38.二年目~春~
何の過不足もない幸せな日々が過ぎていくのは、どうしてこう早いんだろう。
まるで誰かがリモコンの操作ボタンでスキップさせているような気がする。正直な気持ちを口にしたら、紺ちゃんは整った眉をしかめ「本当にそうかもしれないわね」と呟いた。
クリスマスのあの日から、私は紺ちゃんと過ごすことが多くなっている。甘えてる……のかな、やっぱり。秘密を共有している彼女の傍にいると、ともすれば迷いそうになる弱い心を立て直せる。
「それにしても、本当に入寮するとはね」
呆れたような、それでいて愛おしむような口調で紺ちゃんが言った。
前より一緒に過ごす時間が増えたからこそ、気づいたことがある。ああは言ったけど、花ちゃんだってやっぱり「玄田 紺」になってるんじゃないかな。
紅のことを話す時、彼女は完全に「妹」の顔になるんだもん。紅だけじゃなく、紺ちゃんも立派なブラコンだ。相思相愛。なのに、私たちはあと二年しかここにいることが出来ない。
やるせなさで喉を塞がれそうになる度、置いてきた父さんと母さんのことを考えることにしている。
娘2人を立て続けに失い、父さん達はどれほど嘆いていることだろう。非常に子煩悩だった彼らの慟哭を思うと、とてもじゃないけど放っては置けないのも事実だ。
何かを選んだら、何かは捨てなきゃいけない。
残酷な世界の真実に、私は打ちのめされてもいた。幸福感の尻尾を、常に掴んでいる絶望。一番の対処法は『深く考えないこと』。
今を精一杯楽しむことが、結局は切り捨ててゆく紅や蒼、こちらでの家族や友人へのせめてもの餞なのだろうと頭では理解していた。
「本人はとっても満足そうだけどね。あ、でもちょっと怒ってもいたわね。お風呂に入ってから食堂で夕食を取ることもあったのか、って」
「うん、それは真っ先に注意された。先に食べてからお風呂に行けって。パジャマ姿で食堂に行くのは禁止なんだよ? だからちゃんと部屋着で行ってるのにさ。それでも濡れた髪とか肌の感じとか、お風呂上がりだってすぐに分かるから絶対にダメだって」
『俺以外に見せたくないから言ってるって、それくらいは分かるよな』
少し不機嫌な、でも耳だけはほのかに赤くなっていたその時の紅をつい思い出してしまい、私は慌てて表情を取り繕った。
――大丈夫だったかな?
恐る恐る紺ちゃんを盗み見る。……良かった、気づかれてない。
私は人より思ったことが顔にでるたちみたいなんですよ。
紅のことを考えるだけで胸が痛くてたまらなくなるなんて、紺ちゃんには知られたくない。迷っていると思われたくない。
だって、彼女は私に全部くれた。あんなに必死になって練習していたピアノさえ、私の命を守る為の手段だった。紺ちゃんの差し出してくれたものと同等の贖いに、後悔や未練が混じるなんて許されない。
「新入生にも大人気らしいわね」
「内部生のくせに山茶花寮の一員にもなっちゃったもんだから、そりゃもうね。今までは持ち上がり組の王子様って感じだったけど、それに寮生もプラスされたもんだから。そのうち、プライベートな盗撮スナップが出回るんじゃないかな」
「うわあ。もちろん、許すつもりはないんでしょう?」
「当たり前じゃない。邪な目的で紅に近づこうもんなら、コレよ、コレ」
首の前に親指をあて、掻っ切って下に向けるサインを示す。紺ちゃんが大げさに「恐い」と震えたので、そのまま軽くチョップを食らわせた。えへへ、と嬉しそうに頭をさすってます。可愛すぎてつらい。
「ふふっ。でも、こんな頼もしいボディガードがついてるんだから、紅もしばらくは楽が出来るわね」
しばらく、という台詞には気づかないふりで同意しておいた。
バレンタインデーも「これ以上紅にストレスを与えるようなら、私が相手になるよ」とファンクラブメンバーを盛大に威嚇し、何とか乗り切ったんだよね。お蔭で懐かしいことに『狂犬』という仇名を頂戴してるようです。何とでも言え。
紅の話をしていたら、タイミングよく本人がカフェテリアに入ってきた。
新入生歓迎演奏会用のアンサンブルを仕上げるから、放課後は練習室に行くって言ってたのに。もう終わったのかな。
「また紺と一緒にいたのか」
「なによ。彼氏を待ってる健気な彼女の暇つぶしに付き合ってあげてたのに、ご不満なの?」
「いいや。助かったよ、ありがとう」
紺ちゃんの頭を苦笑いしながら軽く撫で、紅は私のすぐ隣に腰を下ろした。時計を見てみると、まだ1時間も経ってない。やけに早いな、と内心首をかしげながら聞いてみることにした。
「練習、どうだった?」
「蒼は珍しく真面目にやってたけど、美坂が途中で飽きちゃって脱走」
疲れたように椅子に背中をもたれさせ、紅はひとつ溜息をつく。
その言い方の可愛らしさに、胸がきゅうと音を立てて収縮した。この無自覚ハート泥棒め!
