8.紺
関西ペアを含んだお茶会は、終始和やかに進んでいった。
初対面の人が同席しているというのに、蒼も珍しくリラックスしている。
「仏頂面じゃないの、珍しいわね」と美登里ちゃんが笑うと、「真白が連れてきたんだから、悪いヤツらじゃないだろ」なんて答え、紅はチラリと蒼を見てあからさまな溜息をついた。
また、これだ。と言わんばかりの呆れた溜息。
私と蒼の関係が不思議だったんだろう、上代くんが小首を傾げ、「もしかして、城山くんって島尾さんの血縁なん?」と尋ねると、蒼は「違うけど……そうならいいのにって思ってる」と真面目な顔で答えた。
本当だね、蒼。
私達、紅と紺ちゃんみたいな関係だったら良かったよね。そしたら、小さなあなたを一人にせずに済んだもの。夕暮れの歩道橋で泣かせたりしないように、全力で守ったよ。
そんな詮無いことを夢想しながら、蒼と視線を交わす。
私の考えてることが伝わったのか、だよな? というように蒼は一つ瞬きをした。
彼の私への眼差しには、以前のような熱はない。
ただ穏やかな信頼と親愛が揺蕩っているだけ。
だから、安心して油断してしまったんだろう。
紅が目配せしあう私達を見比べ、切なげに瞳を伏せたことには気づかなかった。
効率のいい単位の取り方とか、練習室の予約の裏ワザとか、どの先生が教え方が上手いか、とかそういう有益な情報を、紅と紺ちゃんにレクチャーしてもらいつつ、これまでの自分達の経歴なんかも披露しあう。
上代くんは、お母さんがピアノ教室を開いてるんだって。
小さい頃は、栞ちゃんもそこに通っていたのだとか。
「ピアノではシンに勝たれへん」と悟った栞ちゃんは、途中からトランペットに転向。中学は吹奏楽の名門に進み、全国大会では3年連続金賞を取ったのだそうだ。すごい!
そんな二人は、ドイツにいた蒼やイギリスにいた美登里ちゃんの話に感心していたみたいだけど、私の経歴に実は一番食いついた。
「8歳から!? 遅っ!」
「ほんでいきなり、あの松島亜由美にみてもらえることになったって、めちゃくちゃ強運やん」
まあ、その裏事情には紺ちゃんの口添えがあって、そのまた裏には私達が転生者だという事情が絡むわけだけど、とてもじゃないけど説明できない。
「そうなの。ラッキー体質みたい」
あはは、と誤魔化すように笑うと、紅と蒼が揃って口を開いた。
「こいつは馬鹿がつくほど、ピアノに真剣だよ」
「ましろは努力家だから。運だけでここまで来られるわけない」
本当のこと言っちゃうと、じわ、と涙が出そうになりました。はい。
上代くんと栞ちゃんも、その言葉に表情を引き締めた。一瞬でライバルの顔になる。
互いに競い合い、高め合う。
そうやって私たちは、これから成長していくんだ、と改めて強く思った。
そして始まった高校生活。
実力テストは難なくクリアすることが出来た。中学3年間の復習みたいなものだったし、今はまだ私の敵ではない。
上位20位までが掲示板に張り出されるんだけど、無事トップを頂くことが出来ました。ええ、500点満点で。
なんで20位までかというと、Aクラスの定員が20名なの。怖いよね。ぶるぶるきちゃうよね。名前が入ってないAクラスの子に嫌でも頑張らなきゃ! と意識させるシステムですよ。
「さすが、ましろだな」
掲示板の前で、ご機嫌な蒼に声をかけられる。
自分のことのように得意げな笑みにつられて、私も笑ってしまった。こういう部分も、本当に変わってない。懐かしいな。
「うん、奨学生だし頑張らないとね」
「それにしても、ノーミスはすごいわよ。マシロの完璧主義はピアノに限ったことじゃなかったのね~」
感心したように頷いてる美登里ちゃんも、10位以内に入ってる。ちなみに2位は紅と紺ちゃんの同率。蒼は4位でした。栞ちゃんと上代くんの名前もあったので、ホッとした。
「ほら、あの子よ」「ずっと一位は紅様か玄田さんだったのに」「ポッと出の一般生の癖に生意気」
嫉妬のこもった視線と悪意たっぷりの陰口があちこちから浴びせられるけど、そんなことじゃへこまないもんね。
悔しかったら、ここまで来い。この島尾 真白、逃げも隠れもせぬわ! ふははははは。
玲ちゃんに貸してもらった時代小説の中の悪役みたいな心持ちで辺りを睥睨する。
