のんちゃん
天田義晴がそれに気付いたのは、その街に引っ越してきて半年経ち、早朝の通勤にも慣れてきた、ある木曜日のことだった。
天田は某有名企業に転職したばかりで、引っ越しも会社へ通いやすくする為だった。たまたま息子の高校進学と重なり、その高校にも近いということで、家族から不満は出なかった。
天田は四十手前である。まだまだ元気なつもりだったが、転職前に同窓会に顔を出した時に、その場に居たひとりが大病をした話を聴いた。ラグビー部でならしていた彼は、当時とは見違えるような痩せた体になっていて、顔色も悪かった。幾らか食事をとっていたが、酒には手をつけず、ウーロン茶をちびちび飲んでいた。
会社の検診で散々、腹囲やコレステロール、血糖値を指摘されていたのに、指摘されてすぐにはあらためようとするものの、結局食生活はもとに戻ってしまうし、運動もきつくて続かない。そんなこんなで不摂生を続けた結果、糖尿病になってしまったらしい。それでも深刻に考えていなかったら、腎臓にまで波及した。
スポーツなんてもうしていなかったのに、している時とおんなじような食事を続けていた。ちょっとくらい肥っても運動すればいいと思っていたくせに運動していなかった、と、彼は悔やんでいる口調だった。
だからお前らも気を付けたほうがいい。今のうちに手を打っとけよ。病気になってからじゃ遅いぜ、と、そんなふうに彼は結んだ。それで天田は、幾らか腹が出てきたのもあったから、はやくに起きて、ウォーキングをすることにした。
ジョギング、というのも考えたが、そもそも運動が好きではない天田は、まずはウォーキングを選んだ。いきなり走ったりしたら、自分の性格からして長続きしないと、そう判断したのだ。ラグビー部の彼も、検診などで指摘されてすぐは気を付けても、結局きつくて長続きしないと語っていた。少し歩くくらいならジョギングより効果はうすいだろうが、やらないよりはやるほうがましだ。
目標がないと続かないとも思ったので、ベルトの穴ふたつ分、ウエストを絞ることを目指した。ウエストサイズは検診でも測られるし、細いほうがいいのだろうという理解で、それに決めた。メリハリをつけるのと、いずれはジョギングへの移行を目指しているので、休日には近所を一巡り、楽なペースで走ってみる。家族にそれを話すと、息子が一緒に走ってくれることになった。
平日は毎朝五時頃に起き、五時半までには、リュックを背負って家を出る。三駅分歩くのには、それくらいで丁度いい。のんびり歩いて六時頃に駅につくと新聞を買い、電車に揺られている間に読む。会社の最寄り駅に着いたら、駅前の喫茶店でサンドウィッチとコーヒーの朝食をとり、会社まで歩く。サンドウィッチは、ケータイで調べて、一番高タンパクなものにした。
仕事が終わったら、電車で家の最寄り駅まで帰る。運動を朝だけにしたのも、長続きさせる為だった。そもそも運動ぎらいの天田は、日に何度も運動するのはいやだった。朝のうちにすべてをすませてしまって、憂いなく仕事に打ちこみたかった。
天田は住宅街の一戸建てを借りて住んでいる。車はあるが、妻がつかっていた。天田は免許を持っているけれど、通勤は電車だし、家事は一切妻に任せているので買いものなどにも行かない。
駅へ向かうのには、左にカーブしている坂をのぼっていく必要があった。登り切ると大きな車道沿いの道に出る。そこまで行くと、犬の散歩やジョギングのひと達を幾らか見た。天田の近所のひと達は、犬の散歩でもジョギングでも、天田とは違う時間帯か、或いは坂を下るようにするらしかった。坂を下りきって少し行くと、大きな公園があるからだろう。最寄り駅もそちら方向にある。だから天田は、朝はやくのそちらの様子は知らないし、反対に日が暮れて以降のこちらの様子も知らなかった。
坂を登り切れば目的の駅へはその後、平坦な道が続く。途中に寺があって、ほとんど同じ時間に前を通るのに、山門が開いていたり閉じていたりする。大きな川の上の橋を通ると、はやくから釣りをしているおじさん達が数人見えることもある。引っ越してきたばかりなのもあり、そういう些細な街の様子を知れるのは、楽しかった。
