41.二年目の寮祭
翌日の発表会は、なんと氷見先生と莉緒ちゃんが見に来てくれました。
チケット販売は行わず招待客とセミナーの関係者しか入れない、と聞かされていたので本当に驚いた。
「松島は今年もヨーロッパツアーに出ると聞いてたからな。代わりが俺じゃ不満か?」
楽屋を訪ねてきてくれた先生が、珍しくそんな冗談を口にする。私は慌てて首を振った。
昨日のような無様な演奏を聴かせずに済んで良かった、という安堵とわざわざ来てくれた喜びで胸がつまる。
いや、ほんとに立て直せて良かった。あのまま本番だったら、氷見先生にも兄弟子から伝え聞くであろう亜由美先生にもフルボッコにされるとこだった。体は無事だろうが心が死ぬ。
「あのー、どうでしたか?」
恐る恐る聞いてみると、先生は目元を和ませ「素晴らしかったよ。来た甲斐があった」と言ってくれた。
厳しい時はとことん厳しいけれど、褒める時は言葉を惜しまない亜由美先生と違って、氷見先生はいつもフラットだ。そんな先生から貰った初めての『花マル』だった。
感激で瞳を潤ませた私の肩をぽん、と叩き、氷見先生は
「でもこれがゴールってわけじゃないからな。お前には期待してる。立ち止まるなよ、島尾」
と声に力を込めた。
とっさに「はい!」と返事をしたはいいものの、先生の姿が楽屋から消えてから、私は鏡の前の椅子に座り込んでしまった。
早く着替えて帰る準備しなくちゃ。頭では分かってるのに、足に力が入らない。
夢のようなひと時だった。
指には鍵盤の感触が、耳には嵐のような喝采が残ってる。
もっと。もっと長くあの場所でみんなと音を重ねていたかった。
ゴールってわけじゃない、か――。
本当にそうならどんなに。
危うくシリアスモードに突入しかけたその時、再び扉がノックされた。
返事をするやいなや大きな薔薇の花束を抱えた莉緒ちゃんが勢いよく飛び込んできたので、私は思わず入口を二度見してしまいましたよ。ど、どうやって入ってきたんだ、この子!
「ましろ先輩、すごかったですっ。見てください。まだ鳥肌がほら。第一楽章の先輩のパートからもう私、泣けてきちゃって……」
莉緒ちゃんは、鼻をグスグスいわせながら赤い目で興奮しまくっている。
とりあえず花束を受け取って、空いている椅子に座らせた。
「来てくれてありがとう。嬉しいよ」
「……そんな……先輩、やっぱり優しい。大好きですっ」
何がツボに入ったのか、感極まったように再びポロポロと泣き始める。
困ったな。これで涙をお拭きよ、って言ってあげたいけど今、使用済みのハンカチしか持ってないわ。イケメン要素ゼロの私。
それにしても、なぜここに莉緒ちゃんが。
氷見先生は理事長経由で招待チケットを手に入れたって言ってたけど。
「今回のセミナーの協賛にパパの会社も入ってるんです。絶対聞きに行きたい! ってゴネちゃいました。てへ」
こてん、と小首をかしげて舌を出す莉緒ちゃんは文句なしに可愛かった。
こんな調子でねだられるんじゃ、お父さんもさぞ辛かろう。うちの娘が可愛すぎてつらい、ってヤツだ。
「あれ? コウ先輩は来てないんですか?」
手提げバッグから上等そうなハンカチを取り出し、涙を拭った莉緒ちゃんは今度はキョロキョロと楽屋を見渡し始める。
「うん。っていうか、学生は誰も来てないと思うよ」
「やったっ!」
小さくガッツポーズを決める莉緒ちゃん。
なぜか得意満面の笑みを浮かべてる。
「先輩の初コンチェルトを生で聞いたのは私だけなんですね! 嬉しいな~」
さっきまで泣いてたのに、今度はニコニコしちゃってるよ。小さい子供みたい。私までつられて笑ってしまった。
「そんなことが嬉しいの?」
「そんなこと、じゃないですよ。私、先輩のおっかけ始めたの小学生の時ですから」
「ええ!?」
莉緒ちゃんの話によると、松島亜由美ファンのお母さんに連れられてしぶしぶついていった発表会で、私を見つけたのだそうだ。まるで静電気に触れたかのように、この音だ! と感じたらしい。……そうですか。ビビっときちゃいましたか。
「いつかこの人のピアノと合わせたいな~って思って、それからずっとチェックしてたんです。サディア・フランチェスカコンクールでは、兄と賭けたんですよ? 『島尾真白なんて名前、聞いたことないぞ』とか言うもんだから『絶対この人が優勝する!』って私も言い返して。ふふっ。あの時の兄の顔ったらなかったなあ」
「そ、そうなんだ」
うっとりと両手を組む莉緒ちゃんに、既視感と目眩を感じてしまった。
音楽のことになると他が目に入らなくなるこの感じ……私と似てる気がする。
「っと、ごめんなさい。演奏後で先輩疲れてるのに。寮祭、楽しみにしてます! パシリでも何でも任せて下さいね!」
パシリの意味、分かってんのかな?
