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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
124/161

18.前期試験

 初めての公開試験。

 私達ピアノ科一年の課題曲は、バッハの平均律(一巻の22番)とショパンの練習曲8番。

 2曲連続で弾くことを指示され、流れ作業の用に順にステージに上がっては速やかにはけていく。一人5分くらいだから、一年生全員でざっと一時間ってとこ。

 同じ曲ばかり聞かなきゃいけないんだから、採点する先生方もなかなか大変だ。


 私はなんとトップバッターでした。

 これどうやって順番決めてるんだろう。出来れば、真ん中あたりが良かったなあ。

 緊張をほぐそうと深呼吸を繰り返しつつステージ中央に進み、手早く椅子の高さを調節して鍵盤に手を置く。


 まずはバッハの平均律クラヴィーアから。

 半音階での全ての長調と短調での前奏曲とフーガからなるこの曲集で、J.Sバッハは対位法だけでなく、演奏技術、音楽的な奥行きなどあらゆる面でそれまでになかった作曲方法を確立し提示したと言われている。バロック技法の粋を集めたこの曲を、私は出来るだけ丁寧になぞっていった。

 大げさなアーティキュレーション(音と音の繋がりに強弱や表情をつけること)をつけず、異なるメロディが重なった時の美しさを際立たせることに神経を注ぐ。静謐な響きが、ゆったりとホールに立ち昇っていくように。

 緻密で複雑な折り紙を折る作業に、それはよく似ていた。

 

 続けて、ショパンのエチュードへ。

 8番はなんといっても、右手のパッセージが肝。

 手首を柔らかく用い、指を思い切り回して速いテンポで駆け抜ける。さざめくアルペジオを歌う上声部を軽快なリズムを刻む低音部が支えながらも追いかけていくイメージ。

 右手を鍵盤の中央から右端まで大胆に舞わせ、最後は両手をクロスさせて左手で最後の音を叩く。

 よし! と思わずガッツポーズを決めたいくらい完璧に弾くことが出来た。

 集中力が欠けてる時なんて、結構ボロボロ音を外しちゃうんだよね。


 軽く一礼して、足早に舞台を降りる。

 試験が終わったという開放感と、失敗せずに済んだという喜びで、どうしても顔が綻んでしまった。

 ニヤニヤしちゃうのを隠そうとして真面目な顔を作る。それでも口元が緩むので、歯を食いしばってたら、担任の後藤先生に「だ、大丈夫よ。そんな般若みたいな顔しなくても」と慰められてしまいました。


 Aクラスから順番に演奏するみたいで、クラスメイトの大半は舞台袖に行ってるみたい。ぽっかりと空いた客席に座って、残りの皆の演奏を聴くことにした。般若みたいな顔で。


 紺ちゃんのハイレベルな演奏はある意味予想通りだったんだけど、上代くんも凄く良かった。

 特にショパン。艶やかな右手の鮮烈さは言うまでもなく、低音の響きがビシっと決まってカッコいい。テンポを揺らしてるわけじゃないし、楽譜に忠実な演奏なのに、華やかな見せ場を作ってくるというか何というか。

 あ~、拍手出来ないのがつらい。


 今日の公開試験は、ピアノ科と声楽科と打楽器科で終了。

 明日が弦楽器科と管楽器科だ。

 副科の試験は、最後の授業の時にやるんだって。副科で声楽を取ってる一年女子は、アントニオ・カルダーラの「たとえつれなくとも」という曲のソプラノを歌うことになっていて、実はそっちの方が心臓バクバクなんですよ。

 歌は好きだけど、上手いかって聞かれると、うん。……まあ、そういうこと。好きだけじゃ乗り越えられない壁ってあるよね。ラティーナ先生に指導されたところとか、寮で自主練してるんだけどなあ。


 

 試験中のカリキュラムは、お昼まで。

 露草館の大食堂もしばらくお休みだから、寮生は購買でパンを買うか、カフェテリアで軽食を取るかした後、寮に戻ることになっている。

 私達に付き合うことはないのに、紅たちは当然の顔をして露草館までついてきた。


 いや、まだ紅は分かる。ほら、私と付き合ってるわけだし。

 でも蒼と美登里ちゃんと紺ちゃんまで一緒に来るって、何なんだろうね。

 連休前まで紺ちゃんはこんな時「練習があるから」と、いつも先に帰っていた。でも新歓以来、すっかり元の紺ちゃんに戻ったみたいで、張りつめた雰囲気は消え、付き合いが良くなっている。

 