早朝出勤を初めてしばらくして、早足で坂をのぼるのはいい運動だと聴いたので、そうするようになった。カーブしたあと勾配が急になり、どうしてもそこで速度がゆるむ。息が切れてきて、立ち停まることもあった。
それで、天田は気付いたのだ。自分から見て左、転落防止のフェンス、つたが這ったそのの向こうに見えるアパートの一室に、女性が居ると。
その女性は、上半身裸だった。
天田はそれを初めて見た時、絵かなにかと思った。だが動いたので、人間だとわかった。わかってからも、間にフェンスがあるし、ちょっとした下心もあって、天田はそれを見ていた。
四十過ぎくらいの女性だった。髪をひっつめ、上半身裸で、なにかしている。豊かな乳房が、かすかに揺れていた。腕も肉付きがいい。化粧気はないものの、充分に美人だ。少々色黒である。目がぱっちりしていて、若い頃には随分もてただろうという印象をうけた。
窓を開けている。網戸だが、外からはまる見えなのに、警戒した様子はない。寧ろリラックスしているらしく、微笑んでいる。
たぶたぶ、ゆらゆらと、その乳房が揺れている。
ひょいと、女はなにかを持ち上げた。ブラジャーだった。女はブラジャーを洗っていたのだ。
まだなにか作業をして、女は洗面器を手に姿を消した。窓はそのままで、天田からは見えない位置へと移動してしまった。
天田は浅くなっていた呼吸を整え、時間をたしかめてから、再び坂をのぼった。早起きは三文の得とは、よくいったものだ。得をした。
翌日、期待してアパートを見たけれど、女は居なかった。窓は開いていて、ぼんやりと光がもれている。
天田はそれからも毎日、同じ時間にそこを通った。休日のジョギングは、息子の希望で朝七時からだったが、その前に体を解すなどといいわけして、同じ時間帯に坂へ行った。女はいつもおらず、窓は開いていて、光がもれていた。
翌週の、やはり木曜日に、女がブラジャーを洗っていた。それから二週間もすると、女がブラジャーを洗うのは木曜日だけだとわかった。
天田はその女を、密かに見るようになった。四十過ぎとはいえなかなかの美人だし、無料で女の上半身裸姿を拝めるのだ。逃す手はない。
妻に不満がある訳ではなかった。家庭にも不満はない。それでも、その女の姿には心惹かれた。別に、その女を見付けてなにかしようとか、そういうつもりはひとつもない。
なにも、悪さをする気などなかった。だが天田は二度目に女を見た時、ケータイで写真を撮った。
女がなにかに右手を伸ばし、身をのりだしたのを目にしてしまったからだ。そうすると、豊かな乳房が右側だけ、ちょっと上へと動いた。天田は生唾を飲んでそれを撮影した。
それからも毎週木曜日、判で押したように、女はそこでブラジャーを洗っていた。日曜日、息子と一緒にジョギングに出た時、その坂を通って、息子が弾んだ声でここに友達が住んでいるといったのに生返事をした。
その時に天田は気付いた。あの女の部屋とは別の部屋の窓が開いていて、それは坂から随分下に見える部屋で、室内が幾らか見えたのだ。窓に面しているのは流しだった。女は、台所でブラジャーを洗っているらしい。
天田は家事をすべて妻に任せていたし、実家でも手伝いなどはしなかった。だから、女がそういう場所でブラジャーを洗濯をするのが普通なのか、天田にはわからなかった。ただ、木曜日の早朝、それを見るだけだ。
見るだけ、ではなくなっていた。天田はこっそり、女を撮影していた。ブラジャーを洗うのに、乳房をたぷたぷと揺らす女を、動画で撮った。フェンスにくっつくようにして、葉が増えたつたの間から、ケータイで。
そうして、家のデスクトップで、密かに写真や動画を見た。こっそり鑑賞して楽しんだあと、妻とベッドにはいることもあった。天田より三歳若い妻は、あの女ほどの乳房ではなかったが、天田は脳裏にそれを思い浮かべて妻を抱いた。
何度目か、動画を撮って、密かに満足してケータイをおろした時だった。
