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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
132/161

25.学内コンクール(前編)

 今にも倒れそうな紺ちゃんに向かって、紅が走った。

 周りの生徒たちが異変に気づき一歩退いたので、間一髪のところで紺ちゃんを抱きとめることに成功する。紅はそのまま紺ちゃんを抱き上げ、唖然としたままの私を見遣った。


 「ましろ。荷物、頼めるか?」

 「う、うん。保健室だよね。一緒に行く!」

 「いや。授業に遅れるといけないから、先に行ってて。先生に説明しといてくれると助かる」

 

 私を安心させるように小さく微笑み、更に「悪い。少しだけ一人にさせる」と言い残し、紅はぐったりと動かない紺ちゃんを運んでいってしまった。


 「今の、なに」

 「貧血じゃない? 玄田さん、細いから」

 「いいなあ。紅様のお姫様抱っこ! 妹の特権だよね~」

 

 口々にさざめいている生徒たちの間をすり抜けようとしたところで、誰かの手が私の肩にかかった。

 三人分の荷物はかなり重い。早く、教室に戻りたいのに。

 一人になって考えたいのに。


 ()()()()()()()()()()()()


 氷見先生に最近渡された楽譜は、確かにスクリャービンのピアノソナタだ。

 ここのところ、第三番ばかり練習していた。バロック、古典、ロマン派、そして現代曲へと進んでいくのがセオリーだと思っていたから、選曲に疑問も抱かなかった。亜由美先生もよく言ってたもん。

 「クラシックに限らず、今ある作品は過去の積み重ねの賜物なのよ。誰がどんな風に継承して、そしてどんな風に反発していったのか。そこに、作曲家の独自の解釈が生まれていく。学ぶ順序というのは、古臭いように見えて至極合理的なの」

 だから、ああ、私もようやくスクリャービンまできたんだな。そう思っただけだった。

 紺ちゃんのコンクール曲と同じだなんて、思いもしなかった。

 

 先生まで、理事長とグルなの? それとも他の誰かの嫌がらせ?

 私はエントリーしていない。それだけは確かだ。


 「僕が持つよ。貸して」

 「富永さん……」


 わけがわからな過ぎて、頭がクラクラする。

 バッグをもぎ取り、富永さんはそっと私の背中に手を当ててきた。温かな感触に、ますます混乱が加速していく。


 「君も顔色が悪い。歩ける?」

 「はい。だいじょうぶ、です」

 「とりあえず、教室まで行こう」


 そこから教室まで、富永さんは無言のまま私を支えるように歩いてくれた。何か言わなきゃ、と思うのに、思考が乱れてうまく纏まってくれない。

 教室には、すでにみんなが揃っていた。


 「おっはよ~、ましろ。って……あれ? 成田くんはどないしたん?」

 

 後から寮を出てきたはずの栞ちゃんと上代くんが、私の隣に視線を移しぎょっとした表情になる。蒼と美登里ちゃんも、怪訝そうに富永さんと私を見比べた。


 「鞄、ここでいいかな」

 「すみません、先輩に荷物持ちなんてさせちゃって……。助かりました。ありがとうございます」

 

 なんとか気持ちを奮い立たせ、早口にお礼を述べようとする私を見下ろし、富永さんは眉を寄せた。


 「無理しなくていいよ」

 「……富永さん」

 「ちょうど君たちが来た時に居合わせたから、一部始終を見てしまったんだけど。――玄田さんと同じ曲だってこと、もしかして今日まで知らなかったんじゃない?」


 ずばり核心を突かれ、私は息を飲んだ。 

 やっぱり、と富永さんは呟き、苦々しげに視線を落とす。


 「本人達に知らせないまま、同じ曲でエントリーさせるなんて。氷見先生は何を考えてるんだ」


 エントリーしてないんです。

 そう言いたかったけど、事実関係を確認するのが先だ。下手に騒ぎを起こしたくない。

 だけど、もしトビーの企みだったとして、それに氷見先生も加わっているのだとしたら、どうしよう。

 違う先生に師事していて、たまたま曲が被るということはあるだろう。だけど、私と紺ちゃんは同じ先生についている。富永さんが不信感をあらわにする気持ちはよく分かった。

 私だって、喉の奥に鉛玉を押し込まれた気分だ。


 「明日、実習があるから僕からも聞いてみる。島尾さんも納得がいかないなら、きちんと意見を言った方がいいよ」

 「はい。行き違いがあったのかもしれないので、ちゃんと話してみます」

 「うん。せっかくのコンクールなんだ。いいものにしたいよね」


 どこまでもまっすぐな富永さんを正視出来ない。

 本当は出ないつもりだった。紺ちゃんを勝たせたいから。

 トビーがかつてやろうとした八百長と、一体何が違うというのだろう。

 

 彼は俯いたままの私の頭をそっと撫で、「じゃあ、行くね」と背中を向けた。教室を出て行く後ろ姿をぼんやり見送り、深々と溜息をついた。


 もの問いたげなみんなの視線はがっつりキャッチしてる。

 だけど、ごめん。今はうまく説明出来ないよ。

 

