21.おうちデートリベンジ
しばらく抱き合っているうちに、ようやく気分が落ち着いてきた。
落ち着いてきたらですね。今度は非常に恥ずかしくなってきました。ぴったり密着してる部分が全部カーッと熱くなる。
紅はそんな私の気持ちを正確に読み取ったようで、ぽんぽん、と優しく二回背中を叩き、体を離してくれた。
「もう落ち着いた?」
「うん。……でも、何か。なんかやだ!」
突然大きな声で叫んだ私を、驚いた顔で見つめ返してくる。
「すっごく慣れてるよね、紅。なんなの、その余裕な対応は。高校生男子はもっと、こう、異性に対してドギマギしたり焦っちゃったりするもんなんじゃないんですか!」
話題を変えたかったことももちろんあるけど、半分以上は本音ですよ。
付き合い始めてからというもの、紅の行動のイチイチに『女慣れ』という言葉が浮かんでくる。自分が嫉妬深い性質なのは知ってたけど、知ってるからこそ、二度と我を忘れた某巨大虫になりたくないっていう矜持も持っていたはずなのに。
紅が抱き締めた初めての女の子になりたかったなあ、とか詮無いことを考えてしまう時点でダメダメですよね。
「ふうん。それはましろの勝手なイメージ? それとも――」
紅は何故か不機嫌な顔になって、私の顔を両手で挟んだ。
「誰かと比べて言ってるの?」
「く、比べてないよ!」
疑わしそうに私をじろじろ眺めた後、紅は小さな溜息をついて手を引いてくれた。
逆キレならぬ、逆ヤキモチか!
こんなことで喜んじゃう単純な自分が憎い。
「余裕なんてないよ、お前に関しては。みっともない所を見せたくないと思って、色々我慢してるだけ」
みっともないとか我慢してるという表現が、自分の中の彼のイメージと結びつかない。
紅の言葉に我に返り、思わず首を傾げてしまう。
「ん? なにそれ、紅は何しててもカッコいいじゃん」
「――お前のその、すっとぼけた所も気に入ってるんじゃなかったら、とっくに怯えられてでも分からせてるのにな」
紅の浮かべた色気たっぷりの笑みに、背筋が一瞬寒くなった。
何を指して言ってるのかは不明だけど、分からなくていいです。全力でご遠慮させて下さい。
そうこうしているうちに、紺ちゃんが戻ってきた。
開け放たれていたままの部屋の戸口を片手でノックし、私たちの注意を引く。
「あ、お帰り!」
素早く立ち上がり、紺ちゃんの手から純銀のトレイを受け取った。
ロックアイスが浮かんだ涼しげなジャスミンティーと出来立てほやほやのビスケットが盛られたお皿の乗ったトレイは、結構重いです。一人で運ばせて悪かったな。
「戻ってくるの早過ぎだよ、紺」
「ふふ。もちろん、わざとよ。お兄様」
「……まさか、このままずっと居る気?」
「ええ。ましろちゃんが帰る時は、能條を呼んで一緒に帰るつもり」
なんだろう、この二人。
すっかり私が美形双子に取り合われてる図なんですけど。違和感っ!
紺ちゃん相手だと、紅も子供みたいに思ってることを顔に出すんだよね。分かりやすくふくれっ面になった紅を見て、紺ちゃんはとうとう笑いだした。
「なんてね。お茶を頂いたら、帰るわ。山吹理事長と夕食の約束をしてるから」
口に含んだばかりの薫り高いジャスミンティーを噴き出しそうになる。なんとか堪えたけど、気管に入ってしまったのか、ゲホゲホ咽てしまった。
隣の紅は私の背中をさすりながら、眉を顰めて紺ちゃんを見据えた。
「理事長と? 一体、なんの話で?」
「そうだよ、紺ちゃん。紺ちゃんだって知ってるでしょ。あの人、危険だよ!」
そういえば、沢倉さん達に囲まれて頭打った時、トビーと紺ちゃんが私の部屋にいたような。記憶があやふやだけど、あれが夢だったなら悪夢で決定だ。二人の親密さを思い出し、ぶんぶん、と内心首を振る。
「玄田の父と理事長のお父様が懇意にしていらっしゃる関係で、トビーにはよくして頂いてるの。そんな風に言わないで。言動が誤解されやすいだけで、実はとっても優しい方なのよ」
明らかに芝居がかった紺ちゃんの口調に、私はぐっと拳を握った。止めたいけど、ここには紅もいる。『前作ヒロインルート』の話は出来ないし、何て言おう。
思案しているうちに、紺ちゃんは「ご馳走様」と両手を合わせてしまった。
「本当に大丈夫なんだな、紺」
「理事長も私も、ちゃんと立場を弁えてるわ。心配しないで」
紺ちゃんのトビールートがどんなものなのか、私は全く知らされていない。だけど、あのえげつないトビーが相手だというだけで、レーディングが上がってる気がしてなりません。ボクメロリメイク版が全年齢指定だったかどうかだけでも、今猛烈に知りたいよ!
