19.夏休み
「じゃあ、また8月だね。寮祭にキャストとして参加するなら、10日には寮に帰ってきといてよ」
「了解です。よい夏休みを!」
向日葵みたいに明るい笑顔を浮かべたミチ先輩が、桜桃寮の玄関先で見送ってくれた。
三年生にとっては最後のお祭り行事だからか、皆すごく張り切っている。
私たち一年生は、そんな先輩たちのお手伝い程度のことしか出来ないだろうけど、それでも初めての寮祭だからかなりワクワクしちゃってます。
綿あめでしょ。ヨーヨー釣りにカキ氷。
館内は立ち入り禁止だから、文化祭定番のお化け屋敷や喫茶店は出来ないそうなんだけど、目玉は、劇らしい。
去年は『真夏の夜の夢』を上演したんだって。
なんとメンデルスゾーンの作曲した劇付随音楽付きで! 管に弦でしょ。あとはティンパニ。そしてソプラノにメゾソプラノの女声合唱。
全部、学内で調達出来ちゃうんだもんね。衣装や舞台道具は、青鸞大学のオペラ研究会から一式まるまる借りてきたそうだ。中庭に急遽完成させた野外ステージで上演された『真夏の夜の夢』は、大成功だったとミチ先輩は教えてくれた。
なんという豪華な出し物ですか! めちゃくちゃ見たかったです!
外門から少し離れたところにある簡易パーキングに車を停め、父さんは待っていた。
私の姿を見つけると、大きく破顔して手を振ってくれる。私も嬉しくなって、道路の反対側からぶんぶん手を振った。
家にも着替えはあるし、小さなボストン一つで里帰り。
夏休みの課題と楽譜一式が詰まってるから、見た目よりはうんと重いんだけどね。
「おかえり、ましろ!」
「おかえりなさい」
久しぶりの我が家に着き、玄関を開けると、そこで待ち構えていたらしい母さんと花香お姉ちゃんに盛大に出迎えられた。
ただいま~、と大きな声で宣言して、靴を脱ぎ捨て母さん達に飛びつく。
ぎゅうっとサンドイッチの具みたいに抱き締めてもらった途端、2人の服から柔軟剤のいい香りがした。そう、この匂い。帰ってきたんだなって実感しちゃう。
「ねえ、ねえ。ましろの今日の予定は?」
花香お姉ちゃんは私にぴったりくっついたまま、リビングまで移動してきた。エアコンから出てくる風が上気した頬を冷やしてくれる。
「んーと。ピアノの練習してから、勉強します」
「ぶれない!」
何故か、すごくガッカリしてる。
よくよく話を聞いてみると、「ラブラブな彼氏の紅くんとどこかに遊びに行く」んじゃないかと思ったそうだ。期待を裏切るようで悪いけど、そんな予定は立ててませんよ。今のところ。
「ええ~。せっかくの夏休みだよ? 紅くんと、海とかプールに行けばいいのに。ましろの水着姿で悩殺しちゃえ!」
「紅はそんなんで悩殺されないと思うよ。それに、泳ぐと指先がふやふやになっちゃうから嫌だ」
「そんな理由!?」
ちぇ、と唇を尖らせた花香お姉ちゃんにようやく解放してもらい、二階へ向かう。
私がいない間もきちんと掃除していてくれたらしく、部屋には埃ひとつ落ちていなかった。ベッドのシーツもぱりっとしてる。仕事に家事にと忙しいだろうに、母さんはこういう所を決して疎かにしない人だった。
父さんが運んでくれたボストンバッグから、まずべっちんを引っ張り出し、ベッドの上にちょこんと座らせる。
「ふふ。帰ってきたね、べっちん。アイネもただいま!」
柔らかなクロスでアップライトピアノを丁寧に拭き、ドの音に親指を置いた。
顔を寄せ、ポーン、という素直な音に目を閉じる。そんなに長くは離れていないはずなのに、懐かしい響きに胸がグッと詰まった。
「何、弾こうか。やっぱりここは、モーツァルト?」
アイネだもんね、と一人ごち、あの曲を選んでみることにした。
ピアノ・ソナタ 第16番 ハ長調 第1楽章
クラシックなんて興味ない、という人でも必ず一度は耳にしたことがあるに違いない、という超有名曲ですよ。
テクニック的には初心者向きとされてるこの曲は、実はすごく難しい。
氷見先生も「この曲を弾いて下さいって言われるのが一番緊張するな」って苦笑いしてたくらいだ。楽譜通りにノーミスで弾いてみるでしょ。これが、おそろしくツマラナイ曲に聴こえちゃうんだ、不思議と。
かといって、指示を無視して大げさにテンポを揺らしたりクレッシェンドをかけたりすると、今度は下品な感じになっちゃう。
この曲を粋に弾けたらカッコいいだろうな~と私は常々思ってるので、時々思い出したように挑戦してるってわけです。
メロディを愛らしく、そして左手は出来るだけ軽やかに。フレーズの頭は裏拍気味に入る。主旋律に入る前は若干テンポを落として、ためを作ってみたりね。
おお? 今日のは、なかなかいいんじゃないですか!
