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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
136/161

28.君だけに奏でる

 そして次の日。

 外門に立った私は、ドキドキしながら紅を待った。

 じっとしていられなくてボトルネックのカットソーの裾を引張ったり、ハーフパンツの裾から見えてる膝小僧を眺めたり。秋らしくしようと思ってミドル丈のブーツを合わせてきたけど、ちょっと早かったかな、なんて考える。空気はひんやり冷たいけど、日差しはかなりきつい。


 紺ちゃんとの話し合いがどうなったのか、とか、あれ私のファーストキスだったよねとか。そういうことで頭がいっぱいになると、まともに紅の顔が見られない気がする。

 せっかくのデートなのに、それは嫌だ。違うこと考えて気を紛らわそう。うん、そうしよう。えー、では、週明けのアナリーゼについて。課題はドヴォルザークの即興曲 ニ短調だったよね。


 「ましろ」


 アナリーゼというのは、楽曲をパートごとに分けて、使われている調や展開や主題、そして動機などの構成を自分なりにつかむこと。きっちり把握できると、実際に弾くときに便利なんです。なんとなく悲しい曲だな~って思いながら弾くよりも、そういう構造で作曲されているからこそ、悲しく響くんだ、って分かって弾く方が表現の幅が広がる。

 

 「ましろ」

 「……はっ? はい!」


 突然、誰かに強く呼びかけられ飛び上がりそうになった。

 違う意味でドキドキし始めた胸を押さえ、視線を上げると紅が立っている。びっくりさせないで下さい。

 少し離れたところに、見慣れたベンツが止まっている。運転席の外に立った水沢さんは私と目が合うと、丁寧に一礼してくれた。

 久しぶりの水沢さんですよ! 今日も黒スーツがばっちり決まってる。


 「おはよう。怖い顔して、どうしたの」

 「おはよう。そ、そんなに怖い顔してた?」


 紅の表情をじっと観察してみた。

 ――うーん。取り立てていつもと違うところはないみたい。格好いい。

 薄手のジャケットを羽織り、緩いシルエットのチェックパンツにごつめのエンジニアブーツを合わせてる紅は、大人っぽくてとても高校生には見えなかった。色気がけしからんのもいつものこと。

 


 紺ちゃんとはどんな話を? 

 私には衝撃的なキスだったんだけど、紅的にはそうでもなかった?

 

 問い詰めたいような聞きたくないような。うわああああ! なんかモニョモニョするっ。


 「なに考えてるのか大体想像はつくけど、とりあえずここから移動しないか。行きたいところ、決まった?」

 「あ、考えるの忘れてた」

 「だろうと思った。じゃあ、今日は俺のエスコートでいいかな?」


 ニッコリ微笑み、甘い声でそんなお誘いをかけてくる紅に『ノー』と言える人がいようか、いやいまい。……そういえば、昔は言えてたっけ。あの頃は、胡散臭いな~って思ってたからこそ、拒否出来たんだよね。実際付き合ってみたら、紅は全然嘘つきじゃなかった。むしろ誠実な気がする。

 嘘つきなのは、私と紺ちゃんの方だ。


 「はい。お願いします」

 「では、お手をどうぞ。姫」


 紅がわざとうやうやしく私に左手を差し出す。

 そういえば、中学の時に似たようなことがあったっけ。あの頃は、こうやって一緒に出かけるようになるなんて、想像もしてなかったな。


 「ありがとうございます、我が君」


 覚えてるかな?

 悪戯心から、そんな小っ恥ずかしい台詞を舌に乗せてみる。

 紅は一瞬ぽかんとした顔になり、それから何故か切なげに瞳を細めた。


 「懐かしいな、それ」

 「あの時、なんでか知らないけど紅が怒ったんだよね。車のドア、すごい勢いで閉められたもん」


 紅と手を繋ぎ、ちょっと引っ張ってみる。紅も負けじと手を引っ張り返してきた。もちろん、ちゃんと手加減した力加減で。

 

 「あれは、ましろが悪い」

 「なんで」

 「なんでも!」


 紅は、この話はおしまい、とばかりに言い切って、私を車に押し込めた。


 

