39.二年目~夏~
「真白せーんぱいっ!」
いきなり後ろから飛びつかれ、予想もしてなかったアタックに変な声を上げてしまった。うお゛いッって。乙女的にどうなの。
「大丈夫? ましろ」
すかさず紅が私の左腕を引いて、よろめいた体勢から立て直してくれる。せめて彼氏が隣にいる時くらい、もっと可愛い悲鳴をあげたかった。後で自主練しとかないと。きゃあっ、が定番かな。
「う、うん。でもびっくりした! 莉緒ちゃん~?」
先輩の威厳を出そうと腰に手を当て、ゆっくり後ろを振り向く。案の定そこには、大きな瞳をキラキラ輝かせた一年生が立っていた。
笹野 莉緒ちゃん。大手自動車メーカーの社長令嬢という筋金入りのセレブで、青鸞には高等部から入学してきたというヴァイオリン専攻の外部生だ。運転手の送り迎えは当然、というお育ちの莉緒ちゃんなんだけど、何故か花桃寮生でもある。その理由っていうのが――。
「だって先輩の後ろ姿が見えたから、今日こそは! って。そんなに驚くとは思わなかったんです。ごめんなさい」
「よく言う。殊勝な言葉と表情が全然合ってないよ」
「コウ先輩には話しかけてませんけど?」
私に話しかけていた時のふんわりした笑顔が、あっという間に無表情へと変わる。
そうなんです。この莉緒ちゃん、実は入学前から私のファンらしく、ご両親に無理を言って『島尾真白の住んでる寮』に入ってきた変わり種なんですよ。
明るい小麦色の髪を腰まで伸ばし、美人というより愛らしい顔立ちをした彼女は、入学当初から紅が気に入らなかったみたい。事あるごとに挑発的な言動を取るので、そのうち紅のファンクラブによって粛清されちゃうんじゃないかとハラハラしている。
一度理由を聞いてみたことがあったんだけど、「コウ先輩は真白先輩の隣にふさわしくない」という誰が聞いてもポカーンな返事がかえってきた。それからはあまり深く突っ込まないようにしている。それ逆だよ、逆。
いつからか紅は変わった。
彼を覆っていた他人行儀な頑なさは消え、チャラい王子様の仮面を被るのも止めたようだ。まあ、特大の猫を脱ぎ捨てたところで人気は衰えてませんけどね。「どんな紅様だってかまわない!」というファンの盲目っぷりは、この先彼が大人になるにつれ酷くなっていく気がする。
今のうちに父親から対処法を教わっておいたらどうだろうか。華やかな色気を絶妙にコントロールしていらっしゃる紅パパは私の憧れなんだけど、その話をしようとすると非常に不機嫌になっちゃうのが辛いところです。
「ま、まあまあ。せっかく声をかけてくれたんだし。莉緒ちゃん、私たちと一緒に帰る?」
「うわ~い。真白先輩、やさしいっ」
彼女はスクールバッグを巧みに使い、紅だけを押しやって私たちの間に割り込んできた。手慣れた動きが鮮やかだ。もしかして兄弟多いのかな。
紅は基本的にフェミニストなので、しかめっ面にはなったけど彼女を引き剥がそうとはしない。代わりに咎め立てするような視線がこっちに飛んできました。ご、ごめん。
「ねえ、先輩。夏休みの間に一回だけでいいから、うちに遊びにきて下さいよ。父も母も真白先輩の話をしたら、是非会ってみたいって。一緒にラフマの悲しみの三重奏曲弾きたいです~。新歓の演奏も、ものすごーく素敵でした。今まで沢山聞いてきましたけど、鳥肌たったの初めてでしたもん。感情を直接揺さぶってくるみたいな音色で。ヴァイオリンとチェロが先輩に足りてなかったのが勿体無かったです」
