10.不協和音と鳶
亜由美先生のレッスン日は、今は土曜日に変更してもらっている。
平日通うのは、ちょっと厳しくなっちゃったっていうのもあるんだけど、亜由美先生が私と紺ちゃんを最後に新しい生徒さんをとっていないので、ソルフェージュのクラスがなくなったのだ。
そんなわけで、午前中に私と紺ちゃん。お昼を挟んで午後からは紅たち3人のレッスンを受け持っている先生。一日に5人もみるのって大変じゃないのかな、と思ったけど、世のピアノ教室の先生たちは普通にこなしているらしい。すごい!
紅も蒼も美登里ちゃんも、亜由美先生のスパルタに悲鳴あげてるだろうなあ。仲間増えた! と思ってたのに、話を聞いてみたら全然そんなことないんだって。
「亜由美の教え方は分かりやすいし、優しいよな」
「ええ。褒めて伸ばしてもらえる感じ?」
「俺も、きついこと言われたことない」
口々にそんなことを言う3人に、唖然としてしまいましたよ。そ、それは本当にマツシマ アユミのことを言ってますか?
私があんまり驚いているもんだから、とうとう紺ちゃんは笑い出してしまった。
「亜由美先生は、本気で育てたい生徒と、ある程度弾けるようになればいい生徒を区別してるのよ」
そう紺ちゃんは優しく慰めてくれたけど、ラフマニノフに大苦戦中の私は力なく笑うのが精一杯。
ふう……きっと今日のレッスンもダメ出しの嵐だろうなあ。
「もっと全身の力を使って」「響きが軽すぎる」「和音が汚い」などなど、自分ではまあまあ上手く弾けたかな、と思う部分まで怒られることなんてしょっちゅうだ。
でもね。先生に注意してもらった部分をクリアできると、格段に曲の完成度が上がるって私は知ってしまってる。だから、とことん食らいついていくしかない。
もうこれ以上は無理、と満足しそうになるその先を示してくれる、大好きな先生なんです。
亜由美先生のところまでは、寮から電車を乗り継いで通うつもりだった。
それを聞いた紺ちゃんが、「何の為に同じ日にレッスンを入れてると思ってるの?」と半分お怒り気味に誘ってくれたので、結局能條さんのお世話になってます。
新入生歓迎演奏会は、GWが開けてすぐの金曜日に行われる予定。
氷見先生はその演奏会に出演する上級生の受け持ちで忙しそうだったので、私たちは亜由美先生を頼ることにした。
レッスンが終わった後「少しご相談が」と切り出すと、先生は快く頷いてくれた。
「弾いてみたい曲はないの?」
まず最初に、私たちの希望を尋ねてくれる。
「モーツァルトの4手の為のソナタくらいしか、思い浮かばないです」
「そうだね。あとはメンデルスゾーンの華麗なるアレグロとか」
紺ちゃんと顔を見合わせ、お互いに有名どころを挙げてみた。
「それもいいけど……」
亜由美先生は顎に手を当て、思案気に言葉を切る。
「私は、シューベルトの4手の為の幻想曲も好きなのよね。最近2人とも音に深みが出てきたから、ロマンティックに歌う感じの曲も似合うかも」
シューベルトの連弾曲か。名前しか聞いたことないや。
正直に打ち明けると、亜由美先生は「プリモの方だけど」と断って、触りの部分を弾いてくれた。
歌曲の王と呼ばれるシューベルトらしく、メロディアスな主題が美しい。亜由美先生の白い指が優雅に鍵盤を舞うたびに、私の心に切なげな旋律を刻んでいく。
弾いてみたいな。
ううん、ピアノに歌わせてみたい!
一目惚れならぬ一聞き惚れしてしまった私のうっとりとした表情を見て、紺ちゃんも頷いてくれた。
「素敵な曲だと思います」
「私も、弾いてみたいです」
自分で推薦したというのに、亜由美先生は苦笑を浮かべて私達を見上げた。
「いい曲でしょ。でも、新歓向けの華やかさや明るさには欠けるわよね」
そんなあ。
すっかりその曲に心を奪われた今となっては、違う曲を、と言われても気乗りがしない。
へにゃり、と眉を下げた私の顔を見て、亜由美先生はぷっと吹きだした。
「そんな顔しないの。じゃあ、この曲にしましょうか。2人の表現力や抒情性の高さをアピールするのには丁度いいかもしれないわ」
早速楽譜を取り寄せてくれる、という亜由美先生に丁寧にお礼を述べて、レッスン室を後にする。
決まって良かった。紺ちゃんと音を合わせるのも久しぶりだし、楽しみだな。
「今から能條に連絡するから、迎えが来るまでサロンで待ってようか」
「うん」
紺ちゃんと並んでサロンに向かおうと足を踏み出したところで、言い争うような人の声が聞こえた気がした。あれ? 誰か来てる。
思わず足を留め、耳をそばだてる。紺ちゃんも同じタイミングで気づいたようで、怪訝な顔で首を傾げた。
「――紅だわ」
紺ちゃんの呟きに驚いて、レッスンバッグから携帯を取り出し時間を確認する。
まだお昼を回ったばかり。来るの早過ぎじゃない?
