37.最後の選択肢
劇場についてすぐ、私は紺ちゃんに連絡を取ろうとした。
携帯を操作する指がぶるぶる震えて上手く呼び出せない。ようやく彼女につながった時には、その場にへたり込みそうだった。
「……真白ちゃん!」
とにかく話がある、の一点張りで呼び出した紺ちゃんは、私の顔色を見て取るやいなや慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたの、そんなに真っ青になって。花香さん達は? 今日一緒に来るって――」
「先に行ってもらった。どうしても、確かめたいことがあって」
本当に大丈夫? 後ろ髪を引かれるような表情を浮かべ、お姉ちゃんは何度も私を振り返った。大丈夫だ、とは返せなかった。だって全然大丈夫じゃない。頷き、手を振るのが精一杯だった。
あんなに仲良しだったのに、お姉ちゃんも三井さんも松田友衣という人間を覚えてはいなかった。まるで最初から存在していなかったみたいに、キョトンと目を丸くし「誰のことを言ってるの?」と問い返してきた。
修学旅行のフェリーで見かけた松田先生の姿が頭に浮かんでくる。甲板の手すりにもたれ、どこか遠くを見つめていた寂しそうな横顔。私がはっきりと思い出せるのはあの日が最後だ。
卒業式の時は紅と付き合い始めたばかりだったこともあって、ふわふわと浮かれ松田先生のことは深く気にも留めなかった。「お世話になりました」くらいは言ったかもしれない。お姉ちゃん達と仲がいい松田先生とはこれからも、顔を合わせる機会くらいあるだろう、なんて軽く捉えていたんだと思う。
あんなに好きだったのに。
お姉ちゃんとの間を引き裂いてでも、こっちを見て欲しいと一度は願ったくせに。
――私は恐ろしいほど薄情な人間だ。
「もうすぐ演奏が始まってしまうわ。私はここで映像中継でもいいけど、真白ちゃんはじかに聴きたいんじゃない?」
気を遣って紺ちゃんはそんなことを言ってくれる。
だけど私は頑固に首を振った。
これ以上は耐えられない。最悪の状況が頭の中をぐるぐる回って、油断すると大声で叫び出してしまいそうだった。
「じゃあ、とりあえず座りましょう。ね?」
棒のように立ち尽くしたままの私の手を引き、紺ちゃんは洒落たブッフェに向かった。会場内の様子が映し出されている大画面のモニター近くの席に落ち着き、ウェイターさんに温かい飲み物を頼んでくれる。
「ココアでいいよね。里香は冬のココアが大好きだったから」
来場客はすでにホールの中に入ってしまったのだろう。ブッフェには私たち以外の客はいなかった。
湯気を立ち上らせているココアが二つ運ばれてきたのと、画面から拍手が聞こえてきたのは同時だった。目をあげてモニターを見る。ヴァイオリンを下げた紅が舞台袖から現れ、軽いチューニングを始めた。
「……友衣くんのこと、覚えてる?」
ひどく掠れた声が私の喉から漏れた。
紺ちゃんにまで「それは誰?」と尋ね返されたら、私はおかしくなっていたかもしれない。
だけど彼女はすぐに頷いてくれた。
「忘れるはずない」
きっぱりとしたその声に重なるように、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の冒頭部が流れ始めた。優しく囁くようなヴァイオリンとヴィオラ。そこからだんだんクレッシェンドしていって――。
「……消えちゃった。消えちゃったよ。松田先生のこと、花香お姉ちゃんも三井さんも覚えてないって。そんなはずないでしょってスマホも見せてもらったの。大学生になったばかりのお姉ちゃんが三井さんと松田先生と三人で笑ってた写真を、私は確かに見たことあるのに。……同じ写真らしきものには、松田先生は写ってなかった。ううん、どの写真にも! あんなに仲良かったのに、お姉ちゃんたちは何一つ覚えてない!」
「里香、落ち着いて」
カップを持つ手が再び震えてくる。
紺ちゃんは向かい合わせのソファーから私の隣に移り、力強く肩を抱き寄せてきた。
温かな手のひらの感触に、次々と涙が溢れこぼれる。高らかなトランペットが鳴り響き、ぴったりと息の揃った見事な演奏がブッフェに広がっていった。
ああ、もうすぐ紅のソロだ。滂沱の涙を流しながら、私はぼんやりそんなことを思った。
何もかもに現実感が乏しい。
ここにいるのは、本当に紺ちゃん?
