3.卒業式
紅と一緒に蒼を迎えにいった次の日の夜。
私は覚悟を決めて紺ちゃんに電話をかけた。
『もしもし、ましろちゃん?』
優しい声が耳を打つ。
紺ちゃんは、きっと喜んで応援してくれると思う。
だけど、花ちゃんとしてはどうだろう。自分と恋人の仲をダメにした不肖の妹を許してくれる?
今更どうにも出来ないと分かっていても、消えてくれない罪悪感は私の心を苛んだ。
「こんばんは」
『ふふ。こんばんは』
どう切り出していいものか口籠っていると、紺ちゃんの方から話題を振ってくれた。
『蒼くん、帰ってきたんだってね。コウから聞いたよ』
「うん。……紺ちゃん、私ね、紅と付き合うことになった」
携帯電話を強く耳を押し当て、何一つ聞き漏らすまい、と息を詰める。
紺ちゃんは安堵に満ちた息を細長く漏らし、『そっか』と呟いた。
『ましろちゃん……今、幸せ?』
紺ちゃんがあまりにも真摯な口調で尋ねてきたから、少したじろいでしまう。
だけどここは私も真面目に答えなきゃいけない、と強く感じた。
「うん。すごく、幸せ」
紺ちゃんは、何度も『よかった』と繰り返した。
くぐもった彼女の涙声に、微かな違和感を感じる。
そんなに感激するような話だったかな。
紺ちゃんは紅とは双子だから、彼に対しても思い入れが強いのかもしれない。
ほんのちょっぴり、ジェラシーを覚えた。
――私の花ちゃんなのに。
紅に知られたら、「シスコンはどっちだよ!」って、履いてるスリッパかなんかで思いっきりスパーンと頭を叩かれそうだけどね。一足何千円もするようなヤツで。
亜由美先生から先週出された課題をクリアすべくピアノを練習し、来たるべき高校生活に向けて余念なく勉強に没頭する。毎日のルーティンワークを終わらせてから時計を見ると、もう日付が変わっていた。
ふう。達成感!
寝る前に念の為、携帯画面を確認してみる。
おおっと。紅からメールが入っているではないですか。
今回は一通だけでした。学習したのね。
『おやすみ』
たったそれだけのそっけないメール。
だけどきっと何度も打ち直したんだろうなって、分かってしまう。
口元が緩むのを自覚しながら、一文字ずつゆっくりと親指を動かした。
『おやすみ、紅』
甘酸っぱいなあ~、とどこか他人事のようにニヤニヤしながらベッドにもぐりこむ。すっかり古びてしまったテディベアを抱きかかえ、思いきり抱き締めた。
除菌スプレーの香り漂うべっちんの、つぶらな黒い瞳にずいぶん昔の記憶が刺激される。
前世の記憶を取り戻し、バカみたいに舞い上がって『恋とはどんなものなのか』を高らかに歌った日のこと。
――「いいか。蒼や紺に下手な真似したら、絶対に許さない。分かったな」
紅に憎々しげに吐き捨てられ、泣きながら眠りについた日のこと。
きっとこれからも泣いたり笑ったりで忙しい、それでも幸せな日々が続いていくんだろうな。
突如として桃色青春まっただ中に放り込まれた私は、自分の明るい未来を疑いもせず、満たされた気分で目を閉じた。
そして、ついにやってきた卒業式当日。
窓を開けて見上げれば、空は快晴。
空気はひんやりと澄んでいる。学校の桜の蕾は、一段と赤く色んだことだろう。
今日で多田中学校とも松田先生とも、大好きなみんなともお別れだ。
スーツを着た母さんと父さんに「あとでね」と手を振り、自転車を引っ張り出してくる。
「ましろ、おはっよ~」
ちょうどいいタイミングで、絵里ちゃんが家の前に到着した。
「おはよ」
こうして一緒に登校するのも最後なんだ、と考えただけで、早くも涙が出そうだった。
すっかり心が弱くなっちゃってる。
「ましろと学校行くのが今日でおしまいなんて、まだ実感出来ないなあ」
絵里ちゃんが本当にしみじみとそんなことを呟くもんだから、「お願いします、やめて下さい」と丁重に頼んだ。
キョトンとした顔がまた可愛くて、喉がグッと詰まった。だめだ、こりゃ。
式典の最後に三年生全員の合唱があるんだけど、そこで私は伴奏というお役目を仰せつかってる。
