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無理を言って押しかけてしまった寮祭は、想像以上に規模が大きく盛大なものだった。
楽しそうに破顔し、綿あめにかじりついていた真白ちゃん。紅の隣でうっとりと野外コンサートに聞き入っていた真白ちゃん。彼女の笑顔を目に焼き付け、心に刻みつけた。
こちらでの記憶までは、契約の代償に含まれていない。私が元の世界に持って帰ることが出来るのは、思い出だけということでもある。
真実を打ち明けられない辛さと、そのことで彼女を傷つけている現実は見ない振り。周囲を欺くのは本当に上手くなった。良心なんて、とうの昔に麻痺している。
歪んだ自己満足に過ぎないことは承知の上。それでも、青春を謳歌しているあの子を目にすることが出来てこんなにも私は満たされてる。自分の選択を後悔したことは一度もない。
元の世界では見られなかったたくさんの表情。どうかこれからも、光溢れる道をまっすぐに歩んでいって。
――あと二年と少し、か。
リミットは最初から決まっているけれど、あの頃の絶望を思えば何という望外な幸せなのだろう。だからこそ、改めて固く誓う。
彼女の未来を18歳で断ち切らせはしない。その為なら、どんな手段でも使ってやる。
「……ン。コン!」
「え? あ、ああ。ごめんなさい」
向かい合わせに座っている美登里ちゃんに怪訝な目を向けられた。
皆とうに食事を終え、談笑していたらしい。
「どうしたの? 大丈夫?」
いつものメンバー全員が心配そうにこちらを見ていた。賑やかなお喋りがあちこちで飛び交っている大食堂。今日は、真白ちゃんが寮祭の時の写真を持ってきてくれている。
「ちょっとボーッとしちゃったわ。でも、大丈夫よ。私も写真見たいな」
「うん。みんなの分は封筒に入れてきたから、教室で渡すね」
劇の後、真白ちゃんのお父さんが私たち全員の写真を撮ってくれたのだ。肝心の真白ちゃんは撤収作業でいなかったのだけど、4人並んでの写真は初めてだった。
回ってきた写真を確認する。私はきちんと笑えていた。
――『はーい。じゃあ、撮るよ!』
お休みの日は、ワックスはつけないと決めていた父さん。髪をあげておかないと少し幼くすら見えること、気にしてたよね。
目と髪の色こそ違えど、過去に置いてきてしまったあの頃より少し若い父の姿に、激しい望郷の念が湧き起こった。今の両親のことだってもちろん愛している。だけど、やはり彼らは特別なのだ。
――『ちょっと見ないうちに、ますます綺麗になっちゃって』
――『だよねえ。こんな美人さんなのに、異様に親近感を感じちゃう。なんでだろ』
母さんの無邪気な微笑みと花香さんの開けっぴろげな好意に、どうしていいか分からなくなる。とっておきの笑顔を貼り付け、混乱を鎮めようとゆっくりと呼吸した。
『そう仰って頂けて、光栄です』
ようやく絞り出せた一言は、ひどく他人行儀なものになった。
「真白のこの写真、欲しい」
蒼くんがみんなで回し見していた写真の一枚を取り上げ、そんなことを言い始めた。
「どれどれ。……え~、こんなの欲しいの? よれよれじゃない」
「うん。でも一生懸命って感じで、俺は好き」
真白ちゃんは彼の手元を覗き込み、顔を顰める。
蒼くんの欲しがっている写真には、パイプ椅子を片付けている真白ちゃんが写っていた。真剣な横顔が絶妙な光加減で切り取られ、彼女の生真面目さがよく伝わってくる一枚だ。
「なあ、紅。貰ってもいい?」
「俺に聞かないで、本人に聞いたら?」
「よく言うよ。建前押し通すつもりなら、眉間の皺を何とかすれば。やきもち、バレバレ」
「そうだよね。友人相手には、本音で話さないとね。――誰がやるか。ふざけるな」
紅と蒼くんのじゃれ合いを見て、真白ちゃんはやれやれ、と首を振っている。
「コウ。本物はあなたのなんだから、そのくらい許してやりなさいよ」
それまで黙っていた美登里ちゃんが蒼くんの味方をしたものだから、紅はますます不機嫌になった。
「美坂さんこそ、もっと怒っていいんじゃない? 自分の婚約者がよその女の写真を欲しがってるんだから」
