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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
第二章 中学生編
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 8月も半ば過ぎ。

 日が落ちても、うだるような暑さは変わらない。部屋の窓を全部網戸にして蚊取り線香を焚くと、煙がかすかに棚引いているのが分かるから、完全な無風ってわけでもないんだろう。あっつー。扇風機並みの風が、じゃんじゃん吹き込んできてくれればいいのに。

 冷蔵庫に入れといたお絞りで、首や手足を拭いてスッキリさせる。これが私の夏の乗り切り方です。クーラーは電気代も高いし、体が怠くなっちゃうからね。ひんやりしたところで、ぎゅっと髪を一つにひっつめて、机に向かったりピアノの蓋を開けたりするのが常だった。


 実はしばらくの間、コンクールという目標をクリアしてしまったからか、気が抜けたようにやる気が低下してたんだよね。「このままじゃやばい」という自覚もあったし余計に焦っていたんだけど、美登里ちゃんとの合奏が決まってからは、また練習が楽しくなっていた。

 カレンダーを横目で確認。

 美登里ちゃんとの約束は明日だ。日本に着いた日に電話をくれた彼女は、相変わらずパワフルでエネルギーに満ちた声をしていた。夏バテなんて言っていられない! 私も頑張らなくちゃ。


 

 そして次の日。

 能條さんの運転するベンツに乗って、玄田邸に到着。


 ノボルさんは今年は亜由美先生のヨーロッパツアーを追いかけて回るらしく、日本には帰ってきていなかった。先生不在の間のレッスンは、亜由美先生の恩師である斎藤さいとう先生にみてもらっている。その斎藤先生には、コンクールの際にもお世話になった。審査委員を務めていた先生が細やかなアドバイスをしてくれたお蔭で、セミナーに参加しなかった分を埋められたんだもん。

 60前の恰幅のいい紳士然としたおじさまで、丁寧な指導を施してくれている。

 エキセントリックなノボル先生とは真逆の、楽譜に忠実な指導法に、紺ちゃんは「ホッとするのと同時に物足りない気もしちゃうんだけど、ましろちゃんは?」とこっそり尋ねてきた。まるっと同意したかったんだけど、ノボル先生に調教されてしまった気がして、素直に認めるのには抵抗があります。はい。


 というわけで、ノボル先生の家が使えない美登里ちゃんは、本邸にお泊りしている。彼女いわく『じじいが頑固で家の空気が悪いから、ホントは帰りたくない』そうです。お金持ちにも色々あるな~って。ん? この感想、何度目だろ。とにかくセレブも楽じゃなさそうだ。


 


