

 二人がいなくなった後、上代くんは小さな声で「……島尾も難儀やな」と同情してくれました。

 いや、上代くんこそ。いやいや、そっちこそ。

 お互いの連帯感が高まり、緊張はほぐれた。


 弦楽器科、管楽器科、声楽科、ピアノ科の順番で名前を呼ばれるから、私と上代くんはお昼ご飯を食べてからの演奏になる。

 先に指慣らししとこうぜ、という上代くんに付き合って、私たちは練習室へ行くことにした。別々の部屋に入って、しばらくおさらい。頃合を見計らって、桔梗館エスターテハウスに戻る。

 その前に露草館アウトゥンノハウスに立ち寄り、カフェで一緒にサンドイッチを食べました。今日は食堂はお休みなんです。

 そういえば、上代くんと二人でゆっくり話すことって今までなかったな。


 「島尾はラフマか。参加してへんかったら、じっくり聴けたのになあ」

 「だよね。私も残念。自分が参加者側だと、全然ゆっくりしないんだもん。上代くんの演奏も控え室のモニター越しでしか聞けないし。栞ちゃん、もう終わった頃かなあ。そっちを聞きたかったんじゃない?」


 それとなく水を向けてみる。

 一年の頃は目をパチパチさせながら「いや別に」的な返事をしてたのに、今日の上代くんはグッと喉をつまらせ、慌てて烏龍茶を流し込んだ。

 おや。おやおや~?

 これはいわゆるアレですか? 私の中の恋の野次馬がざわめき出す。

 コンクール当日じゃなかったら、もっと追求できたのに。残念。


 「ま、まあな。けど栞は芯の強い子やから、きっと大丈夫やと思う。美坂はブランデンブルグ協奏曲のアレンジやったっけ? 栞のアルチュニアンもなかなかのもんやったから、一騎打ちになるんちゃうかなあ」

 「そっか。二人共すっごい気合入ってたもんね。聞きたかったな」

 「そういう島尾かて、ええの? 成田の応援」

 「多分今はちゃんと聞けないから。ほら、見て」


 さっきから小刻みに震えている両手を広げてみせると、上代くんは心底驚いたように目を見開いた。


 「うそやん! マジで!?」

 「いっつもだよ。演奏前はいつもこう」


 失敗するんじゃないか。頭の中が真っ白になって一音も弾けなくなるんじゃないか。

 大きな舞台の前は、いつも不安でたまらなくなる。


 「どうやってコントロールしてるん?」


 急に真剣な顔になった上代くんに、私は精一杯の笑みを浮かべてみせた。


 「悔しいから練習してた時のことを思い出すの。全部無駄にする気? そんなのやだよね? って。あとは、頭の中に思い浮かべた理想の音だけを追う感じかなあ」

 「なるほどね。俺はどうしても客席が気になってまうわ。もっと集中せなあかんな」


 お互いに頑張ろうと励まし合って、控え室に入った。

 順番を待つ生徒たちがチラホラいて、遅れてきた私たちを鋭く一瞥する。うう、この雰囲気も苦手です。

 先に呼ばれたのは上代くんだった。

 

 ラヴェル作曲 鏡より 洋上の小舟・道化師の朝の歌


 ラヴェルの曲に備わる浮世離れした不思議なイメージを聞き手に伝える為には、実は非常に冷静な自分でいることが求められる。

 旋律の美しさ、情動的なフレージング。そこにどっぷり浸って演奏することをラヴェルは許していない。音数の多さだけがネックではなく、右手と左手にちぐはぐな動きをさせたり微妙に調性をずらしてきたり鍵盤を端から端まで使わせたりと、とにかく弾きにくいのだ。

 それなのに弾きにくそうだなと聴衆に思わせた時点で失敗みたいな部分もあるので、ピアニストは水面下で足をばたつかせる白鳥のように必死の努力を隠し、軽々と指を鍵盤に舞わせるしかない。

