16.戻ってきた日常
宮路さん達との話し合いの後、私は父さんに連れられ、結局その日のうちに病院に行くことになった。
紅も一緒に行きたがったんだけど、紅パパに「遠慮しなさい」と引き留められ、更にはうちの母さんにまで「結果はちゃんと連絡するから、今は私達だけにしてくれる?」ととどめを刺されてましたよ。
無力な自分を責めてるんだろう、悔しげに唇を引き結び項垂れてる紅に「また明日ね」と精一杯明るく声を掛け、理事長室を出る。
病院に着くまで、父さんも母さんも無言のままだった。
嫌がらせの件を黙っていたという引け目のせいで、気まずくてしょうがない。
怒ってるのかな。
もし、これ以上青鸞には通わせられない、って言われたらどうしよう。
「父さん、あのね――」
「話は後でしよう、ましろ。とにかく、異常がないか診て貰わないと」
うう。取りつく島もない。
トビーが急いで予約を入れ直してくれた大学病院に直行し、そのまますぐ検査に入る。
特に異常は見つからなかったみたいで、担当のお医者さんに「大丈夫ですよ」と笑顔で告げられホッとした。
「痛みがあるようなら、鎮痛剤を出しておきます」とも言われたので、念のため薬も貰っておくことにする。一週間くらいは、めまいや倦怠感があるかもしれないんだって。それ以上長く続く様なら、もう一度来るようにとのことだった。
外来はすっごく混んでいたのに、殆ど待たされなかったのは、流石トビーというしかない。
寮には母さんが連絡を入れてくれた。
学校の近くのファミリーレストランに入って、久しぶりに三人で夕食をとることに。お昼は、病院の売店で買ってもらったサンドイッチを食べただけだったから、今ならがっつりトンカツ定食だって食べられそう。
「ましろ」
注文を済ませ、料理が運ばれてくるまでの待ち時間。
父さんは、真面目な顔で私をじっと見つめた。
居住まいを正して、「はい」と答える。
「山吹さんから連絡を貰って、父さん達がどんなに肝を冷やしたか分かるね? ましろも怖かっただろうし、無事で本当に良かったと思ってる。だけど、一言でいいから、相談して欲しかったよ」
「……ごめんなさい」
「いや、父さんも悪かった。連休に帰ってこさせて、もっとましろの様子に気を配るべきだった。お前が父さん達に心配をかけまいとして強がるような子だって、ちゃんと知ってたはずなのに、一人で頑張らせた。――ごめんな、ましろ」
父さんの苦しげな口調に、じわり、と涙が浮いてくる。
俯いて慌てて涙を拭うと、私の隣りに座っていた母さんがギュッと肩を抱き寄せてきた。
「本当は、転校させようか、って母さんと話してたんだ。ましろは頭もいいし、ピアノは青鸞でなくとも続けられる。山吹さんにそう伝えようとしたら、先に言われてしまったよ。どうか、お嬢さんの演奏を聴いてからにして下さいって」
トビーが?
思わぬ人の名前に、涙があっという間に引っ込んでいきましたよ。
そういえば理事長室でも私の味方ですって顔して、もっともらしい事言ってたっけ。
「紺ちゃんと一緒に弾いてるましろは、すごく輝いてた。前の日にそんな事件があったとは思えない程幸せそうで、クラシックに詳しくない父さんでも分かったよ。お前には才能がある。そして何より、ここにいたいって思ってるんだって」
「本当に綺麗な曲だったわ。母さん、泣いちゃったもの」
父さんと母さんからの賞賛に、胸が熱くなる。
誰かに褒められるためにピアノを弾いてるわけじゃないけど、どうしよう。すごく、嬉しいよ。
「だから、約束だ。何かあったら、すぐに父さん達に相談すること」
「うん、約束する」
「それと――」
父さんは母さんと目配せし合い、口籠った後、ゴホンと一つ咳払いした。
「成田くんとのお付き合いは、節度を持って、その……高校生らしい範囲内でよろしくお願いします」
なぜに敬語!?
そして、何を想像しちゃってんのおおお!?