「こ、婚約者あああ!?」
食後のコーヒーを飲んでいた上代くんと栞ちゃんは、それを聞いて一斉に顔を上げた。どうやら初耳だったらしい。
「なな、なに、それ!? うちら、まだ高一やで? こ、こ、こ」
「シオリ、落ち着いて。鶏みたいよ」
栞ちゃんの慌てぶりに、蒼くんまで噴き出している。
「あんまり笑わすなよ、皆川」
「笑わそうと思って言うたんとちゃうわっ!」
上代くんが改めて「ほんまなん?」と蒼くんに尋ねた。
「親同士で勝手に決めたんだ。俺も美登里も、認めてないよ」
美登里ちゃんも勢いよく頭を縦に振り、蒼くんに同意していた。この2人は相変わらずのようだ。
「めっちゃ聞きにくいんやけど、前から気になっててん。あのさ……。城山くんって、成田くんの親友やん? それやのに、真白のことが好きなん?」
「好きだよ」
意を決して質問したらしい栞ちゃんは、すぐさま返ってきた言葉にポカンと口を開ける。
「ホントの家族みたいに、大事に思ってる」
「へ?」
更に混乱した様子の栞ちゃんを見て、蒼くんは目元を和ませた。
「分かんないなら、それでいいんだ。真白さえ分かっていればいいことだから」
「うん、ちゃんと分かってる。私も蒼が大事だよ」
真白ちゃんの蒼くんを見つめる眼差しは、まるで母親のように優しく穏やかなものだった。紅は納得がいかないのか厳しい表情を崩さないままだけど、恋心で目が曇っているとしか思えない。
上代くんでさえ納得した顔で頷いてるのに。
「あのさ。俺の目の前で、堂々とイチャつかないでくれる?」
「紅は、ほんっと馬鹿だな。ましろバカ」
もどかしげに吐き捨てた蒼くんを宥め、真白ちゃんは「本当に紅が思うようなのじゃないんだよ。でも無神経だったね。ゴメン」と謝っている。
自分の思うようにならない現実に右往左往している紅は、とても人間らしかった。上っ面の微笑みを浮かべ、何に対しても冷め切っていた昔の彼の面影はどこにもない。
よかったね。
心の底から、安堵が込み上げてくる。
この世界での大切な兄。まもなく一人にしてしまうあなたを、支えてくれる相手が見つかったことが本当に嬉しい。
「紅だって、私が可愛くて大切でしょ。それと同じよ」
口を挟むと、紅は黙り込んでしまった。
何がそれほど不安なのだろう。
昼食が終わり、2人になった時を狙って単刀直入に尋ねてみた。
「真白ちゃんと城山くんのことだけど、本気で疑っているわけではないのよね?」
紅は深々と溜息をつき、少しだけ首を傾げた。憂いを帯びた表情がひどく危なっかしい。
「……後ろめたい、のかもな」
「どういう意味?」
「本当は、蒼の帰国を待とうと思ってた。だけど、待てなかったんだ。自分で決めた癖に、それが今でも気になってるんだから、我ながらどうかしてると思ってるよ」
そんなにも真白ちゃんに夢中なんだ。蒼くんの『ましろバカ』という表現が見事にあてはまっている。
しんみりとした感傷で、胸がいっぱいになった。
紅は孤独を抱える蒼くんに共感を覚えた。そして、自分にないものを持っている真白ちゃんに強く惹かれたのだろう。蒼くんと真白ちゃんのどちらが欠けても駄目なのだ、と早く気づけばいいのに。あの二人は、きっともうそれを知っている。
「ねえ、紅。それでも、真白ちゃんを手放したりしないわよね」
「それが出来るのなら、こんな苦労してないよ」
肩をすくめる紅を見つめ、念を押した。
「きっとよ。真白ちゃんをこれからもずっと、大切にしてね」
永遠などない。だから束の間の約束でもいいの。
私は見届けられないから、どうか、代わりにあの子の行く末を見守って。
「――まるで、もうすぐいなくなるような口ぶりなんだな」
「ふふっ。だって、いつかは私もお嫁にいくでしょう?」
紅の疑惑には前から気づいている。
それでも真白ちゃんなら、私たちの秘密を彼に明かしたりはしないだろう、という確信があった。私が全てを打ち明けていない以上、それはない。
いつものように笑ってはぐらかした。紅は悔しげに拳を握り締めた。
そんな顔しなくてもいいのに。
私がこの世界から消えれば、あなたの中の「玄田 紺」の記憶も全て消える。
だから苦しくなんてないんだよ?