 朝のHRに姿を見せた後藤先生に二人のことを伝え、通常の授業に入る。いつものように集中できなくて、途中何度も机に突っ伏したくなった。

 結局、紅は戻ってこなかった。紺ちゃんは早退したみたいだから、それに付き添ったのかもしれない。休み時間の度に携帯の電源を入れて確認してみたけど、メールは入ってこなかった。連絡の取れない場所にいるのかな。たとえば病院とか。紺ちゃん、本当に大丈夫なのかな。

 じりじりしながら、なかなか進んでいかない時計の針を睨みつける。

 

 そして私は、紺ちゃんの例の発作のことを思い出した。同時にあの夏の日に感じた絶望までもが、みるみるうちに蘇ってくる。

 そうだ。あの時、私はこう思った。


 ――紺ちゃんを失ってしまうかもしれない。私自身、どうなってしまうのか分からない。

 ――もしかしたら、未来なんてないのかも。18で、また私の生は終わるんじゃないの。


 あの時も、紅が私をつなぎ止めてくれた。


 主のいない席を眺め、そのまま目を伏せる。

 分かってる。紅の優先順位は紺ちゃんが一番上だって。私だって、紺ちゃんのことは誰より大事なんだから、寂しく思うこの気持ちが間違っているんだ。


 不思議なことに、私を時折襲っていたあの激しい頭痛はいつ以来か無くなった。紺ちゃんの咳の発作はどうなったんだろう。

 何ひとつ、教えてくれないから分からない。

 なぜ今朝あなたが気を失ってしまうほどショックを受けたのかも、私には分からないんだよ。紺ちゃん。

 コンクールでの勝ち負けなんて、時の運じゃないの?

 あなたが一位を取れなかったら、一体どうなっちゃうの?

 

 

 ようやくやってきた放課後、私は鞄を引っつかむと一目散に理事長室を目指した。

 

 「ましろ! 一人になるなって紅に言われてるだろ!」

 「ごめん、急いでるの!」


 蒼の呼びかけに半身をひねって両手を合わせ、廊下を走る。

 勢いよく理事長室の扉をノックすると、すぐに「誰かな?」というトビーの声が返ってきた。

 良かった、いた! 何がどうなってるのか、問い質してやる!

 深呼吸を一つ。


 「1―Aの島尾 真白です。お話があります」

 「入って」


 失礼します、と声を掛け、ドアノブを回す。応接ソファーには、先客がいた。


 「――氷見先生」

 「島尾か。ちょうど良かった」


 いつも冷静な先生は、少し怒ったように口元を強ばらせていた。


 「出場者一覧を見て驚いた。君はコンクールには出ないと言っていたよな?」

 「はい。――先生、私は本当にエントリーシートを出していません」


 両手を握り締め、必死で先生の厳しい視線を受け止める。

 耳を打つ静寂が部屋に広がった後、何拍かおいて、氷見先生はゆっくりと息を吐き出した。


 「だと思った。君は嘘ついてまで、他人を出し抜こうとするような器用な子じゃない」


 静かな声に、泣きたくなる。

 氷見先生は立ち上がり、座ったままの理事長を強く睨みつけた。


 「あなたの勧めで、ここにいる島尾にも玄田と同じ曲を指導しました。だが、コンクールに出る話は聞いていない。出場取り消しをお願いしたい」

 「それは出来ません」


 トビーは悠々と足を組み替え、冷笑を浮かべた。


 「すでに決まったことだ。同曲対決なんて、さほど珍しいことじゃないはずですよ。何をそんなにお怒りなのか、僕には分からない」

 「理事長!」

 「島尾さんは、特待生です。特待生に学院が求めているものは、実績。そんなことは、彼女も分かっているはずだ」


 トビーはその時初めて、私の方を見た。

 瞳の奥には、有無を言わせない剣呑な光が宿っている。手段を選ぶつもりはない、と言いたげなその眼差しに私は悪寒を覚えた。氷見先生はとっても人気のある有能な講師だけど、この学校での立場はトビーより弱いはず。理事長っていうくらいだから、暫定だとしてもトビーが最強だよね?


 「氷見先生。私、自分で理事長と話してみます。先生にこれ以上ご迷惑をかけたくないです」

 「島尾……」

 「だそうですよ。どうぞ、お引取りを」


 トビーは優雅な仕草で立ち上がり、入口の扉を開けた。

 氷見先生は、大丈夫なのか、と念を押してきたけど、力強く頷いてみせた。私が失うのは特待生って肩書きだけだけど、氷見先生は背負ってるものが大きすぎる。


 「すっかり人が変わってしまったな、山吹くん。とても残念だよ」

 「申し訳ないと思ってますよ、氷見さん」


 二人はすれ違いざま瞳を交わし、そう言い合った。

 もしかして、昔からの知り合いなのかな。二人とも亜由美先生と接点があるんだから、そんなにおかしな話じゃないかもしれないけど、『人が変わった』って?