「あ、あ、当たり前だよっ」
私が真っ赤になってテーブルの端を両手で叩くと、母さんがほくそ笑みながら口を挟んできた。
「紅くんのことは小さい頃から知ってるし、良い子だって思うのよ? でもほら、何というか、あの子って大人っぽいし、ましろ激ラブって感じだから。ね? あなた」
「う、うん。でもまあ、ましろを一番好きなのは、父さんだけどな!」
しかも紅と張り合い始めちゃったし。
親と恋バナとか、何の拷問ですか。勘弁して下さい。
すっかり脱力してしまった私は、和風トンカツ定食を食べきることが出来ず、明らかにホッとした様子の父さんに手伝ってもらいました。
そのまま寮まで送ってもらう。
外門のところでいいよ、って言ったのに、玄関まで母さんはついてきてくれた。路駐するわけにはいかないから、父さんは車で待機中。
「じゃあ、次に会えるのは夏休み?」
「うん。7月の20日からお盆明けまでお休みだから、その時に一回家に帰るよ」
「お姉ちゃんも心配してるから、また時間がある時に電話してあげてね」
「はーい。今日は、本当にありがとう!」
何とか最悪の事態は免れたようです。
宮路さん達も退学にならないで済みそうだし、私もこのまま青鸞で勉強できる。うん、良かった。
二度とこんなことが起きないように、私もしっかりしなくちゃね。
『知っておきたい危機管理――理不尽な妬みを避ける20の心得』とかね。どこかに売ってないかな。貪るように読むのに。
私は安堵しながら母さんに手を振り、部屋へ戻った。
まずお風呂に入って、先にピアノを練習しちゃおうっと。その後、明日の授業の予習して時間割の再確認して、と。やることはいっぱいある。
だけど、その前に――。
病院で電源を切ったままだった携帯を取り出して、再び電源を入れる。
紺ちゃんや蒼、美登里ちゃん達からの「どうだった?」メールが沢山入ってた。そっちには後からまとめて返信することにして、紅の携帯を呼び出す。
ワンコールですぐに紅の声が聞こえてきた。
なんという反射神経! もしかして一日中握ってたのかな。
……あり得そうで恐い。
「ましろ? どうだった?」
「今ね、ご飯食べて、寮に帰ってきたところだよ。検査は全く異常なし、だって」
「そうか。良かった」
心底ホッとしたというような声に、私まで笑顔になってしまう。
「メール来ないし、今頃一人でぐるぐる考えてるんじゃないかなーって電話してみたの」
紅が笑う息遣いで耳がくすぐったい。
「あたり。気になってしょうがなくて、でもまだご両親と一緒なら、これ以上心証悪くしたくないなって、電話するの我慢してた」
「どうして? 紅は何も悪くないのに」
「俺がましろの親だったら、こんな事件に巻き込むような男との付き合い、絶対に認めたくないと思うから」
紅が将来パパになったら、娘は苦労しそうだな、こりゃ。
「父さんも母さんも、紅のこと怒ってなかったよ。高校生らしい節度を持ったお付き合いしなさいね、とは言われたけどね」
アハハ、と続けて笑ったのに、紅は何も言わない。
――え? なんで黙っちゃうの? ここ、一緒に笑うとこよ。
「どうしよう。自信ない」
「ええっ!?」
「冗談だよ。ましろが嫌がるような真似、俺がするはずないだろ」
付き合う前は散々されたような気がするのは、私の思い過ごしでしょうか。
「お手柔らかにお願いします」
「それはこっちの台詞。手を出されたくなかったら、あんまり可愛いこと言って俺を煽るのは止めてね」
茶目っ気たっぷりの紅の囁き声に、頬が真っ赤になってしまいました。
電話で良かった。顔、見られなくて済むもん。
新歓以来、陰口や嫌がらせはピタリと止んだ。
上級生の間には何故か、私と紺ちゃんを応援する会が出来たそうです。
うわあ。紺ちゃんは分かるけど、私まで!?
これって、普通に喜んでいいのかな。
紅はそれを聞いて、顔を顰めた。蒼も「なんなの、今更」と不機嫌そう。
今更も何も、この学院に入って私、まだ2か月だからね?
沢倉さん以外の子達は、三カ月の停学処分になった。
沢倉さんは、転校することになったらしい。
紅に直接引導を渡されたから、流石に学院に残るのは辛かったんだろう。
あんな形で恋心にピリオドを打たなきゃいけなかった彼女を可哀想だと思ってしまうのは、傲慢なのかもしれない。だけど、一日でも早く傷が癒えますように、と祈らずにはいられない。
せっかくあんな美少女に生まれたんだもん。
たった一回の失恋が何よ、っていつか笑い飛ばして欲しいな。
授業も実習も、相変わらず進行がスピーディ、かつハードだ。
毎日ベッドにもぐりこむ頃にはくたくたで、泥のように眠り込んでしまう。
今、氷見先生にみてもらってるムソルグスキーの『展覧会の絵』なんて、ダメ出しの嵐ですよ。
ムソルグスキーは、反西欧で民族主義的な音楽の創造を目指した5人組の1人なんだけど、その「民族主義」っていうのが今一つ理解できないんだよね~。同じロシアの作曲家ならチャイコフスキーの方が断然好み。
考えるな、感じろ! って言って欲しいのに、その逆で「感じるな、考えろ!」って言われてる気がする。氷見先生にはラヴェル編曲とのオーケストラ版との違いについての考察をレポートに纏めてこい、って宿題まで出されてる。うう、鬼ですよ。
一方、美登里ちゃんは一般科目の数学に苦戦させられてるみたい。
問題を解いてて苛々するのか、しょっちゅう蒼に八つ当たりして逆に怒られてます。
「もう、イヤ。因数分解なんて、一体なんの役に立つの? わけわかんないっ」
「だからって、俺の背中に公式のメモ貼るの止めてくれる」
「メモを貼って覚えるといいって、マシロが教えてくれたんだもの」
「机に貼れ!」
本当に仲良しさんだ。
微笑ましく見守っていると、2人揃って嫌そうな顔で睨まれるんだけどね。
紅と紺ちゃんはそつなく全科目をこなしている感じ。
栞ちゃんと上代くんは、理数系や聴音が得意で、暗記科目が苦手みたい。特に音楽史や社会の年代覚えには、悲鳴を上げている。
青鸞の前期試験は、7月に入ってすぐに始まる。
まずは学科の筆記テスト。それから実技試験の順。
前期の実技試験は先に課題曲が発表されて、専攻ごとに同じ曲を弾いていく。毎年バッハの平均律とショパンのエチュードらしいから、そっちはあんまり心配していない。
中学の時に、どっちも散々やったからね。軽くさらっておけばいいかな。
6月に入って、雨の日が多くなってきた。
制服も夏服に衣替えしましたよ。
半袖のブラウスにリボン、切り替えありのプリーツスカート。体型が丸わかりになると云う女子に優しくない制服なんだよね。デザインは可愛いんだけど!