 「マシロッ!!」


 ハンカチで汗をふきつつ離れに向かうと、すでに来ていた美登里ちゃんに熱烈な歓迎を受けた。


 「うわっと。――おかえり、美登里ちゃん」

 「マシロに言われるとすごく嬉しいわね、その言葉。ただいま、マシロ」


 しがみ付かれる形でぎゅうぎゅうに抱きしめられ、首筋にぐりぐりと柔らかな頬を擦り付けられる。


 「汗かいてるのに~」

 「そう? マシロはいつもいい香りよ?」

 「そういう問題じゃないの!」


 ようやく満足したのか、ハグは終了。

 あけっぴろげに好意を示されて嬉しくないわけじゃないけど。西洋式の挨拶には、一生馴れないだろうな。


 「いらっしゃい、ましろちゃん。大丈夫、私もそれやられたから」


 紺ちゃんが苦笑しながらスリッパを出してくれた。

 ホントだ。よく見ると艶やかな茶色の髪がわずかに乱れてる。手櫛でちょいちょい、と整えてあげて、お互いの健闘をねぎらった。


 「あれ、紅も来てる!」

 「いらっしゃい、ましろ」


 奥の部屋に入ると、赤い髪がソファー越しに見えた。紺ちゃん大好きのシスコン紅が、ちゃっかり居座っているではないですか。

 今までも時々ここで鉢合わせてるし、今日ここにいることも不思議じゃないんだけど……。


 「こんにちは~。紅、最近デート営業減ってない? 大丈夫なの?」

 「会うなり、人をホスト扱いしないでくれるかな」


 にこやかな笑みが引き攣って、紅はあからさまに不機嫌そうな顔になった。胡散臭い笑顔よりこっちの方が好きだから、ついからかっちゃうんだよね。


 「いや、マジで。今年に入ってから、よくここで会うからさ。日曜日に遊んでるの?」

 「……そんなに気になる?」


 紅は頬に落ちた髪を気だるげにかきあげ、掬い上げるようにこちらを見つめてきた。一連の仕草が色っぽ過ぎて、クラクラしそうになる。錯乱しそうになるのを何とか踏みとどまって、うん、と頷いた。


 「――え?」

 「気になるよ。理由があるなら、教えて」

 「……特にないよ。日替わりの恋人ごっこに飽きてきただけ」

 「なるほどね。お疲れ様です」


 ペコリと軽く頭を下げてみせると、紅はクスクス笑い出した。美登里ちゃんと紺ちゃんは、微妙そうな表情で私たちを見守っている。


 「マシロってば、甘いわね。そこは責めるべきトコでしょ!」


 美登里ちゃんは紅を親指でさし、「自分を好きな女の子たちを弄んでる、最低野郎じゃない」と怒ったように言ったので、私は首を振った。

 

 何も知らない美登里ちゃんや他の人には、確かにそう見えるだろう。だけど、紅は本気で自分を好きな女の子には、絶対に近づかない。まっすぐに告白されたら、きっぱりと引導を渡す人だと知っている。

 ファンクラブの子は、紅本人を好きなわけじゃないと思う。本当に好きなら、誰かと分かち合うなんて発想が出てくるかな? 嬉々としてデートの日程を組んでいるのは、彼女達の方だと紺ちゃんから聞いた。

 見た目がよくて甘い言葉しか吐かない便利な彼氏ロボット。それが彼女たちにとっての紅だ。誰よりもプライドの高い彼が、最愛の妹を守る為とはいえ、彼女たちに飼われている。そのことに無性に腹が立つこともあった。


 「それは違うと思う。紅は普段から俺様で偉そうだけど、誰かを残酷に傷つけることを好んでやる人じゃないよ。彼女達とはお互い様なところも多いと思うな」


 まさか私が庇うとは思っていなかったんだろう。紅は唖然とした表情で私を見つめた。

 自分の台詞の恥ずかしさに、急にいたたまれなくなる。なに、熱くなっちゃってんの、って感じですよね。スミマセン。


 「この話はもうおしまい! 早速、合わせてみない?」

 「――そうね。誰にでも事情は色々あるわよね。勝手なこと言って悪かったわ、コウ」


 美登里ちゃんは私の言葉を受け止め、素直に紅に謝った。

 紅は軽く手を振り「気にしてないよ。美坂さんが不愉快な気持ちになるのも分かるし」と卒なく答えている。

 紺ちゃんはハラハラしていたみたいだけど、無事決着がついたのを見てホッとしたような笑みを浮かべ、私達をピアノの方に促した。



 


 「とりあえず、通しで一曲吹いてみるね?」

 「了解」

 

 

 ボンヌ作曲 カルメン幻想曲


 フランスのフルーティスト、フランソワ・ボルンが、ビゼーのオペラ『カルメン』を独自にアレンジして作曲したのがこの『カルメン幻想曲』だ。

 カルメン登場の音楽、そして第4幕より「カルメン、まだお前が好きだ」続いて「運命の動機」。第1幕より「行ってきておくれ、セビリアの街へ」そして同じく第1幕より 「ハバネラ」。第2幕より「ジプシーの歌」最後に第2幕 より「闘牛士の歌 」の7つを繋ぐように構成されている。

 有名なのは、ハバネラ。そして闘牛士の歌かな。その部分だけを演奏する人も多いみたい。


 