自画自賛気味に演奏し終えると、道路側の窓の外から拍手が聞こえてきた。
うえっ!? あ、窓閉めるの忘れてた!
網戸になっていた窓を開けて身を乗り出し、「すみませーん」と謝った。
隣りのおじさんとおばさんは、家の前で洗車してたみたい。
「おかえりー。もっとやっちゃって、いいBGMだからー」なんて言って泡だらけの手を振ってくれる。犬の散歩で通りかかった角の家のおばさんまで、「あら、ましろちゃん! どおりでいい音がすると思ったわ。私も一曲聴いていこうかしら」と日傘の下からこっちを見上げてくるもんだから、思わず口元が緩んだ。
「何がいいですかー?」
「ほら、あれ! 車のCMでやってるじゃない。あれがいいわ~」
隣のおばさんが歌いだしたメロディに、私は目を丸くしてしまった。
エリック・サティのJe te veux ですか!
聴いたことはあるから弾けないこともないけど、ウロ覚えですよ。
正直にそう申告したのに、「適当でいいから!」と更にせがまれる。
しょうがないので、アイネの前に戻って記憶の中からメロディを引っ張り出し、分からない部分は自分でアレンジしながら弾いてみた。
こんなんでいいのかな。
サティさん、ごめんなさい。後でちゃんと楽譜入手して練習しときます。
外からは、鼻歌にしては大きすぎるハミングが聞こえてくる。
こみ上げてくる笑いを噛み殺し、私は愛すべき隣人に向かって「あなたが欲しい」とピアノで歌い続けた。
私の初ジュ・トゥ・ヴのシチュエーションは、ロマンティックさとはかけ離れていました。
家のお手伝いをしながら、勉強とピアノの練習を繰り返す。
夜は家族みんなで談笑しながら晩御飯。
お姉ちゃんと三井さんは相変わらず仲良く付き合っているらしい。そろそろ結婚の話が出てもおかしくないよね。
――松田先生はどうしてるのかな。
穏やかな眼差しがふと脳裏をよぎったのに、何故か尋ねることは躊躇われた。
今の松田先生は、友衣くんじゃない。
分かっているはずなのに、後ろめたさが心の隅から顔を出す。
その感情が紺ちゃんに対するものなのか、紅に対するものなのかは分からないけど、深く考えたくなかった。
松田さんの名前が花香お姉ちゃんの話題に出てこないことに、私は疑問どころか安堵すら覚えていた。
そんな引き籠り生活を一週間ちょっと続けてるうちに、私は無性に紅に会いたくなってきてしまった。
彼からのメールは、その日の終りに一通だけ。
「体調崩してない? しっかり自己管理するように。俺は変わりないよ。おやすみ、ましろ」
おうおう、紅さんよ。これ、定型文として登録設定してるんじゃないでしょうね。
そう問い詰めたくなる程、判で押したように同じ内容のメールがくるだけなんです。
分かってるんだよ? 私の「電話やメールが頻繁なのって、うっとおしい」発言を受けての行動だって。それにしたって、寂しいじゃないか。
また私も意地っ張りなもんだから
「大丈夫です。元気にやってます。紅も夏バテしないようにね。おやすみ」
としか返してないけどね! ふはははは! ……はぁ。
いつの間にこんなに好きになっちゃったんだろう。
紅のことを考えるだけで、胸の奥が甘く疼く。
今なら、リストの「愛の夢」だって情感たっぷりに弾けそうだ。
よし、今度松島先生にみて貰おう。――って、あれ。何の話だったっけ。
そんなボケボケなことを考えてた私は、携帯の着信音に飛び上がった。
発信元を確認してみる。紺ちゃんだ!
