1.ホワイトデー
今日は3月14日。
あと5日も経てば、いよいよ卒業式だ。
ここまで長かった気もするし、あっという間だった気もする。公立高校の試験は一昨日終わったばかり。合格発表は卒業式の後だということもあって、校内は解放感に満ちていた。
「ましろ! 今日の帰り、みんなでどっか寄って帰ろうってことになったんだけど、どうする?」
バレンタインに友チョコを交換した咲和ちゃんと麻子ちゃんに、帰り際呼び止められた。
美里ちゃんと玲ちゃんも一緒にいる。せっかくのホワイトデー。彼氏いない組でお茶でもして帰ろうということになったらしい。いいなあ、楽しそう。
「下校中の寄り道は、校則違反ですよ。分かってますか? 皆さん」
腰に手を当てわざと睨んでみせると、咲和ちゃん達もノリノリで「ましろ先生。かたいこと言うなよ~!」なんてブーイングしてくる。ひとしきり笑い合って、私はコホン、と咳払いをした。
「ゴメンね。これからちょっと行かなきゃいけないとこがあるから、今日は無理なんだ。また誘って!」
「え……もしかして、男関係!?」
勘のいい玲ちゃんがすかさず突っ込んでくる。
その言葉に、皆から黄色い悲鳴が上がった。
「ウソ!? だれ、だれ?」「ましろ、本命チョコあげてたの!?」
物凄い勢いで4人に取り囲まれてしまう。ちょっと! 落ち着いて!
ただでさえすでに緊張しちゃって頭の中がグルグルしてるんだから、これ以上追い詰めないで下さい。
「うんまあ、そうなるのかな……まだどうなるか分かんないけど、とりあえず行ってくる」
いつの間にか私の頬は真っ赤になっていたらしく、後から咲和ちゃんに「あんな乙女な顔したましろ、初めて見たよ」と言われてしまった。
釈然としない。これでもいつだって乙女なつもりですけど。
家に帰ってすぐ制服を脱ぎ、クローゼットに顔を突っ込んだ。
あーでもない、こーでもない、と悩んだ挙句、清楚な感じのシャツワンピースに淡いピンクのカーディガンという組み合わせに決める。
桜子さんもいるかもしれないし、きちんとした格好の方がいいよね。
髪を丁寧に梳かしてリボンで一つに結わえ、鏡の前に立ってみた。
うーん。まあ、こんなものかな。
あんまりお洒落していくのも恥ずかしいし、「何、気合入れちゃってんの」って笑われたら流石に立ち直れない。
よし、頑張れ私!
拳を握って気合を一つ入れてから、携帯電話を手に取った。
呼び出し音を息をひそめて数える。
――――出ないんですけど。
こっちから電話をかけたことは、今まで数える程しかなかった。でもそんな数少ない電話に、いつもすぐに出てくれてたのに。
あんまりしつこく鳴らすわけにもいかず、溜息をついて電話を切った。
……なんだかなあ。
出鼻をくじかれてしまった気がして、さっきまでの勢いがしゅんと萎える。
でも着信は残るから、気づいたらかけ直してくれるよね?
ここでコールバックを待っていても仕方ない。
私は気を取り直し、ヒールのある茶色のストラップシューズを履いて外に出た。紅の家までは電車とバスを使えば行けるはず。大体の地理は分かってるし、何とか辿りつけるでしょ。
そして、一時間後。
私はようやく成田邸の前に到着した。
けっこう歩いたな。つま先、痛い。
こんなことならスニーカーで来れば良かった、とちょっと後悔。
ワンピースに合せて履き慣れない靴を選んでしまったせいだ。
手に握ったままの携帯をもう一度見てみる。紅からは、着信もメールも来なかった。
もしかして、家にもいなかったりして。
ホワイトデーだし、ファンクラブの子達とどこかに遊びに行ってるのかも……。
と、そこまで考え、ムカっときた。
人をここまで来させといて、自分はちゃらちゃら遊んでるわけ?