最近の私は彼が何をやってもときめいちゃうんだから、完全に八つ当たりなんですけどね。鼻に割り箸でも刺して貰おうかな。それでもキュンとしたら病院行かなきゃ。
「で、怒った蒼が美登里ちゃんを追いかけていって、なし崩し的に解散ってわけ?」
「当たり。まあ、ある程度は仕上がってるし、美坂は本番慣れしてるから何とかなるだろ。真白のほうは?」
「うちも仕上がってるよ。ピアノ三重奏曲。ヴァイオリンの高田さんもチェロの三崎くんもアンサンブルに慣れてるし、やりやすい」
「……本当に大丈夫なんだろうな」
トビーの地味な嫌がらせはまだまだ続行中。
私と蒼と紅を組ませないよう、裏から手回ししたそうです。とにかく執念深いし、まめ! その両方と家柄を武器に、若き理事長なんてやってるんだろうね。いっそ感心してしまう。
高田さんは宮路さんの取り巻きだし、三崎くんも内部生。しかも二人共、Aクラスじゃないときてる。同じクラス内でアンサンブルを組むのが暗黙の了解になっているので、担任の後藤先生も不思議がって直接問い合わせてくれたみたい。まあでも、育ちの良さそうな後藤先生が太刀打ちできる相手じゃないよね。しょぼんと肩を落とし理事長室から出てきた後藤先生に、私のほうが申し訳なくなった。あの暴れん坊にはこれ以上関わらない方がいいですよ。
「うん。なんでか分からないけど、今の私のバックには宮路さんがついてるんだよね」
「……は?」
「手出し無用のお達しが回ってるってこと。まあ、女同士の話よ。心配しなくてもきっちりラフマは仕上がってるから、新歓当日をお楽しみに」
このことについて、これ以上話すつもりはありません。
発したサインを正確に読み取ってくれた紅は、諦め混じりの吐息をつくと、私の手の中にあるグラスをおもむろに見つめてきた。
「今日は何に挑戦中なの」
「これ? フルーティーアイスバニラティー」
「ふうん。この間の抹茶グレープティーより美味しそう。一口ちょうだい」
「いいよ」
はい、と手渡そうとしたんだけど、紅は私の手首を掴んで自分の方に引き寄せた。
あっけに取られた私を上目遣いで一瞥してから、長い睫毛を伏せグラスに口をつける。その凄まじいまでの色気に、口から血を吐くかと思いました。
「……あま」
「名前から分かりそうなものよね。真白ちゃんに甘えたかっただけだってバレてるわよ、紅」
「いいだろ、たまには」
紺ちゃんのツッコミをさらりとかわし、紅はようやく私の手を解放してくれた。ふああ、助かった。これ以上は心臓が持たなかった!
「最近、真白はお前にべったりだから構ってもらえてないんだよ」
「そ、そんなことないでしょ。朝、昼、晩と三食一緒に食べてるし、ゴールデンウィークも紅と遊ぶことになってるじゃん」
もしかして、紅を寂しくさせてた?
消えない傷が残るのは私一人でいい。
紅には最後まで何も知らないままでいてもらわなきゃ。世界をひとつ作り上げるほどの力が、跡形もなく私たちの痕跡を消し去るまで、紅にはただ笑っていて欲しい。
「足りないなら気をつけるよ。どうすれば寂しくない?」
「ましろ……」
驚きに目を丸くし、紅は私の左手に自分の右手を重ねてきた。
「冗談だよ。そんな気がしたってだけ」
温かく大きな手の平に包まれ、私はかすかに息を吐いた。
だめだ。こんなんじゃまるで駄目だ。
ポーカーフェイスを貫き通さなければ、紅は気づいてしまう。
「も、もう~。びっくりしたあ。愛を疑われてるのかと思った」
冗談めかして彼の引き締まった腕にこてんと頭をくっつける。リア充爆発しろ! と見ていた人に呪いをかけられてもおかしくない私の仕草を見て、紅は照れくさそうに笑った。
紺ちゃんはただじっと、そんな私たちを眺めていた。
静か過ぎるほど凪いだその眼差しの意味を知ったのは、もっともっと後のことだった。
クラスも担当教員も持ち上がりのせいか、二年生になって大きく変わった点は殆どない。
違うのは、ピアノ科生徒はアンサンブルが必須になったこと。後輩ができたこと。仲良くしてもらってた寮の先輩方が卒業していったこと。
青鸞学院の卒業式は一種独特なものだった。
昼間、桔梗館で行われた式典は入学式と同じような感じだったから、私も驚かなかったんだけど問題は夜ですよ。
露草館の一階部分を大幅に改造し、大ダンスホール化させるとか全く想像もしてなかった。ドレスコードももちろんありました。男子生徒はタキシード。女子生徒はドレスだって。
溜息をつきながら、参加要項のプリントに目を通した。
ドレスなんて持ってないよ。学業に関係ない出費を両親に強いるのは気が引けるし、諦めるしかない。
それにしても本当に庶民に優しくない学校だな。先輩たちを見送る最後のセレモニーへの参加資格がお金とはね。腹いせにそのプリントで鳳凰を折ってやったわ! とりわけ立派なやつをな!
