26.学内コンクール(後編)
下駄箱のある玄関ホールへと駆け下り角を曲がりかけたところで、私の視界に鮮やかな真紅が飛び込んできた。
紅が人待ち顔で辺りを見回し、何度も腕時計に目をやっている。
いつも悠然と構えている彼からは想像できない忙しない仕草。私を心配してくれているんだって一目で分かってしまった。それなのに。
――今は、会いたくない。
息を飲んでその場に立ち止まる。下校時間のピークは終わっていた。人に紛れ気づかれずに通り過ぎることは出来ないだろう。
ポケットからハンカチを取り出し、そうっと首元に当ててみる。
かすかについた血の痕。それほど酷い傷ではない。ちょっとヒリヒリするくらいだし、明日には治ってると思う。だけど、紅には気づかれる。どう説明するのか最善なのか、きちんと頭の中でまとめてから出て行かなきゃ。
しばらく考えたあと、私は走ったせいで浮いた前髪を撫でつけ、唇をぐにぐに揉みほぐして口角を指で吊り上げた。
全部ぶちまけて、縋ってしまいたい。泣き言を漏らすもう一人の自分は、胸の奥に押し込める。お願い。出てこないで。
「紅!」
「……良かった。靴はあるから、まだ校内にいるとは思ってたんだ」
私の顔を見るなり紅はホッと息をつき、大股でこちらへ向かって来た。
腹の底に力を込め、精一杯の笑顔を作って彼を見つめる。
上手く笑えてるといいな。何にも困ったことなんてないんだよって。
「ごめんね。学コンのことで、ちょっと理事長と話しててさ。歩きながら説明してもいい? 紺ちゃんのことも聞きたいけど、ここじゃなんだから」
大きな嘘をつき通そうと思うのなら、それ以外は全て真実を口にするのがコツらしい。
昔、立ち読みした『元銀座のママが教える他人を操る25の方法論』の内容を思い出しながら、言葉を選ぶ。紅に嫌な思いをさせるくらいなら、その場しのぎの嘘をつく方がいい、なんて。私は本当に浅はかだった。
紅は数回瞬きし、それから私の首を凝視した。
みるみるうちに、優艶な顔が歪んでいく。懐疑と不安に翳る彼の瞳を見ていられず、私は無意識のうちに空いている方の手で首を押さえていた。
「行こっか。待たせてゴメンね」
「ましろ」
元気よく見えるよう、足取りを軽くして紅の脇を通り過ぎる。
「ん?」
「……そんなに俺は頼りないの?」
抑揚のない声で吐かれたその言葉に、胸がギリギリと締め付けられた。
そんなことない。あなたを守りたいからだよ。
トビーに脅されたの。多分、紺ちゃんのイベントが関わってるの。紺ちゃんと私は、転生者で今のこの状況には前世のゲームが関わってて……。前世って。ねえ。バカみたいでしょでも本当の話なんだよ。
駄目だ。上手く説明できる自信がない。
思考は千々(ちぢ)に乱れ、まっすぐ立っているのもやっとだった。
トビーの高笑いが、耳の奥で反響する。
あいつにとって、紺ちゃんと私をいいように操る為に邪魔な人間は、紅だ。
ここで彼に受けた仕打ちを話してしまったら、おそらく紅は平静ではいられなくなる。理事長に歯向い、暴言を吐き、最悪暴力をふるってしまえば、いかに成田家とはいえ、紅も無傷では済まない。
もしかして……そうなることを見越して、すぐには消えない傷を私の首に残したの?
絶対に、させない。
紅をこんな茶番に巻き込んでたまるか。
痛みを共有して楽になるのは、私であって紅じゃない。だから、これでいいはず。そうだよね?