苦笑してしまった私に大きく手を振り、莉緒ちゃんは嵐のように去っていきました。
いい子なんだよね。うん。可愛いし、人懐っこいし。
紅のことは苦手みたいだけど、昔の私みたいに素直になれないだけだったりして――。
いつの間にかそこまで考えた自分に驚いてしまう。
のろのろとドレスを脱ぎながら、私は何度も瞬きを繰り返した。
私がいなくなった後、紅はどんな子を好きになるんだろう。
考えないようにしていたのに、一度考え始めたら止まらない。
……莉緒ちゃんみたいな子だったりして。
そう思いついた瞬間、たまらず吐息が口から漏れた。
スタッフさん達への挨拶を終え、野上さんからは「またいつか一緒にやろうね」というお言葉を頂きました。その後、宿泊棟に戻って荷物をまとめる。
父さんは一緒についてきてくれた。
すごく良かった。とっても綺麗だった。
頬を上気させ何度も褒めてくれる父さんに部屋でぎゅっと抱きつくと、驚いたようにたたらを踏む。
「どうした、真白。珍しく甘えっこだな」
「今日くらいはいいでしょ? ちょっと疲れちゃったの」
父さんの胸に顔をうずめ、ぐりぐりと額を擦りつけた。痛い、痛い。大げさな悲鳴を上げた父さんは、それでも私の背中を優しく撫でてくれる。
あと何回こうして抱きつけるだろう。
結局、何の恩返しも出来ないままだ。
悲しくなるのと同時に、向こうの父さんと母さんの泣き顔が脳裏に浮かぶ。忘れるな、と里香が警告を発してる。
――ごめんね。もう少しだけ待っててね。花ちゃんと一緒にきっと帰るから。
連れ立って降りたロビーで、富永さんに出くわした。
私を見てパッと表情を明るくした先輩に、父さんも軽く会釈する。そのまま「先に駐車場に行ってるよ」と言い残し、荷物を持って歩いて行ってしまった。
「今のお父さん? 若いね~」
「言わないでやって下さい。本人はあれでも気にしてるんです」
「そうなんだ。いいことばかりじゃないのかな」
クスクス笑い合い、続けてお互いの演奏について話していたところへ、カートを引いた星川が通りかかった。
「お疲れ」
そっけない言葉を残して通り過ぎようとする彼に、私は思わず声をかけてしまっていた。
「お疲れ様でした。すごく良かったです、星川さんのラフマニノフ」
心からそう思ったからこそ、最後に伝えたかっただけなんだけど、ヤツはそれが気に入らなかったみたいです。
「なに、それ。嫌味?」
ピタリと足を止め、ひんやりした眼差しを私に投げつけてくる。
なんなの、この人。ひねくれようが尋常じゃない。
「はあ? 違いますよ」
「年末、同じ曲を向井さんとやるんだってね」
唐突に話題が変わる。
なんなの、この人。
心のホワイトボードに『(二回目)』って書いてやる。
「聞きには行かないから。じゃあ」
それだけ言い残し、彼はさっさと踵を返してしまった。
あっけに取られた私たちの見守る中、静かな音を立てて開いた自動ドアの向こうに小柄な背中が消えていく。
「……誰も頼んでねえだろ」
「ん? 何か言った?」
「いいえ~。じゃあ、私もそろそろ行きます。先輩もお疲れ様でした」
いっけない。ブラックマシロが降臨しちゃった。
ドスのきいた低い声は人の耳が拾える周波数ギリギリラインだったらしく、ピアニストである先輩の耳でさえきちんと聞き取れなかったようです。
清廉でまっすぐな富永さんのお耳に入れるような台詞じゃないんです。お気になさらず。
「うん。また学院でね」
爽やかに微笑む先輩に頭を下げ、私も宿泊棟を後にした。
短い時間だったけど、色んなことを私に教えてくれたセミナーでした。参加できて本当に良かった。
◇◇◇◇◇◇
寮祭は今年も大変な盛り上がりを見せ、大成功のうちに終わりを迎えた。
三年生がメインで出演する恒例の劇に選ばれた題材は、『カルメン』。
メイン四役のうちの一人、ドン・ホセをジロー先輩が熱演して、寮生の話題をさらったんです。