まさか睨み返されるとは思わなかったんだろう、育ちのいいお嬢様方はギクリ、としたように花のかんばせを引き攣らせ、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
ちっ。手ごたえのない。
「こーら。すぐに喧嘩買わないの」
隣に立っていた紅が苦笑しながら、私の頭にぽんと手を置く。
「だって、聞えよがしに言うんだもん」
「外野には言わせとけばいい。お前がわざわざ相手をする価値もないよ」
初日から、紅はずっと私の傍にいる。
解散を余儀なくされたファンクラブが、何か仕掛けてくるんじゃないかと警戒してるみたい。
だけど私は、彼女たちが何かしてくるなら、通常授業が始まってからだと確信していた。
ほら、紅とは専攻が違うから別行動も多くなるし。
紺ちゃんも同じ考えみたいで、「出来るだけ同じ授業を取ろうね」と言ってくれた。
彼女が玄田家の一人娘で紅の双子の妹という事実は、すっかり広まって定着してるんだって。紺ちゃんを心配する私に「私は大丈夫だから」と微笑む。
最近、紺ちゃんはどこか元気がないように見える。こんなに一緒にいるのも初めてだから、余計に気になるのかな。
今までも学校ではこんな感じだったのかもしれない、と思って紅に尋ねると、彼も眉を顰めた。
「同じ家に住んでないから気づかないことも多いだろうが、俺も少し前からおかしい気がしてた」
「だよね? うう~、気になる。聞いても、何でもない、の一点張りだし」
「嫌がらせを受けているわけでもないし、体調を崩してる風もないから、大丈夫と言われてしまえばそれ以上は踏み込めないしな」
「そう、それ! ……頼って欲しいな。紺ちゃんの為なら、何でも出来るのに」
ただ見守ることしか出来ない己の不甲斐なさに唇を噛みしめると、紅は手を伸ばして私の唇に親指を当てた。スッとそのまま輪郭をなぞるように指を滑らせる。それは、私を丸ごと心から愛おしむような優しい仕草だった。
な、な、なにごと!?
「紺を心配してくれるのは嬉しいけど、噛むな。傷がつく」
「は、はい。すみません」
動揺のあまり敬語になってしまったじゃないですか!
だって、紅の固い指が唇に――。
うわあああ、恥ずかしいっ。
真っ赤になった私の顔を見て、紅も照れくさそうに口元を片手で覆ってそっぽを向いた。
「そこまで過剰に反応されると困る」
続けてボソッと零した「くそ。なんでこんなに可愛いんだよ」という小声まで、ばっちり拾いましたよ。
聴音で鍛えられた私の耳の性能、プライスレス。
その日は寮に帰ってナハトで練習してる時も、ふと紅の声を脳が勝手にリピートしちゃって「いやああ!」と奇声を上げる羽目になった。防音仕様よ、ありがとう。
オリエンテーションも順調に進み、実習も松浦先生のお勧め通り、氷見 隆先生に師事出来ることになった。
一昨年ヨーロッパから戻ってきたばかりの45歳。コンヴァトでの松浦先生の兄弟子にあたるそうだ。指導能力は折り紙つきで、彼の受け持った生徒はコンクール常勝、という噂もある。
案の定すごい人気だったみたいだけど、蓋を開けてみれば彼の受け持ちは一年では私と紺ちゃんと上代くんだけだった。
お蔭で私には「理事長のコネ入学だから贔屓されてる」という不名誉な陰口が加わりました。
これにはちょっと傷ついた。まるっきり嘘ってわけでもないからだ。
ええ、ボクメロ進行に贔屓されておりますよ。だって主人公だもん。……ふう。
青鸞学院は二期制なので、前期試験と後期試験がある。
ピアノ科の前期試験は、ショパンの練習曲とバッハの平均律から課題曲が出される。後期試験は自由曲なんだけど、どちらも桔梗館での公開試験だ。そこで一年から三年までのそれぞれの実力が明らかになる、ってわけ。指導は個別だから、試験以外でライバルの演奏を聴くチャンスは殆どない。
加えて、Aクラスの生徒は海外から招聘した有名演奏家による特別レッスンも受けられる。サディア・フランチェスカも来るらしいんですよ! あと、ノボル・ミサカ。そうノボル先生も特別レッスンの為にやってくるそうだ。
あの自由奔放な指導法に、みんな度胆を抜かれるだろうなあ。想像するとちょっと気分が明るくなった。
高校での一番最初の行事は、GW明けに行われる新入生歓迎コンサート。