振り返らないまま、明るい声で否定する。
「そんなことないよ。紅はいつも私を助けてくれてるじゃない」
「こっちを向いて」
「……嫌」
「いいから!」
伸びてきた紅の腕に肩を掴まれ、半ば強引に振り向かされた。
紅は、今まで見たこともないほど『男の人』の顔をしていた。
「真白は、俺をどんな奴だと思ってるの?」
「……紅」
「お前はとっくに知ってるよな。そんなに出来た人間じゃない。いつまでも待てるなんて格好つけたけど、本当は違う。頼むから、話してくれ。一体、何を隠してる? その首の傷は、なに?」
「…………」
「――このまま傍にいるだけなんて、俺には無理だ!」
抑えきれない激情の滲む、叩きつけるような低い声に、ビクリと体が跳ねる。
トビーとの対決は、想像以上に私の精神力を奪っていたのかもしれない。
正常な判断力なんて、もうどこにも残ってはいなかった。
「そんなこと言われても、話せないんだって!」
口から溢れ出たのは、そんな身も蓋もない言葉。これじゃ、逆ギレだよ。
しまった、と思った時にはもう遅かった。私の頑なな態度と叩きつけた言葉は、ザックリと紅を抉った。
彼はかすかに首を振り、私の肩から手をどけた。
ふわり、と体が自由になる。
オレニハ ムリ
ずっと我慢していたに違いない紅の本音が、頭の中をエンドレスで流れていく。
「分かった……行こう、送ってく」
諦め混じりの静かな声に促され、私はよろよろと足を前に踏み出した。
変なの。目の前が、暗い。
寮までの道すがら、紅は紺ちゃんの容態について言葉少なに話してくれた。
保健室から結局、病院に運んだそうだ。軽度の過労だろうという診断を受け、今はもう自宅に戻っているらしい。
「紺も『なんでもない。心配するな』の一点張り。意識が戻ってからは、真白のことをひどく心配してた」
「そっか。紺ちゃんらしいね」
「コンクール、出ることになったのか」
「……そうみたい」
「急なエントリーだったんだろう? 大丈夫か?」
さっきの激情が嘘みたいに、紅は優しく私に話しかけた。
すっかり諦めちゃったんだ、と嫌でも思い知らされる。
「私のことはどうでもいいよ」
紅の方を見ないまま、そう告げた。彼の表情に明確な答えを見つけてしまうのが怖い。
「明日から、送り迎えはいらない。紺ちゃんを支えてあげて。今まで苦しめて、ごめんなさい」
「なに言って――。ましろ、聞いて。さっきは俺が」
「もういいの。送ってくれてありがと」
早口でお礼をいって、踵を返す。
「ましろ!」
寮の玄関の扉に体当たりするように駆け込み、そのまま花桃寮と繋がる渡り廊下へ向かった。部屋に飛び込み、息を切らせながらそのままずるずると扉にもたれ込む。
紅。
本当にごめんね。
楽しくて照れくさくて、紅の言動の一つ一つに頬が熱くなって。そんな幸せな気持ちを沢山くれたあなたに、私は何も返さなかった。ううん、それどころか苦しめた。こういうの、何ていうの? 恩を仇で返す?
座り込んだ瞬間、堪えきれなくなった涙がボタボタと落ちてくる。あまりにも色んなことが立て続けに起こり過ぎて、これからどうするべきなのかを考えることすら出来ない。
拳をつよく口元に押し当て、私はこみ上げる嗚咽を漏らすまいと必死になった。
そこからの一週間は、本当にあっと言う間だった。
隙あらば話しかけてこようとする紅を躱し、お昼休みは練習室に篭もる。放課後は誰よりも早く教室を飛び出して、寮に戻った。携帯の電源は切ったままだ。
紅の話は分かってる。さよならを受け止める覚悟だってある。
ただもう少しだけ待って、と未練がましく自分に言い訳してみた。ほら、だって今は大事な時期だし。コンクールが終わったらちゃんとけじめをつけるから。
蒼が見かねたように「どうしたんだよ、ましろ」と話しかけてきた時も「コンクール前だから、そっちに集中したいんだよ」と俯き、視線を避けた。