女がこちらを見た。
女は微笑んだ。天田を見て、微笑んだ。
女は姿を消した。
天田はしばらく立ち尽くしていた。心臓がどくどくと脈打っていた。気付かれた。覗いているのに気付いた。顔を見られた。
天田は恐怖と、不安とに苛まれるようになった。あの女の微笑みは、一体どういう意味だろうか。怒ったような顔ではなかった。不快そうでもなかった。動揺もしていなかった。悲鳴をあげなかったどころか、びくつきもしなかったのだ。何故だか笑っていた。
気付いてるのよ、と、天田を嘲笑したのだろうか。もしかしたらずっと、天田の存在に気付いていて、撮られているのもわかっていたのかもしれない。わかって、あえてあの姿をさらしていたのだろうか。一体何故。
天田はこわくなって、ウォーキングのコースをかえた。ジョギングに切り替えるから距離を減らすといい、別の道にした。妻も息子もなにも気付いてなどいなかった。ウエストは、早朝出勤をはじめる前から、ベルトの穴ひとつ分細くなっていた。
天田は女の告発をおそれていた。怯えていた。上の大きな道に出れば、防犯カメラのあるコンビニやなにかが並んでいる。毎日同じ時間に坂方面から歩いてくる天田の姿は、ばっちり映っているだろう。
怯えてコースをかえた天田だったがしかし、データを消すことはなかった。
妻や、これまで付き合ってきた恋人のそういう姿を撮影することはなかった天田は、同僚や友人の下世話な話にその手のものが出てくると、かすかに憧憬を抱いていたのだ。
なかには、これまで付き合ったすべての女の裸の写真を持っている、なんて自慢する男も居た。「素人」女の裸の写真・動画は、ネット上に幾らも出回っているから、それを集めている同僚もいた。当人が好き好んで写真や動画を撮り、ネット上にアップしているのを集めるのは、痴漢や盗撮みたいな犯罪ではないから、とうそぶいて。たしかにネット上には、明らかに「素人」の女の、そういった画像やなにかは存在する。当人の意思でそれらをアップしているのならいいじゃないかという同僚の気持ちは、天田はとてもよくわかった。
勿論、その手の話に嫌悪感をあらわす男だって居る。しかし天田は、口ではいろいろといっても、実際女の裸の写真をもらえば、そいつだっていやがりはすまいと思っていた。男にはそういう欲望があるのが普通で、妻が居ようと彼女が居ようと、興味があるのはあたりまえだ、と。だから、その手の写真を載せた雑誌やなにかがあれだけ売れているのだ、と。
しかし天田は、妻やこれまでの彼女に、裸の写真を撮らせてくれとはいえなかった。正確には、高校生の頃初めて付き合った彼女にはいった。不機嫌になって拒否され、別れられた挙げ句、天田は変態だと噂を流された。天田は逃げるように大学進学で地元を出、相手の女も都会に出て就職したそうで、さいわいその噂はすぐに消えたと、母からは聴いている。
例の彼女に猛烈に拒否されたことから、母には本当のことなどいえず、ただ別れ話でもめたのだとしか説明していない。男友達にもそうだった。天田は成績もよく、地域活動などもしていたので、知り合いは皆、彼女よりも天田を信じた。
特に信頼できる男友達、天田にその手の雑誌をかしてくれていたふたりにだけは、本当のことを打ち明けた。するとどちらも、彼女や、近所の年齢の近い女性の裸の写真を持っていると教えてくれた。学校の更衣室や、市民プールの更衣室などで「手にいれた」ものだと聴いた。男がそういうものを求めるのは当然で、誰だってこんなの持ってるのに、女は過剰反応だなと笑われた。
触る訳じゃないんだし、写真を撮られて怪我をする訳でもない。たいした体じゃないんだから、偉そうに隠すなよな、とも。ふたりは幾らか焼き増しして(片方は家に現像室があるくらいのカメラマニアなのだ)それをわけてくれた。片方の当時の彼女の裸の写真と、もうひとりが市民プールの更衣室を盗撮したものだ。それらの写真は天田にとって、友人達の勇気と行動力をあらわすものであり、実用性に富んだものでもあった。