そこで、管絃の先輩方によるオーケストラ演奏とアンサンブル、ピアノ連弾などが披露されるという。今から、かなり楽しみにしてるんです。富永さんも出るだろうし、どんな演奏を聞かせてくれるのかワクワクしてしまう。
実はそこで、私と紺ちゃんも演奏することになっている。
持ち上がり組代表の紺ちゃん、そして外部入学組代表の私が連弾でお礼演奏をするんだって。
学校生活にだいぶ慣れてきたある日の昼休み。
クラス担の後藤先生に職員室に呼び出され、何事かと不安でびくついてしまった私は、その話に安堵の息を漏らしてしまった。良かったあ。授業態度とか、提出物とかの注意じゃなくって。
「選曲は任せるわ。2人とも実習は同じ先生だったわよね。氷見先生に相談してもいいし、学外でレッスンを受けているのなら、そちらの先生に相談してもいいわよ」
「分かりました。決まり次第、報告します」
「よろしくね。――ああ、そうそう、島尾さん」
こういった依頼に慣れているのか、卒なく対応した紺ちゃんに感心しつつ、一緒に辞そうとした所で、後藤先生に呼び止められた。
「はい」
「理事長が褒めてらしたわよ。一般科目だけでなく、ソルフェージュでもアナリーゼ(楽曲分析)のクラスでも優秀だって聞いてるって。この調子で学コンも頑張ってね」
すぐ隣で、紺ちゃんが小さく息を飲む。
学コン、というのは10月に行われる学内コンクールの略称。
三年のうち一度は出場しなくてはいけない決まりなんだけど、今年、私は出るつもりはなかった。
紺ちゃんのイベントがあるからだ。
『どうしてもその学コンで一位を取らなくてはいけない』と折に触れ彼女が言っていたのを、ちゃんと覚えている。
本音を云っちゃえば、理事長フラグは全てバッキバキに折りたいところなんだけどね。
サディア・フランチェスカコンクールの時、紺ちゃんは私を立てて出場を辞退してくれた。今度は私の番かな~、なんて呑気に構えていたのだ。
「今年は出ないつもりです。三年目に出ようかなって」
「あら、そうなの? ふふ、真打ちは遅れて登場ってわけかしら」
「違いますよ~!」
後藤先生にからかわれ、慌てて両手を振る。
私の言葉に、紺ちゃんはあからさまにホッとしたようだった。
――そんなに大事なイベントなんだ。
職員室を出て、そのまま露草館へと向かう。
露草館っていうのは、購買や食堂、図書室が入っている別館のこと。ランチはそこの大食堂で取る生徒が多い。学生パスを見せると無料になるし、栄養のバランスも取れてて美味しいんだよ。
まあ一部のお嬢様方は、家から運ばせた豪華お弁当を広げてますけど。
「すぐに済んで良かったわね。遅れると、ましろちゃんに何かあったんじゃないかって紅がやきもきしちゃうから」
ほんわりと笑う紺ちゃんの表情は、久しぶりに晴れ晴れとしていた。
ずっと気にかかっていたことを、思い切って聞いてみることにする。
「ねえ。紺ちゃんが学コン一位を取れなかったら、どうなっちゃうの?」
――――『そこで優勝して、私は必ず目的を果たすつもり』
カナカナ、と鳴く蜩。怖いほど美しく染まった薄紅の絹織のような空。たよりない白いつま先にひっかかった下駄。
あの夏の日、紺ちゃんは確かにそう言った。
目的、ってなんなの?
紺ちゃんは、みるみるうちに表情をこわばらせた。
同時に彼女を取り巻く雰囲気が張りつめたものに変わっていく。
あっけに取られた私の瞳をひた、と見据え、紺ちゃんはお腹の底から湧くような強い声で告げた。
「誰にも言えない。ましろちゃんにさえ。でも、私は絶対に勝たなきゃならないの。――じゃなきゃ」
紺ちゃんは私の後ろに視線を移し、今にも泣きだしそうに口元を歪めた。
「何もかも、終わっちゃう」
ぶわっと瞬時に全身に鳥肌が立った。
4月の終わりとは思えないほどの冷気が私を包む。
思わず両手を体に巻きつけ、私は紺ちゃんを凝視した。
やっぱりおかしい。紺ちゃんは、ううん、 花ちゃんは何かを隠してる。考えろ。それは、何。私達姉妹だけがこのボクメロ世界に転生してきたことと、やっぱり関係があるんじゃないの? トビーはそれにどう絡んでる?
だめだ……情報が少なすぎる。
重ねて尋ねようとした私の表情を見て取ったんだろう、紺ちゃんはきっぱりと首を振った。
「私の為を思うなら、何も聞かないで。ましろちゃんは、どうかこのまま自分の道をまっすぐに進んでいって」
それはまるで、決別の言葉のようでした。