まあ……来いとも言われてないけどさ。
でも、バレンタインにチョコケーキを焼いてあげたのは確かなんだから、お返しをねだりにきたっていいよね。一日遅れだろうが何だろうが、あれは絶対にバレンタインだったはず。
たのもー! というくらいの勢いでインターホンを押してみる。
『――はい』
「島尾 真白といいます。紅さんはご在宅でしょうか?」
『これは、島尾様! どうぞ、中へ』
大きな門がゆっくり静かに開いていった。
ピカピカに掃き清められた玄関には、執事の田宮さんが待ち構えるように立っている。
「ようこそいらっしゃいました。まさか、御一人でここまでおいでになったのですか?」
「はい。紅さんに電話してみたんですけど、連絡が取れなかったので。……押しかけてしまってすみません」
一人で歩いてきた私に目を丸くする田宮さんを間近にして、上がっていたボルテージがあっという間に下がったのが分かった。
約束もしてないのにいきなり家まで来るって、よく考えなくてもかなり非常識だ。恥ずかしい。
「いないのなら、帰ります」
小さく縮こまった私を優しい眼差しで見つめ、田宮さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いいえ。このままお帰ししては、紅様に叱られてしまいます。どうぞ2階へ」
「え、でも……」
ぐいぐいと背中を押されるように二階に連れて来られ、音楽室の前に立たされてしまった。
「今日は帰宅されるなり、こちらに閉じこもってずっとヴァイオリンを弾いていらっしゃるのです」
「ああ、だから……」
電話の呼び出し音にも気づかなかったんだ、と拍子抜けした後、私は田宮さんを見上げた。
「やっぱり帰ります。練習の邪魔をしたくないので」
「それは困ります! さあ、中へ」
田宮さんは素早く扉をノックをすると、何とそのまま私を部屋の中に押し込んでしまった。
うおおおい! ちょ、待って!
「なに。しばらく一人にしてって言ったはずだけど」
そっけない紅の声が聞こえ、私はピシッと固まってしまった。
うわ~。理由は分かんないけど、すごく不機嫌でいらっしゃる。
おそるおそる振り返ってみると、ヴァイオリンを下ろした紅としっかり目が合ってしまった。
「お前……」
私の顔を見て絶句した紅に、どうもすみません、と謝りたくなりました。はい。
気を取り直した紅は、再び田宮さんを呼び、温かい紅茶を入れさせてくれた。ポットにたっぷり入ったダージリンのいい香りが、今はよく分からない。
緊張しながらカップに口をつけている私をじろじろと眺め、紅は向い合せに腰を下ろした。
やけに嬉しそうな田宮さんが部屋を出て行き、結果2人きりになってしまう。気詰まりな沈黙が辺りに満ちた。
何か言わなきゃ、とにかく何か。
ここに来るまでのテンションを取り戻そうと四苦八苦している私を見つめ、彼は煩わしげに長い前髪をかきあげた。
「で? ――お洒落して、これから蒼と会うの? 誘いに来てくれたのなら悪いけど、1人で行ってくれないかな」
にっこりと微笑む紅の表情には見覚えがある。彼がファンクラブの子たちを相手にする時の顔だった。私を諦める、と彼は決めてしまっている。 それが無性に腹立たしい。
「空港には行かない」
「……は?」
カップをソーサーに戻し、私はぎゅうっとハンカチを膝の上で握りしめた。
お願いだから、はぐらかさないでね。
今日だけでいいから、ちゃんと本音を私に伝えて。
「今日は、ホワイトデーの返事を聞きに来たの。チョコケーキの食い逃げは許さないんだから」
まっすぐに紅の瞳を見つめる。
紅は何度か瞬きした後、信じられない、というように軽く首を振った。
「……自分の言ってる意味、分かってる?」
「分かってるよ。あの日、どうしてもってせがんで私にケーキを作らせたのは、バレンタインのプレゼントが欲しかったからでしょ? 違う?」
「…………」
「蒼のことは好きだよ」
私の言葉に紅は顔をそむけた。苦しそうに眉を寄せ「もういいから」と吐き捨てる。
待って、ちゃんと最後まで聞いて。
「あの子のこと、ずっと弟みたいに大切に思ってきた。その気持ちは今でも変わってないし、幸せになって欲しいとも思ってる。だけど私がほっとけないのは――」
そこまで言いかけたところで、紅はガタンと立ち上がり、腰をかがめて私の口を右手で覆ってしまった。
むしろここからが本番ですけど? 最後まで言わせろ!