私をとても大切にしてくれた紅との別れの足音も、すぐそこまで聞こえてきている。ようやくここまできたと云う高揚感も確かに感じるのに、この不可解な胸の痛みはなんだろう。
寂しくなど、ないはずだ。別れは最初から決まっていた。
「何か悩んでるなら、話して欲しい」
「きっと、そうするわ」
最上級の笑顔で紅を安心させ、私たちは教室へと向かった。
9月に入り、朝晩が過ごしやすくなってきた。
校内は、『学内コンクール』の話題で持ちきりだ。だれそれが出るらしい、私はどうしよう、などと教室でもよく話し声が聞こえてくる。
亜由美先生、それから氷見先生と相談し、スクリャービンのピアノソナタ第3番でエントリーすることにした。黒ミサと迷ったのだが、テクニック的に物足りないのではないか、とのアドバイスを受け入れる形になった。ピアノ・ピアニッシモからフォルテ・フォルティッシモまで強弱を鮮やかにつけることで、実際より難曲に聞こえさせることも出来る名曲だが、『黒ミサ』という別名があまりにも今の私にぴったり過ぎて、面映かったこともある。
――禁断の魔術に手を出してしまった魔女の、最後の仕上げを御覧じろ。
頭の中に浮かんだそんな煽り文句に、自分でも笑ってしまった。
真白ちゃんが出ない以上、もう一人のライバルは富永 翔琉だ。
彼は去年出ていないから、今年エントリーしてくる可能性は高い。だが、彼の演奏は研究済みだった。男性特有の力強さと豊かな響きの和音に定評があるものの、ミスタッチをゼロにしてくることは出来ないだろう。あえて、同曲できてもらってもいいくらいだ。ある意味、非常に分かりやすい演奏をしてくる富永さんに勝つ自信はある。その為の、10年だった。
でも、真白ちゃんだけは読めない。
いつもいつも、彼女は私の予想を超えてくる。
最初は、小学五年生の時の発表会だった。
習い始めて2年とは思えない確かなタッチで、悲愴の第二番をロマンティックに歌い上げた彼女。決して大げさにテンポを揺らしたり、強弱をつけたりしたわけではなかった。ぎりぎりまで抑えた表現の中で、逆に旋律の美しさを際立たせてきたことに私は驚き、それから怖くなった。
連弾やアンサンブルでは、卓越した共感力を示し音を寄り添わせてくる。
そんな彼女は、独奏であっても同じだった。聞き手の私たちの心の奥に眠る何かしらの感情に、強く訴えかけてくるアレをどう説明すればいいのだろう。テクニックや弾き方、というレベルの話ではなく、共感力こそが真白ちゃんの武器なのだと思う。どうしようもなく惹かれてしまう引力を、彼女のピアノは持っていた。
現役の頃の森川 理沙がそうだった、とトビーは話していた。
彼の求める理想のピアノの音色に近いのは真白ちゃんだ。
だが、その場所に彼女を据えるわけにはいかない。ゲームオーバーはすなわち、彼女の死を意味するのだから。私はどうなってもいい。だけど、私が賭けたのは残念なことに、私一人の命ではなかった。
夜遅くまで離れに篭もり、繰り返し同じ曲を練習する私を、両親はとても心配した。
「コンクールに出るから」と説明し、どうしても勝ちたいの、とはにかんでみせる。勝負事にそこまで固執するタイプだとは思わなかった、と玄田の父は驚いた。私が就寝するまで休もうとしない母に「おやすみ」を言いに行くのが、毎晩の日課となっている。
私の打ち込み様は、紅の耳にも入ったのだろう。
何かというと気遣ってくるので、正直困ってしまった。
コンクール一週間前。
出場者の一覧が発表される日がきた。
車から降り、正面玄関へと向かう途中、紅と真白ちゃんとバッタリ出くわした。紅はあの事件以来、寮への送り迎えを欠かしていない。成田の父でさえ、そんな紅の熱の上げように少し引いている、というのが母の談だ。