紺ちゃんは真剣な顔で私の手を取り、しっと指を口元にあててサロンの扉の近くまでゆっくりと歩みを進めた。
ええええ。まさかの盗み聞きですか!?
毛足の長い上等のカーペットが、私たちの足音を消してしまう。
「本気で言ってんの、それ。お前は、ましろを疑うってわけ?」
ぴったりと閉められた扉越しに聞こえてくる声。
紅が蒼と話してるのか。
聞き捨てならない台詞に、心臓が大きく跳ねる。
私を、疑う?
「違う。だけど……卑怯な手を使った自覚はある」
「へえ、どんな。ましろを脅迫でもした? 俺と付き合わないと酷い目に合わせるって?」
「――――」
「たとえ脅されたとしても、あいつは自分の意志に染まないことに首を縦に振ったりしない。そういう奴だって、俺達は知ってるはずだろ。今更、何言ってんだよ!」
「……蒼だって、今でも好きなんだろ。綺麗ごと並べてないで、俺から取り戻そうとは思わないのか?」
あまりに苦しげな紅の声に、呼吸が早まる。
蒼の返事も恐くて、耳を塞ぎたくなった。
私は勝手に蒼の気持ちを見積もっていた。
今の彼が私に抱いてるのは、優しい親愛だけだって。
だけど、もし違ったら? すぐ傍で、我慢させていたのだとしたら?
「取り戻すって言い方自体、おかしいって気づいたら。それに、何年俺とつるんでんの、お前。……全然分かってない。ましろはちゃんと分かってくれてるよ。俺がもう、昔みたいな気持ちは持ってないって」
「――――」
「ただ、幸せになって欲しいだけだよ。辛い目にあって欲しくない。お前が妹に願うことと同じことを、俺はましろに願ってる」
「うそだ」
「……じゃあ勝手にそう思ってろ」
これ以上、聞いていられない。
私は扉のドアノブに手をかけ、思いっきり強く押し開けた。
急に私が紺ちゃんと一緒に部屋へ入ってきたので、2人は驚いたように身じろぎし、それからピタリと口を噤んでしまった。
蒼は気遣わしげな表情で私を見つめてきたけど、紅は決してこちらを見ようとしない。
「来るの、早いね。亜由美先生はこれからお昼ご飯だよ。レッスン前に何かあるの?」
腰に手を当て、わざと聞いてみる。
蒼は私の尖った口調に、はあ、と溜息をついた。
「立ち聞きは趣味悪いぞ、ましろ」
「だって!」
「ちょっと話がしたくて、俺が蒼を呼んだんだ。――部屋が空いてるのなら、先にピアノを触ってていいか亜由美に聞いてくる」
紅は私と一度も目を合わさないまま、隣をすり抜けていってしまう。
本当は手を掴んで、引き留めたかった。
私の気持ちを疑ってるの? そんなに不安にさせちゃうことを私がしてたの? って問い詰めたかった。
だけど今の紅に冷たく振り払われたら、きっとすごくショックだ。
結局、その場に立ち竦んだまま、後ろで扉の閉じる音を聞くことになった。
バタン、という容赦ない音が、私と紅を隔てていく。
好きって気持ちを確かめあったら、それでハッピーエンドじゃないんだな。
――あなたは知ってたはずじゃない。
里香の声が聞こえる。
残された蒼は、黙り込んだ私の気を引き立てるように明るい声を上げた。
「ああみえて紅は嫉妬深いって、前にも言ったけどさ。そのくらい、ましろに参ってるってことだから、今はそっとしといてやって」
「真白ちゃん……」
喉のすぐ奥までこみ上げた熱い塊。
だけど、紺ちゃんの声でハッと我に返る。
花ちゃんの前では泣けない。蒼の前でも。
――――この人たちの前で泣くのは、卑怯だ。
「ありがとね、蒼。紅の我儘に付き合ってくれて」
「いいよ。俺は慣れてる」
ホッとしたように笑う蒼と紺ちゃん。
これでいい、と思った。
学校での嫌がらせは、手を変え品を変え続いている。
やられている当事者よりも紅の方が、日に日に苛立っていくのが分かる。そんなにピリピリしないでも、私は大丈夫なのに。
こんなことで紅を嫌いになるようなら、最初から付き合ってないよ。
もっと嫌われる要因、あなた自身にあったでしょ、って笑ってやりたい。
だけど亜由美先生の家で会ったあの日から、紅とはぎくしゃくしたままの関係が続いちゃってます。うーん。何とかしたいんだけどね。
なんせ恋愛経験が少ないもので、有効な一手を思いつけない。
どうすればいいのかなあ。
そんなある日の放課後、私は理事長室に呼び出された。
「失礼します」
軽くノックして、立派な扉を押し開ける。
革張りの大きなソファーに、まるで王様のように足を組み、トビーは私を待ち構えていた。にこやかに浮かべられた微笑み。だけど、エメラルドみたいな瞳は全く笑っていない。
第一種戦闘態勢発令!