全校生徒アンド父兄の皆様方、並びに来賓・先生方の前で、みっともなく号泣しながらピアノを弾く、なんて羽目に陥りたくないんです。
教室に入った途端、下級生が飾ってくれたんだろう沢山の紙の花と、黒板の『卒業、おめでとうございます!』という文字が飛びこんできた。
なんですか、これ。
もはや学校全体が、卒業生を全力で泣かせにかかってるとしか思えない。
じわり、と涙腺が刺激され、慌てて違うことを考えようと頑張ってみる。
だけど、頭に浮かんでくるのは楽しかった思い出ばかり。
小学校の卒業式なんて「通過点、お疲れ~」くらいの勢いだったのに、どうしたことだろう。
うるうるするのを必死で我慢しているところに、先に登校してきていた咲和ちゃんがやって来て、いきなり飛びつかれた。
「卒業おめでとう、ましろ」
「卒業おめでとう、咲和ちゃん」
お互いに寿ぎ合って、ぎゅっとハグする。
「あ、俺も、俺も!」
そんな私達を目敏く見つけ、間に飛び込んでこようとした田崎くんは、他の男子に「気持ちは分かるが落ち着け」と羽交い絞めに止められていた。
そんな光景のいちいちにも、胸が震える。
田崎くんのいつもの悪ふざけにも泣きそうになるなんて、末期ですわ。
始まった卒業式でも、私の意識は「泣くもんか」というその一点に集中させられた。
いつもとは違うビシっとしたスーツ姿の松田先生が、右手にはハンカチを握っていたこととか。
校長先生の餞の挨拶の語尾が、震えていたこととか。
父兄席の父さんと母さんが、すでに大泣きしていたこととか。
あるゆる罠をかいくぐり、ようやく式典の締めくくりに辿りつく。
「島尾さん、そろそろ移動してくれる?」
担任の先生がこっそり近くにきて出番を教えてくれたので、列から外れ体育館の前方に設置されてるシロヤマのグランドピアノの元に歩いていった。
「それでは、最後に私達から皆さんへ歌のプレゼントです。聞いて下さい――旅立ちの日に」
答辞という大役を見事に果たした前生徒会長・木之瀬くんのアナウンスを合図に、鍵盤に両手を乗せる。
もらった楽譜はシンプルなものだったので、音楽の先生から許可を得てアレンジを加えさせてもらった。
冒頭の入りとサビの部分に、かなり盛り上げる方向で音を足し、「ほほう、これはなかなか」と悦に入っていた自分を、今はグーで殴りたい。
いつもだったら照れが勝っちゃって、真面目に歌わない一部の男子まで、しっかりと声を出している。女子の中には、すでにボロボロ泣いてる子もいた。
まず、歌詞がやばい。
そしてメロディも、自業自得だけど伴奏アレンジもやばい。
喉の奥から熱い塊がせり上がってきて、気づけばピアノを弾きながら泣いていた。大粒の涙で視界が曇っても、繰り返し練習を重ねた私の指が鍵盤を外すことはない。
思うように弾けなくて苦しんだ。
あまりにも楽しくて、このままずっとピアノの前に座っていたい、と願った。
そんな一日一日の積み重ねの果てに、私は憧れの青鸞学院に入学することが出来る。
そしてそれは、どんな時も溢れんばかりの愛で支えてくれた家族や先生や友人たちがいてくれたからこそ、だった。
いっつも飄々としてる真白が泣いたりするから! と後で散々文句を言われた。
最後まで泣かないよう我慢する予定だったらしい朋ちゃんと麻子ちゃんは、滂沱の涙を私のせいだと言い張ってる。
「ま……し……ろ、……の……せ、い……で」という彼女らの言葉は、まるでダイイングメッセージのようでした。怖い。
卒業式の後は、一端家に帰ってから、みんなで遊ぶ段取りになっている。カラオケに行くんだって。
木之瀬くんや間島くん、何故か田崎くん達まで来るらしい。他校の彼女はいいのか、と咲和ちゃんが問いただすと「そっちとは明日遊ぶから」としれっと答えた為、他の男子にボコボコにされていた。
最後まで残念な子……。
「ましろ、写真撮ろうか」
「わ~、ありがと!」
そんな私達を微笑ましく見守っていた父さんに声をかけられ、近くにいた絵里ちゃんとポーズを決めると、「私も!」「あ、俺も!」とどんどん人が集まってくる。