ハバネラや闘牛士の歌など、劇中に流した生演奏もすごく素敵で、お客さん達の反応も上々だった。栞ちゃんと上代くんは劇の方の音楽チームに組み込まれ、去年より忙しそうだった。
私と紅に割り振られたのは、ステージ係。
どんなことをするかっていうと。
たとえば次々と書き込まれていく名簿を確認し、どうしても足りないパートメンバーを探す。実行祭本部と繋がったイヤホンマイクを装着し、『弦バス1挺足りません。イチイチマルマルまでに寄越して下さい。バードランドの子守唄で他は揃ってます』とか言うの。
今年の実行委員長がミリタリー好きなせいで、時間の呼び方が特殊なことになり大変戸惑いました。
ピアノとヴァイオリンが足りない場合は、私と紅が出る。
そのことを知ったOBたちが面白がって、次々に私たちを指名するものだから、あっという間にステージの空き時間は埋まった。
おかげでですね。自由時間はゼロでした!
寮祭が始まる前はこれでもいろいろ想像してたんだよ。
屋台を回って一緒にヨーヨー釣りしたり、今年も射撃のとこにいるタクミ先輩たちを冷やかしにいったりとかさ。かき氷を2人で半分こしたりね。
莉緒ちゃんが見たこともない程豪華な5段重ねの松花堂弁当を差し入れてくれなかったら、お昼ご飯も抜きだったかもしれない。
「気が利くね。もちろん、俺も食べていいんだろ?」
ステージから降りてきた紅が、わざとからかうように声をかける。莉緒ちゃんは悔しそうに唇を曲げて「そこまで心狭くないです」なんて答えてた。
表情を和らげた紅が、私によくやるように莉緒ちゃんの頭をぽんと叩いて「後で貰うね」と笑う。
「気安く触らないで下さいよっ」
プンスカ怒りながら髪を撫で付けなおした莉緒ちゃんだったけど、頬はほんのりピンク色に染まってて、私はそれ以上見ていられず顔を背けた。
そんな資格はないとあれだけ言い聞かせてるというのに、油断するとすぐに私のヤキモチ虫は顔を出してブーブー文句を言ってくる。
ああ、もう。ひねり潰して焼却炉で燃やしてやりたい。
「どうしたの、ましろ」
「何でもない。次は私かな? 行ってくるね!」
元気よく両手の親指を立て、二人につき出して見せる。きゅっと唇の端をあげて。
「ましろ先輩のジャズピアノ、楽しみです!」
瞳をキラキラ輝かせながら莉緒ちゃんは同じポーズを返してくれた。
『クレオパトラの夢』の楽譜は初見だった。あ、もちろんCDは持ってます。カッコいいよね、バド・パウエル。
コード進行と主旋律だけを押さえ、あとはアドリブをきかせまくる。
もやんとした気持ちを吹き飛ばそうと、ノリノリで鍵盤を叩く私に盛大な拍手が飛んできた。
曲が終わったあと、名簿に曲名を書き込んだドラムの男の人に握手を求められてしまいましたよ。
「いや~、久しぶりに気持ちよかった。現役高校生はクラシックオンリーかと思ってたら、なかなかどうして。君もジャズが好きなんだね」
「ジャズもポップスもクラシックも、みんな好きなんです」
嬉しそうに破顔し、なおも話そうとする男の人の肩に、後ろから紅の手がかかる。
「すみません。次の演奏が始まってしまうので、その辺で」
「ちょっと待って。君の名前って――」
「ここはもういいから、次の人をステージにあげて」
私に向かってにっこり笑いかけた紅の目はすわっちゃってる。
慌てて繋がれたままだった手を外し、私は軽く頭を下げて簡易ステージから降りた。
その後、美登里ちゃんと紺ちゃんを引き連れ、両手に花状態の蒼が様子を見に来てくれたんだけど、紅の異変にやっぱり気づいたみたい。
「なんであんな機嫌悪いの、あいつ」
「えーっと。私が他の人とセッションした後、握手したから、かな」
「たったそれだけで? 馬鹿じゃん」
馬鹿かもしれないけど、おあいこなんですよ。だって私もひそかに莉緒ちゃんに妬いたもん。
……そうか! だから馬鹿ップルって呼ばれてるのか!
