甘い酒と甘露な思い出が重なり合う。
いつだって別れは哀しい。新しい出会いを探す気にはなかなかなれないのは、付き合った時の甘美な思い出があるからだと思う。そんな時に付き合ってくれる酒は、一瞬だけ哀しみを忘れさせてくれるかもしれない。
麻由美を乗せたタクシーが、目の前に止まっている。あの歩行者専用の信号の点滅が終わる時、タクシーはすぐに視界からいなくなるだろう。
今なら、まだ間に合う。
しかし、彼女の唇がそっと触れた時に、「これが最後よ。」と言われているような気がした。足は動かなった。
タクシーが、スムーズにエンジン音と共に走り去った。
「別れる」と「離れる」はどんな違いがあるのだろう。きっと麻由美とはもう会わないだろう。神戸に行くとだけ告げられた。彼氏が神戸に転勤するのを機会に結婚を決意した、とも言っていた。結婚した彼女と会わないことだけは分かるが、会わないというこの状態を、別れると指すのか離れると指すのかは私にも判断できない。同じ会わない状態には変わらない、と思っていたが、「別れ」は「分かれ」であり、分割した状態を指すことに気が付いた。「離れる」は単に距離が開くことを指している。「昨日、彼女と別れたよ。」というセリフを吐く男は、一体化したという錯覚を持っている。つまり一つに融合したものが、別れた、分かれたと思うのである。「離れる」は融合していない状態で距離が開くことを示している。麻由美と意識が融合した記憶はない。同じ点を理解したという事もない。分かり合えないことから出発しないと何も分かり合えないということを5年間かけて麻由美と分かり合えたのかもしれない。
帰り道、いつもの焼き鳥屋に入った。砂肝の焼ける匂いと主人の無骨な顔が私を少し回復させる。私のテンションを読んで付き合ってくれる。
ビールを飲み終えてから、杏露酒を飲んだ。氷が大量に砕かれているこの店の杏露酒は冷たい。
この味を教えてくれたのは麻由美だった。すいません、シンルーチュウください。私にも飲ませる為に、2人分頼む。楕円形をしたグラスに杏の香りを漂わせたの茶褐色の水が波打っている。味が濃い。ただ、甘いだけだった。
タクシーに乗ろうとする麻由美を追う気にはなれなかった。唇が触れた時、麻由美との終わりを直感した。
杏露酒を飲んだとき、一瞬だけ、氷の冷たさが口腔に響き、その後に杏の甘みが喉に絡んでくる。甘みは消えない。グラスをテーブルに置いた。コルク製のコースターには、氷が溶けて表面に就いた水が染み込んでいる。杏の香りをした茶褐色の水が、砕かれた氷の隙間を縫って底の方へ沈んでいく。この甘みはずっと残るだろう、という錯覚を持たせてくれる。
杏露酒は、香りを甘みだけを喉に残す。
カクテルと女性との関係を交えたストーリーを連作で描いた。このショートショートはその一作目にあたる。何故か別れることをテーマに描いている。付き合っている時の甘美な思い出よりも、瞬間だけ現実を忘れさせるカクテルの味が、別離の瞬間とクロスオーバーするのかもしれない。甘美なカクテルシリーズを味わい、現実を僅かだけ忘れさせるものになってくれていれば、うれしい。




