24.寮祭(後編)
受け持ち時間はあっという間に過ぎていった。
花桃寮の交代メンバーがやってきて「お疲れ様」と声をかけてくれる。
「どうだった?」
「ひっきりなしにお客さまが来るから、景品補充が大変かも。あ、景品はそこのダンボールに入ってる分で終わりだよ」
「ああ~。真白ちゃんの作った編みぐるみ、全部無くなってる! すごく可愛かったから狙ってたのに~」
「ありがと。今度また編んであげる」
「やった! じゃあ、休憩楽しんできてね」
引き継ぎを済ませ、タクミ先輩とケンヤ先輩にも挨拶をする。
ありがとうございました、と頭を下げれば「こっちこそ、なんか悪かったな」とケンヤ先輩が苦笑いを浮かべた。当のタクミ先輩はちっともこたえてない顔で「楽しかったよ。まったね~、ましろちゃん、栞ちゃん」と手を振ってくる。
隣の栞ちゃんがボソリと「分かった。ケンヤ先輩が甘やかすから、タクミ先輩がああなんや」と呟くもんだから、私は笑いを噛み殺すのに一苦労した。
終わったよの電話をかけると、2コール目で出てくれました。いつもの紅に戻っていてくれて、一安心。今、みんなで休憩スペースにいるんだって。
「栞ちゃんはどうするの?」
「まず部屋に楽器を取りに行ってから、シンを探すわ」
「分かった。じゃあ、後でね。私もステージに聞きに行くから!」
栞ちゃんと別れ、人混みの合間を縫って休憩スペースを目指す。
山茶花寮側の開けた場所に、大きなテントが張ってあって、そこが簡易休憩所になってるんです。
8月の照りつけるような太陽のせいで、汗びっしょりだ。首にかけたタオルで額の汗を拭きながら到着すると、涼しげな顔をした4人が木製ベンチに並んで座っていた。
そういえば『女優さんって顔に汗かかないらしいよ!』って花香お姉ちゃんが昔、びっくりした顔で教えてくれたっけ。それ思い出したわ。キャラ補正、というものなのだろうか。
それで云えば、私は曲がりなりにも主人公のはずだよね? 薔薇の香りの汗をかいたっていいはずじゃない? どうなってるの、この世界!
「お疲れ、ましろ」
にっこり微笑んだ蒼の手には、カキ氷のカップがある。
「わあ、いいな~。一口ちょうだい!」
「いいよ」
はい、とカップごと手渡される。はあ~、冷たい。
添えられていたスプーンでピンク色の氷を掬い取り、あんぐりと口を開けた瞬間。目の前に座っていた紅が、いきなり手首を掴んできた。あっけに取られているうちに、なんと紅は私の手にしていたスプーンをパクリと咥えてしまう。
「あっ。ああ~! 横取りするなんてひどいっ!」
喉はカラカラだし、暑いし、私はものすごくこのカキ氷が食べたいんですよ! それに、紅はもう食べたんだよね。空の容器、持ってるじゃん。
紺ちゃんと美登里ちゃんは、なぜか哀れみたっぷりの眼差しで、悔しがる私を眺めてきた。なんで?
紅はスプーンを掴みなおすと再び氷を掬い、今度は私の口に問答無用で押し込んでくる。
「むぐっ」
甘いイチゴ味の氷が、口の中を一気に冷やしてすぐに溶けていった。はあ~、美味しい。
もしかして、『あーん』がやりたかったのかな、この人。
こんな乱暴な『あーん』は嫌なんですけど。
「いちいち気にするなんて、子供かよ」
「うるさいな」
蒼の呆れ声に紅は顔を顰めてる。
よく分からないけど、一緒に食べたかったんなら一言云えばいいのに。
「これ、もっと食べてもいい?」
「いいよ。頭痛くなってたとこだから、片付けてくれると助かる」
蒼の許可も貰ったことだし、遠慮なく頂きまーす!