ハッと開眼した私を見て、美登里ちゃんは「何を思いついたのか知らないないけど、多分間違ってるわよマシロ」と突っ込んだ。知らないのに、なにその確信。こわい。
そうこうしているうちにあっという間に劇は始まり、私は裏方組の一員として舞台裏を走り回ることになった。
大道具はOBさんグループの担当だけど、衣装着替えとか小道具セットとかね。やることは沢山あるんですよ。
紅は先輩たちに「チョイ役でいいから出ろ!」と命令され、軍服を着せられてました。
「夏に長袖なんて、衣装係は正気か?」
珍しく文句を言いながら、紅が男子の更衣コーナーから出てくる。
黒のロングジャケットから覗く白シャツに黒ネクタイ。
革のウエストベルトに膝までのロングブーツ。
カーテンの外でスタンバイしてた一年男子に白い手袋を渡され、ため息をつきながら片手ずつ装着してる。
その気だるげな表情が醸し出してる色気と、軍服のコラボレーションの素晴らしさといったら。
――――萌え殺される。
紅の姿を目に写した瞬間、前世の私が胸の中で狂喜乱舞したのは、仕方のないことではないでしょうか。ええ。喜びの舞を踊り狂っておりましたよ。
だって、軍服コスがここまで似合うなんて……薄々そうじゃないかとは思ってたけど。でも実際に目にしちゃうとね。うん。
酒場で飲んだくれているドン・ホセに「あんな女に深入りするのはやめておけ」という台詞を吐くだけの、ホントの端役だったのですが、紅が舞台に姿を見せた途端、観客席からは黄色い悲鳴が上がった。続いて、次々とフラッシュが焚かれる。
うん、まあそうなるわな。
舞台袖からこっそり舞台を凝視していた私は、出番を終えた紅に手を取られ、そのままバックステージまで連れて来られてしまいました。
「なんて顔してるの」
「え? どんな顔してた?」
「淋しいけどしょうがない、って諦めた顔」
うす闇の中、くぐもった第4幕への間奏曲が聞こえてくる。
日が落ちたおかげで蒸し暑さは弱まり、むき出しになった腕を撫でる風が気持ちよかった。
大きな板を挟んだ向こう側には大勢の寮生がいる。それなのに、この世界にたった2人きりでいるような錯覚を覚えた。
「昼間も一瞬だけど今みたいな顔してた。……そんな顔されると、俺も苦しくなる」
「ごめん」
ポーカーフェイスには本当に向いてないらしい。
嫌な気分にさせるつもりじゃなかったのに。
素直に謝ろうとした私の上から、ポスンと何かが降ってきて視界を遮った。
紅がかぶっていた軍帽を頭に乗せられたのだ、と遅ればせながら気がつく。大きめのそれを更に引き下げられたせいで、何も見えなくなった。
「もう、ふざけな――」
両手をあげて帽子を脱ごうとした瞬間。
温かな唇で言葉を封じられた。
右肩に乗せられた紅の手が熱い。
私と紅の身長差はかなりある。
かがみこむ為の左手なのだ、と。
ようやく状況を把握できた途端、カーッと頬が赤くなった。
「……しまった。余裕ない顔を見られたくなかったけど、お前の可愛い表情も見逃した」
帽子を外してくしゃくしゃになった私の前髪を優しく梳きながら、紅は囁き、そして笑った。
軍服姿のままで。
鼻血を吹いてその場に倒れこまなかった私の精神力を、誰か褒めて下さい。