私の耳に届いているのは、本当に紅のヴァイオリンなの?
「大丈夫、トモは消えたわけじゃない。先に元の世界に戻っただけなの。だからそんな顔しないで」
「――――さき、に?」
しまった、というように紺ちゃんは唇を引き攣らせた。
◇◇◇◇◇◇◇
何から話そうかしら。もうここまできたら、全部話さないとあなたを苦しめるだけよね。
向こうでの世界のこと、里香はどこまで覚えてる?
マンホールに落ちた後、あなたは命だけは取りとめたの。植物人間って言った方が分かりやすいかな。でももうこれ以上は持たない、って最後通告を受けた。里香は4年も頑張ったのよ。まだ人生これからだったのに、辛いことばかりで逝かせてしまうなんて私には耐えられなかった。許せなかった、という方が正しいかしら。私は何としてでもあなたを取り戻したかった。
そんな時、ある男に出会った。
男じゃないかもしれないわね。私にはそう見えただけって話で。彼は人間ではなかったのだから。
『キミのその願いは、人に許された境界を越えているよ、ハナカ』
『それでも、望むの?』
そう問われ私は即答した。ようやく掴んだ希望だった。全身をチューブに繋がれ、日々生気を失くしていくあなたをあれ以上見てはいられなかった。お別れなんて、無理だった。
この世界はその男が作ったものよ。
彼の箱庭で私はゲームのプレイヤーになった。そこからは里香も知ってるわね。刺されて病院に運ばれ、私は長い夢を見た。そこで思い出したの、前世と自分の行った取引を。あの男が最初に私の前に姿を現したのは、病室よ。
『やあ、ハナカ。そうそう、今はコンだったね。ワタシの世界へようこそ』
そう言って微笑んだあの男の声は、今でも忘れられない。
これはどうしても打ち明けられなかった事なんだけど、私が賭けたのは私の命だけじゃなかった。
里香、あなたの命も賭けたのよ。私が勝てばあなたの命は保証され、どちらの世界でも好きに生きていける、とあの男は言ったの。
今思えば、なんて勝手なことをって呆れちゃうわね。でもその時はそうするしかないと思い詰めてしまっていた。何もしなくてもこのままじゃ里香は死ぬ。それなら、って。……ごめんね。
あなたに再会できた時は、心の底からあの男に感謝したわ。
髪の色も目の色も名前も違ってはいたけど、あなたは確かに里香だった。
生真面目で融通がきかなくて、お人よしで努力家の、私の里香だった。
――ああ、そんなに泣かないで。目が腫れてしまうでしょう?
そして私はゲームに勝った。
あなたの命と自由を勝ち獲ったの。ねえ、お願い。悲しまないで。
私は元の世界に帰らなくてはならない。そういう契約だってこともあるけど、父さんと母さんをあのままにしてはおけないもの。里香も知ってるよね? あの人達がどんなに私達を愛してくれていたか。
あなたの分もしっかり親孝行するわ。約束する。
――ええ。玄田や成田の両親にはもちろん悪いと思っているの。長い間、それはもう可愛がって下さったもの。だけど私は「玄田 紺」にはなり切れなかった。里香はもう「島尾 真白」よね。そこが私とあなたの一番の違いだわ。
ううん、勘違いしないで。責めてるわけじゃない。私は嬉しいの。
一生懸命勉強して、夢中でピアノを弾いて、全力で恋をしているあなたを、こんなに近くで見ていられる。ねえ、こんなに幸せなことが他にある?
私は満たされてるわ。真白ちゃんの想像以上に、私は毎日ここで生きている今に感謝してるの。
元の世界に帰る日?