「立ったままだと食べにくいでしょ。ここに座って」
紺ちゃんが体をずらして、紅との間にスペースを作ってくれた。そのまま腰を下ろそうとして、はた、と気がつく。私、汗臭いよね。シャワーを浴びに戻りたいけど、そんなことしてたら休憩時間が終わっちゃうし……。
「どうした? 座れよ」
紅は眉根を寄せたまま、葛藤中の私を見上げた。
サラリと流れる真紅の髪からは、いつものいい香りが漂ってくる。だめだ、無理です!
「立ったままでいい」
「なに遠慮してるの。ほら」
強引に腕を引っ張られ、私は紅の隣に座らされた。
ただでさえ手狭なスペースだから、ぴったりと体の側面がくっついてしまう。引き締まった彼の上腕二頭筋にうっとりしてる場合じゃないよ。
紅のことだから口に出しては何も言わないだろうけど、心の中で臭い女のレッテルを貼られてしまう前に、自己申告するしかない。
「紅。……息しないで」
「それ、遠まわしに死ねって言ってる?」
「ち、違うよ! 汗かいてるから、恥ずかしいの。出来ればあんまり匂わないでって意味です」
慌てて否定する私をじっと見つめたかと思うと、紅は目元を和ませ、おもむろに手を伸ばしてきた。そのまま腰を引き寄せられる。
気づいた時には、首筋に軽くキスされてました。紅の艶やかな髪がはらり、と私の鎖骨に落ちる。時間が止まった気がした。
今、チュって。……うえええええ!?
「大丈夫だよ。いつものましろと変わらない」
ペロっと自分の唇を舐め、色っぽく微笑む紅に周囲はドン引きしている。
……ああ、またからかわれるな、これ。
朝ハグin食堂事件だって、今でも話の種にされてるんですよ!
私は強制シャットダウンをかけられたロボットのように、固まったまま動けませんでした。蒼と美登里ちゃんのこれみよがしな溜息も、右から左へと素通りしていく。
もしかしてこれって、ボクメロリメイク版で起こるイベントの一つなのかな。乙女ゲー仕様だと言われれば、糖度の高さに納得もいく。
後からこっそり紺ちゃんに聞いてみたんだけど、「違うわ」と首を振られてしまった。
「ましろちゃんは、もうボクメロとは関係ないんだよ。だから、ゲームのことは忘れた方がいいと思う」
やけにきっぱりとそんなことを言う紺ちゃんに、ザラリとした違和感を感じる。
「ボクメロとは関係ない、ってどういう意味?」
「ゲームのシナリオ進行から外れてるってこと。私の知っている紅ルートとは全然違うもの」
前世でリメイク版をクリア済みの紺ちゃんには、確かに違いが分かるんだろう。でも、それだけで『関係ない』とまで言い切れるものだろうか。
そもそも、花ちゃんがボクメロをプレイした、ということ自体に強く齟齬を感じる。あんなに『乙女ゲーなんて』って言ってたのに、変じゃない?
