40.覚悟
初めて参加することになった夏期セミナー。
期待と不安、そして緊張でガチガチだった私は、初日の自己紹介から「はじめまちて」と噛んでしまった。広い会議室が水を打ったかのように静まり返り、私を観察するように見つめていた初対面のスタッフさん、コンマスさん、指揮者さんが一斉に俯く。笑ってはいけない、と頑張ってらっしゃるのが痛いほど伝わってきましたよ。こんなはずじゃなかった。もっと颯爽と。颯爽と……うう。
「青鸞学院高等部二年の島尾真白です。コンチェルト自体初めてなので、色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、精一杯頑張ります。どうかよろしくお願いします」
よし! 今度は噛まずに最後まで言えた!
隣に座っていた富永先輩が大きく拍手をしてくれました。
そう、このセミナー。参加者はたったの3名。私と富永さん、そしてオーストリアの音楽学校からこのセミナーの為に一時帰国してる星川さん、という男の子だけなんです。
小柄で童顔な星川さんを同い年か一つ下かな? と思って眺めていたのだけど、自己紹介を聞いてみれば、なんと18歳。最近ますます精悍な顔つきになってきてる富永さんと同じ学年とはとてもじゃないけど思えない。
ふんわりした赤い癖っ毛と愛らしい顔立ちが相まって、私と制服を取り替えれば女の子でも通りそうだ。
「そこのあんた。この顔が珍しいのか何なのか知らないけど、あんまりじろじろ見ないでくれる? お上りさん丸出しで、逆にこっちが恥ずかしいんだけど」
みんながいる場所では、その容姿にふさわしくにこやかに受け答えしていた星川さん。
宿泊棟に案内された直後、良かったら一緒にお茶でも? と申し出た富永さんを「そんなことしに来たわけじゃない」と一刀両断し、返す刀で私にまで斬りつけてきたのには本当にびっくりした。
赤毛の男はこんなんばっかりか!
「遊びに来たんなら荷物解かないで帰れば? 青春時代の思い出作りに協力する気はないから。じゃあ」
あっけに取られた私たち二人をその場に残し、星川(もちろん以降は呼び捨てに決定)はさっさと自分の部屋に入っていってしまった。これみよがしな音を立て扉が閉められる。
「あ、あはは。言われてしまったね。確かにちょっと浮かれていたかも。……気を付けないとな」
人のいい富永さんは、恥ずかしそうに頭をかいている。
その爽やかな笑みに釣られ、「先輩が悪いわけじゃないですよ。せっかく来たんだし、私たちも頑張りましょうね」と握りこんでいた拳をほどいた。
もちろん本音は「礼儀知らずの自己中野郎と仲良しごっこなんて、こっちから願い下げじゃ!」だ。なんなの、アレ。思い出作り、だって腹立つ~!
三人きりの参加者だし一回目の開催だし、どうやらこのセミナーは実験的な意味合いが強いようだ。私たちで上手くいけば、ゆくゆくはピアノ以外の演奏者も募集しての大掛かりなものになるのかもしれない。
短い期間とはいえ家族や友人と離れ離れになり、だいぶ年上の大人たちと対等に渡り合わなくてはいけない。せめて同じ高校生同士、仲良くできたらいいな~、なんて思ってたけど、私の認識が甘かったようです。
学校を出て音楽だけで食べていける人なんてほんのひと握り。狭き門をくぐったものだけが、プロとしてやっていけるのだ。星川はすでに将来を見据えているのだろう。彼が愛想笑いを浮かべる相手は、指揮者やオケメンバーであって、ライバルではない。