 このグループでの行動がすっかり定着してるのか、上代くんも栞ちゃんも「なんで来るん?」ってもう突っ込まないんだよね。末期ですよ。

 案の定、カフェテリアにいたのは殆どが寮生でした。内部生の紅たちは非常に浮いている。


 「おお、また三人揃って……じゃないか。今日はえらく大所帯だな」

 「学院のアイドルも一緒じゃん! 成田くんはこの間、寮でガン見したけど、城山くんだったっけ? 初めて見るわ~」


 ジロー先輩とミチ先輩もいる。

 手を上げて「こっちにおいで」と呼んでくれたので、お言葉に甘えて同席させてもらうことにした。

 ――と、その前に。

 蒼を振り返って、顔を覗きこむ。


 「ん? なに、ましろ」

 「お行儀よくしてね。感じよく。いい?」

 「分かってる」

 「寮でお世話になってる先輩達なんだから、返事しないとか仏頂面するとか、絶対ナシだからね?」

 「分かったってば」


 困ったように「分かった」を繰り返す蒼が気の毒になったのか、お前は思春期の子供を持つオカンか! と上代くんにチョップを食らいそうになったので、しぶしぶ前を向く。

 栞ちゃんと美登里ちゃんは私達のやり取りに、ぷくく、と笑いを噛み殺し、蒼に八つ当たりされていた。


 「うるさいな」

 「ええっ? まだ何にも云うてへんやん」

 「そうよ」

 「視線がうるさい。あと、笑うな」

 「関西人に笑うなってな、死ねって言うてんのと同じやで? 自分、恐いわ~」

 「恐いのはそっちだろ!」


 栞ちゃんにもすっかり慣れた蒼を見て、これなら大丈夫かな、と思って先輩たちに紹介したんだけど、やっぱり蒼は蒼だった。


 「いやん。評判通り、可愛い~! いや、カッコいいのか。カッコ可愛い宣言か!」


 初対面なのに……初対面だからか。錯乱気味のミチ先輩も悪いと思うけど、蒼もそんなドン引きしなくてもいいと思うんだ。


 「もうその辺で。城山だったっけ? ごめんね、変な先輩で。ミチ、いきなり狩猟本能剥き出しにしないよ。下がって。下がって!」

 「猛獣扱いすんな!」


 寮ではお馴染みの掛け合いに、美登里ちゃんも紺ちゃんもビックリしてる。

 そうか、この2人のことも注意喚起しとくべきだったんですね。すみません。


 てんやわんやしながらも、それぞれランチ代わりになりそうなものを買って来て、ようやく落ち着く。

 ジロー先輩の食べてたクラブハウスサインドイッチがすっごく美味しそうだったんだけど、一人で食べるには多いかな? と思って迷ってしまった。

 うーん、とメニュー表の前で悩んでる私に、紅が助け舟を出してくれる。


 「俺と分けるか。それなら、食べられそう?」

 「やった! いいの?」

 「いいよ」


 何てことない半分この相談だったのに、トレイを持ってテーブルに戻った私達は、紺ちゃんと蒼にすごく驚かれてしまいました。


 「紅が、誰かと分け合いっこするとか……」

 「私とだって、食べたことないのに」


 ん? そうなの?

 どうして2人が目を丸くしてるのかよく分からない。

 紅を見上げると、気まずそうな表情で視線を彷徨わせている。


 「紅は、昔からシェアを凄く嫌がるの。気持ち悪いって」

 「紺。人のことはいいから、早く食べな」


 紅は笑顔で紺ちゃんを急かした。目が笑ってないように見えるのは気のせいですよね。

 

 それにしても、シェア嫌いって、マジすか。

 知ってたら、映画館で「私のジュースも飲んでみる? シークァーサーレモンだって!」って勧めたりしなかったのに~。

 気持ち悪いな、コイツとか思いながら、我慢してストロー咥えてたのかな、あの時。うわああ。勘弁して!


 「そういうことは早く言おうよ。これまだ手をつけてないし、紅が食べて。私、他のを買ってくる」


 慌てて立ち上がろうとした私の腕を、紅はすかさず捕まえた。


 「大丈夫だから。俺から言ったんだろ? 一緒に食べようって」

 「……うん。でも生理的なそういう嫌悪って、無理しない方が」

 「はあ~」


 特大の溜息をこれみよがしに吐かれる。

 蒼は「遠回りに言ったって、ましろには伝わらないよ」とクスクス笑った。

 掴まれた腕をぐい、と引かれれば、必然紅に密着するわけで。

 綺麗な菫色の瞳が、すぐ近くに迫る。毛穴はいずこ。

 そこらの化粧品ポスターのモデルさんより肌の綺麗な高校生男子なんて、嫌過ぎる!


 「ましろなら平気。むしろ、食べたい。意味、分かる? 分かるまで、俺がなんで平気なのか、他の方法で証明してみせようか?」


 甘い声に誘われるように、視線が紅の唇に引き寄せられる。綺麗な形してるな。柔らかいのかな。それとも――。

 

 ……ハッ!

 あっぶな。今、私、公衆の面前で紅を襲うとこだったよね!?