「ましろちゃんも、そんな顔しないの。今日は楽しかったわ。またね?」
飲み干した自分の分のグラスを取り上げ、紺ちゃんは本当に帰っていってしまった。
はあ、と知らないうちに大きな溜息が口から零れる。
「……山吹理事長、か」
紅の呟きに暗い気持ちになりながら、私は紺ちゃん手作りのビスケットに齧り付いた。むしゃくしゃする時は食べるに限る。ところが。
――まずっ!!
涙目で紅を振り仰ぐ。紅は「言うの忘れてたけど、紺の手作りは観賞用だから」と苦笑いした。
私も忘れてたけど、花ちゃんの料理の腕は壊滅的なんだった。うう、口の中が砂っぽい。
それから、音楽室に移動してちょっとだけのつもりでピアノを練習させてもらってたら、あっという間に夕方になった。
名残惜しそうな紅に「夕食まで食べていけばいいのに」って誘われたけど、流石にそこまでは図々しくなれません。母さん達も待ってるし。
「お邪魔しました。また遊びに来てもいい?」
「もちろん。いつでも来いよ」
どこか寂しげな笑みを浮かべた紅に手を振り、水沢さんの所へ行こうとしたところで、はた、と思い出した。少しだけ躊躇した後、踵を返し玄関先で見送ってくれてる紅の前まで戻る。
「忘れ物か?」
「うん、言い忘れ。電話もメールも、紅からならうっとおしくないからね」
紅は一瞬虚を突かれたように黙り込み、それから悔しげに私の額を指で弾いてきた。
ちょ、なんでデコピン!?
「いたっ」
「いいから、早く行きな」
はいはい。生意気言ってすみませんでしたね。
一部始終を見ていた水沢さんは、小さく肩を震わせていた。
◇◇◇◇◇◇
おうちデートと呼んでいいのかどうか微妙な逢瀬から寮に戻るまでの間、一度だけ紅とデートした。
電話やメールが増えただけでも私は十分満足してたんだけど、更にお外デートとか長期休暇っぽくて嬉しい。
歴史の変遷と楽器の改良についてのレポートなど、音楽科目の課題は頑張って先に終わらせてある。
ところが、一般科目にもかなりの量の宿題が出てるんですよ。
お休みをめいっぱい使えるわけではない寮生の私は、読書感想文用の本を探すのとワークを一気に終わらせる目的で図書館に行こうと思っていた。そのことを電話で話したら、なんと紅も行きたいって言い出したんだよね。
学生らしく図書館デートだって! うわあい、楽しみ!