「スケジュール表はもう見た?」
「あ、はい」
「僕がトップバッターで、島尾さんは最後みたいだね。荷物を置いたら早速本館に行くつもりだけど……」
「あ、私も行きます! 練習室でピアノ譜とさっき貰った総譜の突き合わせをしたいので」
「うん。じゃあ、一緒に行こうか。後でね」
スタッフの人に渡されたルームキーを確認し、二階の突き当たりの部屋に入った。
貴重品をまとめたポーチ、そして楽譜をトートバッグに移そうと荷物を広げたところで、携帯の着信ランプに気がつく。
きっと紅だ。
知らないうちに顔が笑ってしまう。
頑張って、と快く送り出してくれた紅だけど、富永さんも参加すると知った時、その笑顔は不自然なくらい綺麗なものになった。
「富永さんも一緒なんだ」「そうみたいだね」「でも、まあ一日べったり一緒にいるわけじゃないしね」「そうだよ。宿泊棟が同じなだけだし、ご飯を一緒に食べるくらいだよ」「……ふうん」
表情は全く変わらないまま。だけど、人差し指がせわしなく太腿を叩き始める。
彼の心の葛藤が手に取るように分かり、またしてもキュンとしてしまいましたよ。一日一キュン。紺ちゃんは「あんまり意地悪しないでやって」と苦笑いしていたっけ。
『件名:お疲れ様
もう着いた頃かな? 充実した四日間になることを祈ってます。
富永さんにもくれぐれもよろしく。残りの参加者もいい人だといいね』
くれぐれも、の強調っぷりが微笑ましい。
星川に知られたらまた嫌味を投げつけられそうだな、と一瞬躊躇った。紅だって返信は期待してないと思うけど……でも。
私は親指を最大出力速度で動かした。
『件名:ありがとう
無事到着しました。思ってたより近かったよ。さっそくこれから指揮者の野上さんに順番に見てもらうことになってます。もう一人の参加者は、高三の男の子でした。天使のように愛らしい外見に似合わぬ毒舌をお持ちのようです。これ以上馬鹿にされないよう頑張ってきます。
紅もよい夏休みを。帰ったらすぐに寮祭の準備が始まるけど、今年は紅も一緒なのでひそかに楽しみにしています。そっちも頑張ろうね』
これでよしっと。
待ち受けにしている眼鏡姿の紅をもう一度眺め、携帯を充電器に差し込んでから今度こそ部屋を出た。
指揮者の野上さんは、35歳になったばかりだという人の良さそうな男性だった。
一昨年、世界的にも有名な指揮者のコンクールで優勝し、その後ドイツの名門管弦楽団を指揮してヨーロッパデビューを飾ったという経歴の持ち主で、来年度は国内でも評価の高い大きなオーケストラの正指揮者になることが決まっているんだって。
ほえ~、と口を開け貰った資料の文字を追っていると、軽いノックの音が聞こえた。
壁時計を確認する。ちょうど私の持ち時間5分前だ。
「はい、どうぞ」
どうにか震え声にはならずに済んだけど、私の顔を見るなり野上さんはプッと噴き出した。
「ご、ごめん。でも、そんなに緊張しなくてもいいよ。頭からバリバリ食べたりしないから」
「は、はいっ」
さっきから「はい」しか言えてない。
何か気の利いたこと、と頭の中を探っても何一つ浮かんでこないんですよ~。他の二人はどうでしたか? とも聞けないし。えー、ご趣味は? って見合いか!