色々聞いても、いつものようにはぐらかされるだけだろう。だから、一番聞きたいことだけを問おう、と腹を括った。
「……紺ちゃんは、まだボクメロと関係があるの?」
談笑しながら焼きそばの屋台に並んでいる紅と蒼、そして、ヨーヨー釣りに熱中している美登里ちゃんを一瞥し、紺ちゃんは声を低めた。
「あるわ」
――だって、私が……なんだから。
後に続けられた言葉は、無音のまま。唇の動きが早過ぎて読み切れない。
理事長ルートのフラグはまだ折れていない気がした。
ぎゅっと拳を握り、紺ちゃんを見つめる。
紺ちゃんはもう、友衣くんのことなんてどうでもいいのかな。
そうじゃないよね? だって、あの冬の日、紺ちゃんは松田先生を見て酷く動揺していた。たとえ何年経過してようと、嫌い合って別れたわけじゃない恋人のことを、一途な花ちゃんがあっさり忘れるなんて有り得ない。
「トビーなんかやめて、松田先生にしようよ。そりゃ年の差は開いちゃったし、元の記憶はないみたいだけど、トビーに比べたら」
「やめて!」
紺ちゃんの切迫した声に、ハッと我に返る。
彼女は、小刻みに震えていた。
「紺ちゃん……」
「私のことはいいから。ね? 真白ちゃんが心配するようなことは、何もないの」
揺らいだ心を必死で立て直し、青ざめた顔のままニッコリ微笑もうとする紺ちゃんはあまりにも痛々しかった。そこまでして、言いたくないの? 見ていられなくて、顔をそむける。
中央ステージから聞こえてくるのは、シューマンのトロイメライ。柔らかな音色が、私たちの頭上をふわりと流れていく。
どうしようもなく隔たれてしまったのだ、とその時、ようやく分かった。
笑いさざめきながら同じ時間を分かち合っていた日々は遠ざかり、花ちゃんは私には想像もつかない何かと戦っている。思えば、こちらで再会してからずっとそうだった。紺ちゃんは一度も私に心の内を明かしていない。
その事実が胸に食い込んできて、苦しさのあまり涙が零れそうになった。
「私に出来ることは、本当にない?」
精一杯の願いを込めて、改めて問う。
一人で悩まないで。どうか、その重荷を半分持たせて。
紺ちゃんはまっすぐに頭を上げ、私を見据えた。
「――ないわ」
迷いのない強い眼差しが告げる拒絶に、私はただ頷くことしか出来なかった。
食べものを買い込んできた紅たちと連れ立って、中央ステージに向かう。
ずらりと並んだパイプ椅子に腰掛け、焼きそばやたこ焼き、焼きとうもろこしなどの屋台メニューを皆で味わいながら演奏を聴いた。
さすが青鸞。飛び入り参加のOBたちの奏でる音楽も、どれもかなりレベルが高い。
「……何かあった?」
「ん? なんで?」
隣に座った紅が、声をひそめて私の顔を覗き込んでくる。
「瞳が濡れてる」
喉元にこみ上げてくる熱い塊を、アイスティーで飲み下した。
ほんと、目ざといんだから。
惜しみない愛情を注いでくれる目の前のこの人に、何もかも打ち明けてしまえれば、どんなに楽だろう。
だけど、紅にとっても紺ちゃんはすごく大切な存在だ。
転生者、という荒唐無稽な話を納得してもらえたとしても、「紺ちゃんは誰にも胸の内を明かすつもりがない」という事実は、必ず紅を抉る。私と同じ想いを、紅に味あわせるつもりはない。
紺ちゃんに感じる違和感の正体が分かるまでは黙っていよう、と決意を新たにした。
「紅、大好き」
「なんだよ、突然!」
珍しく不意打ちに成功したらしい。私は声を上げて笑ってしまった。
耳まで赤くなった紅が、愛しくてたまらない。
これが代償行為なんだとしても、それが何だというの。
「大好きだよ、紅」
すがるように指を伸ばすと、きゅっと手を握ってくれる。優しい圧力に私はきつく目を閉じた。
眩しい日差しが、瞼の裏を容赦なく灼熱色に染める。
そのまま私は、ぽっかりと空いた胸の穴を、紅の温かな手と色彩豊かな音楽で埋めようとあがいた。
そうこうしているうちに栞ちゃんの出番が来た。気を取り直してステージを見守る。
ギターで真っ先にエントリーしてたのは、初老のおじいさんだったんだ。
運営の用意したマイクスタンドを調節して、ギターの前に合わせてる。
最終的には、5弦にフルート、オーボエ、イングリュッシュホルン、クラリネット、そしてトランペットが集まったみたい。足りないパートは互いの楽器で補って演奏するんだろう。
「わお! かなりの人数が揃ってるわね。一体、何を演奏するのかしら?」
「ギターソロと管弦編成だぜ? アランフェスだろ」
ポップコーンを抱えて、美登里ちゃんがはしゃいだ声を上げる。蒼のそっけない返答にも、隠しきれない期待感が滲んでいた。
明るく軽快な第一楽章。高らかに鳴り響くファンファーレ。そして有名な第二楽章へ。
ポロン、ポロン。爪弾くギターの音色の上に、哀愁漂うイングリッシュ・ホルンの旋律が被さっていく。そして応答するようにギターで再び奏でられる主旋律に、一瞬でゾワリと鳥肌が立った。
うまいっ!