「おじさんのカメラ、本格的っスね~」
田崎くんが邪気のない笑顔でそんなことを云うもんだから、最初は彼の耳ピアスに眉をひそめていた父さんもつられて笑顔になっていた。
母さんも嬉しそうにニコニコ笑ってる。
教室や校門の前で散々写真を撮ってもらった後、とりあえず解散。父さんたちは車で来てたので、先に帰っていった。
「あとでね、ましろ!」
「うん、バイバーイ」
自転車にまたがったまま怜ちゃん達に手を振り、そのまま思いっきりペダルを踏む。隣りに並んだ絵里ちゃんが嬉しそうに声を上げた。
「よーし! 今日は歌うぞ~」
「絵里ちゃん、歌上手いもんね。そういえば私、カラオケって初めて行くわ」
前世では友達としょっちゅう行ってたけど、今の私になってからはピアノ一筋だったもんなあ。
「そうだっけ!? じゃあ、いっぱい歌ってよ。聞きたい!」
「ごめん、歌知らない」
「……ですよね」
そんな顔しないでよう。
だって、ホントに流行りの歌とか知らないんだもん。
「お姉ちゃんが帰ってきたら、夜は外に食べに行こうと思ってるから、あんまり遅くならないでね」
オフショルダーのカットソーにミニフレアのスカートを合わせ、くるぶし丈のショートブーツを履いて玄関を出ようとしたところで、母さんに声を掛けられた。
「うん、分かってる。夕食までにちょっとピアノも触りたいし、適当なところで切り上げてくるね」
「今日くらいお休みしたっていいのに」
母さんは呆れ顔で肩をすくめてる。
クラシックピアノに限らず、楽器を扱う演奏者は一日だって練習を休むことは出来ない。上達する為ではなく、下手にならない為に。
そしてそれはきっと、死ぬまで続く。そのことが、私には福音のように思える。すごく、すごく幸せなことだ。
カラオケの大部屋には、かなりの人数が集まっていた。
今日みたいな日によく空いてたな、と感心すると、木之瀬くんが「先に予約しといたんだよ」と片目をつぶった。
その気障な仕草にきゃあ! と女の子の間から黄色い声が上がる。
珍しくテンション高いみたいですけど、そういうことは朋ちゃんだけにやれ。
次々に予約が入っていって、みんなが順番に歌い始める。
手拍子したり、合いの手入れたり、すごく盛り上がってます。
自分で歌わなくても、結構楽しいもんだなあ。
木之瀬くんと田崎くんが2人でSAZEの曲を完璧に歌った時なんて、女子のテンションが凄まじいことになってましたよ。
こっそり練習してたんだろうか。ぷぷ。可愛いな!
「島尾は歌わねえの?」
いつの間にか隣にきていた同じクラスの佐藤くんに聞かれたので、首を振った。
確か、木之瀬くんと同じサッカー部だった子だよね。直接話したことは殆どないのに、やけにフレンドリーだ。
「いいじゃん、一緒に歌おうぜ」
「ごめん、最近の歌ってよく知らないから」
じゃあ、どんな曲なら知ってるの? と重ねて問われ、言葉に詰まりました。
歌番組は一度も見たことないし、もちろんCDだって聞いたことありません。生粋のクラシックバカでごめんなさいよ。
しょうがなく、ちょっと外の空気吸って来るね、と断り席を外すと、何故か彼も一緒についてきてしまった。
ええ~。トビー王子とのトラウマが蘇りそうになるから、止めてもらえませんか。
ロビーのソファーに腰を下ろすと、当然のように隣に座ってあれこれ話しかけてくるもんだから、すっかり困ってしまった。
これはアレですよね。好意があるから君のことを知りたいんだ系ですよね。違ったらむしろビックリだ。
「高校は青鸞なんだろ? すげえよな。あそこの制服可愛いから、めっちゃ似合いそう。そうだ。良ければ、連絡先交換しない?」
それなりにモテる子なんだろうなあ。
断られるなんてこれっぽっちも予想してない感じで、佐藤くんはスマホを取り出してくる。
ごめん、と言いかけたところで、低い声が頭上から降ってきた。
「しない」
――ど、ど、どうしてここに!?