「自分なら足りるって? 大した自信だね」
「ええ。もちろん根拠もありますけど」
苦笑いを浮かべた紅が茶々を入れると、むきになった莉緒ちゃんがすかさず言い返す。
国内外のジュニアコンクールの賞を総なめにした、という経歴の持ち主でもあるので、彼女の言葉は決して嘘ではないんだけど。ああ、胃が痛い。
とにかく若いんだよね、うん。年と共に丸くなるタイプなんじゃないかなあ。そうなることを強く祈ります! 出る杭は打たれるっていうし、社会に出る前に『謙遜』という文字を是非辞書に刻んで欲しい。本音と建前の使い分けっていうの? ううっ。自分にも刺さってきた。反省しよう。
「ほんと生意気だな」
「それはどうも!」
紅の台詞に莉緒ちゃんが鼻を鳴らしてフンとそっぽを向く。これもすでにお決まりのやり取りだ。
でも紅の方は、口で言うほど彼女のことを不快には思っていないはず。長い付き合いだから何となくその辺りの違いは分かる。自分を変に特別視しない莉緒ちゃんは、紅にとって『その他大勢』ではない貴重な人間の一人だ。
「ふふっ。なんだか懐かしいな」
私が笑ったので、二人は不満げな表情を浮かべこちらを見てきた。
「なにが」「何がですか?」
言葉を発するタイミングまで息がぴったり。
笑ってしまいそうになった瞬間、微かな胸の痛みを覚えた。何だろう。やきもち? ……まさかね。そんな資格、私にはない。
気を取り直して微笑みを貼り付け、二人を交互に見比べる。
「私と紅も中学まではこんな感じだったよね。顔を合わすたびに口喧嘩してさ」
「は? 冗談じゃ――」
「そうなんですか? こんな意地悪な態度を真白先輩に? うわ、ひっど~い!」
鬼の首を取ったかのように莉緒ちゃんは声高に紅を非難し、私の左手を掴んできた。
「そんな人はやめて、うちのお兄ちゃんにしませんか? 妹の私が言うのも何ですけど、かなりの優良株ですよ。本人は楽器はやってませんけどクラシックにも詳しいし、顔もなかなかイケてますから」
結局、うちに遊びに来いって話に戻るんですね。
無邪気で人懐っこい莉緒ちゃんのことは、はっきり言って嫌いじゃないし、むしろ可愛い後輩だと思ってる。
踏み込めない一番の原因は、心を寄せる相手を増やしたくない、という私の臆病さだ。別れは決まっている。それもそう遠くない先に。
あとさ。どれだけ優良株だろうと、私にとって紅以上の人はいないよ。
「悪いけど」
紅は柔らかな物腰で莉緒ちゃんの腕を取ると、ゆっくり私から外させた。
優しいといってもいいほどの手つきだったのに、彼女はハッと息を飲み紅の顔を見上げた。それから、まるで火傷でもしたかのように慌てて手をひっこめる。私には背中を向けてるから、紅が今どんな顔をしてるのかは分からない。
「真白は忙しいんだ。ただでさえ少ない彼女の自由時間を奪うのはやめて欲しい」
「――分かりました。無理を言ってごめんなさい」
ちょうど音楽の小道を抜け、寮の入口が見えてきたところだった。莉緒ちゃんは、悲しそうな顔で私に深く一礼したかと思うと、あっという間に踵を返して走って行ってしまった。
あんな顔されると心が痛む。そりゃ傍若無人なところはあるけど、基本素直ないい子なんだよね。
「手、大丈夫?」
「え……もちろん。莉緒ちゃんだってヴァイオリニストだよ。楽器やる人の手をそんな強く引っ張ったりしないって」
まさかそれで実力行使にでたわけじゃないよね!?