「紅は荒れてるし、玄田は変だし。……みんな心配してる」
「うん、悪いと思ってる。でも、今は余裕ないの。ゴメン」
上代くんと栞ちゃんが何かを言いたくてうずうずしてるのもよく分かったので、食堂へ行く時間もずらした。
私の傍に残っているのは、ピアノだけだ。
なのに、どんなに一生懸命鍵盤を叩き鳴らしても、返ってくるのは耳障りな割れた音。ミスタッチだって酷い。こんな状態でコンクールに出たって恥を晒すだけだよね。
自分でも呆れるくらいだから、氷見先生はもっと沢山のことを言いたいだろう。だけど、痛ましいものでも見るように私を眺め「しっかり休め」なんていう訳のわからないアドバイスをくれるばかりだ。
もういい。なるようにしかならない。
紺ちゃんとの直接対決が見たい、と言っていたトビーは、今の私の演奏を聴いたらどう思うかな。
ほの暗い愉悦がこみ上げてくる。
無様な演奏を聴いて、思い知ればいい。ああ、僕の見込み違いだった、って。
あいつの思い通りになるくらいなら、それでいい。
紺ちゃんは……どうしてるんだろう。
公示のあったあの日から、一度も顔を合わせていない。
ぽっかりと空いてしまった穴を埋めるために、私はひたすら思うようにならないピアノを弾いた。コンクールなんてどうでもいいはずなのに、弾くことはどうしても止められなかった。
紅に本当のことを打ち明けない、と決めたあの日の決断の先にあったのは、気味が悪いほど静まり返った孤独でした。
そして、コンクール当日。
ピアノ科の演奏は、午後からだった。
リハーサルを中ホールで済ませたあと、購買で軽食を買って時間までどこかで一人になろう、と考えていた。うろうろと彷徨った挙句、中庭のベンチに落ち着くことに決め、虚ろに空を見上げる。
秋の空はどこまでも高く、薄い水色に薄く刷毛ではいたような雲が浮かんでいた。
森から聞こえるのどかな鳥の鳴き声。
どのくらいぼんやりしていたんだろう。
手にしていた未開封のサンドイッチが生温かくなった頃。
紺ちゃんが私の前に立った。
「ましろちゃん、ごめんね」
「……どうして謝るの?」
「こんな風にあなたを苦しめたくなかった。どうすればエントリーを避けられたのか、私にも分からない。不甲斐ないプレイヤーでごめんね」
何を言ってるんだろう。
紺ちゃんの言っていることが、全然頭に入っていかない。
「氷見先生が呼んでる。一緒に行こう?」
コク、と頷いて紺ちゃんの差し出した手を取った。ひんやりと冷たい手だった。
桔梗館の中に入り、紺ちゃんは出場者控え室とは逆の方向に進んでいこうとする。不思議に思いながらも着いていった先は、譜面台や予備のピアノが置いてある半地下の準備室だった。
こんなところに氷見先生が? 何か運べってことなのかな。
紺ちゃんは、天井から吊られているモニターのスイッチを入れ、コンクール会場の映像を呼び出した。桔梗館のどの部屋にも、同じようなモニターが備え付けられている。大ホールでの演奏がどこにいても聴けるような仕組みなのだ。
「ちょうど演奏が終わったみたいだね。今の人が、弦楽器科の最後かな?」
紺ちゃんの隣に立って、モニターを見上げる。
「そうみたい。15分の休憩の後、ピアノ科の演奏が始まるんだよね」
穏やかな声で彼女はそう続け、私から一歩距離を取った。
「私、頑張るから。絶対に一位を取ってみせるから。その為に、ここまで来たんだもん」
「……紺ちゃん?」
「ましろちゃんは、ここで見届けて」
紺ちゃんは今にも泣きそうな顔で、ニッコリと笑った。
そのままくるりと私に背を向け、防音扉を押し開け明るい外へと消えていく。
扉の閉まる重い音が響いてしばらく経ってから、ようやく私は自分の置かれた状況に気がついた。
嘘だよね。冗談でしょう? おぼつかない足取りで進み、ドアノブ回す。最初はゆっくり回してみたけど、開かない扉に次第に苛立ってくる。うそだ、こんなのない。開けて! 開けてよ!!