 痴女か。欲求不満の痴女なのか!

 

 「いえ、大丈夫です。分かりました、すみません」


 へこへこ謝って席につくと、隣りの紅からチッという音が聞こえてきた。

 舌打ち!? なんで!


 「うちな。ラブシーンに耐性ついてきたかもしれん。ましろ達が何してても、まあそうやろな~って感じになってんねん」

 「奇遇やな、俺もや」


 何故か上代くんと栞ちゃんは固い握手を交わしてるし。


 「いいなあ~。見た? 今の! 私もあんな台詞言われてみたいよう~」

 「あ、じゃあ言ってあげるね。ミチのなら平……ぐふわっ!」

 「イケメン限定でお願いします」

 「食べかけのアンパン、俺の口に突っ込むのはアリなのに!?」


 ミチ先輩とジロー先輩は、新たなプレイに突入してる。

 お昼ご飯を食べに来ただけなのに、こんな調子なんだよ?

 全員集合の寮祭とか、想像しただけでカオスです。



 

 次の日の弦楽器科と管楽器科の公開試験も、つつがなく終了した。

 

 紅も蒼も、相変わらず上手かった。

 特に蒼。彼のチェロを生で聴くのは、数年ぶりだ。

 体が大きくなった分、音が安定して、本来の音色の艶やかさに更に色っぽさまで加わっている。

 短い演奏だったけど、ドイツでも沢山練習を積んだんだな、っていうのがすぐに分かって嬉しくなった。


 ――『チェロだって、止めなきゃならないなら止める』


 まだ幼かった蒼の放った言葉が、サラサラと砂のように崩れて心の中から消えていく。

 あの日の別れの選択を私に後悔させないでいてくれて、本当にありがとう。

 万感の思いを込めて、演奏後の蒼に「すごく良かったよ。ありがとう」と伝える。

 蒼はちょっとの間私を見つめ、それから何もかもを許すような笑顔でふわり、と笑った。


 紅のヴァイオリンには、凄みが増していた。

 美しい立ち姿で構えられたヴァイオリンから、甘い旋律が零れていく。

 感嘆と羨望の溜息が、客席に広がった。


 一見、努力とは無縁なていを取り繕ってる紅だけど、実はすごい努力家なんだって、付き合うようになってから初めて知った。

 その努力を努力と思ってないところが、凡人との違い?

 つい出来心でからかってみたら、「もう勘弁しろ。悪かったよ」って、心底情けなさそうな声で謝罪されたんだっけ。

 ボンコ呼びされてた頃が、本当に昔になったんだな、って実感しちゃいましたよ。

 俺様紅様が彼氏になってしかも、謝るとかね。あの頃の私に言っても、絶対信じなかっただろうなあ。


 美登里ちゃんのフルートは文句なしにエレガントだったし、栞ちゃんも凄かった。

 トランペットって高い音ほど出しにくく難しいって習ったのに、パーンって綺麗に通る音が、ホールをまっすぐに飛んでいく。

 タンギングやブレスなんかの技術面もずば抜けてたんだけど、演奏してる時の楽しそうな雰囲気といったら。こっちまで思わず体でリズムを取りそうになっちゃった。

 皆、すごいな!

 こんな凄い人たちと机を並べて学んでるなんて、夢みたいだなあ。


 試験結果が張り出された掲示板の前で、改めて我が身の幸運に浸っていると、後ろから美登里ちゃんに飛びつかれた。


 「さっすがましろね! 副科以外は、全てA+。学科は満点。いうことないじゃない」

 「うん。声楽がヒヤヒヤしたけど、何とか特待生を維持できそうで良かったよ」


 紺ちゃん達も、みんなトップクラスの成績を収めている。

 上代くんと栞ちゃんの実習も、もちろんA+だった。


 「いや~、これで安心して実家に帰れるわ。あんまり酷かったらオカンに家を蹴り出されるとこやった」


 ホッと胸を撫で下ろしてる上代くんと、久しぶりの帰省が嬉しいのか終始上機嫌の栞ちゃんに「8月までお別れだね」と告げる。

 ちょっと寂しいけど、仕方ないもんね。


 「そんな顔せんといてよ。なんや寂しなるやん!」


 途端に、栞ちゃんはしゅんと肩を落とす。

 くう~。可愛いっ。

 美登里ちゃんの気持ちが、今ようやく分かったわ。


 「シオリ、夏休み楽しんでね! でも私を忘れないでよ?」

 「うわあああああ」


 うん、だからって実際に抱き着くのはどうでしょうか。


 美登里ちゃんからの熱烈なハグと頬へのキスを受け、栞ちゃんは今にも卒倒しそう。

 紺ちゃんと蒼の「美登里!」「美登里ちゃん!」という制止の声が、きれいなユニゾンで廊下に響いた。



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