驚き過ぎて声の出せない私の腕を取り、紅は強引に立たせた。そしてそのまま自分の方に引き寄せる。
「悪いけど、この子は俺のだから」
突然現れた他校の男子に、佐藤くんも唖然としてるじゃないですか!
それに、そんな台詞は二次元の貴公子にしか許されていませんわよ!
……紅ならアリか。くそっ。
「そ、そっか。ごめんな」
そそくさと逃げるように部屋へと戻っていく佐藤くん。
彼の背中が見えなくなったところで、ようやく私も自分の置かれている状況が掴めた。
「ストーカーなの? なんなの!?」
「第一声がそれ?」
だって、本当に度胆を抜かれたんだもん。
でも、ストーカーは言い過ぎか。
仮にも、か、彼氏に向かって。やだもう照れる!
「携帯」
紅は制服のジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、軽く振ってみせた。
「繋がらないから、家に電話したらここにいるって。結構いい時間だよ。帰らなくてもいいの?」
半ば呆れたようなひんやりした視線に慌ててバッグを探る。
あ……携帯、電池切れてます。
「あのー。今、何時でしょうか」
「16時」
「うわ、もうそんな時間!?」
ピアノを練習する時間が減っちゃう。
スカート丈が短い、襟元開きすぎ、などと私服に駄目出ししてくる紅を適当にいなしながら、急いで部屋の前まで戻った。
細長いガラス越しに目があった間島くんを、手招きする。大音量のラブソングが一瞬漏れ出て、すぐに消えた。
「あれ、もう帰るの?」
「ごめん、時間確認するのうっかり忘れてて。これで足りなかったら、また後で請求して下さい」
「了解」
お財布の中から適当にお札を渡して両手で拝むと、間島くんは快く頷いてくれた。
「……また後で、ね」
すぐ後ろで聞こえる不機嫌そうな紅の声は、この際無視です。
「えーっと、こんにちは。間島といいます」
挨拶とかいいのに~。
眼鏡の奥の瞳は、からかう気満々の光を帯びている。面倒な人を呼んでしまった。入り口に近いとこにいたからちょうどいいや、と思った私が馬鹿でした。
「成田です。どうも」
――って、それだけ!?
いつもの外面の良さをここぞとばかりに発揮しろよ、紅さんよう。
「もしかして、付き合ってるの?」
「……うん」
「そっか。お借りしてすみませんでした。じゃあね、島尾さん」
丁寧なあいさつに紅も機嫌が直ったのか「突然押しかけて悪かったな」なんて言ってる。
もういい、行こう!
手を取るのは恥ずかしかったので、代わりにジャケットの裾を引っ張って促すと、紅は非常に優しい眼差しで私を見下ろし微笑んだ。
……不覚にもときめいてしまった自分が悔しいです。
ドキドキしながら紅の隣りに並び、家まで自転車を押して帰った私。
卒業式後、街をうろうろしていた同級生多数にその姿をバッチリ目撃され、『島尾には超絶イケメンの彼氏がいる』との噂があっという間にラインで流れたそうです。
『ましろに告白しようと思ってた男子達が、それですっかり落ち込んだらしいよ~』というのは、絵里ちゃんの談。
そこまで計算して迎えに来たんだったら、紅は只者じゃない。
「旅立ちの日に」という卒業式ソングのタイトルが作中に出てきますが。
JASRACさんのHP……「これ知ってる?」著作権にまつわる疑問
http://www.jasrac.or.jp/jasracpark/question/blog.html
を参考にしました。
不具合があるようなら、修正したいと思います。




