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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
145/161

36.変化

 クリスマスコンサート当日は生憎の空模様だった。

 学院を出発したマイクロバスは開場一時間前に芸術会館に到着。クラス毎に分かれて乗り込んだそのバスから一歩外に出た途端、ツンと鼻が痛くなる。指先が痺れるほどの寒さに顔をしかめ、分厚い雲に目を向けた。今にも雪がちらつきそうだ。


 「じゃあ後でね、マシロ。なるべく人の多いところにいること。あちこち出歩かないでね」

 「俺と紅の出番は第一部だけだし、演奏終わったらすぐ観客席そっちに戻るから。知らないヤツに声かけられてもついていくなよ」


 美登里ちゃんが注意を促すと、蒼も続けてそんなことを言ってくる。

 心配してくれるのは有難いけど完全に幼児扱いだ。どうしてこうなった、と遠い目になってしまう。前世持ちというアドバンテージはいずこへ。

 

 「返事は? 真白」


 学校指定のロングコートの裾を翻し、紅もバスから降りてきた。

 青鸞学院生はみんな同じ格好をしてるのに、紅だけイタリアマフィアのように見える。せめて前ボタンをとめたらどうだろう。


 「了解しました。人の多いところにいます。知らない人にはついていきません。紅と蒼の合流を待ちます」


 半ば自棄になって復唱した私の頭を優しく撫で、紅は「よく出来ました」と笑った。

 たったそれだけのことで顔がニヤけてしまう自分が憎い。同時にゴッドファーザーのテーマ曲が頭の中で回り始めた。さしずめ私の配役はファミリーに可愛がられる下っ端ってとこでしょうか。若きマフィアコウの情婦役をつとめるには、色々足りてない。胸と色気……どこで買えるんですか。誰か教えて。


 上代くんは真新しいマフラーを巻いている。編み目の不揃いなモコモコのマフラーは、栞ちゃんのお手製だ。編み方教えてくれへん? と頼まれ、私も協力した。せっかくプレゼントするのなら、と全力で指導していたら、途中で栞ちゃんを泣かせそうになりました。そこから慌ててイージーモードに切り替えたんだよね。まあ、少々不格好なのも手編みならではのご愛嬌ってことで。

 蒼も目ざとくマフラーに気づき、にんまり口角を上げた。あーあ。悪い顔しちゃって。


 「俺も首が寒いな。慎のマフラー貸して」

 「はあ!? い、イヤや」

 「どうして。このままじゃ風邪引きそう」

 「勝手にひきさらせ!」


 二人のじゃれあいを微笑ましく眺めながら、かじかんできた手をこすりあわせる。紅は無言で私の手を取り、コートのポケットの中につっこんだ。


 「……ありがと」

 「手袋忘れたの?」

 「うん。いつものスクールバッグに入れっぱなしだって、バスに乗ってから気がついてさ」

 「俺のを貸してもいいけど、大きいよな」


 思案げに首を傾ける紅の手をポケットの中でキュっと握り直し、私は首を振ってみせた。


 「大丈夫。中はあったかいし、外を移動するのなんて僅かな時間だもん」

 「少しの間だろうが何だろうが、真白が寒い思いするのは嫌なんだよ」


 心から気遣うような声を耳にした途端、お腹の底が熱くなった。

 うわあ、なんだろうこれ。ぎゅっと抱きつきたい。ほっぺを紅の胸元にこすりつけたい。高速で。まるでマーキングしたくてうずうずしてる犬みたいだ。


 「どうしたの?」

 「ううん。幸せだなあと思って」


 紅は驚いたのか微かに身動みじろぎした。それから、少し照れたように俯く。らしくない素直な反応に驚き過ぎて、脳内を駆け回っていた犬がピタリと足を止めた。どうしちゃったの、紅!