 上代くんは腕を柔軟に使い、ラヴェルの構築した音の世界を美しく描き出した。

 ピアニッシモの今にも消えそうな儚さ。フォルティッシモの鮮烈さは花火のようだ。

 澄み切った音色が柔らかくホールを満たしていく。私はうっとりと目をつぶり、波紋のように広がるピアノの音の粒を味わった。

 一段と上手くなった。

 懸命な努力の跡がひしひしと伝わってくる。

 それに比例するかのように私の中の情熱も燃え上がった。


 ようやく名前が呼ばれる。

 足早にステージ中央まで進み出、一礼して椅子に腰掛けた。

 客席が少しざわつく。去年の騒動を知っている人たちが何か囁いているのだろう。進行係の先生が戸惑ったように私を窺ってきた。

 何の問題もない。

 黙らせる演奏をすればいいだけだ。


 軽く息を吸い、私は最初の下降音型にとりかかった。


 ラフマニノフ ピアノソナタ 第二番


 第一楽章 allegro agitato(興奮した速い速度で)

 指示通り速めのテンポで大胆に、そして鮮やかに豊かな和声を奏でていく。重々しい部分と囁きかけるかのような穏やかな部分との対比をしっかりとつけ、一音一音を丁寧に。特にフォルティッシモで音が汚く割れてしまわないよう、細心の注意を払った。

 成人男性のような体格には恵まれていないが、手の力は十分についてきてる。しっかりと鍵盤を押し込み和音を打ち鳴らした。

 第二楽章 lentoゆるやかに

 不思議な響きを持つ幻想的な旋律は、叙情的に紡いでゆく。たっぷりと間をとり、聞いている人の心に雫を垂らしていくようなイメージで。だがその雫はラヴェルみたいな透明なものではない。糖蜜のようにねっとりとした琥珀色の雫。喜怒哀楽という分かりやすい枠には収めきれない、複雑な心の揺れだ。

 第三楽章 

 最初のテンポに戻ってまずは循環主題をドラマティックに提示する。そこから第二主題へと展開していき、再現部へ。生きているうちは評価されなかったこの曲を、ラフマニノフ自身は好んで演奏したという。一体どんな気持ちで弾いていたんだろう。迷いや不安はあったかな。これでいいのか、常に自分に問うていただろうか。

 静まり返った観客席に、私の叩く鍵盤の音だけが幾重にも重なって響き広がっていくのが分かる。もっと、もっと華麗に。もっと、もっと情熱的に。

 音を濁らせないよう渾身の力を込めて最後の装飾部分を奏でた。

 

 最後の和音から体を離し、腕を下ろした瞬間、どよめきに似た歓声と共に拍手が巻き起こった。



 二年目の学内コンクールで、結局私は優勝した。

 三年目の学コンに出場するつもりはないし、これで特待生としての義務は果たしたことになる。

 一つ、重荷がおりた。

 その分心は軽くなっていいはずなのに、しんとした寂しさだけが胸の内を満たし、私は途方に暮れた。

 

 スポットライトに眩く照らされたステージ上で、表彰状とトロフィーを受け取り、それらに刻まれた年月日を食い入るように見つめる。

 あと一年と少し、か。


 「おめでとう。素晴らしかったよ」


 トビーのビロウドのような猫撫で声に愛想笑いを返し、私は同じく入賞したみんなに視線を巡らせた。

 嬉しそうにそして誇らしげに、あの蒼でさえ微笑んでいる。

 彼らの未来は、今日奏でた音楽の先に繋がっているのだ。

 心から愛しているはずのピアノもみんなも、じきに私からは切り離されるのに。


 彼らの人生がこれからも祝福多いものでありますように、と願う気持ちに嘘はない。ただどうしようもなく淋しいのも本当で、心が半分に引きちぎられそうだった。

 

 ――これで合ってる、よね?


 残されたよすがを探そうと、客席に目を凝らす。

 紺ちゃんが座っていたはずの席は、空っぽだった。



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