ところがセレブママーズに抜かりはなく、前日の夕方、ドレスの共布で作られた華奢なヒール靴と共に寮にそれは美しいドレスが届きました。
プロムなんてこっちからお断りですよ、と不貞腐れていた私の心を読んだかのように、『前もって連絡すると固辞されかねない、ということでサプラーイズ☆』というハイテンションなカード付きだった。
乙女の夢を具現化したような薔薇色のプリンセスライン。見事なレースとシフォン部分に目が奪われる。肩がまるっと出るデザインだからか、上に羽織る薄いショールまでついていた。
どうしていつもここまでして下さるんだろう。
感激のあまり、泣けてきてしまった。
私のあしながおじさんにすぐさまお礼の電話を入れる。ワンコールで出てくれた桜子さんは、私の涙声に気づくと逆にしくしく泣き始めた。驚きすぎて涙はすぐに引っ込んだ。
『保護者は参加不可なんて! 紺と真白ちゃんのドレス姿をこの目で見たかったのに!』
どうやら悔し涙だったらしい。写真を撮って必ず送る、と約束した。
そんなわけで、私もプロムとやらに出席することが出来ました。
プロムが舞踏会って意味だって知らなかった私は、紅にダンスを申し込まれ「はああ!?」と素っ頓狂な声をあげる羽目になったんだけど、その時のことはあまり思い出したくない。
クスクス笑い続けていた蒼の足は、とりあえず踏んづけておいた。上代くんや栞ちゃんまできちんとワルツを踊ってましたよ。なんなの。社交ダンスって高校生なら皆踊れるものなの?
桜子さん達と約束したし、父さんのお下がりのデジカメを持参してたので、とりあえずみんなを片っ端から撮っていった。
満面の笑みでピースサインを向けてくる美登里ちゃん。恥ずかしそうに俯きながら、タキシード姿の上代くんの隣に立った栞ちゃん。穏やかな笑みを浮かべ、紅と並んだ蒼。
叫び出しそうなくらいの強い感傷を必死でやり過ごしながら、「いいね~、いいよ~」とわざとおどけた声を上げる。
時が止まればいい。このまま、時が。
「ましろもおいで」
眩いばかりの微笑みと共に、紅が手を差し伸べてきた。
私は勢いよく頷き、撮影を同じクラスの子に頼んでみんなのところへ走っていった。ぐちゃぐちゃしたもの全部を振り切るように、ドレスの裾をつまみ上げて走る。
どうしたの、そんなに急いで。魔法が切れそうなシンデレラみたいだ、と紅は言った。気障な台詞の割に核心をついていた。
新学期が始まってしばらくして、花桃寮に入ってきた新入生達から「マシロ先輩」と呼ばれるのにも慣れた頃。
私はどこかぼんやりしているジロー先輩に気がついた。
人懐っこいジロー先輩は、紅とはまた違った意味で周囲からの人気が高い。誰かと一緒じゃないところなんて見かけたことがないくらいだ。
だけど大勢の中心にいても、時折不意にジロー先輩の瞳は虚ろに陰る。ミチ先輩がいないからだ、と思い当たり、喉の奥が痛くなった。
私も思ってました。ジロー先輩とミチ先輩は、いつまでも喧嘩しながら仲良くじゃれあってるんじゃないかって。
「淋しいですね、ジロー先輩」
食事を終えトレイを下げにカウンター近くにやってきたジロー先輩に、私は気づけばそんな声をかけてしまっていた。先輩は、何の話? とは問い返さず、ただ困ったように眉尻を下げる。
私の隣に立っていた紅は、わけが分からないなりに気を遣ったらしく、「先に行ってる」とその場を離れてくれた。
「俺が悪いんだ。さっさと告っとけば良かったんだよな。年下だからとか何とか、理由つけて逃げてないでさ。こんなにあっけなく飛び立っていっちまうなんて、思いもしなかった」
耳をそばだてないと聞こえないくらいの小さな低い声で、ジロー先輩は懺悔した。その声に滲んでる深い後悔に胸を突かれる。
「けど、そんな分かりやすかったか? これでもポーカーフェイスには自信あったんだけどな」
肩をすくめたジロー先輩に私は首を振った。
「ごめんなさい。土足で踏み込むような真似して」
「いや。誰かがどうしようもない俺の失敗を知っててくれるって、案外悪くないよ。ありがとな」