 「おい、そこの馬鹿ップル。もう入るってよ」


 上代くんの呆れ声が飛んでくる。紺ちゃんは私と紅を交互に見遣り、ニコニコ笑っていた。


 

 後藤先生の引率でロビーに足を踏み入れると、一般の来場客から一斉に視線が注がれた。


 「見て、青鸞の子たちよ」

 「やっぱり素敵ね~。入学するの、すごく難しい学校なんでしょう?」

 「高等部からは特に、って話よ」


 ひそひそ話がくすぐったい。羨望の眼差しの中、出演者は楽屋へ、それ以外の生徒はあらかじめ指定されたエリアに席を取ることになった。学院生たちは授業の一環ということで、全員参加が義務付けられている。音響のチェックやリハーサルは昨日のうちに終わってるはずだから、紅たちはこれからステージ衣装に着替えるだけだ。


 「島尾さん?」


 どこに座ったものかと右往左往しているところへ、突然声をかけられた。

 飛び上がりそうなくらい驚いた私の視線の先に立っているのは、宮路さんではないですか。あれから時々見かけて挨拶くらいはしてたけど、こうして直接話しかけられるのは随分久しぶりだ。

 幼稚舎から青鸞に在籍しているだけあって、彼女らがスキャンダルにまみれたのは束の間だった。すぐに取り巻きは復活したようで、今日も内部生数名を引き連れている。


 「あ、こんにちは」

 「こんにちは。もしかして、座る場所を探しておいでですの?」

 「うん。みんな仲良し同士で座ってるみたいだし、端っこの一人席が空いてないかなって見てたんだ」


 正直に打ち明けると宮路さんはまあ、と片眉を吊り上げた。


 「成田さまと城山さまの演奏は第一部のみ。演奏を終えられた後、最後まで楽屋にいらっしゃる方も中にはみえますが、お二方は島尾さんに合流されるおつもりなのではなくて?」

 「で、ですね。そんな風なことも言っていたかもしれません」


 流れるような丁寧語につられ、背筋がしゃっきり伸びる。


 「もう、仕様のない方」


 宮路さんは苦笑いを浮かべ、私を手招きした。ついてこい、って意味だよね?

 彼女が白魚のような手で示した席は、舞台がよく見える中央寄りの通路に面した場所にあった。


 「ちょうど三席あります。島尾さまが座らない席にはハンカチなどを置いておけばいいでしょう。きっと皆、そこが誰の席なのか分かりますわ」

 「でも……」


 ここって宮路さん達の席なんじゃ。

 そう言いかけた私を礼儀正しい挨拶で封じ、彼女は優雅に膝を折った。


 「ではご機嫌よう。どうかよいクリスマスを」

 「あ、ありがとう!」


 慌てて大きな声でお礼を言ったら、思った以上に声が響いた。

 周りにいた内部生から冷たい視線を向けられ、ちょっとへこんでしまう。宮路さんが諦め混じりの笑みを返してくれたのがせめてもの救いですよ。はい。


 プログラムは第一部、第二部に分かれている。

 第一部が独奏。第二部がアンサンブルとオーケストラだ。

 ピアノ科、作曲科、声楽科を除く全ての学科の生徒は、一年の時からアンサンブルが必須科目になっている。高等部のオーケストラには、中でも優れた演奏技術を持つ生徒が選ばれて所属する仕組みだ。必然、三年生が中心になるわけで、今回参加することになった栞ちゃんは異例の大抜擢だと囁かれている。

 私が花桃寮プリマヴェーラ生で知っているのは、チェロ専攻のミチ先輩でしょ。オーボエ専攻のリホ先輩、そして我らがマドンナ・ヴィオラ専攻の明日香アスカ先輩くらいかな。あ、そうそう。意外といっては失礼だけど、タクミ先輩とケンヤ先輩もオケメンバーとして名を連ねてます。


 パンフレットをめくってくるうちに、ようやく開幕5分前のブザーがなった。目をあげて会場を見渡してみると、いつの間にか満員になっている。紅と蒼の席、危うくなくなるところだったよ。中等部のクリスマスコンサートを見に行ったことあるけど、その時は私の両隣とも空いてたんだけどなあ。宮路さんに改めて感謝ですよ。

 やがて客席の照明が落ち、ゆっくりと緞帳が上がっていった。


 寄付金の額で出場者を決めている、と以前確かにトビーは言った。

 方針を変えたのか、高等部と中等部は違うということなのか、出場者の演奏水準は高く、私はいつの間にか前のめりになって聴き入ってしまっていた。

 

 蒼が演奏したのは、オッフェンバック作曲 ジャクリーヌの涙。


 哀愁漂う美しいメロディを感情豊かに弾き上げ、蒼は観客席の溜息を誘った。滑らかなボーイング。高音へと駆け上がる時の響かせ方。そして何より深く切ない音色が蒼の持ち味だろう。