金属の擦れる音が何度も耳を打った。
――閉じ込められたんだ。
紺ちゃんがこんな真似をするなんて信じられない。
「……なんで。――紺ちゃん、なんでよっ!!」
ろくに眠れず鍵盤だけを追った一週間。
弾き込んだ楽譜の音符が、一瞬にして脳裏を埋める。
コンクールなんてどうでもいい。その気持ちに変わりはない。だけど、独りきりで弾くのではなく、誰かに、ううん出来れば沢山の人に聴いて欲しいと思っていたんだ。改めて自分の心の底に眠っていた欲に気がついた。
結果なんて、知らない。
トビーの言いなりに動くのは嫌だと思うのに、練習を止められなかった理由も、今分かった。
私はただ同じ舞台で、あなたと真剣に弾き比べてみたかった。
「誰か! 開けて!! ここから出してっ!!」
声が枯れるほど叫び、何度も扉に体当たりする。
助けは来ないまま、演奏は始まってしまった。
両手を握り締め、モニターの下に駆け寄る。
次々に演奏していく生徒たち。
「エントリーナンバー5 島尾 真白さんは不在の為、棄権とみなします。次の演奏者はエントリーナンバー6――」
アナウンスの声に、ホール全体がどよめいた。
反射的に耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込む。
間に合わなかった。
沸き起こってくるドス黒い怒りが、全身を支配した。
トビーに無理やりエントリーさせられた。そのトビーがどうして私と紺ちゃんに拘るのか、あなたはどうしても教えてくれなかったよね。
しまいには、卑怯な方法で私にコンクールを棄権させた。
花ちゃん。これが、あなたの報復なの?
自分でも抑えきれない負の感情が、毒のように体と思考を縛っていく。
憎い、とまで思い始めた私の耳に、劇的な序奏が飛び込んできた。
スクリャービン ピアノソナタ 第三番
モニターには、紺ちゃんが映っている。
ふらふらと立ち上がり、私はモニターの中の紺ちゃんにじっと見入った。
なんて顔色。いつから眠ってないの?
紺ちゃんは今にも倒れそうな華奢な体と腕を大きく使って、鍵盤に情熱を叩き込んでいた。恐ろしいほど精度の高い演奏。絶妙なペダリング。緩急をつけた見事な表現。同じ曲を練習していたから、分かる。ここまでくるのに、どれほどの努力を重ねたのか。
だけど、彼女の演奏の真骨頂は、そんなありきたりな演奏技術にはなかった。
魂を強く揺さぶられるほど、切迫した剥き出しの感情。
このピアノソナタは、後期ロマン派の特徴を引き継いだ作品だと言われている。そのくらい、叙情的で美しいメロディが特徴なんだけど、リズムの違う左手と右手を複雑に絡み合わせたポリリズムや進化させた並行和音などがスクリャービンの独自の個性を生み出している。
第一楽章、そして第二楽章のドラマティックな展開と対をなす、静かで甘い第三楽章。失われた大切な何かを彷彿とさせる演奏に、胸が詰まった。
そこから続く激しい終結部を、紺ちゃんは強い意思を見せつけながら弾ききった。めまぐるしく飛び回る左手は、確実に正確な音を捉え深く響かせる。
誰にも奪わせはしない、とまるで高らかに宣言するようなオクターブ和音に、気づけば私は涙を流していた。
唐突に途切れるような印象を与えて終わるこの曲を、もう一度初めから聞きたい、と思わせずにはおかない素晴らしい演奏だった。
さっきまで私を襲っていた怒りと憎しみは、涙と共に押し流されていた。
紺ちゃん。
あなたの抱えている秘密がどんなものなのかは、今でも分からない。
でも、もうそれでいいよ。
あなたがこの世界にいてくれる。それだけでいい。
このコンクールは紺ちゃんにとって、替えが効かないくらい重要なものだったんだってこともちゃんと伝わってきた。こんな方法しか取ることが出来なかったあなたの苦悩も、今なら分かる。
――『ましろちゃんは、ここで見届けて』
「見届けたよ、紺ちゃん」
涙で霞むモニターに向かって、私は一人、手が痛くなるほどの拍手を送り続けた。
ストレス大な場面での区切り、すみません!
次話の更新は早めに出来るように頑張ります。