私の肩を優しく叩き、ジロー先輩は食堂を出て行った。
ずっと変わらないものなんて、何一つない。嫌でも思い知らされ、私はその場にしばらく立ち尽くしてしまった。
言い知れない切なさをどうにも消化できず、私はその晩絵里ちゃんに電話をかけた。
『もしもし。ましろ?』
聴き慣れた懐かしい声。ああ、絵里ちゃんだ。私はきつく携帯を握り締めた。
彼女と過ごしてきた年月が鮮やかに脳裏に蘇る。幼稚園、小学校。そして中学と、絵里ちゃんはいつも私の傍にいてくれた。
「ごめんね。今、大丈夫?」
『うん、平気。久しぶり~、ってそんなこともないか。春休みに会ったもんね。何かあった?』
「ううん。ただちょっと、どうしてるかなって思って」
『ましろがそんなこと言うの、珍しいね。……あ、そうだ。玲ちゃんについに彼氏が出来たんだよ!』
「マジで!?」
予想もしてなかったビッグニュースに、思わず声が裏返ってしまった。春休みにみんなで遊んだ時にはそんなこと言ってなかったのに。
いつになく沈んでる私を気遣ったんだろう、絵里ちゃんがあえて明るい話題を振ってくれたのも分かって余計に嬉しくなった。
『玲ちゃんたちの通ってる女子高って、二年になると提携校の男子高とのイベントがあるんだって。その会合で一目惚れされて、押し切られたみたい』
なにそれ! 少女漫画のようにドラマティックな馴れ初め話じゃないですか!
絵里ちゃんも私と同じように興奮したらしく、玲ちゃんを根掘り葉掘り尋問したそうだ。
『プリクラ見せてもらったんだけどさ。ふつーに今時のイケメンさんでびっくりしたよ』
「玲ちゃんがプリクラ!? しかも今時イケメンってどうなってんの! 玲ちゃんの理想は長谷川平蔵だったのに」
少なくとも全然鬼平じゃなかった、と絵里ちゃんが大真面目な声で言うので、私はこらえ切らずに噴き出してしまった。現代で長官にそっくりな若者がいるだろうか。いや、いまい。
鬼平を裏切った女だよ、酷いね、と口々に言い合い大笑いする。
「でも大丈夫。長官ならきっと『行きな。そして幸せになりな』って言ってくれるよ。そもそも綺麗な奥さんいるしね。先に玲ちゃんを裏切ったのはむしろ長谷川さん?」
「うははは。もう、やめてえ」
それからひとしきり近況を報告しあい、笑いすぎて目尻に浮かんでしまった涙をぬぐいながら、通話を切った。おやすみ、また夏休みに会おうね。幼馴染の優しい声が鼓膜に余韻を残す。
携帯をテーブルに置いた途端、一人きりの部屋に耐え難い静けさが舞い戻ってきた。
過ごす時間が楽しければ楽しいほど、反動は大きい。
――偽善者。裏切り者。
そんな言葉に追い立てられながら、よろよろと立ち上がる。
ナハトの置いてある練習室への扉を開き、薄闇に浮かび上がるピアノをしばらく眺めた。
最近、亜由美先生にも氷見先生にも『音が変わった』『表現が広がった』と褒められることが増えている。苦手だったラフマニノフにも駄目出しではなく拍手をもらえるようになった。
弾き手の味わった感情の種類が増えれば増えるほど、ピアノの音色が深まっていくのだとしたら、それはなんて残酷なんだろう。
「歴代の寮生みたいに、卒業まで弾いてあげたかったな。――ごめんね、ナハト」
そっと蓋を開け、立ったまま指を鍵盤に落とす。
ショパン作曲 練習曲作品10第3番
歌うように、という指示を守り、有名すぎるくらい有名な旋律を丁寧に追っていく。ショパンの他の練習曲とは違い、凝った技巧を必要としない代わりに、美しく完璧なレガート、豊かな表現力が要求される難曲だ。奏者によって、とんでもなく陳腐な曲にもなるし、切々とした哀惜を感じられる名曲にもなる。ショパンが祖国ポーランドを想い綴り上げたという別れの曲を、私はゆっくり奏でていった。
タイムリミットつきのピアニスト。
音楽なんて止めてしまっても構わない。どうせ元の世界に戻れば、指なんて動きゃしないんだから。もう一人の私の声は確かに聞こえてくるのに、どうしても弾くことを諦められなかった。
少なくとも島尾真白でいる今は、弾くことが生きることだ。