 ジャクリーヌ、と聞くと私はどうしても女性天才チェリストを連想してしまう。そして演奏家として絶頂を迎えた二十代で難病を患い、チェロを弾くことを断念せざるを得なかった夭逝のチェリストは、私に『森川 理沙』さんのことも思い起こさせた。

 スポットライトの下、ピアノに合せチェロを奏でる蒼から悲壮感のようなものは感じられない。彼の傷が完全に癒える日は、もしかしたらこないのかもしれない。それでも少なくとも今は音楽をやめないでいてくれてる。そのことが本当に嬉しかった。

 じわりと浮かんできた涙を指で掬い落とし、私は愛しげにチェロを奏でる蒼の姿をじっと見つめた。


 蒼の時もだったけど、紅が舞台に姿を見せただけで観客席からは感嘆の息が漏れた。

 黒のタキシードを隙なく着こなし優雅にヴァイオリンを構えた紅は、贔屓目を差し引いても本当に素敵だ。


 パガニーニ作曲 24のカプリース24番。


 私だけに聴かせてくれたあの日から、一週間も経っていない。それなのに紅は、ガラリと演奏スタイルを変えてきた。

 荒削りだし、ミスタッチも、重音が濁ってる箇所だってある。だけどそんな欠点が気にならなくなるくらい、紅の演奏は魅力的だった。挑発的なパッセージ。香り高い主旋律。テンポを自在に揺らし、紅は悪魔的とも評されるパガニーニの難曲をいかにも彼らしく紡いでいく。中盤の高音部はどこまでも澄み切った音色で、周囲の生徒たちは皆うっとりとした表情を浮かべた。

 

 ざわざわと胸が騒ぐ。言いようのない切迫感に、いてもたってもいられなくなった。

 紅はすごい。

 その場の思いつきみたいな指摘だったのに、きっちりコンサートに合わせて仕上げ直してきたんだ。同じことをやれと言われても自信がない。

 演奏が終わると、熱狂的な拍手が沸き起こった。不可解な感情の波に揺さぶられながら、私ものろのろと手を叩く。


 ああ、そうか。

 ――淋しいんだ。


 観客の絶賛を受け、鷹揚な態度で一礼した紅は知らない人みたいだった。いい方に変化してるんだから、もっと喜ぶべきなのに。なんでだろう、すごく胸が痛い。

 それ以上見ていられなくて、私は静かに目を伏せた。


 

 第一部が終わり、20分の休憩に入った。

 魂が抜けたようにぼんやりと座ったままの私の元に、制服に着替えた紅と蒼がやってくる。「見て、蒼様と紅様よ」いつもと変わらない女子生徒達の嬌声が、今日は何故か耳障りだった。


 「なかなかいい席じゃん。ありがと、ましろ」

 「ううん。私じゃなくて、宮路さんが取っといてくれたの」

 「……へえ」


 訝しげに眉を曇らせた蒼は「ほら」と紅を促し、私の隣に座らせた。腰を下ろすとすぐに、紅は私の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。


 「俺たちの演奏、どうだった?」

 「……良かったよ、ものすごく。蒼のチェロも紅のヴァイオリンも」


 そんな陳腐な褒め言葉をなんとか絞り出した。


 「そうか。真白に褒められるのが一番嬉しいよ」


 まるで蒼みたいなことを言って、紅はふわりと笑った。

 どこか吹っ切れたような明るい笑みが、私の胸に鋭く突き刺さる。「当たり前だろ」とか「惚れ直した?」とか、そういう軽口がないことも気になった。


 「紅、なんか変わったね」


 つい口から飛び出てしまった私の本音を聞いて、紅は眩しげに目を細めた。


 「変わったとしたなら、それは全部――」


 言い終わらない内にヴァイオリン専攻の先輩方がやってきて、紅の台詞を最後まで聞くことは出来なかった。


 「おいおい、なんだよあの曲」「お前、ほんっと生意気!」


 興奮冷めやらぬ顔で紅に話しかけ始める。人嫌いが治ったわけじゃない蒼は、うるさいと云わんばかりに顔をしかめた。

 紅もいつものようにそっけなくあしらうだろう、と静観していた私は、次の瞬間非常に驚く羽目になった。


 「ありがとうございます。ここじゃ周りの迷惑になるのでロビーに出ませんか?」

 「それもそうだな。コーヒーくらい奢ってやるよ」

 