……三年生のクリスマスよ。
その日、私にまつわる記憶はこの世界の人々の中から完全に消滅する。
真白ちゃんの知ってる『松田先生』は、私を苦しめる為に一時的にあの男が呼び寄せたトモの影。私より先に元の世界のトモのところへ還ったんじゃないかしら。向こうの世界で、トモは今でもきっと元気にやってるわ。お別れを言わせてあげられなくて、本当にごめんなさい。
だけど本当は、最後まで知らないままでいて欲しかった。これで分かったでしょう? 私はエゴの塊よ。里香の為、なんて口では言いながら、本当はぜーんぶ自分の為。
だから、真白ちゃん。あなたはこの世界でまっすぐに生きていって。
どこかであなたが幸せそうに笑ってる。そう思えるだけで私も生きていけるから。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ゆっくりと紺ちゃんは話し終えた。
30分以上かかっただろうか。ヴァイオリン協奏曲は終盤にさしかかっている。
紺ちゃんから視線を外し、私はモニターに映っている紅をじっと見つめた。
真剣な表情で指揮者の向井さんの振りに合せ、艶やかな音色を紡いでいる紅はそれはそれは美しかった。彼を取り巻いている光が見えるようだった。
愛してるよ、紅。
この気持ちは嘘なんかじゃない。
だけど、このまま紺ちゃんを――花ちゃんを、一人には出来ないよ。
「よく分かった。話してくれてありがとう。謝らないから安心して。私の為にそこまでしてくれたこと、謝ったりしたらあんまりだもんね」
私が静かに口を開くと、紺ちゃんはホッとしたように目元を和ませた。
「それとは別に、言いたいことも沢山ある。今のご両親のことも紅のことも、美登里ちゃん達のことも、やっぱり紺ちゃんは酷いと思う。ゲームだって言ったけど、そうじゃないってもう気づいてるんでしょう? みんなそれぞれ必死に生きてる生身の人間で、紺ちゃんを愛してくれてる大切な家族であり友人だって」
「……ええ、本当にそうよね。こんなに離れがたく思ってしまうなんて、自分でも意外なの。こちらの世界の人には心を持っていかれないようにしようって、何度も固く誓ったのに出来なかった。みんなのこと、大好きよ。きっと忘れない。そうすることしか出来ない私のこと、憎んでもいいわ」
どうして憎めるだろう。
たった一人、私の為に茨の道を歩み続けてきた姉を、どうして。
「大丈夫。忘れそうになったら、私が叱ってあげる。一人だと、忘れてしまうかもしれないでしょ?」
悪戯っぽく言って、私はにっこり笑ってみせた。
紅のヴァイオリンの豊かな音色に耳を澄ます。
胸は引き裂かれそうに痛んだ。
離れたくない。
ずっと一緒にいたい。
あなたを柔らかく微笑ませるのは、いつも私でありたかった。
だけど、このままでは彼女を忘れてしまうと知った今、選べる選択肢は一つしかない。
残された時間は長くないけど、それまでは傍にいてもいい?
紅が全てを忘れ去ってしまっても、幸せだった時間までは嘘にはならないって、信じてもいい?
そう遠くない未来。
今日の決断をそれこそ死ぬほど後悔したとしても、私の為に全てを捧げてくれた花ちゃんを切り捨て、あなたの手を取ることはどうしても出来ない。私には出来ないよ、紅。
「――なに、いってるの……そんなのダメ! 駄目よ!!」
紺ちゃんは大きく目を見開き、激しく首を振った。
「みんなを巻き込んで、消える運命だった私の命をつなぎとめた。花ちゃん一人に、その罪を負わせたりしない。私にも代償を支払わせて」
「そんな……ご家族は――蒼くんは、紅はどうするの!?」
「紺ちゃんが言ったんだよ。みんなの記憶は消去されるって。だから、傷は残らない。三井さんとお姉ちゃんを見れば、一目瞭然だよね。紺ちゃんだけが苦しむなんて、そんなの嫌だよ。これまでだって何でも一緒に分け合ってきたじゃない」
――『え……何、言ってるの? 松田先生って誰?』
お姉ちゃんのあっけに取られた表情が脳裡に蘇る。
ましろって誰?
紅の声でその台詞を再現しそうになり、慌てて頭から追い払った。今は考えちゃだめだ。
「ばか。ましろの、バカ」
「紺ちゃんにだけは言われたくないですよーだ」
彼女は食い入るように私を見つめ、それから長い息を漏らした。
私のこの決断は、間違ってるのだろうか。
これ以上、ほんの少しだって花ちゃんを苦しめるつもりはなかった。
「……私が一緒に帰るの、迷惑? もしそうならこっちに残る。花ちゃんの記憶も、紺ちゃんとの思い出も、全部忘れてしまうのは悲しくてたまらないけど、我慢する」
私の問いかけに、彼女はまたもや激しく首を振った。
それが答えだ、と思った。
最後、何文か加筆しました。
ましろの決断の根拠が伝わりやすくなっていればいいのですが。