後々ふたりのうち片方が盗撮で捕まったあとにも、盗撮が犯罪である、という意識はなかった。個人でこっそり楽しむだけなのだし、こうして親しい仲間内で共有するだけだ。撮られた当人達は気付いてさえおらず、ということは不快にもならない。誰も損していないのならそれでいいと、本気で思っていた。
天田のその歪んだ認識、男足るもの女の裸に興味を持つのは当然だしその写真や動画を持っているのも当然、盗撮は気付かれさえしなければ誰も不快にならず問題にはならない、問題になるのは運のない、気付かれたやつだけ、という誤った「常識」が、天田にあの女の写真を撮らせた。そうして、次の行動に走らせた。
盗撮は、気付かれなければ問題にならない。誰も不快にならないのだから。
だが、気付かれたらそれは犯罪だ。まずいことになる。
あの女の目的がなにか、わからない。もしかしたら、天田を脅すつもりかもしれない。脅して金を奪いとるつもりかも。
そもそも、あんな場所で窓を開けて、上半身裸で居るのがおかしい。あれは、罠だったのではないか。気付いた男が写真を撮ったら、それをねたに強請る為の、そういう罠だったのでは。
そこに考えが及ぶと、そうとしか思えなくなってきた。自分ははめられたのだと思った。
天田は次の休日、これまで妻に任せきりだった、地域の草刈りに参加した。あの女をさがしていたのだ。名前を知りたかった。反撃の為に。
あの女は居なかった。しかし、似たような顔の女の子が居た。その子は「のんちゃん」と呼ばれていて、家族の代表で草刈りに来ているそうだ。にこにこして、奥さんがたと話しているのが見えた。草刈り機の為に、声は途切れ途切れにしか聴こえない。「のんちゃん」が高校生であることは間違いなかった。息子と同学年らしい。
息子に聴いてみると、やはり同学年だった。あのアパートに住んでいるのも間違いない。名字を聴くと、息子は少し怪訝そうにした。天田は、ご近所さんのことをあんまりにも知らなかったから、なんていいわけをして、草刈りに参加したのもその為だなどというと、息子は納得した。
作間、というのが、あの女の子の名字だった。天田はそのあとも、慎重にさぐりをいれ、あの子には父親が居ないという情報を得た。
名字がわかり、家族構成も少しわかると、あとは簡単だった。天田は休日の度に、近所を散歩した。引っ越しの時に顔を合わせ、それからは挨拶をするだけだった近所の人間に話しかけ、交流に興味があるふりをした。仕事が落ち着いたので時間ができたから地域活動に参加したい、といえば、誰もが信じた。
徐々に、情報が集まっていった。あの女はやはり、作間という。高校生の娘と、夫の両親と暮らしている。夫とは死別。数年前に登山へ行って、滑落事故で亡くなった。
天田が調べた限り、作間未亡人は、あまり評判がよくなかった。草刈りにはたまに顔を出すが、年に数度あるバーベキューには絶対に出てこず、参加費用を払いたくないのだろうと思われていた。夫の残した貯金と保険金、それに夫の両親の金で暮らしているらしい。あのアパートは夫の両親の財産であり、いずれ作間未亡人に受け継がれるのだろうともいわれていた。その為、彼女ははやく夫の両親に死んでほしいのではないか、という噂さえあった。
噂には根拠があった。作間未亡人は夫が死ぬや、車を処分した。亡くなった作間氏の父親は脚が悪く、通院に車が必要にもかかわらず、だ。それ以来、通院はタクシーでになった。作間氏の両親は、どちらも高齢である。体調を崩した時にすぐに車で運べるから便利だろうに、何故処分したのかと、近所のひと達は不審に思っていた。それで、成る丈はやく夫の両親に死んでほしいからでは、という話になっていた。
噂のもうひとつの根拠は、作間未亡人を度々、男が訪ねてくることだった。作間未亡人当人はその人物を弟と説明していたが、似ても似つかぬ凶悪そうな顔つきの男だという。亡き夫の両親にははやく死んでもらい、あたらしい男と一緒になるつもりではと、この辺でも古株の奥さんにこそこそ話された時、天田はぞっとした。