 トビーは私に考える暇を与えなかった。

 そのまま、ソファーに座るように示される。


 「で? コンクール辞退の話なら、さっきも言ったけど却下だ」

 「……特待生が理由なら、どうして直接『出ろ』とおっしゃらなかったんですか? 選曲もそうですけど、騙し討ちみたいな真似は卑怯です」

 「出て欲しい、と言ったら君は出たかい?」


 逆に問い返され、うっと返答につまる。

 紺ちゃんに直接牽制されたことはない。だけど、出て欲しくない、と思ってることはすぐに分かった。ただ、そんな話はきっと理解してもらえない。

 ゲームの進行に沿おうと思いまして、なんて言えないよ。


 「ふふ。相変わらず、バカ正直だね。考えてることがすぐ顔に出る。紺とは、大違いだ」

 「――彼女を呼び捨てにしないで下さい」


 親しげな呼び方に、全身の毛が逆立った。こんな奴に、紺ちゃんをいいようにさせてたまるか。


 「サディア・フランチェスカコンクールに、玄田さんは出なかった。どうしてだろう、と不思議だった。それまでめぼしいコンクールの殆どに出場してたのにね。だからね。今度こそ僕は、君と彼女の一騎打ちが見てみたいんだ」


 当てつけるように『玄田さん』と発音したトビーは、そう締めくくった。

 ……それだけ? それだけの理由なの?


 「私はあなたの闘犬じゃない」

 「くっ。……はははっ! 傑作だな、その喩え!」


 トビーはおかしくてたまらない、というように体を折って笑い、肩を震わせながら私をひた、と見据えた。瞳の奥に青白い炎が灯る。


 「辞退したら、何か不祥事をでっち上げてでも退学させる。それだけで済むと思わないでね。君が音楽家としての道を諦めざるを得ないように、どこまでも追い込むから」


 ――正気じゃない。

 得体のしれないモンスターが、目の前に立ちはだかっているみたい。激しい嫌悪感に顔が歪んでしまう。


 「……私が録音できる機械を持っていたら、今の言質げんちを盾に取れたのに残念です」

 「君にそんなことは出来ないよ。お綺麗な君は、卑怯な真似が嫌いだからね。紺は、違う。彼女は君の為ならどんなことでもするだろう」

 「知ったようなことを言わないで下さい!」


 たまらず立ち上がり、叫んでいた。

 全身の血が沸騰するのが分かる。


 「知ってた? 紺は僕が大嫌いなんだよ。だけど、君の名前を出すだけで動けなくなるんだ。僕が彼女に何をしようが、ね」

 「このっ……人でなしっ!!」


 くつくつと笑うトビーに大きく手を振り上げる。

 難なく手首を掴まれ、そのままテーブル越しに引き寄せられた。ビスクドールのように冷たく整った美貌が至近距離に迫る。


 「だめだよ。ピアニストの手は、鍵盤だけを叩かなくちゃ」


 そのまま髪を掴まれ、一瞬のうちに首筋に噛み付かれた。

 硬質な歯と湿った唇の感触に、ハッと我に返る。いや、こんなの、いやだっ。


 「はなしてっ!!」


 どんなにもがいても、私を拘束する腕はビクともしない。

 鈍い痛みが鎖骨のすぐ上を襲う。きっと血が滲んでいるだろう。そのくらいの強さで、トビーは私に烙印を押した。


 「狼はこうやって、自分が上位のおすだと示すそうだよ。なるほど、なかなか気分がいいものだね」


 気が済んだのかトビーは私を突き飛ばし、扉を指さした。

 

 「さあ、お仕置きは終わりだ。帰りなさい」


 ソファーに倒れ込んだ瞬間、スカートがめくれあがる。慌てて引っ張りおろし、荷物を掴んで扉へと走った。これ以上一秒だって、同じ空気を吸いたくない!

 完全にパニック状態に陥った私を見て、トビーはへえ、と呟き目を丸くした。


 「成田くんにとっくに手を出されてると思ってたのに。意外と彼も腰抜けだな」

 「腰抜け? あんたみたいな色情狂と一緒にしないで! 紅をバカにするのは、絶対に許さない!」


 聞き捨てならない台詞にキッと振り向き、睨みつける。


 「許さない、か。――可愛いね。どんなにはらわたが煮えくり返ろうが、そんなことしか口に出来ない高校生って立場は、本当にみじめで可愛らしいよ」

 

 トビーの言うとおりだった。私には、なんの力もない。

 せめてもの意趣返しに、思い切り音を立てて扉を閉めた。

 

 悔しい。いいようにされてしまった自分が、悔しくてたまらない。

 だけど泣くな。泣いたら、負けだ。


 きつく唇を噛み締め、一目散に玄関を目指す。

 寮に帰って、お風呂に行こう。シャワーで首をよく洗って、それから。それから。


 ――『大丈夫だよ。いつものましろと変わらない』


 首筋に落とされた、優しい、触れるだけのキス。

 紅のくれた宝物みたいな記憶が、真っ黒に上書きされてしまった。

 

 そのことも無性に悔しくて、私は走りながら何度も手の平で汚された箇所を拭った。

 


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