 移動の間、昨晩の騒動のことを話すと、紅は複雑そうな表情を浮かべた。


 「みんな、本当にお前のことを心配してたから、それで良かったと思うけど」

 「けど、なに?」


 断りもなく紅との喧嘩の原因まで喋ったのは、やっぱりマズかっただろうか。

 謝ろうとした私の口に、紅の人差し指があてられる。堅い指の感触に体が跳ねそうになった。うう、自意識過剰ですかね。どうしても思い出しちゃう。


 「真白が悪いんじゃないよ。俺の心が狭いだけ。お前の部屋に他の男が入ったのかって、ちょっとムカついた」

 「お、男って、上代くんと蒼だよ!?」

 「誰でも一緒だよ。今回は、美坂さんや皆川さんも同席してたからいいとして、もっと警戒心を持って欲しい。――こんなこといちいち言ってくる彼氏は、面倒?」

 「ううん、分かった。ちゃんと気をつける」


 素直に頷いて約束した。

 紅の立場だったら、やっぱりいい気はしないなって思ったから。

 私はまだ紅の自室に入ったことがないのに、美登里ちゃんや栞ちゃんが知らないところで遊びに行ってたら嫉妬するだろうし。心狭いのは私も一緒だよ。

 いや、むしろ私の方が上かも。

 現に今も、普段通りの紅に説明しがたい憤りを感じています。ちょっとは意識しろ!


 

 そんなことを話しているうちに、目的地に到着したみたいだった。

 水沢さんにお礼をいって、紅のエスコートで車を降りる。彼はトランクを開けた水沢さんから何かを受け取り、そのまま、こじんまりとした真っ白な建物の前まで私を連れてきた。どうやらここは、小さなホールみたい。絵画展でもやってるのかな?


 「前に約束したよな。その約束を俺は破ってしまった。だから、指切りの罰を受けるよ」


 ――『俺は泣かさないよ。約束する』『ゆーびーきーりげんまーん、紅が嘘ついたら』


 そういえば、初めての映画デートでそんな話をしたっけ。


 「学院でお前の泣き腫らした顔を見て、心がえぐられたように痛かった。……初めてだったよ、あんなに誰かのせいで苦しくなったのは。その時、やっと蒼の言ってた意味が分かった」


 紅の左手に下がっているのは、ヴァイオリンケース。

 まさか。


 「お前が暢気な顔で笑っててくれたら、それでいい。その時真白を笑わせてるのが、俺じゃなくてもいいよ。悲しい顔を見るより、百倍マシだ」


 紅が本当に優しい口調でそんなことをいうもんだから、私は唇を引き結ぶのが精一杯だった。


 「ほら、そんな顔するな。笑えよ、ましろ」


 声を出したら、はずみで涙がこぼれそう。

 コクコク、とただ頷き、紅と一緒に建物に入る。

 

 どうやら小ホールをまるっと貸し切ったみたい。

 一体、いくらかかったんだろう。思わず素に戻り、非難がましい目で紅を睨んでしまう。私たちはまだ高校生だ。実家はお金持ちかもしれないけど、自分で稼いだわけじゃないよね。

 紅は苦笑いしながら、軽く肩をすくめた。


 「怒るなよ。ちゃんと代償は払うんだから。ここの管理会社の人とは面識があるんだけど、年末のチャリティコンサートに出る代わりに、貸してもらったんだ」

 「そうなんだ」

 「だから、安心して一緒においで」


 私の考えてることなんて全部バレバレみたい。

 客席に案内され、紅一人がステージに上がる。

 すでに集まっていた小編成のオーケストラメンバーは、その年末のチャリティで一緒に演奏する仲間なのだろうか。

 紅が楽器ケースからヴァイオリンを取り出すと、オーボエ奏者がAの音を鳴らす。

 あっという間に調弦を済ませ、紅は舞台袖に向かって「向井むかいさん!」と声をかけた。


 「はいはい。色男がようやくお出ましか」


 ぼさぼさの髪をかきむしりながら、Tシャツにチノパン姿の男の人が出てきた。

 客席の真ん中にポツンと座った私に流し目をくれ、フン、と鼻を鳴らす。


 「休みの日の朝に、わざわざ呼びつけやがって。この借りはきっちり返してもらうからな」


 小さなホールとしっかりとした音響が相まって、彼らのやり取りの全部が耳に入ってくる。

 こんな大掛かりなことしなくても良かったのに。ハラハラしながら見守っていたんだけど、紅は彼の言い方に慣れているのかリラックスした表情のままだった。

 

 「もちろんですよ。我が儘言ってすみません。よろしくお願いします」

 「おう。通しで演奏するわけじゃねえんだし、一発で決めろよ」


 向井さん、と呼ばれた指揮者が前にたち、スッと指揮棒を振り上げる。


 チャイコフスキー作曲 ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35 第一楽章


 第一ヴァイオリンの柔らかな導入部に重なっていくコントラバス。そこに管も加わって第一主題の一部分がオケ全体で奏でられる。

 紅はおもむろにヴァイオリンを構え、かすかに首を動かして楽器を安定させると、華麗な主旋律を弾きならし始めた。


 一音目から、その音の深みと温かさに心臓を鷲掴みにされた。

 紅の真剣な眼差しの全てが、ヴァイオリンの弦に注がれている。

 凛とした立ち姿。ストイックな表情。あまりにも絵になる彼の演奏から、目が離せない。何より、その音が、私の全身に鳥肌を立てた。深みのある低音部から駆け上がっていき、たどり着く澄み切った高音部。高度なテクニックを駆使しないと弾けない難所も、彼は途切れることのない集中力で乗り切っていった。 