もしや、その男と組んで、金を得る為にやっていることでは。
このまま放っておけば、その男が怒鳴り込んでくるのでは。
恐怖に拍車がかかったのは、その男を実際に見たからだ。サングラスをしており、体格がよかった。おまけに、首に傷痕まである。堅気の人間には見えない。
清掃活動でアパート近くに居た天田に、男は会釈した。
天田はおそれた。自分の生活、仕事、名誉、そういったものが失われるのを。
盗撮が問題になるのは、相手にばれた時だけ。彼はそう信じていた。なにが悪いかなどは理解していなかった。そして、あれは自分に対する罠だと決めつけていた。
天田は作間家のスケジュールを調べ、把握した。高校生の娘は平日の日中、それに土日の午前は、ほとんど家に居ない。部活があるらしい。土曜の朝から夕方まで、作間氏の両親はデイサービスで家をあける。土曜の午前なら、作間未亡人は家にひとりだ。
天田は計画を実行した。盗撮がばれたなら、問題になる前に、問題にされる前に、相手を消してしまえばいい。天田の思考はそれに凝り固まっていた。高校時代の友人ふたりのうち片方が、大学生の頃盗撮で捕まったのも、彼の恐怖と怯えを強くしていた。自分がそんな目に遭うのはいやだった。
撮られたくなければスカートをはかなければいいし、家から出なければいいのに、その辺をうろうろしているくせに女は偉そうにしていると、本気で思っていた。
それで、今のうちに手を打つことにしたのだ。同窓生がいっていたように。
天田は土曜の午前中、デイサービスの車が例のアパートの敷地から出たのを見計らい、こっそり作間家の前まで行った。インターホンを鳴らし、あの女の声を初めて聴いた。なんといわれたかは覚えていない。天田は、娘さんの同級生の父親ですと自己紹介した。名字を口にすると作間未亡人は信用してドアを開けた。
天田は手にしていた、荷造り用のロープで作間未亡人の首を絞め、殺した。あっけなかった。作間未亡人の遺体を作間家にあった大きな旅行鞄に詰め、天田はアパートをあとにした。
天田は家に戻り、妻に打ち明けた。だが、すべてを話した訳ではない。たまたま見て、つい出来心で写真を撮ったら、女に気付かれた。そういった。これまで何度も見ていたこと、何度も撮影していたことは隠した。女はそういったことに嫌悪感を示すとは、知っていたから。
妻は案の定顔色をかえたが、天田は妻に叱責される前にいった。自分が集めた作間未亡人の情報と、作間未亡人が撮影に気付いたようなのに動揺を見せなかったことを。
これは罠だ、というと、妻は信じた。そのほうが彼女にとっても楽だったからだろう。
でも心配はない。殺してきた。そういうと妻は気を失った。
目を覚ました妻に手伝わせて、天田は作間未亡人の遺体を遠くへ運んだ。旅行鞄を車のトランクへいれ、作間氏が死んだという山のふもとまで。適当な木にロープをくくりつけて、天田は作間未亡人を首吊りに見せかけた。旅行鞄を踏み台にしたように見せかけたという。
当然ながら、警察はばかではない。部活から戻った「のんちゃん」が、室内が荒らされた様子なのに気付いて警察を呼んだ。旅行鞄がないこともその段階でわかった。それは作間氏の形見だった。
警察は作間未亡人をさがしたが、見付からなかった。あまりあたらしくはないそのアパートには防犯カメラも数はなく、天田の姿は映っていなかった。
しかし、土曜の午前である。近所の子ども達が天田を見ていた。旅行鞄の特徴から、天田が作間家から旅行鞄を持ち出したのが発覚した。天田は関与を否定したが否定しきれず、作間未亡人に頼まれて旅行鞄を運んだと供述をかえた。
天田のケータイが調べられ、作間未亡人の盗撮写真が出てきた。そして、妻が耐えかねて喋った。
天田は幾つもの勘違いをしていた。
作間未亡人は天田に気付いてなどいなかったのだ。彼女は先天的に目に障碍があり、更にフェンスにつたが大量に這っていたのもあって、天田を視認することは不可能であった。車についてもそれで説明がつく。作間未亡人は免許を取りたくても取れなかった。その為、夫が亡くなるとすぐに車を処分した。老齢になった夫の両親が運転することをおそれて。