いそいそと携帯を耳に当てた。
「もしもし」
『こんばんは、ましろちゃん。今、大丈夫?』
「うん、平気。どうしたの?」
亜由美先生のレッスンで顔を合わせたのは、三日前だ。
何かあったんだろうか。
『紅がしおれてて、見るに見かねちゃったの。一度、成田の家に遊びに来ない? 母さん達も、久しぶりに会いたがってるし』
「紅が? え、でもメールではいつも通りだったよ」
『カッコつけなのよ。知ってるでしょ。押してダメなら引いてみろ作戦だか何だか知らないけど、ましろちゃん相手にそんな小細工通用するはずないのにね』
よく分からないけど、紅も私に会いたがってるってことでいいのかな。
「いいよ。そっちの都合のいい日を教えて?」
一応カレンダーを確認してみたけど、見事に空いてます。予定らしきものと云えば、地元のお祭りに絵里ちゃん達と行く約束してるくらい。
「急だけど、明日はどうかしら」
「全然、おっけー」
「ふふ。私も嬉しいな、ましろちゃんに会えるの」
「ん? 私達は、割としょっちゅう会ってるよね?」
「――うん。でも、もっといっぱい会いたいなって」
明日の10時に水沢か能條を迎えに行かせるわね、と紺ちゃんは柔らかな声で言って、通話を切った。
人恋しくなってるのかな?
紺ちゃんがあんな風にストレートに口にするなんて、珍しい。
ちょっと考えて、まあそんなこともあるだろう、と私は流した。
久しぶりの成田邸ですよ。
田宮さんに会えるのも楽しみ。
何を着て行こうかな、とクローゼットを開け、めぼしい服がないことに思い当たる。
そういえば、買い物なんてとうから行ってないや。
「おねえちゃーん」
隣りの部屋をノックして、花香お姉ちゃんに明日の予定を話すと、途端に張り切り始めた。
「ちょうどタイムリーな雑誌の特集があったのよ。ほら、見て!」
【彼ママに初めてのご挨拶。先輩女性からも愛されファッション】ですか。ほほう。
って、私、桜子さん達とは初対面じゃありませんが。
それに、この挨拶って何か違う気が……。
「お嬢さまスタイルのましろか~。いいね! 明日は髪も巻いちゃおうか?」
「ごめん、お姉ちゃん。普通でいいです、普通で」
◇◇◇◇◇◇
思えば、至るところに違和感はあった。
もっときちんと色んなことに気をつけていれば。
何度後悔して、自分の迂闊さを呪っただろう。
転生者とは云っても、特殊なスキルはもちろん、未来を見通せるような予備知識さえ持たずに生きてきた、それが私の限界だったのかもしれない。だって、この世界の『ボクメロ』はリメイク版だし、元のゲームすらきちんと最後までクリアしたことはなかったんだから。
それでも、分岐点は一年のこの夏だったんだってことくらいは分かる。
私は、この時もまだ自分の未来は明るいと馬鹿みたいに信じていた。
そこには、きっと紺ちゃんもいるんだって。
紅と、私と、蒼と紺ちゃんの4人で、笑って音楽やってるに違いないって。何の根拠もない未来図だったのに、一度だって疑ったことはなかったよ。
だって、前世の記憶を取り戻した時からずっと、私の傍にいてくれたじゃない。
ねえ、紺ちゃん。
今でも私は考える。
本当に心から幸せだって思えることが、あなたにあったのかなって。
私は楽しかったよ。
幸せで幸せで、前世のことなんてもうすっかり過去にしちゃうくらい、満たされてたよ。