「島尾さんは、年末にラフマをやるんだって?」
「はい!?」
今度の「はい」は語尾が跳ね上がった。
指揮者同士の情報交換会でもあるのか、野上さんは向井さんとのオケのことをすでに知っているみたいだった。
「予行練習を兼ねてラフマでも良かったんだけど、変な癖つけるなって向井くんに怒られても嫌だから今回はショパンを選んでみたんだ。島尾さんはショパン、好き?」
にこにこした表情だけど、世間話で尋ねているわけではない、とすぐに気づいた。すでにレッスンは始まってるのかもしれない。
「はい。好きです」
「どんな所が?」
「主旋律の際立った美しさもそうですが、祖国ポーランドへの」
「ストップ」
野上さんは困ったように首を振り、両手をあげて私の声を遮った。
「テストじゃないよ、島尾さん。ショパンについての模範的な解説を聞きたいんじゃないんだ。君は、どう思うのか。そこを知りたいだけなんだよ」
ほとほと困りきって、私は視線を彷徨わせた。
助け舟を出してくれる人は誰もいない。こうしているうちにも、時間は容赦なく過ぎていってしまう。
「えっと。メロディがとにかく歌うみたいに綺麗で……弾く人によって全然違う印象にもなって……。他に代用が効かないピアノの為の曲なんだな、ってすごく思うからです」
結局しどろもどろの変てこな回答になってしまった。
笑われるかと思ったけど、野上さんはふうん、と頷き、私の傍に歩いてきた。
「じゃあ、さっそくピアノ譜を全部通してもらおうかな」
「はい」
実はショパンのピアノ協奏曲は、専門家の間ではあまり高い評価は受けていない。
曰く、創作の動機に複雑に結び付いた関連性が見られず、単発で終わってるものが多い。提示部と展開部のつながりが弱い。ピアノ独奏部分を不自然なまでに目立たせる構造が云々。
ピアノ協奏曲を2曲書いた後、ショパンはウィーンそしてパリへと居を移し、そこで改めて伝統的な作曲方法を学び直したと言われている。ロマン派との邂逅がショパンの音楽を大きく変えていったのだ。私が弾くピアノ協奏曲第一番は後期の代表作とは一線を画す、いわばポーランド流ソナタなのだろう。
荒削りかもしれない。それでもショパンが己の魂の求めるままに作り上げたこのピアノコンチェルトが、私は大好きだった。
暗譜は済んでいたので譜めくりは必要ないと伝え、とりあえず続けて最後まで弾いてみた。
「うん。悪くないね。ここまで弾けているのなら、すぐに曲想について話してもいいかな。第一楽章から順に総譜を見てくれる?」
「はい!」
一時間半の指導はあっという間だった。
もっと色々話を聞きたかったのに、全然時間が足りない。
もどかしさに焦れながら楽譜を片付けていると、野上さんは練習室の扉を押し開けて待っていてくれた。
「明日からさっそくオケと合わせるね。一楽章ずつ仕上げていくから、やりにくいな、とかちょっと分からないなと思う部分があったらその都度止めてもらっていいよ」
「え……」
ドキンと心臓が跳ねる。
私が止めるんですか!?
「もちろん私がやりにくい部分も、その都度伝える。そうやってお互いに譲れない部分を探り合って、ちょうどいい妥協点に落とし込んでいこう」
「妥協点、ですか」
「納得いかない? じゃあ、オケが主導権を握る部分と君のピアノが主導権を握る部分。そのバトンの受け渡しをスムーズに行う練習、って言った方がいいかな?」
「バトン練習……そっちの方が何となくイメージ湧きます」
「うん。じゃあ、まずはそれで」
わずかな時間だったけど、野上さんは私が経験不足の高校生であることを理由に馬鹿にするような態度は一切取らなかった。一人のピアニストとして尊重してくれているのが、言動の節々から伝わってくる。
すごいな~、と単純に感心してしまいましたよ。なかなか出来ることじゃないと思う。
次の日のオケとの練習も、野上さんの素晴らしいコミニュケーション能力のおかげで、私は気後れすることなく自分の両親ほどの年齢の人たちと音を重ねることが出来た。
休憩時間、素直にそのことを口にすると、野上さんはまいったな、と言わんばかりに頬を緩めた。
「先生がスパルタだからこれでも苦労してるんだよ」
このセミナーの発案者である指揮者の名前を挙げ、野上さんは唇を尖らせた。
「スケジュール調整が厳しい、って言ってるのに、君たちが来る5日前にここに放り込まれて、初対面のオケを振れ、とかね。しかも三曲だよ? コンマスとの腹の探り合いは向こうより日本の方が楽だけど、それでも色々苦労はあるわけですよ。時間があればもっと何とかできるのにな、とか」