手をはずそうと両手で掴みかけ、躊躇う。
爪は伸ばしてないけど、ヴァイオリンを弾く手に傷はつけられない。紅はそのまま、どうにもできずに固まったままの私の隣に移動してきた。
それから、ゆっくりと紅の大きな手で両手を包み直される。
私もかなり手は大きい方なんだけど、すっぽり覆われちゃうのが何だか悔しかった。いいなあ。こんな大きな手。何度まで届くんだろう。
頬が熱い。
恥ずかしさのあまり現実逃避目的の妄想に逃げ込もうとしてる私に、紅は期待だけではない何かが入り混じった複雑な眼差しを注いだ。
「蒼じゃなく、俺を選んでくれるの?」
「確認するくらいなら、なんで遮るの。私に言わせたくないなら、紅が言えばいいでしょ」
上手く伝えられない歯がゆさから、つい八つ当たり気味に言葉をぶつけてしまう。
紅は苦笑を浮かべ、そうだな、と呟いた。
「お前くらいだよ、俺に思ってることを裏表なく全部ぶつけてくるのは。最初は警戒してた。どうせ何か企んでるんだろうって。途中からは、面白くなった。そのうち、気になって仕方なくなって」
紅は、私の手を握ったまま両手に自分の額をくっつけた。
まるで懇願するみたいに――。
「今では、好きでたまらない」
吐息増量のセクシーボイスでの告白に、私の許容メーターは完全に振り切れた。
自分の方から告白を強要したことなど忘れて、ひたすらもう勘弁して下さい、という気持ちになる。
「えっと……うん、分かった。ありがとう。うん」
真っ赤になって手を引き抜こうとするんだけど、紅の力は強くて思うようにならない。
「逃げるな」
更に距離が縮まり、紅は私の顔を覗きこんだ。
「お前が好きだ。俺と付き合ってくれ」
「うん、分かったから、ちょっと待って下さいっ」
逆切れ同然に叫び返し、とりあえず逃がして欲しい、と身をよじる。
紅は微かな笑みを浮かべ、ようやく手をほどいてくれた。
ほっとしてへなへなとソファーの肘掛に倒れ込む。
このくらいの接近なら今までだって何度もあったのに、心臓が全力疾走した後みたいにバクバクしてる。口から何か飛び出るんじゃないかと心配になって、ぎゅっと唇を噛みしめた。
そんなかっこ悪い私を見て、紅は笑うかと思ったのに、何故か寂しそうに視線を外した。
「ましろ」
「なに?」
これ以上のスイートボイスは勘弁して下さい。
前世のね、私がね。大変なことになってるんですよ。
長年一方的に追いかけていたアイドルに公開プロポーズされたくらいのレベルで、記憶の中のもう一人の私が舞い上がってしまっている。それを今の私が「どうどう。落ち着け」って宥めてる感じなのだ。
この喩えで分かってくれる人がいるとしたら、それは紺ちゃんだけだろう。
「ごめんな」
――え?
思っても見なかった紅の台詞に、私は首を傾げた。
謝られるようなこと、何かあったっけ。
「なんで謝るの。意味がよく分からないんだけど」
紅はきゅっと唇を引き結び、それから罪悪感に満ちたような眼差しで私を見つめた。
「いや……何でもない」
後から分かったんだけど、この時の紅は私がここに来た意味をちゃんと分かっていなかったらしい。蒼のいない間に抜け駆けしたせいで、お人よしの私が紅を選ばざるを得なかった、と思ったのだそうだ。
全く、人を何だと思ってるんだろう。
こんな面倒な男の相手は、私にしかつとまらないだろうな、とか俺様真白様が発動したわけではもちろんない。
前世では、紅の外見と声に恋をした。
実際に会って印象は最悪に塗り替えられ、顔を突き合わせる度に喧嘩したっけ。
そのうち悪い人じゃないって分かってきて、沢山素直じゃない親切を貰って。気がついたら、このままずっと一緒にいられたらいいな、って思うようになっていた。
変なところで潔癖な紅は、蒼が戻ってくるのを最後に、私との関わりを絶つつもりなんだと分かった。
あの日のヴァイオリンの音色は、私への抑えきれない恋情と別れを切々と歌い上げていたから。
そんなの嫌だ、離れたくない、と強く思ってしまった時点で、私の負けだ。
さっきまでとは明らかに違う、ほんわかピンク色の沈黙が、私たちの間に揺蕩った。
こ、これからどうしよう。
そこまで考えてこなかった。
流石にこの状況で「ピアノ触らせてくれる?」と頼むほど馬鹿じゃないつもり。
よし……用件は済んだし帰ろうかな。
口を開きかけた私に、紅は手を差し伸べた。
「じゃあ、一緒に蒼を迎えに行こうか」
「ええっ!?」
そ、それもどうなんですか!?