 すぐに戻る、と小声で言い残し、紅は数名の男子生徒とにこやかに談笑しながらホールを出て行った。彼らのネクタイの色は群青だった。小・中時代からの顔馴染みなのかもしれない。


 「……なにあれ」


 ボソッと蒼が呟く。

 同じことを思ってしまった私は、「紅にも付き合いがあるんだよ」と返すのが精一杯だった。柔らかな物腰とは裏腹に、一歩も自分のテリトリーに踏み込ませようとはしないのが成田 紅という男のはずだったのに。


 

 第二部の演奏は、よく覚えていない。

 栞ちゃんが参加したオケによるストラヴィンスキーのペトルーシュカも、紺ちゃんと富永先輩の連弾も、私の表面を美しい旋律で撫でていっただけだった。特に上代くんのドビュッシーのピアノ三重奏曲なんて、ピアノパートを聴かせてもらった時から楽しみにしていたのに。

 どれだけ考えまいとしても、隣の紅の変化が気になって仕方なかった。


 

 帰りのバスの中で、紅は眠たげにまぶたを擦り始めた。

 まじまじと観察してみると、顔色も良くない。


 「もしかして、昨日眠れなかったの?」

 「いや。流石に本番前だし気をつけて睡眠はとったつもりだけど。――ああ、だめだ。安心したら眠い。着いたらおこ……して」


 連日の練習が祟ったのだろう、語尾はあっという間に不明瞭になり、紅はそのままずるずると固い座席にもたれ込んでしまった。長い足が窮屈そう。

 そして、それからどれだけもしないうちに、紅の形のいい頭がコテンと私の肩に乗ってきた。

 うわあ! ビクンと身体が飛び跳ねたけど、紅が目を覚ますことはなかった。安らかな寝息まで立ててますよ。人の気も知らないで!

 くっきりした眉に通った鼻梁。悔しいけど、ホント私の好みドストライクな造作だ。端正なお顔のアップに耐え切れず、反対側の肘掛に頬杖をついてそっぽを向く。

 やけに視線を感じるなと思ったら、前の方に座ってる女の子たちが垂涎ものの顔でこっちを凝視していた。こ、怖い。

 

 これ、額に落書きしたら怒るだろうなあ。

 いたずらを思いつき、紅の反応を想像してみる。ちょっとだけ気分が上向きになった。

 

 


◇◇◇◇◇◇◇




 次の日のチャリティコンサートは、とうとう雪になった。

 開場は16時30分。学校が終わってすぐに寮に戻り、前の晩から準備しといた私服に着替えましたよ。とっておきのニットワンピにショートブーツを合わせる。外出届けもばっちり提出済みですとも。

 寮の外門で傘をさして、お姉ちゃんのお迎えを待った。

 地面に落ちると同時に消えていく淡い雪の欠片を眺めていると、クラクションの音が短く鳴らされた。


 「三井さん! ご無沙汰してます」

 「こんにちは、真白ちゃん。ちょっと見ない間にまたお姉さんになったね」


 お姉ちゃんと三井さんが揃っているのを目にするのは、入寮以来だ。相変わらず仲良しオーラを振りまいている2人にほんわり心が温まる。

 雪が吹き込まないよう急いで後部座席に乗り込んだあと、私はきょろきょろと車内を見渡した。

 あれ?


 「どうしたの、ましろ」


 バックミラーで私の様子を見守っていたお姉ちゃんが不思議そうな声をあげる。


 「松田先生はやっぱり来られなかったんだ」


 チケットは一応3枚送っておいた。

 オペレッタの時みたいに4人で行けたら楽しいかな、と思ったのだ。紺ちゃんも来てるはずだから、それとはなく引き合わせられないかなという下心もありました。トビーなんて断固反対! 同じロリコンなら友衣くんの方が断然マシだ。


 でも、クリスマスだし他に予定が入ってるかもしれないとは思ってたんだよ、うん。恋人とデート、とかじゃないといいなあ。頼む、学校で一人寂しく残業しててくれ。誰かのサンタクロースにはまだならないで。

 鬼畜なことをぶつぶつと祈り始めた私に、お姉ちゃんは首を傾げた。

 目にはありありと不審な色が浮かんでいる。


 「え……何、言ってるの? 松田先生って誰?」


 自分の聞いた言葉が信じられず、私はポカンと口を開けた。



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