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ずぶ濡れの死神にまつわる物語

死神と壊れた女

作者: 方舟


――この手紙を読んでいるあなたは誰? 私の知り合いでしょうか。


 手紙はこんな風に始まっていた。男は手紙から顔を上げ、傍らに座り込んでいる女を見る。手紙を書いたというこの女の髪は乱れたまま、白い頬に黒い髪がかかり、呆けたように薄く開いた唇は、少しだけ端がつり上がっていた。

 笑っているのだ。

 男は女のそんな様子を、敢えて表情を消してちらりと見やった後、再び手紙に視線を戻す。手紙は、こう続いていた。


 ――せっかく来てくださったのに、ごめんなさい。私はあなたの事を何も覚えていないの。いいえ、覚えていないのではなくて、分からなくなってしまっているのです。


 男は今一度女を見る。濡れた手で女の髪をすくと、乱れた髪を後ろへかきあげ、頬にかぶさった髪を耳へかけてやった。最後に頬に落ちた水滴を親指で拭ってから、男は手紙へ視線を戻す。


 ――時々自分が戻ってくると、次に自分が失われるのが怖くて、沢山の人に迷惑をかけてしまいます。それも、だんだん少なくなってきていて、なおさらまた自分が消えていく感じが恐ろしくなっていくの。だから……。


「……『だから、私が本当に全て分からなくなってしまう前に、名前もわからぬあなたに宛てて、手紙を書きます。これを書き終えた後、あなたが来てくれるまで……いいえ、来てくれないかもしれない、その間に、私は本当に何も分からなくなってしまうと思うから』」


 男は小さな声で、その部分を読みあげた。そしてもう一度女を見つめる。少し髪を整えられた女は、白い頬のまま、あせた唇を少しだけあけて、物も言わず男をぼうっと見たまま、ほほ笑んでいた。

 手紙は続く。


 ――私は事故で身寄りを亡くしました。両親と一緒に水難事故にあって、私だけが生き延びてしまった。それからです、私の中の私が、少しずつ消えていったのは。


 男は女が収容されている、この施設で働くスタッフに聞いた話を思い出していた。旅行中に乗っていたボートが転落し、女と両親は激しい波のうねりに飲み込まれたのだ。女は近くにあった岩にしがみつき、なんとか生き延び事ができたが、両親はついに水面へ上がって来ることはなかった。


 ――もう、両親の事もよくわからなくなるときがあります。私も一緒に沈んでいたら……そう思うのに、その直後にどうしてそう思ったのか、わからなくなる事が。

 それでも、なぜか覚えていることもあるのです。

 ……それは、水。水の音、水の手触り。あんなことがあったというのに、私は水に恐怖を抱けないのです。水に触れていると、心が安らぐのです。


 男はちらりと女を流し見た。髪が少し濡れている。水難事故にあった人間が水を怖がるというのはよく聞く話だが、逆に水が好きになったという話は、あまり耳にしない。

では、女のこの言葉は一体、何を意味しているのか。男は表情をあえて隠したまま、手紙に視線を戻した。


 手紙は更に続いている。


 ――なぜ、水がこんなにも私の心をいやしてくれるのか。どうして、こんなに水が愛おしいのか。私、私はきっと、水があなたを運んでくれると信じているの。……おかしいと思うでしょう? 変でしょう? でも……でも、きっとあなたは、水に導かれて私の元へ来てくれるのでしょう?


 男は手紙を膝に置いて、掌を見つめた。濡れそぼった掌からは、腐った水の匂いがしている。今し方女に触れた事を、男は後悔した。この濡れた手で触れたことで、この匂いまでも女についてしまっただろう。


 ――私はずっと待っている。あなたが来てくれるのを。あなたが迎えに来てくれるのを。私が私の事を忘れても、私はあなたの事を忘れたりしません。名前も知らないあなたを、ここでずっと待っています。


 男は震える手で最後まで読み終えると、小さなため息をついた。目を閉じて何かを考えいるようだった。

 水に導かれた「あなた」。名前も知らない「あなた」。この女の待っている「あなた」は、明らかに人ではなかった。壊れてしまった女のたわ言など、恐らく誰も気にしてはいないのだろう、しかし男は、それが誰のことなのか、はっきりと分かっていた。


「……姉さん」


 男は小さな声で女に呼びかけた。姉と呼ばれた女は、優しげに男を見上げている。その頬に手で触れかけて、男は躊躇い、手を引っ込めようとした。

 しかし、その手はか細い力で抑えられ、男は息を止めて女を見つめる。女の瞳が、男を捕らえていた。


「………………」

「……――!?」


 女が初めて言葉を発する。それは男の名前だった。


「………、ねえ、………? また、一緒に遊びましょう……?」


 子供のように無邪気な声で、優しく問いかける。女は男の濡れた手を、自らの頬へ導き、そっとすりよせた。男は動かない。既に壊れている女を、まるで今にも割れてしまいそうなガラス細工に触れてしまったように、その濡れそぼった全身を硬直させていた。


「………、あなたは、何をして遊びたい……? ねえ、………、姉さん、あなたと一緒なら、何をしていても楽しいの。本当よ……?」


 壊れた女が何を見ているのか、誰に向かって話しかけているのか、男にとってはどうでもよくなっていた。小さな声で一言だけ、震える唇で呟く。


「……姉さんは、何度輪廻を巡っても、壊れたまま……なんだね……」

「……? どう、したの? どこか、具合でも悪いの……?」


 心配そうに見つめる女の後頭部を、男は静かに自分の胸へ引き寄せた。それから背中を支え、縋るように腕の中へ閉じ込める。


「ううん、俺は大丈夫だよ、姉さん……」

「……よかった。あなたが元気なら、それで……いいの……それで……」

「うん……さあ、遊ぼうか」


 女は男の腕の中で、無邪気に微笑んだ。


「ええ……、遊びましょう。何をして遊ぶ……?」


 男は眉を寄せて目を強く閉じ、静かに口を開く。冷たく濡れた己の体が女の身につけたネグリジェを濡らして行くのを見つめながら、女の耳元で囁いた。


「姉さんが決めた遊びなら、何だっていいよ。でも、その前に……。

 ……帰ろう、うちに。そしてまた、遊ぼう……何度でも」


 女はその言葉に、嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑う。そして男の濡れた背中を己の細い指でなぞろうとし……果たせず力を失った。


「……おやすみ、姉さん」


 ぐったりと力を失った女を抱き上げ、男は立ちあがると、ベッドの影に歩いていく。一歩進むごとに影が波紋を広げ、男はまるで水へはいっていくかのように、女を抱いて影の中へ沈んでいった。


 ――最後に一粒だけ、床に温かな雫の後をのこして。


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