栞ちゃんは背が高く、しかも胸が結構あるから、大人っぽく着こなせている。
「ブラウスの胸のとこだけ苦しいねんけど、サイズ上げた方がええやろか。なんや気になって、腕とか思いっきり動かされへんねん」
「はあ~。一度は言ってみたいわね、そんな台詞」
露草館でランチ中、栞ちゃんはそんな贅沢な悩みを口にし、大きなため息をついた。
すかさず美登里ちゃんが、愛らしい唇を尖らせて羨ましがる。
どっちもどっちだよね?
同意を求めようと紺ちゃんを見て、ハッと我に返りました。
あっぶな。紺ちゃんも完全にあっち側の人間じゃん。
「おまえなあ。ちょっとは周りに配慮せえよ。男もおるんやぞ」
口にしてたパスタを喉に詰まらせそうになった上代くんが、ケホケホ咽た後、涙目で抗議する。
「男? ああ、成田くんと城山くんか。ごめんな。つい、失念してもうて」
「おいこら。そこでなんで俺を外すんや。おかしいやろ!」
いつもの漫才が始まって、私達はクスクス笑ってしまう。
そこに蒼が、「いいよ、俺も数に入れなくて」なんて言うもんだから、ますますカオス状態に。
「城山くん、それどういう意味なん? 時々、俺は君って子が分からへんくなるわ」
蒼のボケにも毎回きちんと突っ込む上代くんは、本当に偉い。
「男扱いされても面倒なだけだし」
「そういう意味ね……って! 腹立つ! なんや、腹立つわ~」
紅もだけど、紺ちゃんまで肩を震わせて笑っている。
蒼と紅と紺ちゃんが楽しそうにしていると、それだけで本当に満たされた気持ちになる。
どうかこのまま楽しい時間が続きますように、と祈らずにはいられない。
「そういえば、試験終わったらすぐ夏休みでしょう? みんな何か計画立ててるの?」
美登里ちゃんが首を傾げ、全員を見渡す。
「うーん。うちらは前半、実家に帰ろかなあ言うててんけど」
「そやな。8月に入ったらこっちに帰ってきとかなアカンよな」
2人の返事に、紅が首を傾げる。
「そうなの? 学校は18日からだったよね。帰って来るの、早くない?」
不思議そう紅の表情に、私ははた、と気がついた。
「そっか。紅は内部生だから知らないんだ」
実は青鸞には『体育祭』や『文化祭』というポピュラーな行事はないんですよ。
代わりに招待コンサートとか、声楽科と弦・管合同のオペラとかはある。例のクリスマスコンサートもあるし。
普通科を併設している音楽学校じゃないから、っていうのが理由みたい。模擬店やアトラクション作りで、手を怪我したら大変って云うのもあるんだろうなあ。
内部生は、それでいい。だってずっとお祭り行事には無縁できてるんだもん。そんなものか、で済んでいくだろう。
収まりがつかないのが、外部生だ。
「もっと青春したい!」という一般入試組の意向を受け、夏休み明けに『春冬祭』という季節名ガン無視のお祭りイベントが寮で行われるようになったのは、もう30年も昔のことらしい。
OBも沢山集まって、毎年かなり充実したお祭りになるんだって。
「んなもん、寮祭があるからに決まってるやん」
「そうそう。めっちゃ楽しみやんな!」
上代くんと栞ちゃんが、顔を見合わせ、なー、と声を揃える。
それに美登里ちゃんが食いついたのは、言うまでもない。
「なに、その面白そうなイベント! 私も行きたいわ」
「真白も何かするなら、俺も行きたい」
蒼まで、そんなことを言い出す。
「えっと。残念ながら、寮生だけのお祭りでして……」
申し訳ない気持ちで口にしかけて、ふと隣を見る。
「俺も行きたい」「私も」
なんでそんなにワクワクした顔してんの?
――面倒な予感しかしませんが!