脳内ソルジャーの号令に合せて、気を引き締める。もう二度と、あの日のような無様は晒さないんだから。
「お呼びと伺いました」
「ふふ。ひどく他人行儀だなあ、マシロ。さあ、座って」
勧められるまま、指し示された彼の向かいに腰を下ろした。
応接テーブルの上には、すでにティーセット一式が並んでいる。
「フレーバーティーは嫌いかな? 僕の好きな専門店に新入荷したブルーベリーの紅茶なんだけど、すごくいい香りでね。後味もすっきりしてるんだ」
どこか得意げに説明しながら、理事長手ずからカップに注いでくれましたよ。見惚れるほどに美しい動きで、あっという間にカップを紅茶で満たす。
「はい、どうぞ。大丈夫、変なものは入ってないよ」
軽いウィンクを飛ばされたので、私も負けずにニッコリ微笑んだ。
「まさかお茶をご馳走になるとは思っていませんでした。銀のスプーンを持参すれば良かったでしょうか」
「言うね。じゃあ、僕のと交換するかい?」
「いいえ。こちらをご馳走になります」
お互い、ただの言葉遊びだ。
心を許してはいませんよ、という共通認識の再確認。
「マシロ相手に腹の探り合いは出来ないって僕も学習してるからね。単刀直入に聞くけど、嫌がらせをされてるんだって?」
やっぱりその話なんだ。
私は、爽やかな香りを楽しみ一口味わってから、カップをソーサーにゆっくり戻した。
「証拠はつかめていませんが、誰に恨みを買っているかは把握してます。ご心配をおかけしてすみません」
あらかじめ用意しておいた台詞を口にすると、トビーはおもむろに足を組み替え、表情を素に戻した。真顔になると、ビスクドールのような完璧な造作が余計に際立つ。
「誤解されてるみたいだけど、僕は音楽を愛してる」
マジっすか!?
流石に予想外だった。
トビーにとって、音楽は手段の一つにすぎないと思ってたわ~。
唖然とした私の顔がよっぽど間抜けだったのか、トビーはクスクスと笑いだす。
「本当だよ。だから、この学院を守る為に資金集めもするし、才能のある演奏者を羽ばたかせる為に汚い根回しだってやる。そして今のキミは、この僕が庇護すべきピアニストの卵だ」
美しい手を組み合わせ、トビーは背もたれに体を倒した。
どうしてだろう。彼は本当のことを言っている、と私は感じた。
何故そう確信できるのかが不思議で、胡散臭さが半端ない目の前の男を凝視する。
「だから、キミの指が誰かに万が一にも傷つけられたら、困るんだよ」
分かった。
怒り、だ。
自分の本音をなかなか見せようとしないトビーが抱いている紛れもない怒りが、透けてみえるせいだ。
更に混乱してしまう。
どうして、そして何に、そんなに怒っているんだろう。
「新歓で証明してみせて。キミが僕の労力に値するかどうかを。健闘を祈ってるよ」
「分かりました。紅茶、ご馳走様でした」
最後まで飲み切って、ぺこり、と頭を下げる。
そして立ち上がろうとした瞬間、なんとトビーは手を伸ばして私の前髪に触れたんです!
その手つきのあまりの優しさに、本日二度目の仰天を味わう羽目になった私。ぎええええ、という悲鳴をすんでのところで噛み殺す。
「髪、伸ばしてるの?」
「い、いや、どうなんでしょうね」
動揺のし過ぎで、なんともしょっぱい返事が口から飛び出る。
彼は淡々と「きっと短いのも似合うよ」とだけ言った。
そしてトビーは、私ではない誰かを透かして見つめるように、瞳をわずかに細めた。