驚いて問いただすと、紅は私の目をまっすぐに見つめ返してきた。
「笹野が手を掴んだ時、ひどく辛そうな顔になったから」
「そんなことないよ!」
図星だったからこそ、不自然なくらいすぐに否定してしまった。紅は訝しげに眉を寄せる。しまった。ピシリと体が強ばった。どうしよう。手は本当になんともない。苦しくなったのは別の理由からだ。
「悪かったよ。お前にしてみれば大事な後輩だもんな。もうやらない」
違う方向に解釈してくれたんだろう。紅は表情を和らげ私の肩をそっと引き寄せた。仲直りしよう、といういつもの合図。これまで何度も味わった甘い仕草が、今日は泣きたいほど痛かった。
「ううん。私の方こそごめんなさい」
引き寄せられるまま、ポスン、と顔を紅のシャツに埋める。
夏服だからか、すぐ近くで心臓の音がする。耳を澄ませて聴き入ると鼓動は徐々に早まった。私と同じだ。
やがて躊躇いがちな紅の手が私の頬にかかる。誘われるようにゆっくり目を閉じると、初めて交わした時よりもちょっとだけ長い、でも優しい口づけが降ってきた。頭の中が紅でいっぱいになる。
不安も罪悪感も温かな唇の感触が拭いとってくれた。少しずつ深くなっていくキスに目眩を覚える。誰か通るかも。木陰になってる絶妙な場所だけど、外には違いない。
先にブレーキをかけたのは紅だった。
「――どうして嫌がらないの?」
「紅がくれるものは何だって嬉しい、って言ったはずだよ」
「はあ。本気で勘弁しろ。お前が止めなきゃ誰が止めるんだよ」
一歩後ずさり、紅は何故か怒ったように呟いた。口元を手の平で覆い、私から顔を背けてしまう。上気した頬が愛しくてたまらなくなった。
凄んでも無駄だよ。紅は無責任を嫌う。ここが外じゃなくたって、今以上のことは決してしてこないと分かっていた。だからせめて沢山キスして欲しい。この先ずっと覚えてられるように沢山。
そう返す代わりに、私はにっこり笑ってみせた。
「言っとくけど紅から始めたんだからね? そんな乙女みたいに恥じらわないでよ」
「――ふうん。いい度胸だね、ましろ」
あ、からかい過ぎた。
しまった、と思った時にはもう遅かった。紅の瞳が濃く染まり、残忍な色が浮かぶ。男のプライドがいたく傷ついたってヤツでしょうか。
「本当にしてもいいの? へえ。物分りのいい彼女で助かるな。じゃあ今晩行くから、窓の鍵、開けといて」
「ごめんなさい。もう言いません」
へこへこ謝りながら大人しく紅に手を引かれ、寮に戻った。
夕方の食堂で、紅はタクミ先輩に小突かれていた。「お前専用の道じゃねえぞ!」だって。見られてたのか、と気づき青褪めた私の顔を見てケンヤ先輩が「大丈夫だよ」とフォローしてくれる。
「遠目に見えただけだから。その場待機で他に人がこないか見張っててあげたし」
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声で頭を下げる他なかった。そのまま地面にめり込んでしまいたかったです。なんでそんな平然としてられるんだ。紅を涙目で睨みつけるとごめんねウィンクが返ってきました。きゅん。……末期だ。
女子寮に帰る途中「うわああああ!」と突然叫び頭を抱えた私を、栞ちゃんは気の毒そうに眺めてきた。
絵にかいたようなバカップルぶりを発揮しつつ、二年生の前期は過ぎていった。
三年生や同級生はさておき、一年生の中には妬みもあったみたい。
なんで紅様があんな人と、っていう定番のやっかみですよ。まあそうだろうね。
だけど紅が毅然とした態度で対処してるのと、持ち上がり組の中心メンバーを退け一年生を短期間でまとめあげちゃった莉緒ちゃんが睨みを利かせてるおかげで、私に直接害はない。
去年の今頃が嘘のように平和だ。あたりを警戒しながら階段を上がらなくて済む生活万歳!
ちなみにそんな莉緒ちゃんがつっかかっていくのは、紅だけ。
紺ちゃんや美登里ちゃん、蒼や上代くんや栞ちゃんのことは「真白先輩の大切なお友達」という括りで認識しているらしく、むしろ低姿勢だ。
蒼は何が気に入らないのか、莉緒ちゃんをそれとなく避けている。私と紅にしょっちゅう絡んでくるのが気に入らないのかな? 人見知り発動中みたいです。
もうすぐ公開試験、というある日。
私は呼び出しを受け、亜由美先生の家に来ていた。電車とバスを乗り継いで行こうと思ってたんだけど、紅が俺も行くと言い出し結局水沢さんに送ってきて貰いましたよ。
「ごめんね。レッスン日でもないのに来てもらって」
「全然大丈夫です。それで、お話って」
「そんなに緊張しないで。悪い話じゃないんだから」
ふふっと柔らかく笑みながら、亜由美先生はテーブルの上に大きな茶封筒を滑らせてきた。
――夏期音楽アカデミー実行委員会?