 初めて合わせるからだろう、美登里ちゃんは私の方を向いてフルートを構えた。さっきまでの和気藹々とした雰囲気から一転。張りつめた空気が漂う。


 鍵盤に指を落とし、最初の連続音を鳴らした。両手で同じ和音を刻みフルートを待つ。

 美登里ちゃんは真剣な表情で私の音に耳を澄ませていたが、自分のパートがくるとスッと息を吸って軽やかにフルートを奏で始めた。

 哀愁漂う八分の六拍子。よくそこまで息が保つな、という長さでトリルを吹き鳴らし、眩惑的な四拍子パートへ。高音の透き通るような音色の美しさももちろんだけど、低音のこっくりとした艶やかさも素晴らしい。アッチェレランド(次第に速く)の部分は、お互いの目を見ながらテンポを調節した。ああ、もっと早くてもいいのか。ごめんね、美登里ちゃん。

 そしてハバネラ。独特のリズムに乗って、フルートとピアノが同じ主題を掛け合う。ここはテンポ・ルバート(自由な速さで)。生き生きと頬を紅潮させ、体をかすかに揺らしながら音楽の波を引き起こしていく美登里ちゃんをサポートするように、私も音色を寄り添わせた。合わせる練習を繰り返して完成度を高めれば、ここは鳥肌ものの見せ場になるだろう。

 一通り主題を繰り返した後は、凄まじいほどの装飾音をまぶした同じメロディが繰り返される。ここはフルートの独壇場だ。美登里ちゃんの卓越したテクニックに圧倒されてしまう。そして最後に、闘牛士の歌。軽快なメロディとリズム。駆け上がっていくフルートの音色を支えるように、クレッシェンド。

 最後の和音をズンと響かせ、腕を上げる。


 紅と紺ちゃんがすぐに惜しみない拍手をおくってくれた。


 「美登里ちゃんっ、すごいっ!!」


 フルートを置いた美登里ちゃんに、今度は私が飛びつく。とてもじゃないけど、じっとしていられない。そのくらい素敵なカルメン幻想曲だった。


 「どうやったらあんな風に吹けるの? 息ってどれくらい止められる? すごい肺活量だよね!」

 「ちょっと待ってよ、マシロ。calm down!(落ち着いて)」


 美登里ちゃんに背中を軽く叩かれ、ハッと我に返った。

 ごめん、と謝ってそそくさと離れる。美登里ちゃんは「マシロのピアノはすごく合わせやすいわ。こんなに気持ちよく弾けたのは、ノボル以来よ。しかも、初めて合わせたのに!」と嬉しそうに笑ってくれた。


 「ピアノだけかと思ってたけど、どうやら楽器なら何でもいいみたいだな。演奏が終わる度に相手に飛びつくようじゃ、ましろは迂闊にアンサンブルは組めないね」


 呆れ声を上げる紅に向かって、イーッと鼻に皺を寄せてやる。

 誰にでも、ってことはないもん。……多分。

 紅も負けずに顰めっ面を返してきたので、フンとそっぽを向き、美登里ちゃんに話しかけた。


 「じゃあ、部分ごとに細かく合わせていって、完成させようか」

 「うん。いいけど……ちょっと休憩しない?」


 喉乾いちゃった、という美登里ちゃんに、紺ちゃんがインターホンで飲み物を頼んでいる。


 「気を付けてね。ましろちゃんは、ここからが長いわよ。怖いくらいの完璧主義者だから」


 こっそりと美登里ちゃんに耳打ちする紺ちゃんの警告。ちゃんと聞こえてますけど?


 「Are you serious?(マジで?) ソウをからかうネタにしようと思って引き受けたけど……そっか……ピアニストだもん、変人じゃないわけないわよね」


 ちょっと!! それどんな偏見!?

 文句を言おうとした私の脳裏を横切ったのは、ノボル先生でした。

 うん……。まあ、ね。



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