スチル5:蒼(バレンタイン・小学生)
鍵を使って家の玄関を開けた私を見て、蒼くんは綺麗な瞳を丸くした。
「もしかして、学校帰ってきたあと、家にいつも一人なのか?」
「え? うん、そうだよ。母さんパートに出てるから。あ、パートって分かる?」
蒼くんはフン、と顎を反らせた。
あらら。流石に、知ってるか。
「知ってるに決まってる。声部、または楽譜上の楽器を指す言葉。だろ?」
「それじゃない」
やはり彼も音楽学校在学中のセレブ。パートタイム勤労者は、ご存じないようです。鍵っ子の私にそんなに驚くってことは、家にはお手伝いさんがいたりして……。
一応玄関に常備されてるお客様用スリッパを勧めながら、聞いてみた。
うちの家族は誰も使わないんだよね、スリッパ。みんな靴下でペタペタ歩き回ってる。
「ああ、いるよ。美恵さんは住み込みだけど、あとの2人は通いだ」
「……なるほど」
蒼くんは、例のスリッパを当たり前のように履いて、私の後ろについてきた。物珍しそうに、キョロキョロ部屋を見回している。
どうしよう、小屋じゃなくて本宅に案内しろ、とか言われたら。
電気ストーブのスイッチを入れると、すぐに温風が噴き出てきた。
蒼くんを座らせたソファーの近くまで、ずるずると引っ張ってきて、彼に風があたるように角度を調節する。
それから駆け足で二階に昇り、ランドセルを自室に放り込んだ。
蒼くんの待つリビングに駆け戻り、息を切らしながら「あ、先に手洗い、うがいしないと! 蒼くん、こっち来て」と声をかけると、彼は可笑しそうにくつくつ笑い出した。
「そんな慌てなくてもいいのに。ゆっくり片づけてこいよ」
蒼くんの優しい声に、私もえへへと笑った。
良かった、もう顔色も戻ってる。
「知らない家で、一人残されるのってイヤかなあって思って」
「ああ。でも、ここは嫌じゃない。なんか、すげえ落ち着く」
物を捨てることの出来ない貧乏性の父さんは、壁一面に私達姉妹の写真や昔書いた絵を飾っている。
幼稚園の時に私が作った、初めての創作折り紙なんて額装してあるんだよね。
親馬鹿丸だし、かつ雑然としたリビングが恥ずかしくなった。
「これ、マシロと姉ちゃん?」
蒼くんがソファーから立ち上がり、一枚の写真を指差した。
6歳の夏、庭で水まきをしていた時に撮られたヤツだ。
最初に水をかぶったのはお姉ちゃん。その後、それを笑って見てた私に抱きついて来たんだっけ。びしょ濡れになった私とお姉ちゃんが、今より幼い顔でじゃれ合っている。
「うん。年も離れてるし、あんまり似てないでしょ? お姉ちゃんは昔からすごく可愛かったんだよ~」
「似てるよ、そっくりじゃん。小さなマシロも可愛い」
その時の蒼くんの言い方ときたら!
けしからん。非常にけしからんです。本当の同い年だったら、完全にやられていた。危ないところだった。
「そうかなあ。だといいけど。――あ、洗面台、こっちだよ」
ほわんとした甘酸っぱい雰囲気をかき消すように、急いで蒼くんをそこから引きはがした。
その写真の二枚隣には、ビニールプールにどっかり座った丸裸の赤ん坊がいるんです。当時10ヶ月だったましろさん。あの写真にまでコメントされたら、さすがに恥ずかし過ぎる。
洗面所は寒かった。急いで順番に手を洗いうがいをしてから、程よく暖まったリビングに戻る。
示し合わせたように私達の口から「はあ~」という安堵の息が漏れた。
「今日は、ホントに寒いよね。あったまってから帰るといいよ。お姉ちゃんのお古で良かったら、コートもあると思う。黒のダッフルコートがあったと思うんだよね。後で、探してみるから」
「マシロって、ほんと変なヤツ。なんで、そんなに親切なの?」
再びソファーに戻った蒼くんに、ココアでも入れてあげようと台所に立った私は、首を捻った。
言うほど親切かな? 当たり前のことしてるだけのような。
「俺にだけ? それとも誰にでも?」
予想外の追撃を受け、私は思わずカップを落としそうになってしまった。
蒼くんの瞳は、紛れもない好意を孕んでいる。
――ええええええっ!? いつのまに蒼ルートのフラグが立ったの!? なにしたっけ、私!
「……こ、困ってる人がいたら、誰にでも、かな」
18歳のスキルがあって良かった、とこの時ほど感謝したことはない。
寄せられる殿方からの好意には、まるで気がついていませんのよ? だって私、鈍感なんだもん、テヘペロ作戦でいこう。
「そっかー」
しょんぼりと肩を落とす蒼くんに、一瞬絆されそうになったものの、何とか踏みとどまった。
『ボンコ』という屈辱的なあだ名を何度も脳内で繰り返してみる。
くー! 軽く思い出すだけで腹立つ!