「前に少しだけ話したわよね。コンチェルトのこと、考えておくって。ちょうどいいセミナーがあったから申し込んでおいたの」
手振りで中を見るように示されたので、指を切らないように気をつけつつ真新しいパンフレットを広げる。
世界的に有名な日本人指揮者の発案で発動したプロジェクトらしく、公に募集はしてないっぽい。ピアノをやってる高校生が対象で、避暑地に建っているコンサート・ホールを貸し切ってのクラスになるんだって。予め勉強したい曲を選び、まる三日で協奏曲を完成させるというのが実習内容だ。四日目が成果を披露するコンサートに当てられ、一般客も入れるというもの。
「音源オーディションもあったけど、それはパスしたから後は保護者のサインをもらってくるだけよ。参加費はこういったセミナーの中では破格の値段だし、個人的には是非参加してきてもらいたいわね」
亜由美先生はスラリと伸びた足を組み、意味ありげに微笑んだ。
「は、はい。このくらいだったらきっと父も参加させてくれると思います」
三泊四日の音楽セミナーか。
参加するオケも若手指揮者も、音楽雑誌の特集で名前を見たことがある。きっと実力者揃いなんだろう。そんな人たちと協奏曲を演れるなんて、いい経験になるに違いない。
だけど――。
口ごもった私を見て、亜由美先生はにんまり口角を引き上げた。
「真白ちゃんの考えてること、当ててあげましょうか。私にしては強引なやり方だって、不思議なんでしょう?」
「それです!」
思わず前のめりになってしまう。
生徒の自主性を重んじる先生のスタイルじゃないな、って引っかかってたんです。手回しが良すぎるし。
「ごめんなさいね。本当だったら、先にあなたの了解を得てから話を進めるべきだったんだけど、参加枠がとっても狭いのもあって急がなきゃいけなかったの。もうひとつの理由は向井健太郎率いるヴェルデ・フレスコ・オーケストラよ」
亜由美先生の言葉に、紅が身動ぎした。
「まさか……そうなのか?」
「ええ。向井くんは面白い趣向に目がないから。去年のあなたとのコンチェルトだってそうでしょう? 安定した実力のあるプロのヴァイオリニストを蹴って、音楽学校に通ってるとはいえ一介の高校生にオファーをかけたんですもの、普通じゃないわ。理由は聞いた?」
「俺の見た目だって」
苦笑しながら紅が即答する。
そんな理由で!? 思わず目を剥いてしまいましたよ。
「それはそれは。向井くんらしい言い草ね」
珍しく亜由美先生が声を立てて笑っている。
紅も穏やかな顔してるから、怒るようなことでもないのかな? 一種のジョークなの、何なの。私には分かりません!
それに話の流れが全然つかめない。
ポカンとしている私を愛おしげに見つめ、紅は口を開いた。
「前に向井さんが言っただろう。あれは本気だったってこと。そして、亜由美のところにもオファーが来たんだろう。どんな選曲でいくのかまでは分からないが、師弟対決ってとこかな」
――『来年のチャリティーは、俺らとコンチェルトやろうぜ。島尾 真白さん』
向井さんの茶目っ気を含んだ声が耳に蘇ってくる。
「そういえば……。でもあれって冗談じゃ」
「ないわよ。曲目は、あなたがラフマニノフのピアノ協奏曲第三番。私が、同じくラフマニノフのピアノ協奏曲第ニ番。いいコンサートにする為にも、セミナーには是非行ってくれるわね?」
その場で泡を吹いてぶっ倒れるかと思いました。