 

 すごい。すごいよ、紅。

 泣くまいと唇を噛んでもだめだった。

 激しく感情を揺さぶられ、ポタポタと涙がこぼれていく。

 

 やがて差し掛かる展開部。トランペットの華やかな音を皮切りにオケも前面に出てきて、高らかに主題を歌い上げる。そこに再び加わる紅のヴァイオリン。やがて提示されるカデンツァ部分に、私は思わず息を飲んだ。

 カデンツァというのは、独奏楽器がオケの伴奏を伴わず自由な即興演奏をすることを指す。チャイコフスキー本人がこの部分も作曲しているんだけど、ここにソリストの個性が出るとも云えるだろう。

 オケの音がなくなった静かな舞台に、紅の切々としたヴァイオリンの音だけが、薫り高く立ち上っていく。どれだけの練習を重ねたんだろう。

 二オクターブ高いラの音を出さなければならないハーモニクス。指を変えず一本の指で奏でるグリッサンド。そして、重音。複数の音を同時に出す、というのはヴァイオリンという単音楽器にとって非常に難しい奏法なのだ。それらのテクニックを駆使しながら、紅は豊かにカデンツァの持つ切迫感と甘やかな感傷を表現した。

 そして再現部へ。第二主題が奏でられる部分にかけて、オケも紅もスピードと迫力を増していった。紅の艶やかな髪が一筋頬にかかる。向井さんの力強い指揮に合わせ、疾走する激しいリズム。

 

 ああ、もうどう言い表していいのか分からない。

 紅に抱きついて、祝福と感謝のキスを降らせたい気分だ。あらがないわけじゃない。だけど彼の音は他と比べようがないくらい、特別だった。

 第一楽章の最後の音が消えた後、私は立ち上がり精一杯の拍手を送った。


 

 興奮冷めやらぬうちに、向井さんとオケメンバーを紹介される。

 皆さん、まだ若いのに錚錚そうそうたる経歴の持ち主ばかりで、さもありなん、と納得してしまった。普段はそれぞれのオケでお仕事してるんだけど、時々こうして有志で集まって、年に一回コンサートを開いてるんだって。

 すごく良かったです、なんていうありきたりな言葉しか出てこないのが悔しい。

 しどろもどろになりながら賞賛を伝えようと頑張っているうちに、みんなが笑い出してしまった。


 「えらく可愛い彼女じゃないの。泣かすなよ、成田!」

 「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」


 コンマスの水嶋みずしまさんに頭をぐしゃぐしゃにされ、嫌がっている紅は、珍しく年相応に見えて可愛かった。


 「年末のチャリティでもこの曲やるから、また聞きに来てな。そん時は、全曲通すから」


 私に向かってそう言った向井さんは、今度は紅に向き直り、「このバカが急かすから、こんなに早く第一楽章を仕上げる羽目になった」と唇を尖らせている。


 「すみません。紅がご迷惑をおかけしたみたいで」

 「そうなんだよ。そこでだな。お嬢ちゃんにも、何かお礼して貰えたら嬉しいなあ」

 「向井さん!?」

 「私にできることなら何でも」


 抗議しようとする紅に目顔で合図し、私が即答すると、向井さんはしてやったり、という顔でニカっと笑った。

 だって、すごく贅沢な20分だったんだもん。

 発端は私と紅の他愛もない約束だったわけだし、巻き込んじゃって申し訳ないなって思うよ。

 でも……なんでしょうか、その表情は。


 早まったかな、と一歩後退りしそうになる私に、向井さんはサックリ言い放った。


 「来年のチャリティーは、俺らとコンチェルトやろうぜ。島尾 真白さん」

 「はい?」


 なんで私の名前を! ってそうじゃなくて。えっと、コンチェルトって協奏曲のことだよね。

 ええっ!?

 目を白黒させる私と得意げな顔をしてる向井さんを見比べ、紅は聞えよがしな溜息をついた。


 「彼女のことをご存知だったんですね」

 「サディア・フランチェスカコンクールの決勝ファイナルは、オレも聴きに行ってたんだよ。悪いな」


 向井さんの台詞にドッと湧くオケメンバーの様子からすると、事の次第を知らなかったのは紅だけみたい。


 「はあ……全く。こんな時くらい、カッコつけさせて下さいよ」

 「知るか。オレらをダシに女口説こうなんて、10年はええんだよ」


 がはは、と大きな口を開けて笑う向井さんに、私と紅もつられて笑ってしまった。

 笑ってる場合じゃなかった、と青ざめたのは、亜由美先生にこのことを話した後だったんだけど、それはまた別の話だ。




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