「そうなんですね」
感心して相槌を打っていると、野上さんはしまった、というように顔をしかめた。
「こんな愚痴、聞かせるつもりじゃなかったのに参ったな。君はすごく聞き上手なんだね」
「そんなこと初めて言われました」
「うーん。何て言うんだろう。先回りして相手にとって居心地のいい場所を作ろうと頑張っちゃうところがあるのかな。ピアノにも君の人柄がよく出てる。優しいショパンだ」
それは褒め言葉なのだろうか。
首を捻っていると、野上さんはにっこり笑って立ち上がった。
「もっと我儘になってもいいと思うよ。誰に憎まれようと、誰を裏切ってしまおうと、私はこうなんだ、って言い切ることも時には必要かも」
なんてね。お節介なおじさんの戯言でした。
恥ずかしそうな笑みを残し、野上さんは去っていった。
しばらくその場に座ったまま、私は彼が言ってくれた言葉を何度も反芻した。
セミナーはあっという間に最終日を迎えた。
富永先輩は、自由時間は本当に自由に過ごしてるみたいだった。練習嫌い、治ってないんだな~。私はオケのところへ入り浸っている彼を横目に、せっせと練習室に通いつめた。
星川は殆ど見かけなかった。
朝食も夕食も、ちゃんと食べているかどうか定かじゃない。富永さんはそんな星川を心配して、ちょくちょく部屋を訪ねていってるそうだ。だけどその都度、すげなく無視されているらしい。
くっそ~。富永先輩が優しいからってつけあがりやがって!
「島尾さんも、もっと休みを取った方がいいよ。ちゃんと休憩してる? スタッフの人も心配してた。夜、本館を見回りに行ったら、まだホールでピアノの音がしてたって」
「するようには努力してます。はい、多分」
咎め立てするような強い視線に、つい語尾が小さくなる。
心から気遣ってくれてる人に、ほっといてなんて言えない。
「そんなに焦らなくても、まだ僕らには時間がある。もったいないよ、島尾さん。もっと音楽を楽しもうよ」
晴れやかなその笑顔に、胸はズシンと重くなった。
時間はないんです。先輩。
私の指がショパンのコンチェルトについていけるのは、あと少しの間だけ。少しだけなんです。
しょんぼり俯いた私を見て、富永先輩は慌てて「練習熱心なのはいいことだよね。僕も少しは見習わないと!」と声を張った。
本当にいい人だ。
美登里ちゃんや栞ちゃんは私のことをお人好しってよく言うけど、本当のお人好しはこちらの方ですよ。
そんな風に富永先輩をある意味甘くみていた私は、発表会前日のリハーサルで、思い上がった頭のてっぺんを大きなタライで叩かれたような気分を味わう羽目になった。
チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番
しょっぱなの和音。鳴り響く鐘のような、ずっしりとした和音に強烈なボディーブローを食らう。低音部の豊かな響き。高音部の磨きぬかれた水晶のような煌き。
音が、違う。
うめき声が漏れそうになるのを、必死に堪えた。
ピアノと管弦楽が同時に同じ旋律を奏でる展開部は、富永先輩の凄まじいまでの熱量に引き上げられ、オケの集中力も私の時と段違いな気がした。
ミスタッチはゼロではなかった。だけど、それがなんだというのだろう。
渾身の力をぶつけながらも、音は洗練され濁りがない。ただ圧倒される。
悔しかった。
いつの間に、こんなに差を付けられてしまっていたんだろう。
練習量は私の方が多いはずなのに。どうして。悔しい。お腹の底がぐつぐつと煮えくりかえる。
――負けたくない。
この時ほど、はっきりとそう思ったことはなかった。
続く星川の演奏もすごかった。
私へのあてつけか! と首根っこを掴んで揺さぶりたくなる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番とか、何なの! 偶然だと頭では分かっていても、頬が引き攣るのが分かる。
卓越したテクニック。繊細な表現力と、決めるところでは決める大胆な音。
私はみじめな気持ちでステージに上がっていった。
野上さんの指揮棒が、よく見えない。みんなの音が分からない。
散々なショパンだったと思う。
労りや慰めの言葉を耳に入れたくなくて、私はリハが終わった瞬間、走って宿泊棟まで逃げ帰った。
部屋に飛び込みすぐに内鍵をかけ、携帯に駆け寄る。
紅の声が聞きたい。
今すぐ、大丈夫だよっていつもみたいに――――。
番号を呼び出し、通話ボタンを押そうとしたところでようやく正気に戻った。
電話してどうするつもり?