また、草刈りには時折参加するもののバーベキューには絶対に来ない、というのも、彼女の情況を考えれば変ではない。男女差別は減っているといっても、料理などは女がするのがまだまだあたりまえだ。彼女は万が一にでも、肉を焼く係にされるのをおそれたのだろう。彼女の目では、肉が焼けているかどうかの判断がつかない。彼女は近所の人間に障碍を知られることをおそれていた。それまでになにかいやな思いをしたからでしょうと、「弟」はそういった。
彼女の「弟」も、実際に弟だ。やはり目に障碍のある彼は、若い頃に事故に遭い、大怪我を負っていた。天田が怯えた傷痕はそれである。しかし「弟」は作間未亡人よりは障碍が軽く、姉を心配してしばしば会いに行っていた。天田への会釈は、姉の近所の住人に対しての挨拶に過ぎない。
作間未亡人は朝はやく、車もひともほとんど通らない時間帯を選んで、ジョギングをしていた。かつて、登山が趣味の夫とやっていた習慣であったという。作間未亡人は足手まといになるのをいやがって、登山には同行しなかったが、体力づくりはふたりでやっていたのだ。坂を駈けあがっては戻り、また駈けあがる、という方法で。
夫が亡くなってからも、彼女はそれを続けていた。帰ると、台所でお湯をわかし、ぬるま湯でブラジャーを洗うのまで、いつものことだった。作間未亡人は田舎の出で、実家にはお湯の出る洗面台などなく、風呂も薪で沸かす五右衛門風呂だった。その為、お湯の必要な洗濯は、小さなものなら台所でするのがいつものことだったのだそうだ。それに、洗面所は「のんちゃん」の部屋に近く、作業すれば音でわかる。娘を起こさぬように気を遣っていたのかもしれない。
上半身裸でも気にせず窓を開けていたのは、時間帯がはやかったから、そしてフェンスにつたが這い、見えないものと思っていたからだろう、と語ったのは、「のんちゃん」である。
水曜日には「のんちゃん」と、夜の十時から始まるドラマを見ていたので、木曜日は出発が遅くなった。したがって帰りも遅くなり、天田が毎週木曜日に作間未亡人の洗濯を見ることになった。
彼女が笑っていたのは何故か、わたしが訪ねると、「のんちゃん」は仏壇に並んだ両親の遺影を見遣って、しばらく考え込んだ。
十分もしただろうか。彼女はぽろりとこぼした。
「多分、その前の晩に、わたしがいったからです。今度からわたしも一緒に走ろうかなって。もともと、中学生になったら一緒に走ろうって、お父さんとも約束をしてて。その前に死んじゃったから、わたしは走っていなくって……部活もあったし。でも、もう少しで引退だったから、それからは時間もできるし、朝はやくに起きて走るって、健康的でしょう。だからやってみようかなって思ったんです。それなのに起きられなくて、お母さん、それが面白かったんじゃないかな。あの坂は、ジョギングコースですから、それを見て思い出したとしても変じゃないし」
彼女はまた黙りこくり、絞り出すようにいった。
「わたしが余計なことをいわなかったら、お母さん、殺されなかったんでしょうか」
わたしは答えを持ち合わせていなかった。
取材を終え、アパートを出て、坂をのぼった。そのアパート近くから上の道へ向かう辺りは急勾配で、運動不足の中年が走ってのぼるのは不可能そうだ。
幾らか行って振り返ると、「のんちゃん」と、作間氏の両親、つまり「のんちゃん」の祖父母が、控えめに手を振っていた。わたしが手を振り返すと、三人は会釈して、わたしから遠ざかるように、こちらに比べると緩やかな勾配の坂をくだっていった。先程、これからお散歩ですといっていた。
背中のまがった祖父母が「のんちゃん」をまもるように、左右に立って、その手をとっている。
勝手に怯え、思い込みから作間未亡人を殺した天田は、刑務所でなにを思うのだろうか。それについても、わたしは答えを持っていない。