蒼くんと必要以上に仲良くなっちゃうと、絶対にあの赤い悪魔が黙っちゃいない。
それだけは避けたいの! ごめん、蒼くん!
私はこの先、『ボクメロ』と一切かかわり合いのないイケメンを探す予定です。
「はい。これ、昨日焼いたお菓子の残りだけど。ココアと一緒じゃ、甘すぎるかな」
ブラウニーとは言わず、言葉をぼかしてみる。
他に何か出せるものがあったら、迷わずそっちを出したんだけど、あいにく今はコレしかないんだよね。
どうかイベントではありませんように。
蒼くんは、皿の上に乗ったブラウニーを一瞥し、今度はもじもじと照れ始めた。
「俺、甘いのそんな得意じゃないけど、ま、マシロの焼いたヤツなら、絶対食べる」
照れながら手を伸ばそうとする蒼くんを見て、私は素早く動いた。
「無理しなくていいよ」
むしろ、無理しないでください。
お皿に手を伸ばし、ブラウニーを回収しようと試みた。それを止めさせようとする蒼くんと、小競り合いになる。
「食べるって!」
「いいって!!」
らちが明かないので、行儀は悪いけど、素手でブラウニーを掴んでやった。
そのまま、自分の口に放り込もうと持ち上げる。
――パク
蒼くんは、なんと私の指先に食いついてきた。
図らずも「アーン」してしまった。なにこれ、やっぱりイベント!?
たった2人しか存在しない攻略キャラの威力、ハンパないです。
彼に太刀打ちしようなんて、百年早かったのかも。
怖い。蒼くんの潜在恋愛能力が怖すぎる!
ぺろり、と赤い舌で美しいカーブを描いた下唇を舐め、蒼くんはニッコリ笑った。
「うん、うまい。……サンキュ、マシロ」
――『舞い上がってんじゃねーぞ、ボンコ。身の程をわきまえろよ?』
紅さまが言いそうなセリフが、耳の奥に響いてくる。
分かってます。よーく分かってますとも。
「そ、そういえば、蒼くん、何か話があったんじゃなかったっけ?」
何事もありませんでした、という表情で、私は自分の為にいれたノンカフェインのブラックコーヒーに口をつけた。
本物のコーヒーを飲みたいんだけど、なんせ体はまだ9歳。過剰なカフェイン摂取は避けるようにしてる。
ああ、でも今こそ、濃いコーヒーが必要な気がする。
ガツンと目が覚めるようなやつ。
「うん。前に、本屋でマシロと姉ちゃんを見かけてさ。何を一生懸命見てんのかな、って思ってたら、チョコレートの本だったから」
「……あー、あの時か」
まずい。この流れも非常にまずい。何とか、話題を変えなければ。
「あのさ――」
「マシロが誰かにあげるのかな? って考えたら、胸がモヤモヤして。どうしても今日、マシロに会いたくなったんだ。会って、確かめたかった。なあ、俺ってどっかおかしいのかな?」
お前は、ケルビーノか!
教えてあげないよ、その気持ちの名前なんてね!
「独占欲じゃないの? 仲のいい友達を取られたくない的な。よくあるってよ。友達にやきもち妬いちゃうのって」
洗脳するかのように『友達』の部分に力を込めて言ってやる。
蒼くんのソレは、私の紅さまへのかつてのアレと同じなんだよね。
だめだ。落ち着こうと思えば思うほど、思考が取り散らかっていってしまう。
私の場合、自分の中の理想を紅さまに押し付けて、恋をした気になっていた。
蒼くんの場合、きっと「憧れ」だ。
同い年の割に大人びている私に、自分にないものを感じて憧憬を抱いている。もしそうなら、それは期間限定の感情。
なぜなら、いつか蒼くんは私に追いつくから。
お願いだから、この先もずっと自分の前を走り続けろなんて、酷なことは求めないで。
「そうなのかな。……友達なら、俺とずっと一緒にいてくれるの? マシロ」
私は、俯いたまますぐには答えられなかった。
ずっと一緒にいてあげる、と言い切ってあげられる程は、私も大人じゃないんだよ、蒼くん。
何が正解なのか、迷ってばかりで上手くいかない。
勉強やピアノとは、全然違う。
人の心は一筋縄ではいかないものだって、私は知っていた。
「約束はできないけど」
考え抜いた挙句、ようやくそう答えると、蒼くんは淋しげに笑った。
9歳とは思えない大人びた笑みだった。
「ありがと、マシロ」
私は不安で仕方なくなった。
本当に、さっきの答えで良かった? これで合ってるの?
現実は、ゲームなんかじゃない。
パラメーターも好感度も、何一つ把握できない主人公は、ただ手さぐりのまま先に進むしかない。
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本日の主人公の成果
攻略対象:城山 蒼
イベント:友達のままで
無事、クリア