明日は、大勢のお客さんの前で今日みたいに下手くそなショパンを弾かなきゃいけないんだけど、どうしよう。
そう泣きつくつもりだったの?
「馬鹿じゃないの」
あまりにも自分が情けなくて、泣けてきた。
両手がぼやけ、手の甲の上にポタポタと熱い雫が落ちる。
一度堰を切った涙は、なかなか止まらない。ひっくひっくと子供のようにしゃくりあげながら、私は床に座り込んだ。
何が足りないんだろう。私には、何が。
遡って考えよう。目をつぶって深呼吸を繰り返しながら、思考の暗闇を手探りで歩き回っているうちに、私はあることに気づいた。
――『青春時代の思い出作り』
星川にそう言われた時、むかっ腹が立ったのは図星だったからなんじゃないの。
携帯をそっとベッドに戻し、部屋に入るなり床に放り投げたレッスンバッグの中から楽譜を取り出す。音符を目で追いながら、私は脳内にオーケストラの響きを再現していった。
ああ、そうか。覚悟がまるで足りていなかったんだ。
セミナーに参加したくても選ばれなかった人も、沢山いたのに。
まるでいい思い出が出来る、とばかりにいそいそやってきて、野上さんを気遣って物分りのいい振りをして。
私はちっとも真剣にピアノに向き合ってなかった。
そのことが今なら、痛いほどよく分かる。練習していたのは安心したかったから。頑張ってる私ってすごいでしょ。このくらいやれば大丈夫だよね。
祖国を思い魂を削り取るように作曲したショパンの気持ちを表現しよう、と本気で思いながら弾いたことあった?
「うっわー。みっともな」
涙声のままだったけど、さっきよりはマシな声が出た。
自己憐憫に浸ってる場合じゃない。
私が自分で決めたんだ。
紺ちゃんの手を取り、紅とピアノを捨てることを。
紅が全てを忘れても。二度と元のようにはピアノを弾けなくても。
それでも最後の一瞬まで、紅もピアノも大事にしようって決めたんじゃん。
どうせ失うのだから、なんてどこかで拗ねていたわけ?
こんな中途半端な人間の為に、紺ちゃんは自分の命と人生を掛けたの?
ふざけんな。そんなこと絶対に許さない!
いてもたってもいられなくなり、もう一度本館に戻った。
誰もいなくなった大ホールの扉は、開いたままだった。
シロヤマのコンサートピアノの前に座り、私は深々と頭を下げた。
さっきはごめんね。本当に、ごめんなさい。
軽く息を吸って、鍵盤に指を落とす。
脳裏に焼き付いているオケの音楽に合わせながら、私は夢中で旋律を追った。激情をぶつける部分は嵐のように渦巻かせ、囁く部分はどこまでも甘く穏やかに。コントラストをくっきりつけながら、それでも一音一音が潰れてしまわないよう細心の注意を払う。
最終楽章の終盤。どこまでも軽やかに、そして華麗に音をはじき、指を舞わせ、渾身の力を込めて最後のアルペジオを弾ききり、腕を上げた。
はあはあ。
自分の荒れた呼吸音に、手を叩く破裂音が加わる。
ハッとして椅子に座ったまま後ろを振り向くと、野上さんが唇を引き結んだ怖い顔で力強く拍手してくれていた。
「……野上さん」
「困るな」
「え?」
「君のピアノにオケが霞みそうで困る。これじゃぶっつけ本番と一緒じゃないか」
わざとこしらえたような渋い声色で野上さんはそう言って、私ににっこり笑いかけてくれた。ここに来て初めて見ることが出来た、心からの賞賛の笑みだった。