容赦なく太陽が照りつける炎天下、紅は律儀に先に来て待っていてくれた。
「おはよ。来るの早いね。遅れちゃった?」
とある目的の為、少し早めに家を出たはずなのに、と図書館の玄関にかかっている大きな壁時計を見上げる。うん、ちゃんと約束の5分前だ。
「こんな暑い日に外で待たせるのは可哀想だろ。行こうか」
あくまでジェントルな紅に促され、館内に入る。
一般文芸の置いてある二階に上がり、奥の席に荷物を置いた。平日だからか、周りも学生さんらしき人ばかり。ちら、と紅を見た人が慌てて二度見するのはいつものことだ。
「ふう~。涼しいね」
よく効いた冷房に喜ぶ私を見て、紅は目が眩みそうに甘い笑みを浮かべた。
「顔、真っ赤。だから家まで迎えに行くって言ったのに」
「いいの。外で待ち合わせっていうの、やってみたかったんだもん」
待った? ――ううん、今来たとこ。
先に着いてる彼女を見つけ、小走りに駆けてくる彼氏、ってやつですよ。
映画デートの時は、トビーのせいで気づいたら紅は目の前にいた。今回は紅らしい配慮のお陰で、失敗だった。いつかリベンジしてみせるもんね。
「ふうん。まあ、いい。本を探してくるよ」
「私もぐるっと回るから、貴重品は携帯していってね?」
「分かった」
図書館にもなんと初めて来たという紅は素直に頷き、瞳を輝かせながら書架の間に消えていった。ああいう顔をしてる時は、ちゃんと年相応に見える。
可愛いなあ、と独りごちながら、私も本を探すことにした。
現代作品も好きなんだけど、感想文を書くなら古典の方が書きやすそう。
リチャード・バックの「かもめのジョナサン」なんてどうだろう。んーと、一種の自己啓発本になるのかな。それか、アーネスト・ヘミングウェイの「日はまた昇る」。パール・バックの「大地」も良さそうだけど、ちょっと読むのに時間かかりそう。
手に取ってはパラパラと斜め読みし、長いことアメリカ文学のコーナーから戻って来ない私に業を煮やしたのか、途中で紅がやってきた。
「あまり選ぶのに時間をかけると、読んで書く時間がなくならないか」
「そうなんだけど、なかなかピンとくる一冊に出会えなくて。紅は何にしたの?」
「海外文学モノは、父の趣味でうちの図書室にもかなりの蔵書があるんだ。だから、日本の作家にした」
手に持っていた本をひょいと掲げた紅に、私は思いっきり顰めっ面を作った。
「え~、その話?」
「ましろは嫌いだと思ったよ」
「二股男は絶滅すればいいと思います」
「俺も、この作家自体初めて読むんだ。まあ、物は試しって言うだろ」
「じゃあ、最低な男が出てくる話繋がりで『欲望という名の電車』を読もうっと」
「スタンリーも、ましろにかかったらザックリ断罪されそうだな」
押し殺した声で笑う紅につられて、私も笑ってしまった。
わかってるよ。誰か一人が悪い、なんて単純な構造をしていないのが現実だって。
席に戻って読み始めれば、あっと言う間に物語世界に没頭してしまう。
スタンリーだけを詰って済む話なら良かったのに。真っ先に浮かんだのは、そんな感想だった。
感想文を書くコツが載っている本もあったので、それも合わせて読んでみる。起承転結で書けばいいのかと思ってたのに、どうやら違うみたい。
なぜその本を選ぼうと思ったのか。読む前は、どんな本だと思ったのか。そして粗筋。印象に残ったシーンの順で書き、なぜそのシーンが印象に残ったのかを説明する。最後に、読む前の印象とどう変わったかを述べればいい、というシンプルな手順。
ほっほう~。これなら、すぐに書けそうだ。
時代性や文学におけるリアリティの有用性なんかについて書け、って言われても困るもんね。トートバッグの中から原稿用紙と筆記用具を取り出し、ふと目を上げ、私は固まってしまった。
テーブルの上でお行儀悪く頬杖をつき、右手でページを繰っている紅が。
眼鏡かけてるっ!?
上品なシルバーフレームのスクエアタイプの眼鏡をかけ、視線を手元に落としてる紅の色気といったら、もうそれは凄いものでした。うわあ、……見蕩れちゃう。これは見蕩れてもしかたない案件ですよね、先生。脳内先生にお伺いを立てようとして、ハッと気がついた。
私も読書に集中していたから気付かなかったけど、半径5メートル以内に座ってる女子の皆様が、全員紅を垂涎ものの表情で見つめている。
携帯で撮影しようとし始めた不届き者も中にはいたので、全身の力を込めて睨みつけてやりましたよ。勝手に撮るな!
私の般若顔に恐れをなしたのか、気まずそうに席を立っていく女の子達。よっし。追っ払ってやったぜ。
「ましろ」
「何」
「落ち着いて」
ガルルルと唸り声さえ上げそうな私を危惧したのか、そんな暢気なことを言ってくる。
「だって」
「好きにさせとけばいい。そんな写真には何の意味もないってすぐに気づくさ」
だって、それは俺じゃないんだから、と紅は皮肉げに唇を歪めた。
「紅じゃないなら、何なの」
「さあ。偶像じゃない?」
そういえば、アイドルって偶像って意味なんだっけ。
達観しちゃってる紅に割り切れない切なさを覚えながら、私は「はーい」ととりあえず返事をした。こればっかりは紅自身の問題だからどうしようもない。
「返事は伸ばすな」
「はい」
すかさず突っ込まれる。
懐かしいやり取りに思い出し笑いを浮かべた私を見つめ、紅もクスと笑った。