「おはよ! 紺ちゃん」
「おはよう、真白ちゃん」
真白ちゃんは、私の隣に並ぶと、不満げに唇を尖らせた。
「聞いて、紺ちゃん。紅ったら、ヒドいんだよ?」
「どっちが! 酷いのはましろだろ」
「絶対、紅!」
「いいや、お前だ」
私を真ん中に挟んでの口喧嘩に、まあまあ、と割って入る。
「何が原因なの?」
「私が紅に関心がない、だなんて言いがかりをつけてくるの」
「だって、そうだろう? 好きなものどころか誕生日すら聞いてこないんだ。蒼の誕生日は知ってるのに、どういうことなんだろうね」
「聞かなくても知ってるからです~!」
いー、と鼻に皺を寄せ、真白ちゃんが言い返す。
前世での熱中っぷりを知っているだけに、可笑しくてたまらなくなった。愛しの『紅様』のプロフィールは暗記済みなはずだ。
クスクス笑ってしまう私の頭を、紅はポンと叩いてくる。
「こら。笑うな」
「ごめんなさい。だって……ふふっ。ねえ、紅が問題を出してみればいいじゃない」
「はあ?」
「そうしたら、真白ちゃんが嘘をついてないって分かるはずよ。ね?」
「そうだよ! ほら、かかって来なさい!」
挑発ポーズを取る真白ちゃんに、紅は頬を引き攣らせた。
「あくまで言い張るんだな。じゃあ聞くけど、誕生日は?」
「10月21日!」
「血液型は」
「O型!」
「好きな音楽家は」
「モーツァルト!」
「好きな花は」
「クリムゾン・グローリー!」
「……なんで知ってるの」
「クリスマスにお花貰ったことあるもん。まさか、忘れちゃった? うっそー! 信じらんない!」
憎まれ口を叩く真白ちゃんの得意げな表情ったら、ない。それはそれは可愛らしいのだ。
紅は負けじと質問を重ねたが、その全てに彼女が即答するものだから、最後には呆れ返っていた。
「どうして、そんなことまで知ってるわけ?」
ファンブックで、などと言う訳にもいかなかったのだろう。一瞬グッと言葉に詰まった真白ちゃんは、気を取り直したように頭をツンとそらした。
「曲がりなりにも彼氏のことだよ? このくらいは、乙女の嗜みです」
「……ふうん。枕詞にも納得いかないが、まあいい」
紅は不敵な笑みを浮かべたかと思うと、腕を伸ばして真白ちゃんを捕まえ、強引に抱き寄せた。
「紺に聞いたんだろ? そういうのは感心しないね。次からは、俺のことは俺に聞いて。いい?」
「ふぁい」
頬を真っ赤に染め、真白ちゃんは素直に頷く。恥ずかしさで混乱したのか、うまく返事が出来ていないのも愛らしい。
なんとも微笑ましい二人を眺めているうちに、本館に到着してしまった。
「コンクール参加者の一覧、張り出されてたよ」
「ほんと!? 見に行ってくる!」
やけに玄関が騒がしいと思ったら、朝一番に発表があったようだ。バタバタと走っていく学院生が何人もいる。
「紺ちゃんも見に行く?」
「そうね。掲示板を見てから、教室に行こうかしら」
真白ちゃん達と連れ立って、渡り廊下へと足を向けた。
「今回のピアノ科、三つ巴じゃない?」
「わ~、これは盛り上がりそうだね!」
掲示板前の人だかりから、そんな声が上がっている。
背の高い紅は離れた場所からでも名簿が確認できたらしく、かすかに息を飲み、張り出された紙を凝視した。
「――真白。お前、エントリーしてないって言ってなかったか?」
「うん、してないよ。なんで?」
紅の口調に不吉なものを感じ、私は慌てて人ごみをかき分け進み出た。
まさか。まさか、まさか。
ピアノ科の項目にザッと目を走らせる。私の名前、そして――――。
エントリーナンバー5:島尾 真白/スクリャービン ピアノソナタ第3番
「嘘よ……」
乾いた唇から漏れた呟きは、自分の声とは思えないほど掠れていた。