ギターのおじいちゃん、めちゃくちゃ上手いよ!!
指揮者がいないとは思えないほど、ソリストと残りのメンバーの息はぴったりだった。楽譜は各自前に立ててるけど、これ、本番一発勝負でしょ? うわ~、ないわ。凄すぎる。
終盤、情熱的にかき鳴らされるギターソロとヴァイオリンのピチカートとの応酬の後の、トゥッティ(全奏者による合奏)部分なんて、もう文句なしにカッコよかった。時間の関係なのか、第三楽章まで聞けなかったのが残念でなりません。
演奏が終わると、いつの間にか集まってきていた沢山のお客さんの間から「ブラボー」の声が次々にかかる。私も精一杯の拍手を送った。
栞ちゃんの上気した表情から、すごく楽しかったんだなっていうのが伝わってきて、私まで嬉しくなる。
本当に音楽って素敵。こんなにも私の胸を熱く揺さぶり、魂を高く舞い上がらせるものが他にあるだろうか。
「ましろ」
「ん?」
拍手と歓声の合間に、呼びかけられる。
体を傾けて、紅の声を聞き取ろうとした私に
「俺もましろが大好きだよ」
小さな囁きが落ちてきた。
やられた!
紅の甘い低音の響きに、頬がみるみるうちに熱くなる。
「仕返し?」
「まさか。戻っておいで、ってこと」
悪戯っぽく細められる菫色の瞳を見つめ返し、私はペシン、と紅の膝を叩いた。戻ってくるもなにも、ずっと隣にいたじゃないですか。
ステージ前を離れ、お腹いっぱいになった私たちは、屋台をぶらぶらと冷やかして回った。
蒼は珍しく上機嫌でよく笑っていたし、紺ちゃんも美登里ちゃんも楽しげに瞳を輝かせてた。もっと一緒にいたかったんだけど、残念ながらタイムアップです。
「劇の上演、20分前です。スタッフは中庭に集合して下さい」
スピーカーから実行委員長の枯れた声が流れてきたのを合図に、私は立ち止まった。
「もういかなきゃ。劇が終わったら、すぐに撤収作業に入らなきゃいけないんだ。今日は来てくれてありがとう」
最初はどうなることかと不安だったけど、目立ったトラブルもなく楽しいお祭りを堪能することが出来ました。タクミ先輩のちょっかいだって、結果的には紅と蒼のレアな射撃姿が見られたんだし、良かったよね。
「こっちこそ、押しかけて悪かったな。劇を見たら俺たちも引き上げるよ。ましろのご家族に会ったら、挨拶してもいい?」
「お願いします。見かけたら、でいいからね。私はその時間、忙しくて会えないって言ってあるし」
「了解」
紅に頼んで、残りの3人にも手を振る。
最後に紺ちゃんと視線が絡んだ時も、彼女の柔和な微笑みが崩れることはなかった。
これから何度でも、胸は痛むだろう。秘密を決して打ち明けようとはしない、彼女の余所余所しさに。
だけどそれが紺ちゃんの選択なら、黙って受け入れるしかないんだ。
振り切るように視線を外し、私は踵を返した。
一番好きなのは「モダン・ジャズ・カルテット」のアランフェスです。
そして、この曲に関連する映画といえば「ブラス!」ですよね。こちらの映画も面白かったので、ブラスバンドがお好きな方は是非。




